ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

所有者と管理人 ②

2012-07-31 19:10:44 | ひとの幸福
自分の心であっても所有者じゃなくて管理人なんじゃないかって書いた。

身体はじゃあ、身体の所有者になれるのか、っていうと、

やっぱり、これも管理人的役割りしかできない。

所有者なら間取りを変えられる・・出来ないか・・

顔の造作はなんとかいくらかは手術できるかもしれないけど、

内臓や筋肉や骨を変えることなんかはなかなか難しい。

売り払えるか・・・出来ないか・・

けど、そんな馬鹿なことは普通しないね~

いい身体にしようとしてもなかなかだ。

年をとって行くしね~

身体もやはり管理するもんで、所有するもんじゃない。

「私の身体」とは表現するけど、私が管理している身体かなぁ。


所有者と管理人

2012-07-31 18:36:56 | ひとの幸福
別荘には所有者がいて、管理人がいるということがよくあるみたいだ。

避暑地なんかで夏の間だけそこで過ごし、

夏以外は管理人に別荘の維持管理を頼む。

人の心には管理人はいるけど、所有者はいない・・そういう感じがする。

別荘の所有者はその別荘の間取りを変えたり、壊したり、売り払ったりできる。

管理人は別荘を快適に保つということをする。

壊したり、売ったりは出来ない。

あくまで管理する。所有者がそれを売り払えば仕事はなくなる。


心の管理は自分がある程度は出来るし、自分の心の管理人は自分しかいないけど、

自分の心であっても所有者ではない。

自分の心の部屋の間取りが気に入らないからといって、

すぐに誰かに頼んで工事をしてもらうということができない。

すぐに取り壊しということもできない。

売ろうとしても売れない。

管理するしかできない。

管理人がさぼって管理しないということはできるけど。






「腰が重い」

2012-07-31 16:56:30 | 日々の暮らし・思い出
いや、私の身体の腰が重く感じるということじゃなくて、

「腰が重い」という言葉について。

意味は「無精(面倒くさがって怠けがちなこと)で、気軽に行動を起こさない」

私は若い頃は今よりずっと腰が重かった。

腰痛でもなかったのに腰が重かった。

今は昔に比べると軽い。

若い頃は超面倒くさがり屋だった。いや、それのいい面もあるんだけどね。

工夫するようにはなるから。

二階を掃除するのに掃除機を二階にあげるのが面倒で、

狭い建売の家なのに二階用にもう一つの掃除機を買ったこともある。

それでもやっぱりめったにしなかった。

掃除機を出したりしまったりが面倒だった。

特に子供が出来てから、子供が何かを「して~」なんて言うと、

すぐに「ええーっ~・・面倒くさい 自分でやってよ~」

子供は小さくて出来ない。「出来ない~」と子は叫ぶ。

子供相手に特に強かったと思う。面倒くさいと思うことが。

なんであんなに腰が重かったんだろう、と観ると・・

当時、いわゆる共働きで、(なんで私ばかりがそれをやらなくっちゃならないのか・・)

・・そういう思いばかりしていた。

そう、自分でその作業を“やらねばならぬ”ことに“していた”

「なんで私ばっかり・・!」という不満を夫にぶつけたら、夫がこう言った・・・

「そんなに子供の爪を切るのが嫌なの?」

その時、絶句した。

他ならぬ自分がそれを“やらねばならぬ”ことに“していた”のだった。

疲れていたら、権利だなんだと口走らずに、

これやって、とただ頼めばよかったのだと今は思う。

そんなふうに頼むことさえ出来なかった。


今、こうしてパソコンに向かっていても、

テレビを見ていても、本を読んでいても、台所で何かしていても、

夫が呼んだりすると、すぐに手を止めてそっちに行ったりする。

凄いね~と20、30代の私ならそれを見て思うかもしれない。

今の私は凄いとも思わない。

凄いという発想は「やらねばならぬことをさっさとやっている」と観るからだ。

今はそういうことが自分の中で“やりたいこと”になっている。

やりたいのだから、当然さっさという行動になるんだろう。

やりたくてやるのは気持が軽いけど、

やらねばならないと思うことは気が重いことであって、

さっさとはやれない・・のは当然だから。

他を動かす手 ②

2012-07-31 12:27:35 | ひとの幸福
他を動かす手を持っている私たち。

手を持っているからこそ、山から木を切り、材木にし、家を作る。

地球を掘り石油を取り出す。

そうこうして文化があり、文明がある。

そういうことが出来る手段を持っているということだ。

そうするのは身体だけれども、身体を動かすのは、

頭脳であり、精神であり、意識であり、心であり、思考だろう。

今のところ、それは脳で発生するということになっている。

証明されては、いないらしいけど。

精神、意識、心、思考、それ自体は何かを“する”ことはできない。

するという行動は出来ない。身体という物質じゃないから。

けれど、他を(動かそうとする)という気持ちになることはある。

これが相手が物質なら当たり前のこと。

動かそうとする対象が人間だと人間は単なる物質じゃないから、

簡単には行かない。

無理やり物質かのように人間を動かしたという経験は

「奴隷制度」なんだろう。

意志・意識のある人間向けの制度でないのは当たり前なので、

なくなったんだろうと思う。

物質ではなく、目に見えない意志・意識でもある人間に向かって、

(動かそう)という意識の働きが起こると・・・

なにかを絶対にやらせよう・・なんて人に対して思ったりする時や、

人からそういう思いを感じるとき、いい気分で居られない。

こういう意識の働き方をすると、

不愉快という感覚にになってしまうという事実は、

何を云っているのだろうか・・・

「造物主は他を動かす手を持たない」という湯川博士の言葉の、

「造物主」のようなものが人間の意識・・・だからなんじゃないか・・・

造物主は身体を持たないので、それは不可能だけれど、

人間は身体というものを持っているから、可能になる。

そして、何を思うことも意識はできるから、身体に命令する。

あいつにそれをやらせよう・・と。

身体は命令を聴く。

可能な限り身体は精神のいうことを聴き、行なう。

そういう時、身体は精神の命令をその通りしないといけないと、

頑張っているような気がする。

自然ではない、少し無理っぽさを身体は感じている・・・かも・・

すると、考えとは違うもの、感覚というものが、

「なんか違う・・」という信号を出す。

他を動かす手は持たないのが意識。

その意識がその本質に外れることを思うと、

何処からか信号が発せられる。

他を動かす手

2012-07-30 09:48:47 | ひとの幸福
人間以外の生命である太陽、地球、月、星、植物、動物は他を動かそうと作為しない。

結果的に見ると、台風で大雨が降り、

山が崩れて土砂が流れ落ち、木々をなぎ倒し、

家を流し人が死ぬというようになることはあるけれど、

台風は他である山や木々や家や人間を動かそうという作意はない。

その時のさまざまな相互作用で、ただ在るがままに動いているだけだ。

動物の一部は他の動物を食べる為に殺してしまうことがあるけれど、

それは生きたいという本能が起こす行動であって、

他をなくしたいという作為はないと思う。

人間以外の動物って書いたけど、

人間も生命ある豚や牛や鶏を食べるなぁ。

それをなくしたい、殺したいという作意はないということなんだろうけど・・・

(こう考えると、そういう行為はやはり動物並みということになるね~、脱線だけど)

神や仏がわたしたちをどうこうすることは出来ない。

私たちをどうこうできるのは私たち人間。

他を動かす手を持っている私たち。

手を持っているからこそ、山から木を切り、材木にし、家を作る。

地球を掘り石油を取り出す。

そうこうして文化があり、文明がある。

私たち、私たちが住む世界、生きる人生、をどうこうできるのは人間である、

という事実は何を云ってるか・・というと・・・

それを出来る手段を持っているということだ。

それは頭脳であり、精神であり、意識であり、心であり、思考だろう。

それによって言葉を使えること、

脳の指令で動く身体があるから行為できること、

意識を持っているから経験を頭に入れられること。

経験があるからこそ、どんなものでも経験を活かしてよりよきを創れる。

経験は心も身体も含む。体験は身体の経験だ。

造物主は手を持たないという湯川博士の言葉が云っているのは、

造物主は作ることは出来るけれど、体験は出来ない・・ということなんじゃないだろうか。

造物主は体験を可能にする「身体」がないから。

物質ではないから。

神・生命は心と身体を持つものとして人間を創造した・・・

他の生物とは異なる特色を持つ人間を神は何故創ったんだろう・・・???




6年生の孫が来る

2012-07-30 07:55:56 | 日々の暮らし・思い出
今日は夫の孫が遠くからやって来る。

新幹線を乗り継いでそれから私鉄に乗ってやって来る。

一人で来るのは今年で4回目。いつも半月ほど居る。

今年はもう6年生だ。どれだけ大きくなっているだろう。

一年に一度だけ会う。

ここにも書いたことがある記憶があるんだけど、

彼女を去年傷つけた。いや、意識的に傷つけたわけじゃないけど。

その時、彼女の言うことをそのまま聴けなかった。

「そんなのは良くない事」がでーんと私に在って、

それがあるから、そういう言動をした5年生に冷たくあたってしまった。

割とすぐにその時の自分を観察し、凄く悔やんだ。

なんて酷い私だったんだろうって。

その時の彼女の顔、鮮明に憶えている。

そんなことが在っても、又、今年もここに来たくて来てくれる。

ありがたい。今年は自分が去年より進歩した実感はあるけれど、

彼女とどういう経験ができるだろう。

すごく楽しみ♪


世間・ひとさま

2012-07-29 18:11:30 | 言葉
日本には「世間がどう思うか」とか「ひとさまからどう思われるか」

・・というような言葉がある。

若い頃は(少し前まで若かった^^)こういう言葉に反発があった。

世間やひとがどう思おうとそんなこと関係ない!っていうのが強くあったので、

こういう言葉に抵抗があった。

やっと、こういう言葉が日本には在るということが受け入れられるようになったよ。

受容とは在るものを在ると受け入れることだからね~

少し前に「癖」というのを書いた。

自分の癖、自分のニオイ、自分の姿・・は自分では見えない。

ひとからの方がよく見える。当たり前かも。

自分というものの一部に目が付いているから、見えないものの一番は自分の目だ。

自分の脚や手なら見えるけど、目は絶対見えない。

そういう意味で「ひとさまからどう思われるか」という言葉は有効かなと思う。

「世間がどう思うか」というのも同じようなものか・・

自分を見るのにはひとさまや世間の方が相応しい・・面もある。

この「見る」というのは客観的に見ることが出来るということ。

客観の最たる視点は天だけど。

ひとさまから見えるのはひとの地(じ・痔じゃないよ)のようなものが見える。

地でやればいい・・とかいう、その地。

意味を調べると「加工する前の材料や土台」というような意味もあるみたいだ。

取り繕ったりしてもそれはひとからはよく見えると思う。

全体の“感じ”が見える。自分からは自分の部分しか見えないけど。

あの日あの人はなんかちょっと不自然だった・・・なんてのもある。

ここがどうってはっきり言えないけど・・なんて。

なので「ひとさまからどう思われているか」は大事かも。

自分では出来ない事をひとさまはしてくれてる。

でも、ホント、おちょくって「ひとさま」っていう言葉が日本に在るわけじゃないんだから、

日本の言葉は深いね~

みなす・見為す

2012-07-29 14:11:59 | 言葉
或る人を嫌な奴だとすれば(測定すれば)相手は“嫌な奴”として存在する。

嫌な奴だとする(測定する)人間が一人も居なければ、

“嫌な奴”など存在しないように、この世は作られている。

・・こういう文章をさっき書いた。


或る人を嫌な奴だと“すれば”(測定・観測すれば)の、“すれば”。

嫌な奴と“思えば”という表現ではない、と思って、そう表現した。

以前は「思えば」という表現を使った日も、もしかしてあったかもしれない。

何度も「意識の状態」「境地」「存在の状態」という表現でも書いて来た。


さっき、「みなす」という言葉がやって来た。

或る人を“嫌な奴”で在るとみなすと、その人は嫌な奴として存在するようになる。

この表現がいい、ぴったりだ。

みなす とは広辞苑で見ると(見做す・看做す)とあり、

その意味は「①見て、これこれだと仮定または判定する。

実際はどうであるかにかかわらず、こういうものだとして扱う。

②見きわめる。見届ける。

③見るようにする」以上。


みなす を 広辞苑にはなかったけど、

「見て」と「為す」のくっ付いたものという解釈も出来るなぁと思った。

そうで在ると見て、その出発点から行為すること。

「見為す=みなす」

ピグマリオン効果の(~として扱う)も見為すだ。


後は野となれ山となれ

2012-07-29 11:03:23 | 言葉
「後は野となれ山となれ」という面白い言葉がある。

あまりいいイメージじゃないのかもしれない。

「なれ」と意志したって、ならないものはならないんだから、

これは「なれ」という命令形をしてるけど、

後は野となる山となる、かもしれない。

過疎化一方のこの地に住んでいて、

この地の何十年後はもしかして野となり山となる運命なのかと思う。

既に一部はそうなっている。

私が楽しんでいるたくさんの鉢植えも私が死んだら、どうする?って夫に聞いたら、

畑に持っていくって。地植えにするって。へぇーと思ったよ。

そうなるとしても、その地で絶えて行くものは絶え、残るものは残るんだろう。

隣の畑の主はここのところ畑に来ないなぁと思っていたら、

入院しているということだった。

人の手が入らなくなるとこうなるんだなぁと実感。

草はぐんぐん大きくなり、蔦は木にはべり放題。

作物も収穫されず生命のままに大きくなる。

エントロピー増大の法則で混沌状態なんだろうな。

他を動かす手を持つ人間が居なくなると、

それぞれの生命は自らの意志で自ら動くだけなので生き放題。

そして絶えるものは絶えるのかもしれない。

私たちの身体もやがては野となり山となるんだろう。

後は野となれ山となれ は当たり前のことを云っているのかなと思ったよ。


不確定性 ⑤

2012-07-29 08:21:05 | 量子力学と心
人間にとって世界は不確定性になっているからこそ、

いわば、選択できる。どのようにでも測定できるということだ。

これはこの世が相対性という仕組みでなっているということなんだろうな。

良いと悪い・快と不快・美と醜・高いと低い・上と下・右と左・早いと遅い・

西と東、北と南、出来ると出来ない、賢と愚・・・

こんなふうに私たちは何かを観るときにこの相対性を使う。

それ無しではにっちもさっちも行かない。

この世が相対性・・と書いたけど、この意識、と言いかえられる。

物事を捉えるときにその定規がないと測れない。

ほら、そこ、その右よ・・とか

北の方に見えるでしょう・・とか、上の子の方が美人になるね~とか・・

選択できるのは意識が相対性になっているからこそ。

大文字のGODは絶対のもの。小文字のgodである私たちは相対のもの。

私たちはどちらかを選んでいるという在りようをしている。

いつの日かこの世が戦争も、小さな人間間のトラブルもない世界になると思うけれど、

それも私たちが絶対のものになる、ということじゃない。

人間の意識というものは相対のものである、ということからは抜け出せない。

戦争と平和とで、常に平和を選ぶという選択をする、

そういう相対者になるということかと思う。


不確定性 ④

2012-07-29 07:56:41 | 量子力学と心
「不確定性の世界」

人間にとって世界は不確定性になっているからこそ、

いわば、選択できる。どのようにでも測定できるということだ。

自分たちの測定次第でそれなりの人や事物が存在するようになる。

これは凄い事だと思う。

自分次第で世界・人生は如何ようにもなるということだから。

これは一人一人の人間は湯川博士の言葉でいうと「造物主」であり、

表現を変えれば「創造主」ということになる。

湯川博士のいう「造物主」は他を動かす手は持たない。

造物主・生命は他の生命の動きを受けて、自ら動くだけで、

他を動かそうという意志は持たない。

神と私たちとの歴然と異なる点は、

私たちは神が持っていない「他を動かす手」を、

持っているということだ。

それが出来る、という物理的身体を持っている。

・・ということは神より私たちの方が、

力を持っているということになる!?

そうだろうな、他を動かすことであるところの、

人を殺すことも出来るし、戦争もしてる。

それに対し神は何もしない。何も出来ない。

「造物主は他を動かす手を持たないもの」として存在しているのだから。

戦争や人殺しや人を傷つけることに対して、

何かを出来るのは人間だけだ。

神や仏が戦争を起こしたり、世の中や人を

どうこうしてくれることなんかない。

そういう力を持っているのは私たちだけなんだね~。






不確定性 ③

2012-07-29 07:16:49 | 量子力学と心
『人間が測定できないだけで確定した値がある』

この言葉から昨日は、あーいう展開になったけど、

さっき、自分の昨日の文章を読んでいたら、もっと違う解釈があるんじゃないかな・・

が、浮かんだ。

人間が測定できないだけで・・・というのは・・・?

確定した値・・とは・・?

こう考えるとき、私の頭の中ではいつも人間界ではどういうことだろう?というふうに考えてしまう。

量子力学が人間の意識界に関係ないわけがないという確信があるのでついそうなってしまう。

観測される側の確定した値・・とは人間界でいうと、

人間とは、自発性・自律性・自立性・自主性が在るもの。

自由、幸福を希求してしまうもの。

・・そういう性質を持ったもので“在る”ということなんじゃないかな。

そういうもので在るという観測が出来ないだけで、

本当はそういうものだという確定した値がある。・・・という解釈。

人間をそういう者だと人間が測定しないので、神が確定した値など見えない。

おーおー、神が確定した・・と言ってしまった。

(こんなふうに、おーおーとか思うのも、

神が云々なんて言うと、速やかにレッテルを貼られる危険性があるのではないかという・・・

・・危惧が私にはあるんだろうな・・

でも今はそれほどでもないのかな?わからない)

神というより、「生命」が確定した、の方がいいかな。

同じものと解釈してるから。


『測定と無関係に、確定してる量など存在しないように、この世は作られているというのです』

或る人を嫌な奴だとすれば(測定すれば)相手は“嫌な奴”として存在する。

嫌な奴だとする(測定する)人間が一人も居なければ、

“嫌な奴”など存在しないように、この世は作られている。




「不確定性」②

2012-07-28 12:52:25 | 量子力学と心
最後に、こういう文章があった。

「最近、ハイゼンベルグの測定限界の問題が再び脚光を浴びました。

『人間が測定できないだけで確定した値がある』

という考え方も完全に消えたわけではありません。

多くの物理学者はどう考えているのでしょうか。

北島雄一郎日本大学助教は、

『それについては考えないというのが一番主流の考え方だと思います』と言います。」

・・・以上。これが超面白い。

人間が測定できないだけで確定した値がある・・・

このことってどういうことなんだろう???

人間が月が在ると思わなくても、

月は在るというようなことだろうか。

アインシュタインの叫びだね、これ。

地球も月も他の星座も人間が居ないときから在ったわけだし。

けれど、この文章、それらが今ここに出現するのは、

言葉によって。

月が存在していても、それを人間が知らなかったら、

「月が存在する」という言葉は無い。

「人間がいないうちから月が在ったわけだし・・」

「月が在ると思わなくても、月は在る」

と言えるのは既に月が在ると知っているからだ。

日本の山奥の何処かに金塊が在っても、

それを人類全員が知らなければ、

「そこに金塊が在る」という言葉は無い。

「誰も知らなくっても在ったんだし」なんて言葉も有りようが無い。

私たち人類全員にとってそれは無いということになるのかな・・・

いや、在るも無いも無い、ということか。

「それについては考えないというのが一番主流の考え方だと思います」

の通り。

ようするに考えようがない、ということか。

無を考えろ、ということは不可能だからね。

でも「無を考えろ」という言葉はある。

数学でも無・ゼロが確かにある。なければ困る。

こう考えると、

量子力学は意識力学だし、理論物理学は哲学だし、

数学は哲学だし・・ということになるよね、やっぱり。


「不確定性」

2012-07-28 11:22:04 | 量子力学と心
「不確定性とは」という記事が今朝の朝日新聞に載ってた。

「今さら聞けない」というタイトル。

素粒子の世界では・・・

「金塊の重さの例で言えば、量り方や器具に問題があるのではなく、

量るたびに重さが変わっている、あるいは、そもそも本当の重さなんてないということです。

真の値など元々ないというのが実際の物理現象に近い解釈なのです。

測定と無関係に、確定している量など存在しないというように、

この世は作られているというのです。」

・・・引用。

本当に面白い。

量ろうとすると対象は変わってしまう。

素粒子という極微小の世界ではそうなっている。

・・この世はそのように作られている。そうこれは物理現象だから。

ミクロがそうならマクロもそう。

「測定と無関係に確定している量など存在しない」この言葉の凄さ!

私たち人間界というマクロの世界では、

観測(見方・観ること)と無関係に、その対象など存在しない。

そのことに確信持ってる。

2012-07-28 09:23:03 | 日々の暮らし・思い出
ひとにはいろんな癖がある。

このまえの「ためしてガッテン!」では

身体の癖が身体の不調快調に関係あるらしい、という話だった。

自分の癖はわからないが、ひとの癖はよくわかる、ということもある。

本当にそうだ。自分はなかなか見えない。

「なくて七癖」という言葉もある。

歩き方なんかも癖がある。一人として同じ歩き方のひとはいないような気がする。

モデルなんかは凄く訓練してモデル歩きが出来るようになる。

私も外股歩きはしなくなったけど、

靴底はいつも外側が減る。そういう歩き方をしているんだろうな。

字も人それぞれ癖がある。そしてやはり字も訓練してかなり上手くなったりする。

でも継続しないと元に戻る。

美しい字を書けるようになりたいと思って、せっせと毎日何時間も練習に励んだことがある。

子どもの頃の話じゃなくて10年くらい前のこと。

今思うとよくそんなことをやったなぁと思う。

上手な字の文章を下において透ける紙を上に置き、なぞる。

きれいな字を書けるようになりたい一心で、ただただ美しい字を真似た。

このやり方は効果があった。

この練習以前より、今の方が癖は減ったかなと思う。

お手本にした字までは行かなかったけど。

そうそう、私の髪は癖ッ毛だ。生まれつき。母もそうだし、次女もそうだ。

字の癖も髪と同じ生まれつきなんだろうな。

顔立ちも癖といえば癖のようなもんか・・違うか・・生まれつきだし。

声も生まれつき。声も癖がある。

性格の癖みたいなのもある。生まれつきの要素もかなりあると思う。

私はひとからよくいつも元気だとか、さっぱりしているとかさばさばしてると言われる。

訓練してさっぱりしてるようになったんじゃなくて、

気が付いたらそうだっただけだ。なんの努力もしていない。

生まれつきの癖みたいなもんだ。

美人もそうなんだろ。気が付いたら美人だった、というわけだ。

歩き方や字も美しい姿を真似る訓練で変わって来る。

ほんのちょっとの経験だけど、そう思う。

顔の癖である美人度は無理だけど、顔つきというのはまだ見込みはあるかもしれない。

何とかさんを思い出すと、苦虫を潰したような顔しか浮かばない・・

・・そんなふうにはなりたくないなぁと思うんだけどなぁ・・