ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

TOTOのコマーシャル ②

2012-03-31 20:07:06 | 量子力学と心
もう一度これを考えたい。

「技術が社会の産物ではなく、社会が技術の産物になりかけている。すると社会は自滅する」

・・という文章をどの本だか忘れたけど、読んだことがある。(気になってメモしてあった。)

こういうコマーシャルがある社会は技術の産物・・という気がしてしまう。

(ひとはトイレ掃除をするのは嫌なものだ)という人間観を持って、

あのコマーシャルを作ったんじゃないかと、

私が感じてしまうのは、

「掃除をする時間を省けて、

他のもっと創造的なことが出来るようにと、このトイレを開発しました」

・・こういうニュアンスが感じられないからだ。

あの画面のお父さんと双子の息子はただイヤイヤと首を振っているだけで、

他の何かを集中してやっている様子も無いことからなのか・・

実際アレを作った人たちがどんな考えで作ったのかはわからないことだけど。

もし、ただ「掃除は嫌なもの」という考えの元で作られたのなら・・

(ひとは掃除するのは嫌なもの)という考え(粒子であり、波動)が発信されるている、ということになる。

その映像が何度となく放映されることで、

観るひとの意識を変えようとしてでなく、変えていく可能性がある。

その波動は観る人の(トイレ掃除は嫌)という波動と共鳴するので。

その作用はあくまで相互作用なので、全員がそうなるということじゃないけど、

ひとによっては心の程度が低くなる。


トイレを自動的に掃除をするという機能は同じであっても、

ひとが創造的なことをするために・・という考えからと、

掃除するのは嫌なことだから・・・という考えからでは

波動関数が違うと思う。

(掃除するのは嫌な事)から産み出された技術は社会の程度を下げる。

社会が技術の産物になる。そう思う。




「運命の連帯」

2012-03-31 10:57:41 | ひとの幸福
「運命の連帯」!と聞くとちょっとびっくりするかもしれないけど、

これは湯川秀樹博士の「物質文明と精神文明」という文章のなかのもの。以下。

「科学はその見出した真理も、それから派生する様々な効用も、

人類すべての共有物である。

人間の住まない宇宙の隅々まで、同じ真理が貫徹し、

同じ力によって、宇宙の全体が動かされているのである。

私どもは人類の一員として万人に共通の財宝である科学を少しでも増大することに

努力しなければならない。

それによって人類の生活をどこまでも向上せしめることが

同時に世界平和の永続性に対する最大の保証となるのであろう。


地球上の人類全体が一つの生物体のように互いに他の運命に敏感になり、

互いに助け合おうとする方向にこそ、

人類の従って個々の人間の真の幸福があるであろう。

そして最も広い最も正しい意味における科学の進歩とは

この傾向を最も多く助長し、これに最も良く歩調を合わすものでもあるだろう。

世界の変転のテンポは段々と速くなって行く。

永遠の平和が地上に訪れる日もそんなに遠くはないのである。」

・・抜粋以上。

湯川秀樹博士の著書を読みだしたのは去年だったと思うけど、

その時読んだ感じと今読んでみたのでは又、受け取るものが違う。

私の数少ない蔵書の一つになったよ。




ひっくり返る時

2012-03-30 15:12:30 | ひとの幸福
裁判や医学が要らなくなる世界なんて想像できない人は多いかもしれない。

ひとが悪いことをしたら注意をするのは当然・・

悪いことをしたひとを罰さないなんて考えられない・・

こういう常識がひっくり返る時はいつなんだろうか・・

量子力学がこの世に現われて100年以上経った。

物事の成り立ちを観てみれば、

誰にでもわかること。

幸福を願ってしまう存在である私たちは必ずそれがわかる時が来る。

それが100年後なのか、300年後なのか、明日なのか、

私たち次第ということなんだろう。

やってみる

2012-03-29 11:41:39 | ひとの幸福
反省し、意識して人に優しく接しようと思う・・という思考がある。

優しく接しよう・・というのは何かをする、という行動そのものじゃなくて、

その行為をする時に意識的になっている、ということだろう。

意識的にそうしようとすることが可能ということだ。当たり前か。

普段嫌いだと思っている人に意識的に優しく接しようと思えばそう出来る。

意識的に優しく接すると、その瞬間自分がなんだかいい気分になる。

そうしたら、相手は意に反して冷たい態度をとったとすると、

またいつも通り(こいつ嫌な奴)になって、

(売り言葉に買い言葉)思考になって、

優しく接しようと意識的になることをやめる。


そうせずに、相手の冷たい態度にもめげず、それには知らん振りで、

意識的に優しく接することを続けると・・どうなるか。

やってみるとどうなるか。

やってみないとわからない。

寒暖計の変化 ②

2012-03-29 10:21:23 | 量子力学と心
「寒暖計の変化」で書いた湯川秀樹の文章が出ていた本ではなかったと思うんだけど、

似たような文章があった「存在の理法」という本からのもの・・・以下。

「・・このような『観測』の手続きを経ない限り、

対象の量子力学的な記述は単なる可能性の叙述にすぎないのであって、

観測によって古典的な装置に結び付けられて、

初めて現実性を持つことになる。

このように『可能』と『現実』とが結び付けられる所に『確率』の

概念が現われて来るのである。

この意味において、対象の状態を記述する波動関数自身は、

何か実在そのものを表わしているのではなく、

それは謂わば対象の持つ種々の可能性の表現と見るべきである。

吾々が観測を行なうということは、一方において、

多くの可能性の中から、一つの現実を選び出すことを意味すると同時に、

他方に於いて、将来に対する新しい可能性を創り出すことをも意味している。

即ち観測の結果に応じて、いいかえれば波動関数の非連続的変化によって、

新しい波動関数が構成されることになり、

それが対象のそれ以後の推移を規定することになるのである。」

・・抜粋以上。


人間の意識・見方が対象のそれ以後の推移を規定することになる。

そう解釈することに何の問題もみつからないよ。


「対象の状態を記述する波動関数自身は、

何か実在そのものを表わしているのではなく、

それは謂わば対象の持つ種々の可能性の表現と見るべきである」

これは、人間界の例をあげれば、

一つの現象をどう捉えているかで、一つの可能性としての姿が引き出される。

・・ということだろう。

対象である相手が獣性を引き出されるのか、

慈性・仏性が引き出されるのか、

観測次第ということ。

「自己に発し自己に還る」という言葉もそれを云っているんだろう。

物事をどう捉え、捉えの結果としての行為がどのようであれば、

この世界が幸福な方向に進むのか。

一人一人がやることだろうと思う。


TOTOのコマーシャル

2012-03-28 15:34:33 | テレビを見て
用を済ますと自動的に便器を掃除するという機能があるトイレのコマーシャルがある。

「トイレ掃除して」と言うと、家族の誰もが「イヤイヤ」と首を振る奴。

自動的に綺麗にしてくれるのは有り難いなぁとは思う。

でも、なんか・・そのコマーシャルを見ると、

落ち着かなくなる。

そりゃ、確かに便利でいいんだけど。

何が落ち着かないのか・・あの首降り、あのイヤイヤ、それかもしれない。

掃除するのが嫌だ、面倒だという気持ちになるのは誰にでもあるだろうし、

自分でも経験あるから、わかる。

それはそれでいいんだけど、

(人は掃除する事を嫌がるものである)だからこういうトイレを開発しました・・・

そんな感じを受けてしまう。

私だけだろうか・・

トイレ掃除をする時の気持ちはその時その時違うだろう。

やりたくてやるときや、仕方なくやるとき、とかいろいろだと思う。

ひとによってはいつも嫌という人もいるかもしれないけど、

いつもやりたくて楽しい気分でやっている人もいるかもしれない。

嫌だからやりたくないということじゃなく、

それより他にやりたいことがあるので、

どうしても後回しになることなど、よくあることと思う。

「技術が社会の産物ではなく、社会が技術の産物になりかけている。すると自滅する」

・・という文章をどの本だか忘れたけど、読んだことがある。

こういうコマーシャルがある社会は技術の産物・・という気がしてしまう。





桜と薔薇

2012-03-28 11:00:13 | ひとの幸福
庭のチューリップも咲きだした。

モッコウ薔薇の無数の蕾も嬉しそうに膨らんできた。

近くの桜も咲き始めた。

桜は特に気が引かれる。

日本人の桜をめでる(愛でる)気持ち。

桜が咲き乱れることも愛で(めで)、散り行く姿も愛でる日本人。

どちらにも美を見出す日本人。

そういう桜が国花という国。


一年に一週間しか咲かない。

一ヶ月も咲いていたら、こんなに愛されなかったかもしれない。

西洋で一番愛でられる花は薔薇らしい。

咲いている間の美しさや、かぐわしさを西洋人は愛でるらしい。

薔薇は散る頃、花びらが茶色くなったり、

枯れたりしてあまり美しいとは感じられないもんだ。


咲いても散っても美しく感じられる桜。

咲いている時は美しいけど、

散る姿は美しくないと感じさせる薔薇。

どちらがいいとかの話じゃなくて、

日本人は数ある花の中で、

特に桜を愛でるという感覚があるのは面白い。


勿論ひとりひとり好みは違うだろうけど、

そういう傾向はあるのだろうと思う。


咲いても散っても美しい、そういう花を愛しているということ。

生を愛し、死を愛さないというような二つの世界ではなく、

生も死もひとつのものという世界観を、

多くの日本人が自然に持っているのかなぁ。


「自分だけじゃない」

2012-03-27 14:49:41 | ひとの幸福
何か嫌なこと、辛い事、があったりしたとき、

自分だけじゃない・・と思うと、どうして安心するんだろ。

集合時間になっても自分以外誰も居ないとき、

自分だけだ、と不安になる・・というのもありそう。

一人だと思うことが不安で、

みんなと一緒だと思うことが安心。

人間は先天的に群れで生きる動物だからかな。

先天的に(他と共にある)という無意識からは抜け出せないからかな。





命名 ②

2012-03-26 14:20:58 | ひとの幸福
子供の名前だけのことじゃなく、

いろんな現象・物事にどういうネーミングをするかというのは

命名と同じことかと思う。

「嫌いな人」なんてのがまさにそれ。

その人に(嫌い)という命を吹き込んでいる。

(恐い)放射能もそう。

以前、毎日新聞の「時代の風」欄に斉藤環さんの文章が載ってて、

それについて思った事をここで書いたけど、(1/22)

放射能 を(恐い放射能)と命名することで命名した人にとっては

・・・そうなる可能性が高くなるんじゃないか。

といったような内容。

その先生の文章はこういう内容じゃなかったけど。


命名することはそこにそういう関心をあてる。

命名することで命を吹き込む。

言霊が幸わう古代の人はこういう現状をどう観ているのかな。

意識  湯川秀樹の言葉から★

2012-03-25 15:30:43 | ひとの幸福
意識は量子システム。そう考えている。

そう考えることでいろんなことが説明できる。

湯川秀樹博士に応援してもらうと、

「運動の法則は直接検証されるのではなく、

これの法則が実際の物体の運動にあてはめた結果が

現実と一致することによって、間接的に確証されるわけです。

ある前提の正しさはそれから出てくる結論によって

裏書されるという考え方が当たり前になっている」


物理学用語はなんにもわからないけれど、

湯川秀樹の文章は心に染み透るものがいっぱいある。

なるほどなるほどと感心ばかりしてしまう。


昭和18年3月に発表されたらしい『物質と精神』からの引用・・

「物質から精神への路、これが自然科学が現に辿りつつある路である。

実に長い路である。いつになったら開通するのかわからない。

・・・

精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。

それはある絶対的な直観的な知識を意味するであろう。

それこそ真の知識であるかもしれない。

否、それは単なる知識以上のもの、

人格的行為と直接結び付いたものであるかもしれない。

私はそれを何と呼んでよいか知らない。

・・・・

いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで、

途方に暮れようとする行き詰まりから、

自ら精神の世界が開けて来るのである。

それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。

主として心理学によって研究されるべき領域である。

そこでは精神現象自身の正確な表現、

それを支配する法則の発見が問題となるであろう。

併し、心理学的世界は決してそれ自身完結したものではなく、

物理的な現象が始終、外的なもの、偶然的なものとして

影響を及ぼしていることは明らかである。」


「この精神現象自体の正確な表現、それを支配する法則の発見・・」

という言葉が言っていることを

このブログで幾らかであっても、やろうとしてるのかなと思っている。

でも私という個人がしてるんじゃなくて、

この文章にもあるように、

物理的現象、外的なもの、偶然的なこと、

・・から影響を受けてなってる寄せ集めのようなもの、

・・それがしている。


いろは歌

2012-03-25 11:24:41 | 言葉
「色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山  今日越えて 浅き夢見じ  酔ひもせず」

・・・という『いろは歌』について。

12世紀の高僧、新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん)は

『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、

いろは歌は『涅槃経』中の無常(むじょうげ)

「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

(諸行は無常であってこれは生滅の法である。

この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。


もっとわかりやすい意訳は・・

・・牡丹の花(例えば)もあんなにきれいだったのに、散ってしまった。

このように我々の命も露と散るのだなぁ。

「どこまで行っても我々が勝手に作りあげた価値観、

勝手に作り上げた時間と存在を生きていくしかない。

そういう人生を今日終えた。浅い夢みたいだったなぁ。

今までの見方はなんて夢みたいだったんだろう。

今になってみると、なんてはっきり見えるのだろう。

これまでのように酔っ払ったような見方はするまい。」

・・以上。ネットと本より。

「いろは」がいつの時代に誰が創ったものなのかわからないらしい(多分)

・・考えると凄いことだなぁと思う。

目的地

2012-03-24 11:56:57 | ひとの幸福
もともと人は誰でも幸福を願ってしまう存在だ。

自分も他人も良くしたいと無意識的に思ってしまう。

どのときもそう。

幸福を願わずにはいられない存在だ。

なので、自分が (良くない)と捉えるところの行為を見ると、

それを(よくしたい、変えたい)と無意識のうちに思ってしまう。

そしてそれが行為に移る。


(良くない)と捉えてることに自覚がない場合が多い。

(変えたい)と思ってることに自覚がない場合が多い。

(良くない)と観なければ、変えようとは思わない。

(変えよう)と思わなければそういう行為も起こらない。


ずっとこのブログを使って考えて来たけど、

行為というものの成り立ちが見えて来たように思う。

その行為は境地から自動的に起こる。


やったその行為がどういう現象を生んだのか。

それを見ても見ていない。

無自覚な場合が多い。


けれど、それが悪いわけじゃない。

幸福という目的地に着くのが遠回りなだけのことで、

いつかは必ず目的地に着く。

どうしてかって言えば、

ひとは誰でもどんな時も幸福を望んでしまう存在だから。

望むところに行けないことは絶対無い。

ひとは不可能なことは望めないものだから。

今すぐ火星人になりたいなんて事は望まないように。




行き方

2012-03-23 15:01:19 | ひとの幸福
仏教では全ての人の中には仏性があるとか、

神道では全てのものに神が宿るとか、

キリスト教で大文字のゴッドの意味は 全てのものにわたしはなる・・で、

小文字のゴッドもあって、

・・・が云っているのは、

「全てはひとつ」「自他一体」という言葉でいうような、

心の状態のことを云うんじゃないかと思う。

その人そのものを言うんじゃなくて、

そういう心の在りようになってる状態、心境そのことを云うのかなと。

「境地」という言葉がやはりぴったりくるのかもしれない。

なので、一日24時間そういう心の状態のひともいれば、

半日くらいという人もあり、

一日30分とかの人もあり、

いろいろなメンバーがあるんだろう。

昨日まで一日30分だったひとが一気に一日3時間になることだって、

無いとは云えない。

その反対も無いとは云えない。

けど、その心の状態の時に味わう気分は

誰でも忘れない位のものだと思う。


上に書いたようにその境地に行く“行き方”はいろいろあるのだと思う。

座禅とか瞑想とかもそうなのかもしれないし。

禅問答なんかもそういうことを目指しているものなのかな。

自分の頭で考える、哲学する、こともそうだろうし。

そして、考える とは自分に問うことであって、

ひとに問うことじゃないことは確かだ。


カーネーション

2012-03-23 10:56:07 | テレビを見て
今朝の連ドラで病院の婦長さんが言ってた。

「やればやるほど今の医学は知れてる・・・

人間の病気には医学しかないのか・・・」

医学の他にあるんじゃないか・・・無いのかもしらんけど・・・」

これはドラマだけど、実際の看護師さんも同じようなことを感じる人もいるんだろうな。

いろいろな不快な感情が自ずと湧いて来るように、

身体のいろいろな不調も自然と現われる。それなりの自然で。

出てくるものは出てくる。

病気になろうとして病気になる人はいない。

ひとを意識的に傷つけようとして傷つけるひとは少ない。

意識的にではなく、傷つけてしまうひとは多い。

自分を責めることなんてそうだ。

責めようとして責めるわけじゃない。

意識的にではなく傷つけてしまうということ。

在るものは出て来る。

病気もそうだ。

出てきた行為そのものをなんとかしようというのが、

意見、忠告、注意、批判、裁判・・であるように、

出てきた病気をなんとかしようとするのが医学、医療なんだろう。

薬や手術で。

ガンを全部とっても再発したり、全く別の箇所に出来ることもあり、

脳梗塞になって、治っても、又脳梗塞になることもあり、

手術によって何か別のところに影響があったり、

薬を飲んで副作用が起こったり・・する。

医療は一時的な処方なんだと思う。

勿論それが悪いわけじゃない。

慢性鼻炎に薬は本当にありがたい。本当に助かる。

副作用があるかもしれないとわかっても飲む。


裁判も医学も一時的対症療法だ。

それが悪いわけじゃない。

現在という時点では必要なことだ。


けれど、その行為が出てくる前に、

その病気が出てくる前に、そうなる前に、

そうなる基があるんじゃないかとそこに関心を向け、

それを解決することが、

それが出なくなる一番の方法なのかと思う。

物理的な生活を改善するというのもあるだろうけど、

もっと抜本的な、心理的なこと。

それがみつかって皆がそうなったら、

医学も裁判も必要なくなるんだろうと思う。



日日是好日 

2012-03-22 15:27:22 | ひとの幸福
日日是好日、よく掛け軸なんかでこの言葉がある。

これ玄有さんの本で知ったんだけど、

「ここ一ヶ月本当に大変だった」とかの言葉を聞くことがあるけど、

そういうのが「日日是好日」ではないということのようだ。

その一ヶ月間には美味しく食事を取った時間もあれば、

何かを嬉しく思ったり、楽しく感じた瞬間もあったはずなのに、

ひとくくりにして「大変な一ヶ月だった」にするのでは無しに、

その時その時を味わう、そういう一日のことを

「日日是好日」というらしい。

大変な一ヶ月という思考は、

過去を変えている思考なんだろうな。

楽しいひととき、悲しいひととき、嬉しいひととき、

美味しいひととき、という実際に在った過去も含めて、

全部ひとくくりにして(大変な一ヶ月)につくり変えてしまっている。


本当にひとは過去だっていとも簡単に変えている。

超能力の持ち主だ。