ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ボタニカルアート始めて・・・

2022-08-15 17:13:08 | 日々の暮らし・思い出

去年の末頃から、ボタニカルアートの教室に行き出した。

月に2回で一回6時間ほど。

何故そんなに長い時間なのか聞いたら、

水彩絵の具を塗ってから、乾くまで待って、

次にまた塗るという行程が多いからだという。

以前、ボタニカルアートの絵を見た時に、こういうのを描いてみたいなぁと

思ったことがあり、そのままただの憧れだったんだけど、

たまたま近くにその教室があることを知り仲間にいれてもらった。

絵を描くなんて何十年もしてない。

ボタニカルアートというのは、

とにかく写実的に描くものだそう。

正確に、脚色せず、そのもの通り、植物図鑑にある絵のように。

まだ色を塗るのは練習してるだけ。

鉛筆でその通り描くのを10 枚くらいかな描いた。

それが楽しいのだ。

気がついたら4時間位描き続けたこともある。

自分でもびっくりしてる。

楽しい。

集中することが楽しい。

なんだろう?集中することが楽しいなんて、

今までそんな表現したことあるか?

記憶にない。

面白いと思って本を読んで、そのことを楽しいと表現したこと私あるか?

読むということと、描くということ、の違いかもしれない。

本の文字を読む →感じる。何を言っているのか、何を伝えようとしてるのか考える。

ボタニカルアートは、植物を見る →その物をそのまま描こうとする。

考える、という事はしない。

ただただその通りに描こうとする、それがいいのか。

何が楽しいのか、自分に問うたことなんてなかったけど、

人から、ボタニカルアートやってどう?というようなことを聞かれた時に

集中するのが楽しい、という言葉がすぐに出た私。

よく見てその通り描く。何も考えずに描く。

それがいいのだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

 


空と木々と・・

2022-08-12 13:37:29 | 日々の暮らし・思い出
だいたい毎朝6時から近くの公園で太極拳をしている。

晴れの日の空や木々を見ながら身体を動かすのはいい。

見上げるほど大きな木を見るのが本当に好きだ。

特に空が青いと最高だ。

この公園は大きな欅が広場を囲うようにぐるっと何本もあって、

その広場で太極拳や体操をしている。

上を向いて手を動かすのが、太極拳の整理体操みたいなのにある。

それをしてるとき、青い空と欅のたくさんの枝が風に揺れてるのが見える。

いつものことなんだけど、本当に美しいなぁと感動する。

一緒に太極拳をしている友人はそんなこと思ったことない、と言う。

これを見て何とも思わない人がいるのか。そう思ったよ。

今住んでるマンションのベランダからは

少し途切れる所もあるけれど、180度山波が連なっているのが見える。

低い山が三層になってる上に富士山が晴れの日には見える。

ここの眺めは美しい。特に夕方。

南西向きのマンションなので、

夕陽が山並みから落ちる頃、何とも言えないオレンジ色の濃淡が

空を刻一刻と変えて行く。

以前住んでいた三重県ではウォーキングコースは山と海の境の道だった。

天気のいい日の海の色!なんて美しいんだろって、その都度感動してた。

そっちの方が今の公園よりずっと美しいだろ、と思うかもしれないけど、

比べることは出来ない。今朝も見た空と欅の枝たちも本当に美しい。

こういうものを見て何とも思わない人より、

私は幸せなのかもしれないと思うけど、

いや、そうとも言えないなぁ。

この友人はどこそこのナンタラがどんなに美味しいか、

というようなことをよく話してくれる。

美味しい物を食べることが最高の楽しみだと言う。

私はこれから毎日の食事がずっと同じメニューだとしても

特に不満も感じないだろうなぁ、と思う。

そういうことを彼女に話したことないけど、

話したらびっくりするだろうなぁ。

こんなことでも、人って誰でも本当に唯一の存在なんだなぁと思う。

当たり前のことだけど。

それって凄いことだ、なんて思う。

だから、世界は面白いし、残酷だし、、、

何でもありだと皆が認め合えば世界は面白いだけなのかもしれないなぁ。



忘れる・・・忘れる・・・③

2022-08-08 14:22:23 | 日々の暮らし・思い出
さて、何を書こうとしてるのか・・・

(すぐ忘れ症)が幾らか良くなって来たような・・・

気がしないでもない・・・

認知症関係の本のなかに、脳の海馬というところが縮んでいる人でも

認知症発症にならず普通の生活が出来る人もある、

との文章があったような気がする。

海馬が縮んでも日常生活が支障なく出来るなら、

幾らでも縮んでいいわ〰️

と、海馬が縮んでる私は思うのだ。

海馬が縮んでも、なぜ短期記憶を覚えておくことの出来る人がいるのか? 

ちょっと考えたことがある・・・

私の経験(うまく出来た時のことだけ)なんだけど、

アレを探しに行き、途中でナニを探しているのか、

忘れてしまうことがよくあり、

そのことで日常生活が送れないということはまだないけど、

スッキリしない感が多々あり、どうしたものかと考えて、

声を出すことだ、と思ったのだ。

駅で働く車掌さん?がするような、「右よし!左よし!」

みたいに声を出すとその声が自分の耳にも入る。

周りの人の耳にも入るだろうけど、

近くに居る夫は何かに集中していることが多いし、
 
過去の病気のせいで耳が少し悪いし、

問題無しだ。

声に出そう、というのを忘れないときはバッチリではあります!!

だがしかし・・・それを忘れていると・・・

何を探しているのかわからなくなる・・・

声を出すことでその瞬間の意識がはっきりと自覚されて、

忘れないということなのかと思うのだ。

その瞬間瞬間を意識的に生きる、ってことが大事・・・

常日頃、自分の意識を見張っていること、

これに尽きるのでありますまいか。

意識生活。これがすべて。

自分が瞬間瞬間何を思って生きているのか・・・

認知症は記憶障害というものらしいけど、

意識障害と言ってもいいような気もする・・・











ラジオFM放送聴きながら

2022-08-02 14:53:25 | 日々の暮らし・思い出
さっきまで、ちょっと絵の練習しながらNHKのFM聴いてた。

歌謡曲、私の若い頃の流行り歌。

藤 圭子の 命 あずけます♪ とか。

こういう歌、本当にキライだった。

前にも書いた記憶あるけど、

着ては貰えぬセーターを~編んでますぅ♪

なんていうのを聞くと、そんなもん編むなよ〰️❗

なんて、一人で怒ってた。

それがあるセミナー?に参加して変わった。

それ(好きじゃないもの)が在ることを受け容れられるようになった。

私がそれを好きだろうが嫌いだろうが関係なく、

在るものは在る。

在るもの、在ること、は私の思い、考えに関係なく、

在るのだ。

それに気づいたのだった。

そのことは歌謡曲に限らず、私の人生にとても影響を与えた。

在るがまま、を受け容れる。

そのこと。

今も、それを見失ってしまうことはよくある。

そういう自分に気づくこともあるし、

気付かないで時が過ぎて行ってしまうこともあるだろう。

・・・ということは目を瞑って歩いてるようなものか。

何かにぶつかって怪我せぬよう、目を開けて歩かねば。


秋葉原無差別殺傷事件・死刑

2022-08-01 17:46:59 | 新聞を読んで
もう1週間も前かもしれない。

なんだかんだと日が過ぎてやっと今日出せるかな、この文章。

その事件の犯人が刑で殺されたらしい。

この前平野啓一郎という作家の「死刑について」という本を

読んだせいか、こんな表現になった。

所謂、先進国では死刑制度を止めた国が多いらしい。

私もこの本を読む前は人を殺したら死刑になっても仕方ないだろうと、

なんとなく思っていた。

そう、まさしく、なんとなくだ。

日本でも、冤罪というものが数々ある。

時の権力で罪のない人が殺されることがある。

死んでも死にきれない、ということだろう。

絶対そんなことはあってはいけないことだ。

死刑になりたいから、人を殺したというのを

最近何度か聞いたことがある。

死刑制度がなくなればこういう事件は起こらないだろうなぁ。


死刑にされる前、加藤というその人は

何を思ったろう・・・・・

以前、池田晶子さんと、死刑判決を受けた人との対話の本を読んだことがある。

ほとんど内容を忘れてしまっている私だけれど、

その死刑囚は確か死刑を受け入れていたと記憶してる。
 
この人にとって、死刑は必要なのか、死なずに済んだら、、、

と読んだ当時思ったことがある。

いや、この人にとって、などと考えることなどないのが、

死刑制度というものなんだろう。

人を殺したら自分も殺されるのは当然だという考えか。
 
あんな悪いことをしたから、死刑になるのだ、

だから、悪いことはしない方がいいのだ、

みたいな思いに、人をさせる為にその制度があるんだろうか。

そして、それの元は、

ひとは脅せば何とかなる、という考え・・からか・・・・・

日本人はそれが当たり前と思っている、ということか・・・

私もなんとなく死刑もありか、と思っていたのだから、

そうだったのだと思う。

死刑制度というものは簡単に言えば、仕返し制度かなと思う。


勿論、なんの落ち度もないのに大事な人を殺された

被害者遺族にとっては、、、自分もその立場に立ったら、、、

殺されたなんて、とてもとてもとても受け入れることなど出来ないのは当然だ。

それは本当にそう思う。


死刑制度を止めた多くの国は死刑制度を止めることに

反対する人の方が多かったよう。

それでも、死刑という制度を止めた。

多数決・・・というのも恐いものがある。

けれど、国のトップの一部のひと、だけで舵を取られるのも恐い。

今のプーチンみたいに。

難しい。

なんか、どうしようもないような気持ちになりそう。

こんなふうに思うのは、この世界をなんとかしたい、

なんとかしようという発想からだろう。と、思う。

この複雑なる世界を自分がなんとかしようなんて発想は

無理難題。

自分には何も出来ない・・・

どうしたらいいんだ・・・と途方にくれるけど、

世界がなんとかなることに繋がる小さな小さなことを

していくことか。

この事件を起こした加藤という人は

当時、彼のいろんな気持ちをなんの否定もなく、

聴いてくれるような人が確か一人も居なかった、

と、本人が思ってた、というような報道があった気がする。

一人でも、彼の言葉や行為に、そうか、そうなんだ、と聴いてくれるひと、

そんな人がいたら、事件は起こらなかったかもしれない。

ひとの話を聴けるひとになること。

ひとの心に寄り添うことの出来るひとになること。

たった一人のたった一回のことでも、

世界が変わる小さな小さなきっかけになりうる・・・・

それなら私でも少しは出来るかもしれない。

私がやれる方法はそれかな・・・と思うよ。