ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

町医者先生

2012-06-30 19:43:04 | テレビを見て
朝の連ドラ「梅ちゃん先生」の梅ちゃん先生は、

人を助けたいと思って医師になろうと決めて、医師になったようだ。

それを聞いた世良公則がやってる町医者がこう言った。

「医者はただそこに居るだけでいい」。

・・そういう感じでやっているらしい。

そういう感じ・・と今書いたけど、どういう感じ・・・?

そのドクターは戦地での経験からそういう感じになったらしい。

どういう経験だったのか、いま、よく憶えていない。真面目に見ていなかった。


医者に限らず、誰でもその場で、

ただそこに居ればいいという存在になれたら・・すごいなぁと思う。

「ただそこに居ればいい」これが難しい。

患者を目の前にして、何の行為もせず、呼吸しているだけじゃ、そうは言わないだろう。

ただそこに居ればいい・・・どんな居方なのか・・・

「ただ、そこに居ればいい」と「そこに居ればいい」の違いを考えるといいかもしれない。

“ただ”があるか、ないかで受け取るニュアンスが違う。

「ただあなたのことを思っているだけなんです」

「あなたのことを思っているだけなんです」・・どう違うか?(これは関係ないけど)

広辞苑で調べてみた。「ただ」とは漢字であらわすと、

『徒 常 只 唯』 とあった。へぇー、そうなのか・・・

意味の中でこれに近いかなと思ったのは、

①何ともないこと。取りたてて言うこともないさま。

③特別な人・事・物でないこと。ふつう。なみ。

自分的には・・一度使ってみたかったこの言葉・・で、考えると・・

ただそこに居ればいい・・というのは

この人を助けようと、特別に顕在意識で思わなくても、

自然と何かしたく“なってしまう”意識の状態で、何かをしてしまう、

そういうだけの存在で居ること・・なんじゃないだろうか。

特別にではなく、自然に。

だから、なんの無理もない。ストレスを感じることもない。

どういう感じ、そういう感じ・・するよ。


TOTOのトイレのコマーシャル

2012-06-30 18:16:47 | テレビを見て
以前にTOTOのトイレのコマーシャルのことを書いた。(3/28 3/31 burogu)

今はそのコマーシャルを見ることはない。放映されなくなったみたい。

新しいのが出て来た。パパ、ダンディ~♪ ママ、ナントカ~♪とかいう歌詞の歌を

子供が歌ってる。

けど、この歌は短調のちょっと物悲しいメロディのよう。

登場人物も嬉しくも悲しくもない、どっちかというと無表情だ。

こういうのが流行りなんだろうか。

こういう表情にしよう、と決めるんだろうな。

何か考えがあって。・・・どんな考えなんだろう。

こんなにいい製品です(^^)/ ♪と、

ストレートに表現するのはかっこ悪いみたいなのがあるんだろうか・・

わからないけれど・・・

あーいうのを好む人もいるんだろうな。ひとはいろいろだから。

私も好きなコマーシャルがある。

口を開けてるマネキンの男と女と笑っている男児がいろいろ喋る奴。

なんだかアレ大好き。ずーっと見ていたい。

あーいうの好きじゃないという人もきっといるんだろうな。






「be」フロントライナー ②

2012-06-30 15:45:18 | 新聞を読んで
佐野眞一さんは広津和郎さんの言葉を受けて、こう言っている。

散文精神で書かれる作品は「動詞と名詞だけで書かれる文芸」とも言いかえられる。

形容詞や副詞はほとんど必要ない。

動詞と名詞は時代が変わっても、決して腐らないからなんです。

・・以上。

ノンフィクションに形容詞と副詞は必要ないというのはよくわかる。

散文というのがノンフィクションという作品と

イコールなわけではないのかもしれないけど、

佐野さんがこういうことを引用してるということは、

広津流散文精神がノンフィクションを書くのに役立っている、

ということなのかもしれない。

けど、動詞は腐らないんだろうか・・!?

「走った」という動詞は昔でも現代でも、

人間の身体の動きを表わす動詞だから腐らないと言える。

走った は 走った で、食べた は 食べた だ。

走った は 食べた じゃない。

心を表わす動詞はどうなんだろう・・・

例えば「嫉妬した」「後悔した」「反省した」「蔑んだ」・・

こういう動詞の言葉の意味はその言葉が誕生したときから、変わらないし、

変わらないからこそ使えるわけなんだけど・・・


私は走った Aさんは走った どちらもその事実は見た通りかと思うけど、

私は反省した  Aさんは反省した  これは微妙だ。

「私は反省した」そう表現することは出来るけれども、

実際にその言葉通りかは正確には私しかわからない。

「Aさんは反省した」これも同じことかと思う。

Aさんは反省しているように見えた、反省しているのかと窺えた、

Aさんでない人はこのようにしか表現できないはず。

すると、ノンフィクションでのこういう動詞の使い方としては、

反省したのではないかと自分には見える、ということになるのかな。

勿論、そう表現できるからにはかなりの観察がなければ出来ないことだとは思う。

でも、そうなると、それはノンフィクションではなくなるんだろうか・・?

いや、やはりノンフィクションか・・?




「be」フロントライナー

2012-06-30 15:38:28 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞の「be」というのの「フロントライナー」に、

佐野眞一さんという人が載っていた。

前にここで引用したことがある「別海から来た女」というのを書いた人。

今朝の記事の中で興味深い文章をみつけた。

作家の広津和郎の「散文精神について」という講演の中の言葉。

どこまでも忍耐強く、執念深く、ただただ淡々と物事を見るべきだというのがその論旨で・・というもの。


(物事を見る)ということは散文を書く為だけにあるんじゃないのは当たり前なんだけど、

散文を書くのは表現の一つで、

そして、表現は文学や絵画や音楽や映画なんかだけじゃなくて、

日常私たちが話し、行為し、行動するのも全部表現だ。

表現とは表に現れるもの。

何が表に出るかって、ひとが物事を見る、その見方が顔や言葉や行為に現われるんじゃないかな。

淡々と物事を見る、それが広津流 散文精神ということになる・・・

淡々とではなく物事を見る、それが・・・なんになる・・・

NHK 「病名推理エンタメ!」

2012-06-29 21:29:14 | テレビを見て
昨日の夜10時からのこの番組。とても面白かった。

三人の研修医が問診することや、その患者の映像を見て、

その病名を推理するというもの。

MRIとかCTとかの機械は使わない。

昨日の患者はパーキンソン病が正解だった。

パーキンソン病の人と会ったことがあったり、

義父の慢性硬膜下出血の症状をを見てたりで、

これはパーキンソン病かなと私も推理してみたら、当たりだった。

私にはそれ以外の選択肢を知らないというのが当たった理由だけどね~

問診というのも凄いものだなぁと思った。

何を患者に問うか、それがネックだ。

この患者に昨夜何を食べたかなんて問うのはアホなんだろう。

最初患者から様子を聞いて、こーいう病気かなと仮定して、

それに当てはまる症状があるかないか問診する。

それについての患者の話を聞いて、

その病気の症状以外のものがあれば、その仮定は消える。

次に、じゃあ、アレかなと仮定して問診する。

問診を続けることで、いろいろな病気の中から可能性が絞られてくる。

問診から病気が現われてくる、感じがした。

パーキンソン病はMRIという機械では発見できないという。

昨日のテレビでは、かなりな時間の問診と患者の様子を目で見る観察で、

機械に頼らず、病気が見えてきた。

問診はその時の患者の様子だけではなく、日常の身体の状態を細かく問う。

具合はどうですか、なんて問診じゃ、患者はなにをどう言っていいのかわからないだろう。

機械のMRIで検査するのも身体の観察だけれど、

それはその一瞬の脳だか、身体の状態がわかるだけなんだろうと思う。

そ一瞬だけの観察じゃなくて、問診はその患者の発症時から今までの身体のその時々の様子を問う。

今日という部分だけでなく、身体の動きの変化を問う。

機械に頼ると、時間経過的な全体を見なくなるということが起こるのかもしれないなと思った。

それに機械がないと、機械が無くともなんとか患者の様子を知りたいという意欲は増すというのもあると思う。

去年の震災後、各地の医師が被災地に駆け付けたそうだけど、

津波で医療器具・機械がみな流され、聴診器と問診だけで、

診察するという経験を初めてしたという若い医師が、

医師として本当にいい経験が出来たというような感想が新聞に載っていたのを読んだことがある。

それにしても、こういう番組が生まれたということに驚きを感じる。

本当に刻一刻とすべては流れているのだなぁと思うよ。





「今日はいいお天気ですね~」

2012-06-29 10:01:36 | 言葉
昨日夜BS放送を見ていたら、ドイツ人が東北に魅せられて、

そこに住んで、村づくりのようなのをやっているというような番組をやっていた。

編み物をしながら、なんとなく見ていた。

最後のほうで、日本の挨拶の話をしていた。

「今日はいいお天気ですね~」「あいにくの雨ですね~」

「雪がよく降りますね~」・・・・こんな言葉を交し合うって。

私もここに住み、そんなふうな挨拶を自然にする。

「ええ天気やなぁ」「よぉ降るなぁ」「晴れてきたなぁ」・・・

多分外国ではこんな挨拶はしないのかもしれない。

英語では「ご機嫌如何ですか」中学で習った。

そして返事はI’m fine thank you.

それに比べ日本ではお天気。それに、おはよう。こんにちは。こんばんは。

それって、お早よう。 今日は。 今晩は。

それがどうした!?って外国人なら言うのかもしれない

それに、前に書いた「さようなら」もある。(2/25 burogu)

日本の挨拶って、今、いいなぁと思う。深い。

こういう日本の挨拶用語に対してもいろんな研究があるんだろうなぁ。

そういう専門的なこと、何も知らないけど、

今日のお天気はこうです。こんにちは(今日は)こんばんは(今晩は)お早よう。

誰も傷つく可能性が無い。

そのとき、機嫌がいいか悪いか、そんなことに関心を向けないというのもいい感じ。

誰にとっても空は青い。誰にとっても雪が降ってる。誰にとっても今日は今日。

否定のしようが無い。

自然と共に在る。

 









「池上彰の新聞ななめ読み」

2012-06-29 08:57:13 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞に、こういうのがあった。

「『その瞬間』再現は難しい」の見出し。

オウム真理教の高橋容疑者が逮捕された時の報道記事について、

夕刊と朝刊、朝日と読売、みな、その瞬間についての文章が違う。

「」で表現されている高橋容疑者の言葉も異なる。

比較して読むと、いろいろ辻褄が合わない部分が出てくる。

部分を表現した文章が幾つかあって、それを合わせて、時間の経緯で見ようとすると、

矛盾が出てきてしまう。全体でぴったりはまらないみたい。

一つのジグソーパズルに、関係ない他のピースが入ってるみたいだ。

こういうことは当然起こることだと本当に思う。

そこに悪意だの黙殺だの捏造などは無いと思う。

言葉は意識なので、在った事実を描写しているつもりでも、

その人の捉えたことが言葉になる。

起こった現象をフィルムを巻き戻して見ることが出来れば、

起こった現象をその通り言語化できるのかもしれないけれど、

映画じゃないから、誰もその日にカメラを回してない。

まぁ、それも絶対じゃないとも思う。

相対的に物事を見てしまう人間というものの在りようがあるから。

みな、各人の記憶に頼っている。

記憶は思い出した時に新たに作られる。

夕刊では「高橋克也か?」と聞くと「はい」と答えた・・というもの。

朝刊では「・・・捜査に協力してください」と声をかけた。

男は「はい。私が高橋克也です」と言った・・というもの。

違うのが悪いと云ってるんじゃない。

面白いと感じている。そういうふうになるんだなぁと感心してる。

新聞社が夕刊では省略して記事にした・・のかもしれない?

でも事実を報道してるって云ってるんだから、そういうことはないか・・?

認識が言葉になる。事実が言葉になるわけじゃない。

その現象を無意識のうちにどう捉えているのか、

どう観測しているのか、

その人の関心の行き所で現象が一つの言葉になってそこに現われる。

簡単な例で言えば、或る男が私の夫なら、私は「男は・・」と認識しないだろう。

「夫は・・」と認識する。赤の他人や警察官ならその男を「男は・・」と認識する。

或る男の子供なら、その男を「父親は・・」と認識する。

どれも当然だ。

現象の一瞬一瞬を一人一人がその人仕様で捉えている。

この記事の最後のほうに、

「夕刊と朝刊で内容が異なっています。まるで芥川龍之介の『藪の中』のようではありませんか。

事実関係を正確に取材して記事に再現することが、いかにむずかしいかわかります。

と同時に、新聞を読み比べ、『本当は何が起きていたのか』

を推理することもまた楽しいのです。」とあった。

正確に取材して記事に再現することがむずかしい、

と、池上さんはわかっている。

でも、再現なんてあり得ない。

この事件に限らず、日常の暮らしの中でこんなことは山のようにあるだろう。

松本サリン事件で誤認逮捕された河野さんが言ってた、

「人間は間違うもの」という認識を持っているか、持って居ないかでずいぶん違うんじゃないかと思う。

起こっている現象を、在りのままに認識する、なんてことはかなり高度なことかと思う。

それには深い智慧がいるようにも思う。

自分の口から出る音、言葉は全部自分の捉えだということを自覚できたら、

批判がひとに向かうことはないのかなぁと思う。



部分と全体

2012-06-28 17:04:06 | ひとの幸福
「まだ、わからないので・・」で書いた、リンゴという現象。

リンゴの花が咲き、それが実り、出荷され、

買われ、冷蔵庫に入れられ、酸化が進み、一部腐り、ごみ焼却場に行き・・・

あるいは食べられ、人体の一部になり・・・

というような流れているリンゴ現象のプロセスに在る一時期のリンゴ現象を、

「このリンゴ」と呼んでいる。

リンゴ現象なんて普通言わない。そのリンゴは止まっているように見えるから。

そう、人間は(このリンゴ)として止まっていると見えるものを見ている。

人間の目ではなく、電子顕微鏡という目で見たら動いているけど、

人間の視力では無理。どう見たって止まってる。

野球のバッターが時速150キロの速さで来た玉を打てるのは、

私なんかよりずっと動体視力がいいということらしい。

そういう視覚能力の問題もあるし、

リンゴ現象というリンゴの変化(種から・花・・実になり・・店屋・・冷蔵庫・・)という動きを、

今という瞬間に捉えないから、(このリンゴ)と言う。

(リンゴ現象の一時期のたった今のリンゴ現象)なんて、言わない。

そう、時間に表わされる動き、流れの1部分しか私たちは今、ここで見られない。

時間的にも空間的にも部分的なものを観ている。

でも、それがわかっていれば、部分だけを見て、

それをあーだこーだ言うことは減るのかもしれない。

どうなんだろう・・・









まだわからない ③

2012-06-28 16:41:05 | 本を読んで
情報は止まっているので、本を読む、ということが出来る。

その本を読む度に言葉が変わってしまっていたら、

読んでわかるということにならない。わけがわからない。

困ってしまう。読めない。小説にも論文にもならない。

養老先生の対談での発言がどういうことなのか、わからない・・という現象が

わたしに起こると、

わかりたいと思って、何度も読んだり、他のページを読んだりする。

いつ開いても141ページは141ページだし、

同じ活字が並んでいるし、情報は止まっているので、

それを読み、考えられる。

本の活字と違って話し言葉はすぐに消えてしまう。

話した当人ですら忘れてしまうこともある。

話す方も聞く方も動いている最中なので瞬時に言葉は消える。

聞いた方も確か相手はそう言ったなぁ・・程度なのかもしれない。

テレビのバラエティなんか見ていると、発言にだいたいはすぐ反応している感じ。

相手が何を云っているのか、を聞くより早く反応しているみたい。

ネットで養老先生はめちゃくちゃ言われてると福岡先生が本で言ってたけど、

養老先生の言葉は私なんかにはすぐにわからないものも多い。

すぐごっくんと飲み込めない文章が多い。

何を云っているのだろう?とじっくり読まなきゃ読めない。

その言葉がわかるという感じで読めるのは、さっきも書いたけど、

書いた人のその意識の在りようを在りのまま受け取ることだ。

その言葉を発した時の著者になるくらいの意識になったときに、

あ、そうなのかとわかるのかと思う。

言葉は意識だから。

ネットでめちゃくちゃ言われているそうだけど、

何をそんなに言われるのだろう?と不思議に思う。

会っての感想なのかしらん。

本自体はひどく非難されるような文章は無いと感じる。

いろいろ言う人は本当に読んでいるのかなぁ。

顔が気にいらないとか、そんなのもあるのかな。


そうそう、話し言葉のことを書いていたんだっけ。

話し言葉はすぐに消えてしまう。

意識は流れだから、川のようにどんどん流れて行く。

意識は止まったものしかとらえられない、と養老先生が言ったけど、

話し言葉に関しては、止まらず流れているから、

パッパッと反応してしまうだけのことが多いのかもしれない。

それに止まった文章なら、その言葉の前後や本の全体からも読み取るのに必要な情報はある。

前のページに戻ったり、後ろのページに何度も行ったりして、

全体が見える。そういう発言になったプロセスも感じられたりする。

謂わば低速思考で読もうと思えば本は読める。

止まらないで流れている話し言葉は、

その瞬間をまるで止まっているもののように、

スローモーションで見られるような意識、観察力があれば、

反応ではなく、(聴くこと)が出来るのかもしれない。

その在りのままをわかりたいとなっていて、聴くなら、

自分が口を挟む暇なんかないのかもしれない。

ひとの意識は一瞬という時に二つのことは出来ないのだから。

すぐ反応する、ということは聴いてない・・ということなんだな。

まだわからない…② 

2012-06-28 14:57:32 | 本を読んで
「視覚というのは基本的に時間を止めてしまいます。

写真を思い浮かべればわかりやすい。

でも、聴覚は運動の一種だからそうじゃない。」・・・養老先生。

・・141ページの続きにこれがある。


この続きも非常に面白い。

昨日のテレビ、「ためしてガッテン」と同じことを云っているんじゃないかな。

目からの情報は大脳に入り、耳からの情報は小脳に直接入る。

リズムで子供は跳び箱を跳べるようになった。

リズムという流れ、タンタンタン、トッヒュッ というリズムの流れ、

動きという現象をキャッチしているのか・・小脳は。

止まったものは大脳がとらえ、

動いている音、リズムは小脳が捉える。

養老先生は「唯脳論」を書いた。読んだけど、内容はすっかり忘れた。

池田晶子さんの文章の中で、

(唯脳論と、養老先生は脳と表現しているけど、

あれは「意識」と読めばいいのか・・)みたいなのがあったような記憶がある。

意識というものを物理的動きへと変換する装置が脳なのかと私は思っているんだけど、

そういう意味で、大脳と小脳の働きの違いという知識は、

五感と意識の関係を明らかにするのに、役立つものなんだろうと思った。

えーっと・・

養老先生の発言の一部がいくらかはわかったんだろうか・・・わたし。

人の言葉を読むというのは、その人になるくらいまで意識が行かないと、

読んだとはいえないのかもしれない。

あの青い本も意識が山岸さんになるくらいまで読まないと、わかることはないんだろうな。


まだわからないので・・・

2012-06-28 14:20:50 | 本を読んで
「せいめいのはなし」の中の141ページ、養老先生の発言の、

「どうして脳が秩序を持ちたがるのか前から不思議に思っていました。

しつこいんだけど、どうして意識は止まった物(ここでは漢字の“物”になっている)しか扱わないんだろうか。

情報のことを問題にし始めた以来いつも思うことです。

意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。

ランダムでも秩序的でもいいんですが、

世界があって意識はそれをとらえる。

そのとらえ方として、止まっているもの(ここではひらがなの“もの”になっている)しか扱えないから、

動的平衡の平衡状態を拾うようになっている。

進化的にいえば、そのほうが合理的です。

平衡状態になったらすぐに意識が拾う。

でも、平衡にしてしまうと時間の問題が消えちゃうんですよね。」

そしてそれに福岡先生は「そうなんです。そこなんです。」と返している。


養老先生もしつこいんだろうけど、私もしつこいな。

いや、ここで何を云っているのか、超知りたいのでどうしてもそうなる。

「意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。」

・・このことは、現象としての世界・起こっている現象のとらえ方として、

意識は、それを止まっているものとして捉えている・・ということだろうか?

・・・・・

リンゴの花が咲き、それが実り、出荷され、

買われ、冷蔵庫に入れられ、酸化が進み、一部腐り、ごみ焼却場に行き・・・

あるいは食べられ、人体の一部になり・・・

というような流れているリンゴ現象のプロセスに在る一時期のリンゴ現象を、

口に入れ、意識が「腐ったリンゴ」とそれを(止まったもの)にしている、

その意識のことを「意識は起こっている現象自体を扱えない」と表現しているんだろうか・・???

起こっている現象の“その時の状態”謂わば通過地点を人は捉え、言葉にする、

それは止まっている・・・

そういうことか・・・!

目の前にある一つのリンゴをリンゴ現象、起こっている現象の1地点、

なんて思う人は日常居ないと思う。

ひとは自分を産んでくれたらしい人を「お母さん」と呼んでいる。

それはそう捉えているということだ。

お母さん自体は生物学的には常に変化し続けているけど、

意識は止まったものしか扱えないので、

いつも同じ「お母さん」という言葉を使うことになる。

いちいち「生まれて54才5ヵ月23日経ってる人であるお母さん」とか、

翌日には「54才5ヵ月24日目のお母さん」なんて意識しない。

「昨日とは別人のお母さん」なんて意識しない・・・

意識しないというより意識できない。そうと扱えない。

そう、養老先生は云っているんだろうか?

こんな話はおかしいか???

続く・・・

鹿さん

2012-06-27 22:04:04 | 日々の暮らし・思い出
今日は午前中は来客。午後は畑。

又、畑に鹿が入ったよう。入れないようにネットを高く張ってあるんだけど、

どこか抜け道があるんだと思う。

一週間くらい前から被害あり。

ここから入るのか・・と見当をつけた所に新たにネットを張ったり、

してたのだけど、ちっとも効果がない。

今日、ここか!?と思う箇所がみつかって、ネットをきちんと止めた。

その畑は天井部分は開けてあるので、猿は入って来られる。

入って来てもいいように、キュウリやトマトはそこには作らず、

ゴーヤとか花や夏みかんや梅が植わっている。

アジサイやバラの花や蕾を鹿は食べてた。柿の新しい葉っぱも食べてる。

ゴーヤは鹿も猿も食べない。人間だけ食べるみたいだ。

今晩、鹿が入れないかどうか、明日になったらわかる。

ここらへんも鹿が増えているようだ。

亡くなった義母が畑仕事をしていた頃は鹿なんか来なかったという。

今は鹿、猿、イノシシ、モグラ、野鼠、動物園みたいだ。

猿や鹿やイノシシは畑に来るように“なった”

山を崩してバイパスを作ったり、トンネルを作ったり・・・で、

彼らはそれならそれで・・とそういう状態と折り合いを付けて、

畑に下りて来るようになったのか、と思う。

ひとがやることを全部受け入れて、それならそれでと行動するんだろう。


「スーッ ガアァァァァァー!」

2012-06-27 21:42:47 | テレビを見て
今日のNHK「ためして合点」面白かった。

ゴルフで玉を飛ばす時に無言でやるより、

「スーッ ガアァァァァー!」と叫ぶと、叫ばない時より飛距離が伸びるという。

テニスのシャラポア選手やハンマー投げの室伏選手は打つ時や投げる時に叫ぶ。

あれはその効果を身体で知っている・・らしい。

聴覚とからだの動きは関係がある・・

跳び箱を飛べない小学生が4人全員跳べるようになった。

跳べない時は、踏切がドン、その後、忘れたけど、トン、パッ、トンというリズム。

タンタンタンタン、、ドン、トン、パッ、トン。これで跳べない。

それが、跳べた時は、

助走がタンタンタンタン・・。踏み切りの時のリズムが「ドン」じゃなくて「トッ」

その後の手を突いて、跳び、着地する動きは「ヒュッ」それでおしまい。

タンタンタンタン、、トッ、ヒュッ。それで跳べる。

目からの情報は大脳に行くけど、耳からの情報は直接小脳に行くらしい。

小脳というのは、動きを(自動化)する場だという。

なので、耳から入った掛け声、リズムは直接身体の動きに影響するという。


ゴルフで玉を無言で打つと、

あの人より勝ちたいとか、失敗したら恥ずかしいとか、遠くへ飛ばしたいとか、

邪念くんが登場しやすいそう。

それを「ス-ッガァァァァー!」と無心で叫ぶと、

その邪念くんが登場できない。なるほど。

昨日のブログで書いたことと一緒だと思った。

「意識は一瞬という時間に二つのことは浮かばない」

これ。

グッチ裕三が声を上げてゴルフボールを打った一回目の飛距離は縮んだ。

二回目は伸びた。

後で言ってたけど、声を上げたけど、邪念があった、と言っていた。

大きい声で叫ぼう!と本当になっていると、それに関心が行って、

邪念の方に意識が行かないのかと思った。

西村知美が「何も考えないでやるのがいいんですね」とか言ってた。

こういう研究がいろいろとされているんだなぁと思った。

テレビは面白い。




増税 縮む暮らし ②

2012-06-27 21:00:10 | 新聞を読んで
暮らしが縮んでもいいじゃないか・・・

消費が減ってもいいじゃないか・・・

そんなこといったって・・・

物を生産してる組織は暮らしが縮んだり、消費が減ると困るんだろうな。

金の世の中なので、そうなると経済界が困るようになっている。

そこで働いている人や家族がおまんま食い上げになったらどうするんだっ!えっ!?

困りはてる・・・・スピノザじゃないけど、絶望は幸福の入り口ともいえる。

こういう時代に生まれ合わせた私たち人類は、

これからどうなっていくんだろう。

なかなか見られないドラマのようだ。

みんなで共同作業だ。共同ドラマ作り。

「増税 縮む暮らし」

2012-06-27 14:07:02 | 新聞を読んで
増税すると実際の家計は苦しくなるので、

民はその案に反対が多いということなんだろうか。

公約で増税しないと謳ったこともあるしで。


「縮む暮らし」同じく3面に「消費も落ち込む恐れ」という見出しもあった。

その見出しの言葉使いを選んだ事や、記事の全体的な印象で、

暮らしが縮むこと=良くないこと

消費が落ち込むこと=良くないこと

そう捉えているのかと思う。

経済的に云ったらそんなこと当たり前だと言われそうか。けど、

暮らしが縮んでもいいじゃないか・・・

消費が減ってもいいじゃないか・・・