ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

伯父の通夜で・・

2017-08-22 23:03:18 | 日々の暮らし・思い出

昨夜、母方の伯父の通夜に行って来た。

その連絡を実兄から受けて、行くか行かないか、少し迷った自分だった。

儀式という形に馴染めないというか・・・行きたいというふうにならない自分。

実兄は私の今までの生き方・・というか、やって来たことに多くの反感を持っていたようで、

かなり長い間、疎遠になっていたんだけど、

実母が病に倒れたとき、私がたまたま近くに居て、

いろいろ動けたりしたことがきっかけになり、

根雪が少しずつ少しずつ溶けるように・・・なり・・・

今、心が通ったな・・と思うことも何度かあるようになり・・・

去年の大晦日から実兄が住む市の近くの街に私が住むようになったので、

今回の連絡をくれたのだろうと思った。

出席した方が今後のためにいいな・・というような一種の打算で

行きますと返事した自分だった。

 

通夜の席の前後に少し話しが出来るような間があって、

・・さっき、こんなことがあってね・・・・と、わたし、

三十年近く前の幾つかの出来事など、まるでなかったような口調で話しかけ・・

兄も同じような感じでふふ~んと聞いてた。

 

同じ場に居たいとこが若い頃の母の話しをしてくれ、

若かった母の初めて聞くそのエピソードにびっくりして、

兄に知ってた?と聞いたら、そんなこと知ってたよと笑って言ってた。

 

通夜の主人公なのかな、亡くなった伯父は

小さな私にとって、会っている時はいつもいつもニコニコしていて、

私が育った家の雰囲気とはまるで違うものを感じさせてくれた人だった・・・

そんなこともじっくりと思えた通夜の席でした。

通夜とか葬式といった形式にそっぽを向きたがる自分というのは

形ばかりに拘る頑固者なんだろうと痛感した昨夜の通夜でした。


出来なさを怒られることほど、全存在・・

2017-08-19 12:02:05 | 実例体験観察

「・・・出来なさを怒られることほど、

全存在を否定された気分になり委縮してしまうことは、なかなかない。

盗みとか苛めるとかで怒られるのは納得できるけど

無能さを許せないのは程度が低い・・・」

・・確か、これは小池龍之介さんの書いた本にあったものだと思う。

この文章を読んだときにメモしたもの。

書いた人も本の名もメモらなかったので曖昧だけど多分そう。

 

・・怒ったわけじゃない、と思っていた私のしたことは・・・・

 

娘の或ることの出来なさに納得が行かなかった・・・

そんな馬鹿な・・みたいなのがあった。

大概の人には、その、或ることというのは容易いことなので、

出来て当たり前、というような迷妄の強気が無意識のうちに私にあった・・・

あの時私の心に生じたものはあの文章が言ってることだ・・・と、

娘とのラインでのやりとりが終えた後にいろいろと思って反省したとき、

この小池さんの文章を思い出したんだった。

 

自分の行為を 程度が低い! と一喝された。

 


大人の発達障害の人、十人に一人!?

2017-08-15 15:54:25 | 新聞を読んで

今朝の東京新聞の、心と体すっきりナビ というのに驚いた。

産婦人科医師の伊藤加奈子さんという人が書いたようで、

発達障害という病気は先天的な特性で、

知的障害を伴わないことが多く、明確な治療法はない、とあり、

アスペルガーとか注意欠陥多動障害ADHDとかそういう障害を持った大人が

10人に1人ほどの割合でいると言われている、とあった。

そんなに多いのかと驚いた。

昔からそういった先天的な特性を持った人がこういう割合でいたのだろうか・・・?、

そういう人は変わりものと呼ばれ、馬鹿にされたり、

その言動を責められたりしてきたんだろう・・と思う。

知り合いにそういう特性を持った人もいる。

優しいいい男だ。

自分の娘もかなりな確率でそういう人なのかもしれないと思う。

昔からそういった人はそのくらいの割合でいたのか・・・

天才といわれる人はそういった人だとも聞く。

それとも数十年前から増え続けてきたのか・・・

10人に1人というのはかなりな数字だ。10%。一割。

2,3軒に1人はいるということになる。

いろんな特性を持った人がいるのが当たり前だし、

その方が結果的に社会は豊かになる。

今の時代、これからの時代にはこういう人が増えていった方がいいんじゃないか・・・

そう思ったってなるわけじゃないけど、

そういった人が多くいるということが何か、

大きな意味を持つような…そんな気がするんだ。


関心を向けない

2017-08-14 16:41:02 | ひとの幸福

7才の返事は「いや!」が多い。

そうなったのも今までの成果なんだろうなぁ・・・

で、面白い。

娘が何かをやっといてねと声をかけると、7才はだいたい「いや!」と言う。

それに対し娘は何とも言わない。

するとそのことをいつの間にかやっていることもよくある。

もちろん、本当にやらないことだってあるけど。

 


そのままでいい・・・2

2017-08-14 14:39:45 | 実例体験観察

もし、私の怒りに対し、7才がだってぇ!と怒ったら、

こんなふうな展開になったろうか・・?

その時傍にいた娘も私に何にも言わなかった。

7才もわざとやったわけじゃないんだからそんなに怒らなくていいでしょ!と

娘が言ったら、こんなふうな展開になったろうか・・・?

多分そうならなかった・・・んじゃないだろうか・・・

・・・以上昨日の。

 

ここまで頭が動いて、それきり止まってしまったので、

今日また頭を動かしたい・・・

どうして私はそうなったのか・・・それをじっくり考えたい・・・

今回のは私の怒りをそのまま娘らが受け止めてくれたから、

私の怒りはふぅう~っと宙に浮いてしまったようになった・・・

なんだかアホなことしちまったなぁ‥という感じになった。

そうか、私の怒りという言動に周りが注目しなかったので

波動関数の収縮が発生しなかった・・・

 

怒った私への反発がなかったからだなぁ・・・

いや、待てよ、実際娘らは私への反発が発生したのかもしれないけど、

私のいつにない剣幕に押し黙っただけなのかもしれない・・・

その時の私は彼らに視線を向けなかった・・・

あったとしてもそれを私が知らなかったから・・・

いや、あったかなかったかなんて、ひとのことは私にはわからない・・・はず・・

 

そうか・・・・・無いと私が決めればいいことなのか・・・

それは私という世界になかったのだ・・・

世界は私なのだから。

こういうことなんだろうか・・・

なんだか、書いていてこんなふうになっちまった。


そのままでいい・・・そのままがいい・・・?

2017-08-13 13:06:54 | 実例体験観察

そのままでいい・・そのままがいい・・・

確かそんな言葉が画面に流れ、ダイヤモンドを妻に贈るテレビコマーシャルがあった。

もう何年も前だ。上手いこと言うなぁと思ったけど、

そのままでいい、はわかるけど、そのままがいい、とはどうしても言えないよなぁ・・・

・・とも思った。

変わりたいところ、変わってほしいところがある。

すぐにイライラする自分。ついつい頑張ってしまう自分。

出来もしないのに自分をコントロールしようとする自分。

夫と二人で居た時よりそういう自分がよく見える。

イライラしたり怒りが湧いた自分をそのまま出さない方がいい状況もあることは確か。

出さないことを今は選択してると自覚があればいいんじゃないかと思うけれど、

そのままを出さない方がいいと決めてるそのことが間違っていることもある。

共に暮らす家族は互いがそのまんまでいいというベースがなければ

やっていけないなぁと思う。

 

そのままの自分を出さないでいると、そのそのままの自分状態が変わりなく続く。

なんかコレ前に書いたような気もする。

 

今住んで居るこの賃貸マンションは古いせいか、安っぽい造りのせいか、

私の部屋の入口ドアはかなり意識的にゆっくり閉めれば大きな音はしないけど、

それほど強く閉めていないのに、バッタ~ン!!とすごい音がする。

孫が出入りする時は無意識的にやるからだろう・・すごい音がする。

ドア周辺が良くないせいであって、孫が悪いわけじゃないと頭では思っていた。

けど、その音にストレスは感じていたのでその度にゆっくり閉めてねと言っていた。

昨日、あまりに頻繁にそのドアを7才が開け閉めし、その度にすごい音。

その時、「何度言ったらわかるのっ!!!」と私。

そう言った後、4才が「怒ってる?」と小さな声で。

「怒ってる!」と私。

7才は何も言わなかった。

怒りをそのまま出したら、

私は何を思い、何をしだしたか・・・

ドアが閉まる凹の穴がある部分に幅4センチくらいのフエルトを張り、

それを固定するため、

部屋の内側と外側の木の部分にそのフエルトを画鋲で止めた。

賃貸だから元に戻すことを考えないといけないからね。

画鋲ならいいだろうと。

そうしてドアを乱暴に閉めてみた。

効果あり!大きな音は立たなかった。

感じた怒りをしまわずにそのまま出したことで、

7才はわざと大きな音を立てたわけじゃないと又格別に思って反省したし、

このマンションは古いんだからこれは直せないと

最初からあきらめていた自分だったと気づいたんだった。

 

もし、私の怒りに対し、7才がだってぇ!と怒ったら、

こんなふうな展開になったろうか・・?

その時傍にいた娘も私に何にも言わなかった。

7才もわざとやったわけじゃないんだからそんなに怒らなくていいでしょ!と

娘が言ったら、こんなふうな展開になったろうか・・・?

多分そうならなかった・・・んじゃないだろうか・・・


笑顔で居ること

2017-08-09 10:41:51 | ひとの幸福

「ホントあんたはどうしようもないねぇ~」と笑う。

「本当にあんたはどうしようもないねっ!」と笑わない。怒る。

笑顔で居るということは受容してるということだ。

どうしようもなさを、ありのままで。

 

この前書いた、ひろさちやさんの、

いろんな欠点のある子供のその欠点を直してくれと、

ほとけは私たち人間に預けたのではなく、

そのまんまで幸せにしてやってくれと、

ほとけは私たちに子供を預けた、という話を読んだけど、

納得できる身近な出来事があった。

ひとは欠点を直そうとしてそのことはいけないと否定しがちだけど、

否定されてもその欠点は改善されることは少ない。

表面上改善されたかに見えても、底のところで違うもののように思う。

否定されると素直に改善できないように人はなってる。

その欠点に注意が行くと、それはそこで固定してしまう。

量子力学の仕組み通り、そこを観測すると局所的に存在するようになるんだ。

 

北風と太陽の話と同じで、欠点や失敗や生まれつきのような性向や、

いろんないろんな間違いをスカッと笑ってもらえると、

すごくほっとするし、所謂、癒され、安心するものだ。

人の明るさは暗さを吹っ飛ばす。

陽気に生きよう!この人生をさ~(^^♪ だよなぁ。


廃墟を見るのが好き・・・

2017-08-07 16:33:47 | ひとの幸福

廃墟を見かけると、しげしげと見ずにはいられない。

それも民家や小さな工場なんかの廃墟。

まぁ、見つけても時間的に見られないことはあるけれど。

後ろ髪ひかれる思いになる。

あぁ、見たい。見たい。中に入り込んで見たい。

でも、だいたい中には入れない。

崩れ落ちそうなのは危ないし、不法侵入とかの件もあるし。

そっと覗くくらいは出来ることもある。

前の前に住んでいたところにはそういう廃墟がいくつもあった。

半分崩れかけた木製の食器戸棚に皿や丼なんかがほこりまみれになってそこにじっとしている。

どんな気持ちで居るんだろう・・・

ここに人の気配があった頃、これらの食器はもっと美しく

洗い清められ出番を待っていただろう。

押入れの襖の桟が折れ、汚れ、破れ、

中から汚れた綿のこぼれ出ている布団がずれ落ちそうになっている。

人の気配のあった頃、この布団は干され、お日様のにおいがし、

人をぬくぬくとさせただろう。

これに寝ていた人はたぶんとっくの昔に死んでしまっているんじゃないかな。

食器の模様も布団の柄も戦前からあるような物のように見えるから。

この家がまだ生き生きとしてた頃、

何人かの家族がここに住み、いろんなことを思い、し、

きっと一所懸命に生きて喜んだり悲しんだりしてたんだろうなぁ・・・

どうしてこういうものを見たいと思ってしまうのか・・・わたし。

街に新しい建物が突如現れたように思うことがある。

あれ、ここ、前は何があったんだっけ・・?

毎日通る道じゃないけど、

二、三か月前、ここはこういう景色じゃなった・・・

けれど、何があったのか思い出せない・・・

こういうことに、あぁ、また街がひとつ変わったと思うけど、

あまり切なさは感じない。

廃墟は違う。そこに人の気配をまだ付けている家具や日用品がじっとしていながら、

実際はじっとしてなくて変わり続けているんだけど、

どんどん情け容赦なく変わって行くんだけど、

静か。

どうしようもなく静か。

人のはかなさみたいなことを思ってしまって切なく思うのか・・・

その切なさを味わいたい、というのがあるように

書いてみて思う。


孫のふて腐れ顛末

2017-08-03 16:43:28 | 日々の暮らし・思い出

孫らにムッと来ることがある。

五月蠅さにイラつくこともある。

騒々しくてもイライラしない時もある。

自分勝手なものだ。

そう、私がムッとするのは私の都合。私の問題。

昨夜は娘の都合で、私が保育園児を迎えに行き、祖母子家庭での夕食をし、

布団の上で寝かせに即興物語を語り、・・・などをした。

風呂の前に7才がへそを曲げ、ふて腐れ、拗ね・・・・

ホントこいつはめんどくさい奴だ・・とうんざりした。だがしかし、

ここで私がへたに注意叱責をすると事態は悪化の一途をたどることは目に見えている。

我ながら昨夜はうまく事を進められた。

声をかけたら風呂に入ると言っていたので、声をかけたが、

他の遊びに夢中で、返事無し。

ま、いいか、一人で入れるし、と思い、そのままにした。

そのうち入らないと言い出したので、ま、いいかとも思ったんだけど、

汗もかいているし、入った方がいいよと声かけたが、

なんだかわからぬがふて腐れている。

そのふて腐れが気に食わないが、

ざぶんと入るだけでいいから~と何度か言った。

感情的には言ってなかったからだろうと思うが、

ざぶんと入るってどういうこと?と聞いてきた。

片足ずつざぶんと入ることだよ、とジェスチャーで。

「ざぶんと入ると言っても、風呂は浅いから頭からざぶんと飛び込まない方がいいけどね」

と真面目な顔で言うと、ニタリと笑って、「入る」と。

めんどくさいやっちゃなぁと思っても、ちょっとそれを脇に置き、怒らず、

普通の顔して馬鹿話をするとなんとなくふて腐れも消えていく。

その程度のふて腐れで、そのふて腐れをこじらせることも

こじらせないこともこっちの手中にあるのかなと思うよ。

けど、終始意識的に行わなくちゃならない。

今の私は無意識的に(自然に)そんなふうに出来るほど

人間が出来てないのであります。



心が傷つくこと

2017-08-01 09:46:22 | 実例体験観察

ここに引用(一部表現は変えたのもあるけど)するのは6年前にこのブログに書いたもの。

私が夫の前で屁をして、それに夫が「失礼だな」と言った事件?

のことで自分を観察したときのもの。

以下・・・なんで傷ついたのか?と観察すると、

「自然に屁をしたらいけない。

在りのままの私でいたらいけない。」

こういうものが自分にあったのだと思う。

「失礼だな」の言葉に傷ついたのではなく、

その言葉を聞いて、

「それは、在りのままの私でいちゃいけないということなんだな」と

他の誰でもない自分が無意識のうちにそう解釈し、受け取ったのだった。

でなければ、傷つくということには成り得ない。

「失礼だな」を聞いて

「へー、そんなふうに思うのか、この人は」と受け取る場合もあれば、

「何がどう失礼なんだろう?どんな感じか、聴いてみよう」

と受け取る場合もあるかもしれない。

選択肢はたくさんある。


それにしても、

在りのままでいてはいけない と思うことくらい辛いことはないと思う。

この、今の、この、私しか、ここにいないのに、

そういう私じゃいけないんだったら、どうしたらいいの?

・・っていう感じに成るのは当たり前だ。


本当に、自縄自縛。

自分以外の誰が自分の心を傷つけられるだろう。

身体は他者によって傷つくことも可能だけど、

自分の心を傷つけることの出来るのは自分以外にない。

そう思っているので、

傷ついちゃった時は、しらべることにしている。

でも自分でも人でも、傷ついてしまうということを否定はしてない。

否定など出来ようも無い。

だって、そうなっちゃうんだから。

なってるもの は なんだって 在るもの。

存在は 否定なんかしようがない。だって 在る。

在るものに 在るな なんて思うことは ナンセンス。

・・・以上。

 

一昨日かな、こころが傷ついたことがあった。

何故心が傷ついたのか??

心の傷は怒りにもなる。

「なんでこんな目に遭わなきゃならないの!?」・・これ。

そして次はこれ・・・「わたし何も悪いことしてないのに!」

その次はこれ・・・「いろいろしてやってる人にこういう態度はないでしょう!」

これがあった・・・・

いま、こうして書いていてわかった。

いろいろしてやってる人、と自分のことをそう観ているのだな・・

いろいろとしてはいたのは事実だけど、

それに、やってやってるという恩着せがましい思いがくっ付いている。

何故それが付くのかといえば、

その時、そこに居ることが半ば嫌々だったからだ。

今この瞬間、この部屋に居たくない、という本音がありながら、

それを無視して(意識的でなく)おざなりにやっていた自分だった。

その時の気持ちを自分で尊重してやらず、

無理して頑張っていたからだ。

自分で無理を押し通すと相手にも無理を要求するようになる。

私がこんなに無理してるんだから、あんただってしてよって。

恐いですねぇ。

 

やっぱり自分の心を傷つけられるのは自分しかいない。

人の言動はきっかけに過ぎない。

傷ついた、、じゃない、傷つけた自分の心を検査してよかった。