ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

3才と2才 ②

2013-04-30 14:00:04 | 日々の暮らし・思い出
イブ母は、レストランという公共の場であまり騒がしいのは他の人に迷惑が掛かるから、

どうしたもんかと思う・・と言っていた。それもそうだ。

でも店の人や周りから特にクレームがなかったらあまり気にしなくてもいいんじゃない?

居酒屋とか料亭じゃない、お子様ランチがあるような店なら・・

と私は思ったのでそう言った。文句言われたら、そこから出たらいいし。

イブと母と話したとき、こんなふうな私だったんだけど・・・


子供のことを五月蝿いと思う人は、

五月蝿い子供が居る可能性の高い場所に行かない方がいいという考えもある。

五月蝿そうな大人が居る可能性の高い場所に子供は行かない方がいいという考えもある。

五月蝿い大人の居ない所の方が子供は伸び伸び出来る。

伸び伸び笑い、伸び伸び泣ける。

五月蝿い子供が居ない所では大人は落ち着ける。

伸び伸びする。

けれど、今回のような場合もこの世にはある。

いろんな大人が居る所で子供は育つ。

屈折した大人や疲れた大人が居る所でも子供は生きている。

子供は自分で場を選べない。

今の時点ではしかたのないことと割り切ることが必要なのかな・・・

どんな状況だろうと幸福になる意欲が高い個はそれなりに状況を利用するか・・・

結局のところ、まぁ、なんでもいいか・・になるよ。

オバマ大統領のジョーク

2013-04-30 13:16:53 | テレビを見て
今朝のNHKのニュースみたいなので、海外トピックというのをやっていて、

それに、「アメリカのオバマ大統領がジョーク乱発」だって。

何を言ったんだろうと興味津々で見てたら、議員食事会で。

大統領選挙のとき対戦相手のロムニー氏は、

自分を中傷する記事の為に100億円を使った。

そんなことをするくらいなら、候補を降りてくれたら100億円やると言えばよかったのに、だったか、

100億円くれたら降りたのに、だったか、どっちだか忘れたけど、発言し、

その場は大爆笑になった、というもの。

私も笑っちゃったけど、日本の首相を争う選挙のことでこんなジョークを安倍さんが言ったら、

日本はどういう展開になるだろう?と思った。

真面目な日本は、そんな賄賂絡みの話を冗談にせよ、言うなんて!

・・ってなるんじゃないかなぁ。

ケンカばかりしてる・・・と猪瀬知事

2013-04-30 12:50:44 | テレビを見て
国際オリンピック委員会(IOC)の倫理規定に反して

立候補都市のイスタンブールを「イスラム教国は互いにけんかしている」

などと批判したとされる問題について、

報道陣に「発言の中で誤解される部分があれば、表現不足だからおわびしなくてはなら

ない」と述べた・・・これはネットのニュース記事からのコピー。

さっきテレビでもやってた。

イスラム教国は互いにケンカしている・・・実際日本よりそういうことは多いのだろうと思う。

事実そういう状況にない国より、そういう状況に在る、ということは云える。

そのような国より平和な日本の方が相応しいと言いたかったのだろう。

ケンカしてるから悪いとか、ダメだとか批判するつもりで言ったのではない・・・

とは思う。

花屋であの花よりこの花の方が水揚げもいいので、持ちがいいですよ、と

客に言ったら、あの花の産地からクレームが来たとか、

あの花この花を扱う市場からクレームが来たとか、

そういうことと基本的には同じことだと思うけど、国家間は難しい。

花なら・・水揚げがよいことを他の花と比較せずにアピールすれば

よかったのに、その花を売る人はその花の産地のひとだったので、

ついつい水揚げがいいことに力が入ってしまって・・

相対性を使って言ってしまった・・・

ということなんだろうと思う。

その発言は批判ではなく、ただの観察なんだと言っても、

言わなくてもいいことを言った・・のかと思う。

表現する、言語化する、ということはそれに関心を寄せているということには違いないから。

そういうことに敏感になってるIOCは、

一言詫びを入れろと猪瀬知事に言ったんだろうか・・

小さな子供と規制

2013-04-30 11:15:05 | ひとの幸福
小さな子供は皆自分勝手だ。自分の思い通りに行動する。

砂場で玩具の取り合いをする。

一方はそれを返してと泣く。

その行為は相手を規制する行動なんだろうか???

その行為はそれを自分が使いたいという意志の表れで、

相手を規制するものじゃない・・・

でも相手にとってはそれは規制になる???

規制の意味はおきて。きまり。規律を立てて制限すること。

自分が使ってた玩具を手放したときに他の子がそれを持って行ったことに泣いたのは、

きまりやおきてを相手が破ったからと云って泣いたわけじゃない。

「返して」と泣きながら言っている子供に対して、

それを返さないで平気な顔をしてる子供は、

きまりやおきてがあることを知らないからそうしているのじゃない。

泣いた子と同じにそれを使って遊びたいからだ。

遊びたい同士がケンカ状態になる。取り合いになる。

それに対し、身体の安全さえ観ていれば、周りは何もしようとしなくていい。

やはりそう思う。

ただ、黙ってそういう二人を引き離すことは規制ではないように思う。

そこから関心が離れるようにしたらいいのかと思う。

子供は違うことにすぐ集中出来る生き物だからね~

いつも周りがそうしていたら、そういうことを根に持ったりすることはないと思う。

周りが問題視することが問題を生む。

眠ろうとすると眠れない・・のと同じ量子力学的現象だ。

その反対をいけばいい。

それはその現象自体(取り合い)を、

きまり・正義を楯にとってなんとかしようという思考とは正反対のもの。

その行為は今までの動的平衡を壊し、新しい動的平衡をもたらす革命。

3才と2才

2013-04-30 10:35:46 | 日々の暮らし・思い出
イブの母親から昨夜電話があり、久しぶりにお喋り。

友人が訪ねて来てくれたそうで、

その友人は園児に対し一切の口出しをしないという方針の保育園に子を入れているという。

教育的プログラムの一切ないような保育園らしい。

その保育園に子供を入れている彼女も2才に規制はしないよう。

そのことで友人にストレスはないよう。

その友人と友人の子供2才とイブ3才と彼女との4人でレストランに行ったときのこと・・・

2才と3才はそれぞれ思い通りに行動する。

やる前に止める人はその場に居なかったので、

2才と3才はそこでケンカのようになったらしい。

結構派手なバトルだったらしい。

イブ母は、ただレストランという公共の場であまり騒がしいのは他の人に迷惑が掛かるから、

どうしたもんかと思う・・と言っていた。それもそうだ。

でも店の人や周りから特にクレームがなかったらあまり気にしなくてもいいんじゃない?

居酒屋とか料亭じゃない、お子様ランチがあるような店なら・・

と私は思ったのでそう言った。文句言われたら、そこから出たらいいし。

二人でいろいろとお喋りしたなかで、

その時その時の親の覚悟があればいいのかな、とイブ母。

そんな結論になるように仕向けたわけじゃなかったよ。

私も本当にどうしたもんだろうかと一緒に考えた。

保育園にその日行かれなくてもいい・・・

レストランから怒られてもいい・・・

風呂に入らなくて汚れた身体のまま寝てもいい・・

・・その時その時の子に対し、他にもいろんな覚悟があるだろうけど。


6月にイブやアダムがここへ来る予定だ。

そのとき、4才近いイブにどんな対応をする自分なんだろうか???

去年の秋にイブたちとひと月近く暮らしたとき、

小さな子供についての対応は身体の安全だけに気をつけて他は

何もしようとしないで居るのが一番だな、と思ったのが収穫だった。

そんな事、多分体得できてない今の私だと思う。

でもそれを意識して行為行動したいと思っているんだけど・・

どうなるだろう???

それがすごく楽しみだ。










教室

2013-04-30 09:28:34 | 日々の暮らし・思い出
昨日ドライブに行った。

温泉に入る予定はなかったのだけど、天然温泉という看板に惹かれて案内板の通り行ってみると、

なんだか自分が通った小学校のような建物がある。

渡り廊下みたいなものもある。

聞いてみるとここは元小学校で、何年か前に今みたいな温泉施設になったよう。

温泉に浸かった後、ここらの牧場の牛乳で出来たアイスクリームを

元教室・今食堂で食べた。

アイスクリームも美味しかった。教室も懐かしかった。

教室の後ろの方に座り黒板を見ながら食べた。

4年生の時、こんな後ろの方の席に座ってて、隣の子とお喋りしてたら、

チョークが飛んで来たんだよ、と夫に話した。

あれは体罰だったんだろうかなぁ・・でもよく命中したもんだ。

チョークを投げられてなんと思ったのか、確かな記憶じゃないけど、

恥ずかしく思ったような気がする。

それは投げられて当然みたいな感覚もあったということだ。

中学校の時は音楽の授業で後ろの方に立たされたことを憶えている。

自分が何をしたのか、何をしなかったのか、まるで憶えてないんだけど、

何か先生の気にいらない事をしたんだろうと思う。

立たされた時の自分の心を憶えていないけど、多分屈辱感はあったろうな。

それと先生への反感。

皆が座って授業を受けているときに、一人立ったことで私の何が改善されたんだろう??

どんな効果があったんだろう??私に対してだけじゃなくて。

やっと気づいた。チョークもこれも見せしめだったんだ。

こんな事をするとこんな目に遭いますよ、という。

こんな目に遭いたくなかったら、こんな事は止めましょうという。

そうかぁ。体罰とは何かなんて改めて考えたことがなかったけど、

体罰とはその名の通り罰なんだ~。

そういう体罰を受けても、自分が悪いことをしたんだから当たり前だ、

みたいな感覚を持っていたことに、書いていて気がついた。

当然感は当然感だからこそなかなか気づかない。


罰っていうのは、それを“させないように”するために行なうもの。

どんなことであっても“させようとする”“させないようにする”思考はうまいこと行かないね~

それで、確かにそれをしたり、しなくなったりする効果があるかもしれないけど、

それはいっときのことだし、心理的副作用の方が大きいだろうし、

また、それが要因になって様々な心理的歪み・歪み的言動を生むだろうなぁ。

そしてそれは続く・・だ。


やっぱり体罰は前時代的。

やるっきゃないでしょ!

2013-04-29 09:08:51 | ひとの幸福
どんなに身体をこき使っても、やりたい気持ちでやっているときは気楽。

でもそんな時でも気をつけて自分を観てやらないと、

やりたい気持ちが“やらなくちゃモード”に変わってるのに気づかないことがある。

全くの自分だけの趣味をやっている時は、やるやらないの選択をするのは容易い。

私の例だけど、手芸が好きでやっていても、疲れるとすぐに止める。

簡単に止められる。

だけど、いろんな他者との都合があると、つい頑張る。

やるっきゃないでしょ!みたいな気持ちになる。

好きで何かをやってる時に(やるっきゃないでしょ)思考は浮かばない。

けど、(やるっきゃないでしょ)が浮かぶことが悪いわけじゃない。

そんな時に「そんなこと、やらなくったっていいんじゃない?」こんな言葉に遭遇すると、

一瞬頭が真っ白になる。「えっ!!??なに???」みたいな。

これってどういうことか・・というと・・

“やる”以外の選択肢があることがすぐにわからない状態。

そしてその後、「そんなの無理!」になる。

今、自分で書いてて、うんうん、そういうことわかる・・という感じ。よく経験した。

「そんなの無理」・・・心がニュートラル状態じゃないことを示す言葉だ。

やるっきゃない、のだから、まさしく“やる”以外無い状態だ。

けど、「そんなの無理」っていう気持ちが変わらないときは、

“やらない”ということするのは無理なんだから、

そういう時は無理しないで、“やるっきゃない”でやってる方が精神衛生上いい。


けど、「やらなくったっていいんだぁ」って自分がなったとき、

(“やらない”という選択肢があると心底思えたとき)

それでも、そのことを“やる”選択肢を選ぶことがある。

そういうときは「やるっきゃないでしょ」思考は浮かばない。

そして、そういう気持ちのときの心は穏やかで楽ちんだ。

肩こりにもならなそう。


腰痛だよ~

2013-04-28 16:49:08 | 日々の暮らし・思い出
ここのところ、腰痛がある。

腰の骨のいろんな接合部?かみ合わせの所?がギクシャクしてる感じ。

しゃがむ体勢を長くするとこういうことになる、ということがわかって来た。

畑で蕗をしゃがんで採ったりしたことが要因の一つだと推測。

立っていれば痛くないんだけど、腰掛けるといけない。

ブログ書くのも長いとよくない。

今は温泉座椅子に座っている。痛くない体勢でじっとしてると痛くないけど、

ちょっと動こうと思うと、腰に痛みがピピッと来る。

この腰痛、私のお友達。

今までの私が出てるなぁと思っている。頑張り過ぎた。

「頑張る」って、我を張る、から来てる言葉だそうで、そういう意味。

一人でなんとかする・・をやって来た。

意識してたわけじゃないのは勿論。気がつくとたった一人で頑張ってた。

周りにはいっぱい人が居たのに、心は我一人の世界に生きてたなぁと思う。

一人で「なんとかしなきゃ」ばっかりだったなぁ。

今思うと滑稽なくらい頑張ってた。

それで周りにたくさん迷惑かけた。

そうだったことはもうしかたない。

でもちゃんと腰痛になってる。まぁ、だましだまし仲よくやっていこ。

念のため、腰痛の人がみんなこうだ、なんてことはないと思うよ。

いろんな作用が、要因がすべてびしっと合ったときに、

こうして現象化するんだろうから。

蓬餅

2013-04-28 16:05:04 | 日々の暮らし・思い出
ウォーキングついでに蓬を採って来た。

その気になって探すと在る在る!

へぇ、いつも歩くこの道にこんなに在ったのかぁ!

いつも30分で歩く距離なんだけど、今日はそんなんで1時間以上もかかったよ。

この地に来て蓬を摘んだのは昨日が初めてだ。

東京の荒川の傍で暮らしていた時、川べりで蓬を摘んで蓬ケーキを焼いたことがある。

焼きあがったケーキはちっとも蓬の香がしなかったことだけよく憶えている。

今日はホームベーカリーを使って、もち米と蓬で蓬餅作りにトライ。

やったことがないことをするのは楽しいね~

蓬はこの地にずっと在ったろうけど、ここに来て8年、

この春初めてこういうことをしようと思った。

どんな風の吹き回しか・・?

畑の草取りは義父がせっせとやってくれているので、

私は花畑の草取りだけが担当みたいになっている。

一昨日、義父も私も草取りをしない、作物も花もやってない、端っこの所の、

草取りをしていたら、(なんでその気になったかといえば、

そこにある木の剪定をしたくなって、そこへ行ったら、

草ぼうぼうが気になり、草取りをする展開になった)

そこにすくっと伸びた蓬が10本くらいあった。

「柔らかそう」って思った。次に「摘もうか・・」って思った。

次に「これでなんか作ろう」って思った。

それで食パンに入れた。

それがキッカケで蓬が私の意識に登場して来た。面白い。

その場所の草取りをしなかったら、こういう展開にならなかったと思う。

けれど、それが一つの原因じゃない。

蓬に関心がある私という現象もそれ以前の時空に繋がっての現象だ。

今までの私の人生、この私の人生が始まった前も含めて、

全部繋がりの中で今日こんなことが起こった。

こうして書いてるブログの途中で餅が出来、そこへ蓬を投入して10分後、

蓬餅が出来上がり、アンコを包んで、よもぎ大福完成。

それを3人で今、食べて来た。美味しかったけど、

香も味もいまいち。蓬の茹で方やなんか・・今度はもっと上手に作ろう・・

なんて今思ってる。

これがこれからどう繋がるか・・

今はわからない。作りたいと思ってるけど・・

作らないことになるやもしれず・・・

作ることになるかもしれず・・・

不満と動的平衡

2013-04-28 14:42:14 | ひとの幸福
不満という心はどういう状況の時に現れるか・・・

予想が悪い方向に外れた時・・例えば、

子供が誕生日に何かを買ってもらうことを予想していて、

思っていたものと違うと不満感が出る。

親のしたことについてそれをそのまま受けられない状態。

親の在るがままの姿を受け入れられない状態。

自分で勝手にプレゼントはコレコレだといいなぁと夢想して、

それと違うと不満が出るとしたら、

最初からプレゼントをやるような匂いをさせない方がいいかもしれない。

何かプレゼントすると言ってしまえば、子供は胸を膨らませるに決まっている。

予想するな、なんて言うのは無理だ。

私が子供の頃は親が子にプレゼントを贈るなんてことはなかった。

なので、不満に思う機会はあまりなかった。

プレゼントなんか無いで当たり前の意識だったから。

子供に何を願ってプレゼントをするのか、ってことなんだろうなぁ。

いっときの喜ぶ顔を見たい、という自分側の都合が多いのかもしれない。

子供や孫をダシにして、自分が喜びたい。

毎年もらえることが当たり前になると・・・そう、生意気になる場合が多い。

こういうことをしてる、そのことが在るがままを受容できない人になることに加担している、と言えるのかもしれない。

義父みたいな“そのままでいいよオーラ”を発する人への遠回りなのかなぁとも思った。

約束というものがあることによって人の心はへんなふうに歪む。

約束の「束」は拘束の束だ。

昨日書いたけど、あんなふうなよくある、

水筒を持って行くよという言葉に拘束される場合は多い。

やると言ったらやるもの・・というのも束だなぁ。

前に何度も書いたことあるように思うけど、

やると言った、時点とその後の時点では物事はじっとしてないので、

やると言ったから、やる、っていう具合にならないこともある。

いろんなことが動的平衡で動いているんだからね~

在るがままを受容するということは、ひと事・物事の動的平衡的在りようから考えても、

当然のことなんだろうね~

事実に則っているものの見方という奴だ。

ふ~ん、なるほど・・・。


不平という気持ち

2013-04-27 17:01:15 | 日々の暮らし・思い出
昨日の畑でのこと。義父が草取りをし終えて、小屋に戻るとき、

何かを小屋に運ぶから、両手がそれで一杯なので、

水筒は持てないから水筒を小屋まで持って来てくれと夫に頼んだという。

水筒のお茶を小屋で飲みたかったようだ。

夫は持っていくと返事をしたけど、そうするのをすっかり忘れてしまったという。

しばらくすると、義父は小屋からとことこと水筒の置いてある場所に行き、

自分で持っていった。

(うちの畑は縦に長いので結構歩かないとそこへ行けない)

水筒を持ってそこを通る時、夫が傍にいたけど、

夫に何かを言った様子はないよう。終始淡々といったふう。

持って来てくれと頼んだら、持って行くと返事したのに持って来てくれなかった・・・

というような不平オーラは一切発さない。

義父は根っからそんなふう。

夫もこれが義父ではなく、他人のAさんか誰かに頼まれたら、きっと忘れないと思う。

やるって返事したのにやらないなんて・・

なんていうオーラをAさんは発しそう、ということが無意識のうちにわかるから・・と思う。

相手が義父だと、夫は自然のままで居られる。在るがままで居られる。

私もそうだ。相手が義父だと自然のままで居られる。

義父のこういう態度が相手の在るがままを引き出す。

義父はいろんなことに不平不満がないように見える。

相手に何かの姿で在ることを要求しない。

そのまんまでいいよ・・というオーラを発している。

春三昧

2013-04-27 16:38:11 | 日々の暮らし・思い出
お天気がいいと外へ出たくなる季節だ。

畑に行き、さやえんどうを採り、猿から野菜を守るネットの修繕を夫と。

山は見えるし、鶯は鳴くし、気温はちょうどいいし、

畑の緑も美しいし、本当にいい気持ち。

畑行きの前には庭のつわ蕗の茎を採って、油揚げと煮た。

これは亡くなった義母に食べられると聞いたものだ。

畑では蓬が大きくなっていたので、採って来た。

いま、アク抜きをしてる。湯でて、潰して、食パン作るときに入れようかな・・

こうしてパソコンに向かって窓に目を向けると、

新緑の山が迫って来るように見える。

今朝、義父におはようございますの挨拶をしたら、

おはようと返してくれた後、「今日からゴールデンウイークだ」と。

義父も私も毎週がゴールデンウイークのようなもんで、

どこかへ出かけるわけじゃないし、どうってことないのだけど、

テレビでそういったニュースを見ると、なんだか楽しい気持ちになる。

30代の頃、こんな未来が来るなんて予想もしてなかったなぁ。


観察・判断

2013-04-27 16:08:10 | ひとの幸福
在るがままを受容する・・それだけでいい、と言っておきながら、

靖国参拝・・その程度の自由云々・・なんぞと書いているのは、

そうする人の在るがままを受容してないんじゃないか・・・??

そんな思いが浮かんだ。

受容するなら、このブログの靖国云々なんて言語化は起こらないはずだし、

問題視することが問題の始まりだし。

私はそのことを問題視してるんだろうか・・?

いや、その現象を観察し、

その程度の自由なのではないか・・と観察してるだけ。

それに判断はない・・か。

あの文章は観察の記録。

朝顔が一個咲きました。

種の発芽から、何日くらいで花が咲くようになるのではないか・・

というのと同じか・・。

自分の心をよく観る。




サヤエンドウ

2013-04-26 10:39:56 | 日々の暮らし・思い出
山の新緑を見ながら歩き、畑へと。

外出やら雨やらで2日畑に行かなかったら、膨れているサヤエンドウがいっぱいあった。

そういうサヤをそのまんまにしておくと、どんどん膨れ、

やがて黄色くなる。

採り忘れられたサヤは悲しそうにそんな姿でしょぼんとしてる。

人間と同じだ。老化現象。

そうなったサヤはもう食べられない。

来年用の種になるのもあるのかもしれないけど。

サヤのそういう姿にはすぐに諦めるのに、

人間は老化現象が諦めきれないでなんとかそれに打ち克とうとする・・?

この前、近くの友人と話したのだけど、その時彼女が、

延命治療をしてほしくないと思っているけど・・と言って、

こんな話をしてくれた・・・

近くの普通に暮らしていた85歳くらいの老婆が倒れて、救急車で病院に運ばれた。

検査すると動脈瘤が破裂して手術が必要と言われ、手術し、

1週間しても集中治療室から出てこられない・・という話。

医師から、コレコレこういう状態で手術しないと命の危険があると言われれば、

家族はそれに対し、手術しないでいいと言うことは出来ないんじゃないか、

それを言うことは言った自分が老婆を殺すような感じがしてしまう・・・。

と彼女。

なんとなくわかる・・けれども・・・

手術をしないという選択は殺すことなのか??

それを殺すことだと言えるなら、手術をしたら老婆は「生きる」ことが出来ると言えなければならない。

「生きる」とは意識もなく、管をつながれ、人工呼吸器で息をする、ということではないと思う。

「生きる」とはその言葉の通り生き生きとしていることだ。

昔は年寄りが倒れれば、あ~、この位の年寄りだから倒れる事もあるだろう、

寿命だ。倒れるまで元気だったから、このままぽっくり逝くんだろう・・

そんな感じで死を待ったのかもしれないと思う。

昔と言ってもそれほど昔の話じゃない。

今はぽっくり逝きそうになっても、医療側がぽっくり逝かせてくれないようにしてる。

その手術をしたらどのくらい今までのような暮らしでの寿命が延びるのか、

意識は100%戻るのか、

痛みや身体へのダメージはどうか、

今の状態で意識を失っている本人は苦しいのか、

・・・そんなふうなことを医師に聞いてみたい。


この人が今手術をしたらどうなるのか、と

この人が今手術をしなかったらどうなるのか、を比べることは不可能だ。

片一方を選択したら、もう片一方は選択できない。


もうじき97歳の義父は家で死にたい、病院には行きたくないと言っている。

文書にはしてないけど。

私もそういう最期を望んでいるし、私自身もそうだ。

その年になって身体を切り刻み、管を何本もつけ、人工呼吸器をつけるなんて、

そんな酷い目に遭うほど悪いことをしてないって義父は思うんじゃないかな。

手術をしない、延命治療をしないと意志表明するのは、

自然にまかせたいと思うから。


嫌がる事

2013-04-26 08:42:30 | テレビを見て
閣僚の靖国神社参拝についての報道がある。

「日本人が日本の神社にお参りするのは当然のことで、アレコレ言われたくない。」

・・それも尤もではある。

国と国とではいろんな立場やら都合やらなんやらかんやらあるからややこしいけど、

人と人とで考えるとそれほどややこしくはないように思う。

ひとが嫌がることはしない。簡単なことだ。

それをすることが権利だろうと自由だろうと関係ない。

ましてやお参りするなんてのは心がすることだ。

何処に居ようと心はいつもここにあるのだから、

何も嫌がる人がいるのに、そこへ行かなくてもいいんじゃないかと思う。

そんなことで人間の自由が奪われると言うようなひとの自由は、

その程度のものだということを広く世の中に知らせていることなのかと思う。