ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

完璧を望む

2015-09-28 09:50:26 | ひとの幸福
欠点やある種の能力のないことが気になる(自他の)傾向というのは誰にでもある。

それで自分や他を責めてしまったりすることが誰にでもあると思う。

そんなことで人間関係がギクシャクしたり、トラブルが起こったり、

紛争戦争になったりする。

どうして欠点や能力のないことが気になるのか・・・・・

一人の人間は完璧なものではないのに、

一人の人間に完璧を求めてしまう性質がある・・ということか・・

自分やひとが完璧なわけないのに・・

・・と思ったが、完璧でないから求めてしまうわけか・・・

既に完璧だったら求めることないもんね~


一人の人間に多くの能力が備わっていることを求めてしまう・・・・・

表面意識でそう求めてるわけじゃない・・・

でも(そういうことが出来るはず)があればこそ、気になるんだもんね。


いつかは出来るかもしれない事も今は出来ない、というのもあるし、

多分一生出来ない事もあるし、

前は出来ても今は出来ない事というのもある。

人それぞれだし、それぞれ得手不得手があるもんだ。

出来る人がそれをしたらいい。


こんなにたくさんの人が居るこの世界は全員で完璧になる。

不完全なもの同士がたくさん集まると全体で完全になる。

そう思うと 自分一人で頑張らなくていいんだ が腑に落ちる。

私がお盆に頑張らなくなったのも、それがやっといくらかわかった、からなのかもしれない。

山岸さんの青い本のなかにあった言葉、補佐の役目を果たします、だったかな・・

全体がそうなるように、一人一人が出来る事で補佐の役目を果たす、

ということなのかと思ったよ。

われ、ひとと共に繁栄せん ということなんだろうと思う。

今の世の中だって完全じゃないかもしれないけど、そうなってるからこそ

それなりに全体で動いてる。

ひとは完璧を求めてしまうものだから、もっともっとと・・・

常に続く・・だ。

けど、方向違いに暴走しないようにしないといけない。
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自分に引き付けてみてしまう・・・

2015-09-27 16:09:16 | ひとの幸福
事によるんだけど、

自分が出来ることをひとが出来ないと どうして??などと思うことがある。

そのことに非難感情なんかなくてもそう思ってしまうことがある。

自分は~することが当たり前なのに、

ひとがそれをしないと どうして??? となることもある。

まぁ、自分なりの(当たり前観)を持ってる。

自分中心的な見方をしてるとも言える。

ひとのことを自分に引き付けて見てしまうってことか。


あそこの店のナニソレが美味かった、などと聞くと

聴くより早くみたいな感じで、私もそれ食べたことがある、とか

あそこよりドコソコの店のナンタラが美味かった、とか、

聞かれもしないのにすぐ自分関連のことを言いそうになる。

こういうのも同じような感じか・・・

そういうときは“自分”が大きいんだなぁと思う。

そういう自分が見苦しいな、と思うこともある。

まぁ、それが 我(がが強い・・とかの)なんだろうけど。

いや、我が強くたっていいんだけど、

そのせいでひとと仲良くやれない場合があるからね。

ひとと仲良くやっていきたい、というのがあるもんで

気になるんだろね。
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「人のことばを深読みすると感情が悪化する」

2015-09-24 21:04:11 | ひとの幸福
「人のことばを深読みすると感情が悪化する」・・・これ、

今日の新聞の書籍広告欄にあった和田秀樹という精神科医の書いた本の

『感情的にならない本』の宣伝文句?じゃない、なんていうのか、

中からの引用文のひとつにあったんだ。

で、こんなことを思った私だったよ。


「人のことばを深読みすると感情が悪化する」


なんで『深読み』をするのか?

深読み、というけど、

深く掘り下げて人のことばを読んでるから深読みする、

というわけじゃないんじゃないかなぁ・・・

こんなことが身に覚えがあるよ・・・

多分それは、自分で自分を否定的に見ているときに起こる。

ひとの言葉を勝手な思い込みで、

あれは自分のことをこれこれこういうふうに批判的に言っているんだ・・なんて判断して、

その判断が正しいとは限らないのに、自分の中でほとんど正しくなっちゃってて、

自分を批判してると思い込んで感情が悪化・・・

うん、自分で自分の首を絞めているような感じ・・かな。

自分が自分を否定的に見てないときは相手が何か言ってもそういうことは起こらない。

自分の中にあるから、

相手がそういうふうに言っているように見えてしまう。

相手はホントいい迷惑だ。

相手にとっては濡れ衣のことが多い気がする。


その本を読んでないから著者がどういう意図でそれを言ってるのかはわからないよ。

そう読んだ私が深読みをしたのか?!



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崇高本能 ②

2015-09-23 18:13:48 | ひとの幸福
よくなろうという崇高本能があるから、戦争することになる。

よくなろうとする崇高本能があるから、

自分や人や国の欠点が気になる。

気になった後、

その気持ちをどう行動に移すか、が問題だ。

相手に口じゃなく、直接手を下す・・なんてことになったら、

トラブルや戦争行きのバスに乗るようなもんだ。

誰かが何かした時、全員が手も足も出ない・・・になれればこの世はいいものになる!?

そんなことをしたらこの世はめちゃくちゃだ・・・

大丈夫。この世は相互作用で進むもの。

あ~言えばこう言う、

あいつがあ~するから、こっちはこうするんだ、・・・・・

これがなくなる???

ほんとうにそうかなぁ・・・???


ひとに言ってもらうことで人は進むことがたくさんある。

国と国なら戦争じゃなく、外交、ホントの対話。

素直なら進歩することが出来る。

大人も子供もだ~。

素直というのは“言われた感”がないってことだね。

と、いうことは、

言われた感、というのは、他が(言った)に対して、

自分の心が(言われた)と反応することだけど、

他が(言った)に対して自分の心が(聞いた)だったら素直ってことだ。

・・でもなかなかそれが難しい・・・もんだ。

うん・・・その時、言われた感があってもいい。

だって、そうなっちゃったんだもの。

その時々の自他の在りのままの姿を受け容れましょう。

・・・すると、

時間の経過で、言われた感がなくなることも結構ある。

その時、言われた感があっても大丈夫。

崇高本能があるから・・・・


・・・いろいろ・・考えると、やっぱり・・・

ここに返ってくる・・・

人間自身がもっともっと成長することでしか世界は変わらないね~

全てが 自己に発し、自己に還る だなぁ。

そして自己は自己のみで存在するにあらずだなぁ・・・
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崇高本能

2015-09-23 14:13:40 | ひとの幸福
人ってより良くなりたいという崇高本能をもれなく持っている。

いや、自分はそんなもの持ってないって言う人もあるかもしれないけど、

そんなに甘いもんじゃないよ~

うんざりするほど本当のことだよ。

これがなかったらどんなにこの世はらくちんなんだろうと思う。

それがあるから苦しみが始まる。
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「人は誰でも、見たいものを見、聞きたいことを聞いている」

2015-09-20 20:43:27 | ひとの幸福
「人は誰でも、見たいものを見、聞きたいことを聞いている」

こんな言葉を聞くと、

いや、見たくないものも見るし、聞きたくないことも聞いてる・・

と瞬時に言いそうだけど、

考えてみるとその通りと思う。

瞬間瞬間の、今ここ という時空では人はそうだ。

私は今、パソコンに向かっている。

机の隣には電話が置いてある低い書棚があり、

そこには本やら写真立てやらがある。

視野にはそれらはあるけれど、それらに今ここで、関心がないから見ない。

今ここで電話がかかってきたらその電話に関心を持ち、受話器を取るだろうし、

今ここで夫が私を呼んだら、私はその声に関心を持ち、聞くだろう。

その瞬間見たいものが見える。

その瞬間聞きたいものが聞こえる。

その瞬間、他のことに関心を向けていたり、集中したりしてる時は、

何かが在っても気付かない。

瞬間的に人は見るもの、聞く音を選択してる。

自分の関心のままに生きている。

そういう意味で、自分中心に生きている。そうとしか出来ない。


また、見たいものを見、聞きたいことを聞いている、と聞くと、

見たいのは自分にとっていいもの、聞きたいのも自分にとっていいもの・・

と勝手に勘違いしてしまうから、

見たくないものも見るし、聞きたくないものも聞く、という反応をしてしまうんだろうな。

だけど、人はいいものだけを見たいわけじゃないんだ。

いいことだけを聞きたいわけじゃないんだ。

そんなふうに人は出来ているんだ。

いいものだけを求めているわけじゃないんだ。

いいものとよくないものがある世界では

どっちを選択する事もできる。

よくない方の選択を使っていい機会にすることが出来る。


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安保法案可決と・・・

2015-09-20 07:56:19 | ひとの幸福
安保法案に賛成とか反対ということじゃなく、

こうした政治の動きや議員の様子やらを新聞やテレビで見ると

私たちの姿だなぁと思う。

今のこういう状況も、なるべくしてなっている。


私たちの意識が日本をつくっている。

世界の意識が日本をつくっている。

世界の意識が世界をつくっている。

無意識、表層意識を含め、意識が主人公だ。


ちょうど今日の毎日川柳の秀逸作品のこれ、

「僕たちにホントよく似た議員たち」。


安保法案も数の論理で可決したけど、

これも“続く”だ。

何もかもが次の舞台に続く。

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雑草山とわたし

2015-09-13 08:00:03 | 日々の暮らし・思い出
昨日は夫とジャガイモの植え付けをした。

春にうちの畑で採れたジャガイモを種イモにして。

来年の春どれだけとれるかなぁ・・・

やっとイチジクが二つ色づいていて、触るとちょっと柔らかい。

美味しい!甘い!一つは少しとるのが早すぎたわ。残念でありました。

イチジク大好き。


細長い畑の一番奥、梅や夏みかんの木のある結構広いところが雑草の山。

去年までは義父がせっせと草取りしてくれてたから

地面が見えてたけど、地面なんか全然、見えない。

この草はこんなに大きくなるものだったのか・・・

この草にこんな花が咲くのか・・・・

私の好きな吾亦紅も大きく伸びた草の中・・・・

アジサイのはながらが雑草の山の中だからか、なんだか悲惨な感じ・・・

どの木も伸び放題・・・

ここまで来るとやる気が起き上がって来ない。

「寒くなるとみんな枯れるよね~」と夫に言ったら、

「うん、だけど、根が生きてるから春になると又はえてくるよ」・・・・

「来年は春先の小さなうちにとるよ」・・・

草ぼうぼうでも梅や夏みかんに悪い影響はない気がするから構わないんだけど、

この風景は気持ちを荒くれさせそう。

見える風景は大事だ。

私を囲むものは全部私にとっての環境だし、環境がよければ私もよくなる。

そして私も梅や夏みかん・アジサイ・吾亦紅・花の咲く木にとっての環境の一つだ。

それらだけじゃなく私を囲む人や物、事、にとって、私も一つの環境だから、

整えていかなくちゃいけないね。

さて、畑に行って来ます。


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夫と遠距離恋愛

2015-09-12 15:02:50 | 日々の暮らし・思い出
私が友人宅に行っている間、夫とは遠距離恋愛をしていたわけなんだけど(^^)

こうして離れる経験をするのはとてもいいものだ。

私にとってもいい機会だったし、

夫は夫でいろんな心の経験をしたみたいでぽつぽつと話してくれる。

一緒にいると、心が(相手が居て当たり前)状態になりがちだ。

最初は(居て当たり前状態)だったのが、

時間の経過で(居なくて当たり前)状態になったことで、

ある、ということが奇跡的な事だと気づいた、みたいな感じだったのかなと思う。

大げさかと思われるかもしれないけど、

私も彼が私の人生に登場してくれたことが奇跡的と思うようになったよ。

帰宅して、あ、こういう時こういうことに不満感や不足感を感じてたなと気付いたことがあった。

あるもので満足する。

あるものを満足する。

あるものを堪能する。

だいたい、無いものは見えないはずなのだ。だって無いんだからね。

自分の目がおかしいだけなんだ。


きっと又時間が経つと(あって当たり前)状態に陥るかもしれない。

自分をその程度の人だとは知っている。

けれど、どうなるのか観て行こう。

危うくなったらまた出かけよう。





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折り紙で作られた扇子が

2015-09-12 11:00:18 | 日々の暮らし・思い出
今、居間のテーブルの上に色折り紙4枚で作られた扇子が乗っている。

この前、私的出張なんて言葉使ってみたけど、

友人宅の家事応援に行ってたんだ。

友人の娘が妊娠して順調に過ごしてたんだけど、

七月になって赤ちゃんやお腹の中に心配な事が起こり、

娘の長子が障害を持つこともあって、手伝いに参じたんだ。

折り紙扇子は今度生まれた赤ちゃんのすぐ上の男の子がくれたもの。

私が帰る日にプレゼントしてくれた。

そうそう、赤ちゃんも娘さんも無事だったよ。

本当に本当によかった。

子供を産むってことは大変なことだ。

考えてみればずっと人類がそれをし続けて来たから今の世界があるわけで、

当たり前のことだけど、女の人にとっては大変なことだ。

私も二回経験があるけど、

二回とも流産の恐れがあり、二カ月仕事を休んだことがあったっけ。


赤ちゃんも小さいけど元気なようで嬉しい。

お腹の具合で早めの出産をしてもらったから赤ちゃんはまだ保育器の中らしい。

赤ちゃんに会ってないけど、

今度行く時がとても楽しみだ。

私の孫は遠い所に住んでいるから会う機会は少ないし、

会っても数日くらいだから、どうしてもなじみが薄い。

4年前私の初めての孫がたまたま東京で川崎病を発症し、ひと月入院した。

その間手伝いも含め、毎日通ったので、

ずいぶん孫という人間と近しくなれて、今もその感じがある。

やっぱり遠距離恋愛が難しいみたいに、人と人は

実際に付き合わないと感情も生まれにくいものだと思う。

今回上の二人の男の子たちとも親しく過ごし、

以前より心の距離がぐっと近くなった。

折り紙の扇子を見て今頃保育園だろうなぁ・・・と思う。

Gちゃんもよく笑っているかなぁ・・・

お母さんが帰って来て本当に嬉しいだろうなぁ・・・

赤ちゃんは元気で大きくなっているかなぁ・・・・

娘さん(今回やっぱりぐんと近くなれた)も元気にしてるかなぁ・・・

友達は疲れてないかなぁ・・・


こうして書いていると、いつ会えるかまだわからないけれど、

次、会う日が本当に楽しみだ♪♪♪


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私的出張から帰って

2015-09-09 16:39:03 | ひとの幸福
ひと月くらい私的出張・・うん、なかなかいい表現かも、をしていたこの間、いろいろな経験をした。

とてもいい機会だった。

印象に残ったことの一つ・・・・

「私の事にそんなに気を遣わないで」という思いが結構強いんだなぁと発見。

だが、そもそも、それは私の事ではあるけれど、私だけの事じゃなかった。

そこに居るみんなの事だった。

わかりやすい例でかくけど、

汗をいっぱいかいても着替えもせずそのままにしたり、

シャワーを勧められても断ったり、

私の下着一枚の洗濯の為に洗剤なんか使わなくてもいいと、

かなり猛烈に断ったりした。

わたしは、私の事なんかどうでもいい、気遣いしないで、の一点張りだった。

けど、そう言ってくれたことに好意を感じてたし、

反発心などなかったけれど、

周りに悪臭を放ったりする影響があることなど微塵も浮かばず、

自分の、気を遣わないでという思いだけで頭がいっぱいだった。


山岸さんに「幅る辱しさを知る」という言葉がある。

自分の思いに囚われていることで、周りの意見や気持ちを聴こうとしなくなり、

その事で周りにどんな影響があるかなど思いもしない、そういうことが

“幅る“そのことの一つだと思う。


上に書いたような私の行為は山岸さんの云う、『公意』じゃなかった。

『私意』は尊重していたけれど、『公意』ではなかった。

『公意』を行えなかった元は、“私”の事が“みんな”の事に、

自分の中でなっていなかったということだろうと思う。

だから自分勝手なことになる。

そんな大層な事じゃないと思う人もあると思うけれど、私はそう思っている。


考えてみれば、私のことなんかに気を遣わないで・・というのは

相手に対しての要望でしかない。

かなり図々しいよね~

そこに相手ではなく、自分自身がどうしたいのか、が無い。


「行為」というのは何かの目的があって行なうことという意味もある。

他者に対しては特にだと思うけど、

何かの行為をするときこれを言うこと、することで何がしたいのか、

どうなることを実現したいとなっているのか、

そういうことに自分でちゃんと自覚があるのか、

そして、それが実現する可能性は高いのか、

そんなふうに意識的になることが今の私には必要なことだと思う。

山岸さんの言葉の、「われ、ひとと共に繁栄せん」のなかにある、

『その思い為すことが・・・果たして・・幸福・・・』を思い出したよ。


また、一見謙虚に見える「私の事なんかに気を遣わないで」という、

思いの出どころは僻み根性なのかなと思う。

それも私の事ではあるけれど、みんなの事であるのも事実なのだから

(私一人で創ったものじゃない、私を含む社会でつくられたものだし)

そうなったのも仕方のないことで・・・・

自分一人を責めることなどナンセンスだとは思う。

けどね、責めはしないけど、迷惑をいっぱい掛けたし、大いに反省している。


今回の出張では他にもいろいろいい経験が出きた。

この地で主に夫と二人だけの暮らしでは出来なかったことばかりだ。

自分が未熟なことでたくさん迷惑をかけました。

受け入れてくれた人たちに本当に感謝している。

こんな私を受け入れ、共に暮らしてくれて本当にありがとうね。

それと腹を割って話し合えたこと、本当に嬉しかった。

対話したことで、自分が観えた。

そのことで、日常の中でもそれ以前より自分が観えた。

いま、これが書けるのも対話があったからだ。


周りの人はこんなにアクのある私(今回、そう思った私です)に、

もしかして懲りたかもしれないけど、

次の舞台に続く・・・でありますように。


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