ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

しつこい風邪としつこい思い込み

2015-06-23 11:02:25 | 日々の暮らし・思い出
みそ汁こぼしてそこらが汚れたのを“やってもらう”ことにした・・・

昨日書いていても思ったけど、

台所関係は私がやるもの、という思い込みは本当になかなかしぶとい。

そういうのから全く自由になれる日が来るんだろうか・・

来なくてもいいか・・・

実際にはその時やれる方がやってるからなんの問題もないんだからね。

ただその時私の中に不自由感があるだけの話なんだけど。

ほんの一瞬の不自由感。


風邪の方もなかなかしぶとい。

こっちはほんの一瞬じゃない。

熱もほんのほんの微熱があるくらいでこうしてパソコンにも向かえるんだけど、

ぱきぱき動く気がしない。

ぐうたら寝転がって本読んでそのまま寝ちゃったり、数独したり。

これまでの人生でこんな時間の過ごし方ばかりしてる日ってなかったなぁ・・・

・・って昨日思った。

私だってこういう暮らしがどうってことなく出来るんだな、って思った。


義母が義父のことを回遊魚だと言ってた。

止まったら死んじゃうって奴。

私のことを夫がそういうニュアンスで言うことがあるけれど、

何もかもが止まったらそりゃ死んじゃうということだけど、

車は急には止まれない。

そうだね、車はね。

けど、人もそういう場合もあるか。

みそ汁こぼした

2015-06-22 09:30:45 | 日々の暮らし・思い出
昨夕、夕飯の配膳準備をしてたとき、

お椀に入れたみそ汁を不注意で全部ガス台の近くにこぼした。

いつもなら、あらあら・・夕飯の後で、きれいにしよ、で終わるんだけど、

身体がだるいせいだろう、そこを掃除することを考えるだけでうんざりした。

掃除しなきゃっていう義務感にとらわれたんだろう。

夫にやってもらおうという思いは全然浮かばなかった。

だから、何も言ったわけじゃないけど、

夫が「自分がやってもいいよ(片付けるのを)」と言ったので、

やってもらうことにした。

その片づけをこんなふうに夫がやることも出来るし、

上を拭くぐらいのちょっと応急的対応だけして、すぐに丁寧にやることもないのに

私は(やりたいと思ったらすぐにやりたい症候群)なんだなぁと思った。

元気な時はそれでいいんだけど、

こんなふうにちょっと身体が不調なだけで、(やらなくちゃ)になってしまうみたい。


こんなとき、(やらなくてもいい)という心境になっていきたいと思う。

こういうことが何度も何度も何度もあることで、

変わって行くかなぁと思った。

・・・・・性的経験2

2015-06-21 11:04:21 | 日々の暮らし・思い出
こんな疑問が浮かぶ・・・・・

悪いことはしてませんから、と私が言ったとき、

母は「当たり前だっ!」と言ったけど、

本気でそう受け取ったんだろうか・・?

母はもう亡くなってしまったので確認なんか取れっこないね。


さっき書いたのと同じくらい若い頃に

母と二人で近所の魚屋さんに歩いて行く道すがら、

何の脈絡もなく「ねぇ、私が妊娠しちゃったらどうする?」と聞いたら

私の方を見もせずに怒ったふうもなく、

「そんなふうに育てた覚えはない」という一言を発して

それ以外何も言わなかったことがあって、

そんな母をかっこいいな、とも思ったし、

実際そんなふうに育てられたかどうかよくわからないけれど、

別に赤ちゃんが欲しいとか子供が欲しいとか一度も思ったこともなかったし、

母の思うような自分で居たいと思ったのだった。


私が悪いことはしてませんから、という言葉を言った時も、

母は私がその日性的経験はしていないと受け取って、

当たり前だっ!って言い切ったわけじゃなかったんじゃないか・・・

そんなふうに育てた覚えはないと言い切ったときも、

そんなふうに育てたという自信なんか母にはなくて、それでも

こう言うっきゃない、って感じだったんじゃないかなぁ。

わからないことではあるけれど・・・

娘をこう育てたという自信じゃなくて、

娘がどうあっても、自分はこうするという自信だったのかもしれないと思った。 

性的であるような、ないような性的経験

2015-06-21 10:35:37 | 日々の暮らし・思い出
『ノルウェイの森』読み終えたよ。

その時代、その頃の感じがすごく出てた。

なんて下手な表現だろね、やんなるよ。

性的なシーンの描写がたくさん出て来たけど、

いわゆる欲望をそそる、というようなことはなくって、

他の場面と同じようにきちんと読めるのがいい。

村上春樹さんは多分私と同じ年だと思うんだけど、

あの小説と同じ頃の自分の性的であるようなないような経験を思い出したよ。

その頃付き合ってた男の子とよく吉祥寺で会ってた。

吉祥寺は『ノルウェイの森』の主人公のワタナベ君が学生寮から出て住んだ街だ。

吉祥寺だったかどうだったか忘れたんだけど、

男の子とアルバイトの帰りに会って、遅くなって終電も過ぎてしまい、

家族と一緒に住んでる家に帰れなくなり、

今でいうラブホに泊まった。

親が心配することはわかっていたので、

遅くなっちゃったからアルバイト先の女の子の家に泊まると嘘の電話をした。

翌日普通に帰ったら母親が恐い顔をして、

昨夜ナンタラちゃんの所へ泊まったなんて嘘じゃないかっ!

いったい何処へ泊まったんだっ!!と語気強く言ったのだった。

母はそのナンタラちゃんに確認の電話をしていたのだ。

私はナンタラちゃんと辻褄を合わせておくという基本的な事をしてなかった。

まさか確認の電話を母がするとは思ってなかったからね。

もうこりゃしかたないわと観念して、

遅くなっちゃって終電にも乗れなかったから、

一緒に居た男の子とホテルに泊まった、と普通に言った。

そうしたら母は、どうやって寝たっ!?(怒)と聞いて来た。

ベッドに並んで寝たよ、と普通に言った。

そうしたら母は どうして男を下に寝せなかったんだっ?(怒)と聞いて来た。

寒くてそんなの可哀そうだから、と普通に言った。

季節は冬だったしね。

母は私のその返事に納得せざるを得ないような、でも

もっと何か言いたいような表情をしてたので、

自分からなにか言った方がいいなと思って、

「でも悪いことは何もしてないから」と私は言った。

楽しいことはしたけど、悪いことはしてないから・・・

と思っていたので、それは言わなかったけど、

自信を持って悪いことはしてないって言ったのだった。

そうしたら母は「当たり前だっ!」と言ったのだった。

その時なんだか庭に弟が出ていて、ドジやなぁ・・あんたアホや・・という顔つきで

部屋の中の私を見ながら通り過ぎていったのをよく憶えている。

その後、まだ何か母は言いたそうにしてたから、やっぱり私からと思って、

もう二度とこんな事しません、と土下座した。

それで一連の出来事は終わった。そのとき、

母をこんな思いにさせることは二度としないと思った。

ばれるような嘘はこれからつかないようにしようと思った。




団塊世代のナンチャラ・・・

2015-06-20 10:12:54 | テレビを見て
やだねぇ~ テレビ番組のタイトルも満足に覚えてないよ。

昨夜のNHKの元教育テレビの私の好きな女優の・・えーっとそう

風吹ジュンが出てる団塊ナンチャラを見た。

それに家事評論家?の吉沢久子さんの様子が紹介されていた。

彼女は団塊世代よりもっとずっと年上の97才。

彼女の脳の灰白質というところが91才の時より今の97才の方が

黒い所が増えている、というのが出た。

ようするに脳の細胞が増えているってことらしい。

彼女の最近の著書を何冊か読んだことあるけど、

一人暮らしで生き生きと自分で出来ることをして若い人たちとも交流したり、

新聞に連載エッセイを書いたりして暮らしているよう。

見た目も若い。

死んだように生きてないってことだろうな。

生きるとは生き生きすることか。

番組に出て来た研究者が言ってたけど、

子供の頃自転車に乗れるように一生懸命練習した、

そういうとき、脳の細胞はどんどん増えている。

大人になると、特に管理職なんてものになると、

問題だったかな、それを右から左に渡すだけで自分で考えることがなくなるし、

いろんなことが(わかっている)状態。

どんなことも慣れている・・わかっている・・オートマチックに物事を進める・・・

それが脳の老化を着実に招く・・・とのこと。

心の(わかっている)状態はどうしたって生き生きできないよねぇ。

苦手なことをしたい、となるのがいいのかなと

傍で数独をやっていた夫に話しかけたら、

ふむ・・というような返事・・で、

献立から何から全部自分で考えて段取り考えてあなたが夕飯つくるのなんていいんじゃないかな・・

っと自分のことは置いといて提案したら、

ふむ・・・でもこれも頭つかっている・・・けど・・

・・・偏ったところばかり使っているんだろうね・・・との返事。

夕飯云々については何のコメントもありませんでした。

わたし、またピアノの練習しようかな、と言ったら、

それにはすぐにいいね、との返事がありました。

村上春樹さんとハルキスト

2015-06-19 13:36:56 | 本を読んで
風邪をひいていると読書が進む。特に小説が風邪に合う。

いや、わけのわからない難しい本もいいかもしれない。

この前夫が読んでた村上春樹さんの初期の作品を読んでる。

『ノルウェイの森』だ。

名前は有名だから知ってたけど今までなんだか読もうという気にならなかった。

まだもう少し残ってるけど、上手いなぁと思う。

読ませる。


ハルキストという人たちが

カフェでノーベル賞受賞の知らせを待っているのをテレビで見たことがある。

ハルキスト・・ねぇ・・

私は決してハルキストじゃないから思うのかもしれないけど、

あのテレビのシーンを見たとき、恥ずかしくないのかなぁ・・なんて思ってしまった。

いや、それぞれの受賞候補の関係者がとある場所に集まって

知らせを待つ、ということがよくあることなのかもしれないけど、

ハルキストといわれる人たちが集まっていた場面は何か異様な感じがしたんだよ。

村上春樹さんがそれを見たらなんと思うだろ。

嬉しく思うということはない気がする。

なにかな・・・なんでそう思ったんだろ・・・

自分たちは他の人たちと違う、特別な選ばれたものなのだ・・みたいな、

変な優越感みたいなものが臭ってしまった。

そんなふうに感じた私が本当は臭ってるんだろうか、そんな気もするぞ。


『海街 diary』 続きなんだけど・・・

2015-06-19 11:21:11 | ひとの幸福
『海街 diary』で書いた奴で、

表現したいことが表現出来てない感じがしてまた書くことにしたよ。


(すずという一番下の娘が梅酒を飲んでしまって酔い、

無自覚に「お父さん嫌い ナントカさん嫌い!」って大きな声で言うシーンがあったけど、

ただ、すずの思い、を描写してた。

その言葉に監督が何の判断・解釈も入れてない感じがした。)


・・・監督がなんの解釈も入れてないってことはないね。

それだったら映画にならない。

このシーンは父と居た頃のすずの抑えてた思いが酒の力で出た、ということだと思うけど、

すずが自分の正直な思いを抑えずには父と一緒に居られなかったという、そのことに

すずに対しての温かい目を表わしていたと思うし、

姉妹の口げんかのシーンも監督の温かい目を感じたんだよ。

思いを抑えたり、抑えなかったり、そういうことを

淡々と描写する、そのことに温かいものを感じたんだ。

なんだろね・・・思いを抑えるのも抑えないのも在ることだと

ただそれを判断なく観察してる、そのことって

対象に愛を持ってないと出来ないことなのかと私は思っているのかな。




海街 diary

2015-06-17 10:08:18 | 日々の暮らし・思い出
『海街 diary』という映画を昨日観たよ。

(悪意)というものがひとつも感じられない、というのが気持ちよかった。

そういうのが宮崎駿監督と似てるな、と勝手に思った。

姉妹の口喧嘩のシーンもけっこうあったけど、

そのどれをとってもそれを撮る監督に判断・解釈というものがないように思った。

すずという一番下の娘が梅酒を飲んでしまって酔い、

無自覚に「お父さん嫌い ナントカさん嫌い!」って大きな声で言うシーンがあったけど、

ただ、すずの思い、を描写してた。

その言葉に監督が何の判断・解釈も入れてない感じがした。

映画ってこういう映画を作ろうという監督の目が

全編に行き渡っているものなんだろうな。

在ったことをどう観てるかが出る。

だから同じ材料からまるで違うものが出来るんだろう。

観測者効果が出てる。

風邪ひいて思うこと・・・

2015-06-17 09:42:23 | 日々の暮らし・思い出
石垣島でいわゆる寝冷えをしてしまったみたいで、

石垣に居る時から咽喉がいつもと違う日が続き、

今は痰も絡む。 ここ何年か毎年夏風邪をひく。

冬にはひかないんだけどね。

風邪をひく の、「ひく」は「引く」なんだろか。

邪気を引っ張り込むんだろうか・・・

なにかの菌という邪気か・・


石垣の気温、湿度、慣れない身体、そういう経験と、

その後の日々の動きが今に繋がっている、感じ。

咽喉が変なだけで熱もないし、だるくもないので

いつも通り動いてたから、悪化したのかなぁ・・

もっと静かにしてればよかったのかも。

今日はだるさもある。夫は畑に行ったけど、行く気がしなかった。

畑でやりたいことたくさんあるんだけど、

今日はのんべんだらりとして居よう。


今ちょっと不調だから思うんだけど、私はいつも元気なんだなぁ。

まぁ、腰痛は時々起るし、鼻アレルギーは年中だけど、

基本的に元気だ。

ちょっと自慢に聞こえるかもしれないけど、

いや、自慢だね、数年前職場の健康診断で胸部レントゲン検査の結果を

観た医師が実際の私の姿を見る前に

そのレントゲン写真を見たとき、30代の人か、

と、思ったとおっしゃって下さったのであるよ。

なんでそう思ったのか聞いたら、

普通この位の年齢(当時57、8才)だと写る血管の輪郭がぼやけているんだけど、

とてもはっきり綺麗に写っているからだと。

まぁ、知らぬ間にそうなっていた、ということで、

血管の輪郭をはっきりするように私が努力したというわけじゃないので、

やっぱり自慢できることじゃないね、はい。

あれから何年も経っているから、今は輪郭もぼやけているかもしれないね。

だから、そういう検査はしないようにしよう。

事実を見ずに、私の血管は美しいと思い込んでいる方がいい。


それにしても、(なにがそれにしても、だ?)

身体が不調だと身体を使ってやることがやれない。

やれないわけじゃないけど、やる気がしない。

でも身体をそんなに使わない書くことなんかはできる。

もっともっと風邪がひどくなったらこれもやる気がなくなるだろうね。

なんにもしたくない状態になる、きっと。


基本的に私はいつも元気だから、だいたいいつもやる気があるんだなぁと思う。

「元気」とは元々の気。

元気状態っていうのはやりたい気持ちがたくさんあることなんだと思う。

当たり前か。

私が言うやりたい気持ち、って、特別な事に関してじゃなくて、

あ、あれがほころびてる、修繕したい、とか

サイズの合わない服をなんとか自分の身体に合わせようと、直したい、とか、

庭の植物の移植をしたい、とか、

畑の梅の木やみかんの木を剪定したい、とか

洗濯したい、とか、ママレード作りたい、とか、

引出しを片付けたい、とか

そういう日常の暮らしのことばっかりで大層なことはないんだ。

そういう(やりたい)がいっぱいあるのが幸せだなと思ったりする。

この前引用して書いた長田弘さんの言葉に、

『日常への愛着』というのがあったけど、

私が上に書いた奴なんかもそれに含まれるんだろうなと思う。

道順を覚えられない・・・

2015-06-14 09:41:54 | 日々の暮らし・思い出
道順を忘れてしまう、という言い方はふさわしくなかったね。

忘れるといえるのは一度は覚えてないと、忘れることができないんだから。

この前書いたのは「覚えられない」って奴だ。

道順を覚えられないのは人の話を聞く時と違って、

そういう道順だということに意味がないからか、なんて考えたけど、

そんなことじゃない、と書いてから思った。

人の話を聞くときは自然と状況を思い浮かべたり、

自分なりに想像して聞いているものだ。

それに比べ、私が道順を聞いているときの頭はそれをしてない。

ただ、言ってることの字面だけを覚えようとしてる、感じ。

いわば、左脳で最初右、次三番目を左・・とか。

自分がそこを歩いて曲がったり止まったりしてる状況を浮かべないで聞いてる。

うん、それかな・・人の話を聞く時の頭との違いは。

・・ということは・・?

左脳、いわゆる頭で覚えられなくなっても、

右脳、いわゆる感情、身体では覚えることができる・・・?

若い頃、苦手の勉強は丸のみにした。

微分積分とか、全くイメージできなかったから、数式を丸のみした。

その頃はしばらくの間は丸のみ出来た。

試験が終われば忘れてしまったけどね、もちろん。

今はしばらくも何もない、最初から受け付けない頑固な頭になってしまったよ。


行きたいその場所にそれが在ることの意味は道順にはないけれど、

どんな言葉も意味であって、意味のない言葉なんてないんだから、

(聞いてる方がその言葉に、何故今、その言葉なのか、

の意味を見いだせない時はあるけれど)

今度道を聞く時にはイメージしながら聞くことにしよう・・・

その時にこれを覚えているかどうか不安ではあるけれど・・・・・


道順を忘れてしまう・・・

2015-06-12 14:53:09 | 日々の暮らし・思い出
夫が図書室から村上春樹の小説を借りて来て読んでいる。

うん??確か以前に読んでいた奴じゃないか・・??

「それ、前に読んでなかった?」とわたし。

「いや、読んでないよ」とそのページをめくりながら夫。

それから数日後、夫は自分の読書記録を見ていて・・・

「読んでた・・・」・・・・・・。

4年前に読んだらしい。

そしてそれを忘れていたことに・・「愕然とした・・」と。

やはり愕然とすることなのか・・・


私は読書記録なんてつけてないし、

夫は私の読む本に関心はなさそうだから、

私が何か読んでいても記憶に残らないだろう。

だから、それ読んでなかった?なんて言うことが無いので、

私が夫と同じことをしていても誰にもわからないだけで・・・・

同じものを初めてだと思って読んでいるかもしれない。


道を人に尋ねる・・・すると・・・

「次の角を右に曲がってから、そのまま真っ直ぐ行って、

三つ目の信号を左折して、

それから二つ目の信号を右折したら、

すぐに酒屋があるからそのわき道をちょっと歩くと・・・

・・・なんて丁寧に説明されると、

あ、あ、あ、あ、はい、、、ありがとうございます・・・

(タジタジ・・・そんなに覚えられない・・

え~っと次の角を右だっけ左だっけ・・???)

状態になる。

だから最近は道を聞いて丁寧に教えられても、

教えてくれた親切だけは受け取って、

最初の所だけ覚えるようにして、後は真面目に聞いてない。

どうせ忘れてしまうんだから、

次の角を曲がった後でその次どう行くのかそこで聞けばいい、

何度でも聞いて行けば目的地に着ける!・・・

・・・状態の私である。


でも、夫や友達の話を聞いている時は最初しか覚えてないってことはないよ。

それはだいたい覚えてる。

だいたい、と言うところが怪しくはあるけどね・・・

・・でもまぁ、それは置いといて・・・


道順と人の話の違いは何だ??

道順には意味がない・・からか・・

そのような道順だということに意味がないから納得できなくて、

それで忘れてしまうのか・・・・・

わからないなぁ・・・

?????

「~してもらっていいかな」の続き

2015-06-12 11:14:55 | 言葉
相手との関係性よってとか、

状況によってなんかで言葉遣いは変わるものだ。

この前書いたけど、「~してもらっていいかな」編では、

「~して」「~してちょうだい」「~してください」

「~して頂けますか」「~して頂けませんでしょうか」

「~してくれる?」「~してもらえる?」

「~してもらっていいかな」

・・・こんなふうにいろいろある。

「~してもらっていいかな」を聞くようになったのはここ3,4年かなぁ。

この言葉遣い自体には許可を求める、という意味合いがあると思う。

そう思うんだけど、違うかな・・・

この言葉遣いをたくさん聞くようになった世の中に、

相手の機嫌や相手との関係性を過剰に気にする、最近の風潮を感じてしまう私だ。

おっかなびっくり生きてるみたいな・・・

こんなふうに感じるのは私だけなんだろうか?????


でも言葉ってたくさん聞いていると、

知らぬ間に使ってしまうということがある。

この前、スーパーで私も知らぬ間に使ってたし・・・

その時、別におっかなびっくりはしてなかったわたしだ。

言葉を覚え始めの幼児が聞いた言葉をなんでも真似するのと同じなのか・・・???

・・・でも、それじゃあなぁ・・・

・・と言葉にこだわる私です・・・


むにゃむにゃ

2015-06-10 14:22:16 | ひとの幸福
以前の私の覚書メモを久し振りに見たよ。

これを書いてた頃はほとんど一日思索してたなぁ・・・

懐かしい・・なぁ。

『権利』という言葉は紀元前中国の荀子という思想家から来たものらしい。

その人、荀子は人間の本性を「悪」、利己的存在と考えたので、

人間が限度のない欲望を満たそうとすれば、

奪い合いや殺し合いが生じて社会は混乱する、から、

社会の秩序を保つのには権利とか義務という考えが必要だ、となったようだ。

考えれば、それ、権利、義務観念は必要悪ということだねぇ。


孔子に「70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」っていうのがあるけど、

なんでも自分の思う通り、やりたいようにやっていても、

規則や法律を破るようなことにはならないよ、ってことなんだろうけど、

そういう在りようになると、

法律書に権利や義務が書かれてあろうとなかろうと

全然関係ない、ということだ。

そういう在りように“なる”には法律が要るのかと考えると・・・

要らない、という気がするんだけれど、

人によっては要る場合もあるだろうね・・・


どうなんだろうねぇ・・・・


「~してもらっていいかな?」

2015-06-10 13:41:38 | 言葉
「~してもらっていいかな」

この言葉遣いを娘からたくさん聞くことがあって、

そのとき、なんだか居心地悪く、

そういう中で一度だけシンプルに「~して」と言われた時は

とても自然に感じた。

そういう言葉遣いをされて嬉しかった。


石垣から戻って近くのスーパーに行ったとき、

日曜日だったのでレジ係は普段見ない高校生?のアルバイトだった。

割と重いものを買ったので、そこにある段ボールを持って行き、

「これ(店の清算済みカゴじゃなく)に入れてもらっていいかな」と私は言ったのだった!


その言葉を聞いたアルバイトの女の子はきっと

居心地悪くも良くもなかったろうと思う。

なんとも思わなかったんじゃないかと思う。

私は何故「これに入れてもらっていいかな」と口走ったのか・・・

なじみのない高校生らしき女の子だったから・・・・・と思う。

いつもの人なら、「入れるね」と言って勝手に入れる私だ。

そう、高校生らしき彼女に対して遠慮があった私だった。


娘から「~してもらっていいかな」の言葉を投げかけられて、

遠慮なんてしてほしくないのに・・・

遠慮されるなんて、寂しい・・・

・・・そういう心があった。

けれどまぁ、娘が遠慮してその言葉遣いをした、とは言えないし、わからない。

最近はそういう言葉遣いをテレビでもよく聞くし、

職場でもそういうふうに言っているんだろうし・・・

そういえば、娘はダンナにもそういう言葉遣いをしていたからなぁ・・・


娘の言葉遣いに居心地悪さを感じたのは他の誰でもない私だ。

“私が”居心地悪さを感じただけで、

そういう言葉を聞く彼女のダンナも高校生バイトの女の子も

なんとも思ってなかったろうし、

最近の日本では「~してもらっていいかな」は

特に考えもせずに当たり前に使っている言葉遣いになったんだろうと思う・・・・・

そういうのについていけない私は年寄りということなのかなぁ・・・










なんで“それ”なのか!??

2015-06-07 17:37:34 | 日々の暮らし・思い出
夫と二人で石垣の娘らに会って来た。

夫の娘とその子供、私の娘とその子供二人、それぞれの配偶者、その親族たちとも。

孫たちはどの子も元気いっぱいの幼児。

幼児は面白い。

なんで“それ”に興味を持つのか、本当にわからない。

そのことが面白い。

周りが教えたものじゃないのは確か。

他の何かじゃなくて“それ”。

生まれた時からきっと“それ”に興味を持つことは決まっていた・・・

そんな感じがするんだ。


娘たちもそれぞれ成長し、前より大人になっていたように感じた。

これは生まれた時から決まっていた・・んじゃないように思うし、

いろんなことを経験してどんどん変わって行くんだろうと思う。