ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

仮定の話し

2012-11-30 14:06:21 | ひとの幸福
量子を意識と仮定すると、人間だけでなく、

他の動物、植物、鉱物全部の物質も分子の固まりなのだから、

そういった存在も『意識』と言ったらいいか、なんというのかわからないけど、

意志のようなものがあるということになる。

馬鹿げたことを言うなと一喝されてお仕舞いかもしれないけど、

考えるのは勝手で自由なものだから、考えさせてね。

人間の受精卵もそうだけど、植物の種もそれにはそれが育つプロセスが全て仕組まれてある。

(それは人間が創れるものではない。自然の産物である。

大腸菌一つ、バクテリア一つ人間は創れない。)

種にはそういう意志が確かに在るといえないだろうか。

農産物、植物は可愛がる人にはそれに応えるかのようだという。

罵声を浴びた鉢植えの植物が枯れ、愛の言葉を掛けられたものは活き活きしている、という話もある。

単なる偶然なんだろうか。そうだとは言い切ることはできないんじゃないかな。

なにか意志のようなものを感じてしまう。

植物に脳はないけれど、細胞はある。分子、原子はある。

熱帯には熱帯に相応しい植物、動物が栄え、寒冷地には寒冷地に相応しいものが栄える。

当たり前かもしれないけど、それにも意志を感じる。

全体の意志みたいな。

目には見えないモノでも在るかもしれないものはあるかもしれない。

こう考えるといろいろと考えが進む。


・・ではなかろうか・・

2012-11-29 15:54:20 | 言葉
或ることを同時間に(時間的)、観測することと、観測しないこと(空間的出来事)は出来ないので、

細かくいえば実験は不可能だ。

あくまで、「そうではないか」止まりかと思う。

そしてまた、観測しない、をやってみるという実験は出来ない。

何故なら、観測しない、ということは「無」ではないから。

「観測しない」という意識が「在る」ので、

それがある限り、それは対象に影響を与えてしまうということになるはず。

昨日書いた文章からだけど、コレを書いて浮かんだ・・


ひとの行為や物を「ソレはこういうこと・モノ」と表現することはあるし、

そういうような一つの解釈を選択しないことには、人間は一歩も行動することは出来ないのだけど、

(そのものを食べられるものと無意識的にでも解釈しているから、食べるという行動に移れるので)

実際の事実でいうと、

特にひとの行為・行動を「ソレはこういうことである」と観測した場合と、

そのように観測しない場合とはその後の成り行きを比較検討することができない。

同時に観測することは出来ないから。そして、

観測・選択しなかった意識は現象化しないから、

想像の世界でしか言えない。

こう考えたんだけど、違っているかな?

山岸さんがどこまで行っても「こうだ」と言い切れないものだ、と云ったのは、

実に科学的に立証されていることなのかと思ったんだけど。

こんなふうに頭に浮かぶことをここに綴っているけれど、

この文に限らず間違えている事もあるかと思う。

変だな、こうじゃないかな、というような考えがあったら、

是非是非コメントでもなんでも下さい。

文字の連なり

2012-11-29 11:35:57 | 本を読んで
何か書くとわかってない自分がわかる。

昨日書いたのも後で消したところがある。

湯川博士の「目に見えないもの」という本は宝の箱みたい。

物理学的な表現もわかればどんなにいいだろうと思う。

わたしの頭ではわからないことばかり。

なんせ高校の物理の成績は赤点スレスレだった。

私に理解できる言葉だけ、なんとか読めるけど、

文字は読めても、その思いは読めないものも多い。

それでも、何度か読んでいると、こんな文章が在ったのかと、それがみつかることがある。

その文章、その文字の連なりは在ったけど、私の意識がそれを発見できてなかった。

私の目がその文字を追っただけのものもたくさんあるだろう。

そういう意味で私にとってまだまだ宝は眠っていると思う。

「成長に応じて差し上げます」という山岸さんの言葉があったけど、

本当にそうだなぁと思う。


非因果的・・ダイエット結果

2012-11-28 15:07:55 | テレビを見て
昨夜テレビつけたらナンタラいう番組をやってて、見た。

骨盤ダイエットなるものをすると痩せるという本が百何万部とか売れているそうで、

その著者と高須クリニックという病院の院長先生が対決!というもの。

都合で途中で消してしまったので、その番組がどう終えたのかはわからないんだけど。

タレントの女の子が自分はそれで痩せた、

夫も友人もそれをやって痩せた、と力説。

骨盤はそんなに動かない、出産の時に何ミリ?とか動くくらい・・と高須ドクターが言うと、

でも、痩せたんだと言い、そのタレントはケチつけられたみたいで腹が立つと言っていた。

骨盤ダイエットにしろ、朝食バナナダイエットにしろ、

ロングブレスダイエットにしろ、これこれで痩せた、と証明できるかというと、

それは無理なんだろう。

なんせそれで痩せた、と証明できるということは、

それをしないでいたら痩せなかったということが証明されなくてはならない。

全く同時期にその二つは実験できないので比べるということは不可能だ。

それ以外の全ての状態が全く同じでないと証明できる基盤がない。

また、違う日と比べようとしても、

それをしていた時間にそれをしない場合は必ず別の何かをしているはずだ、人間は。

いや、その時間は寝ていただけだ、何もしていないと言っても、

寝ていた、ということをしていたということは、

それはそれでエネルギーを消費するんだろうし、

エネルギーの消費の仕方も人それぞれだろう。

時間的にも空間的にも、“それで”痩せた、とは言い切れない。

また、反対にそんなことで痩せない、と証明することもできない。

全く同じ理由で。


けれど、「それで痩せた」という認識は在る。

そして、「そんなことで痩せない」という認識も在る。

「これをやると痩せる」という観測によって、

突発的、非因果的な変化が惹起されることはあるだろうし。

生命は動的平衡。

コレというひとつのことが他の無数に無限といっていいくらい影響を与えてしまうし。


対応

2012-11-27 10:18:21 | 量子力学と心
ひとが何かのことを出来なかった時、

周りの人の対応はいろいろだ。

ある人は怒る。ある人は注意する。ある人は無視する。

ある人は慰める。ある人は共感する。

その失敗したと云われる出来事をどう観るかで対応が違ってくるし、

失敗をした人がその対応を受けた時の対応も様々。

怒られて萎縮し、下を向く人。

怒られたと思ったけど、それは当然のことと謝る人。

怒られたと解釈しない人。怒られたとわからなかった人。

怒られたとは思っても、その事柄の内容だけ聴く人。

怒られたと思って恥ずかしくなる人。

怒られて反発する人。

物理学的にいうと、古典論ではその出来事(失敗した事とか、ある種の顔つきでモノを言った事とか)に対しての、

対応は一つに決まっているということかな。

量子力学が出てきて、その対応は一つではないということになった・・・

対応という多くの可能性から、一つを選びとる決め手は、

その出来事をどういう見方で観ているかというのや、人の境地。

怒っていると観るか、そういう顔つきをしたと観るかでも違うし、

怒られたと受け取っても、その後の対応も人や場合によって異なる。

怒られて(怒られたと観たということ)恥ずかしく思う人もあれば、反発する人もある。

恥ずかしく思う人は、その事柄が出来るのは当然と観ているので、

それが出来なかった自分を恥ずかしく思うのだろう。

反発する人は、自分は怒られるような人間じゃないというプライドや、

あんな人に言われるなんてという自分の方が上だというプライドや、

それが出来なかったのはアレコレとひとのせいにしたくなる、

自分は正しかったと思いたいと云うプライドなのかと思う。

こういうのも見方や境地という在りようの一つかと思う。

対応は様々で、多くの可能性の中から無意識のうちに選びとられるのかと思う。

無意識的であっても、その時点で、ある一つが選びとられるのは必然といえる。


「目に見えないもの」のこういう文章・・

・・・相対論は古典論において自明と思われていた絶対時間や絶対空間を否定した。

互いに高速度で運動する二人の観測者の各自が空間と呼んでいたところのものは、

同一のものではなかった。

二人の時計の針の進み方は同じではなかった。」


可能の世界

2012-11-26 16:44:45 | 量子力学と心
「目に見えないもの」の中の最初、「理論物理学の輪郭」の章、

「・・量子力学からの帰結の中で最も注目すべきはしかし、

観測によって一般に対象の状態の突発的、且つ非因果的な変化が

惹起されるということであった。・・・

それは謂わば可能の世界であった。

対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。・・」

この文章が云っていることは、面白い。

人間界の出来事にぴったりどんな場合でも当てはまる。

その時々の対象をどう観ているかで、対象の多くの可能性の中から一つを選び出している。

ひとの一つの行動を例えば「わがまま」と観ると、

それを変えようとする心になる。ひとは自主的、主体的に在りたいものだから、

他者からそれを感じると反発する。

結果、その行動は変わらない。

対象をわがままとして扱うことで、わがままという可能性が引き出される。

昼間の井の頭公園で性器を出した男の行為を「嫌らしいこと」と観ると、

キャーと叫んだり、批判することになる。

他者からそれを感じると、その男は「やった甲斐があった」となる。

結果、その行動は続く。可能性の中からその行為が選びとられる。

それをわからないものとして観ていると、

(なんだろう?・・何をしているのだろう?とただ観察していると、)

他者からそれを感じると、その男は「する甲斐が無い」となる。

結果、その行為は終わる。可能性の中から止めるという行為が選びとられる。

「対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。」

・・という彼の言葉の通りかと思う。

椅子を踏み台として観る、ということなんかもそう。






不確定原理から・・

2012-11-26 15:13:39 | 本を読んで
同じく「目に見えないもの」からの抜粋・・

「・・不確定原理によれば、粒子の占める位置とその速さとを同時に正確に知ることは出来ないのである。

これを別の言葉でいえば、粒子の「位置」や「速さ」とかは

それがいつでも持っているいわゆる「第一性質」ではなく、

むしろその時々の状態、あるいはわれわれの見方に応じて現われてくる性質であると

考えられるのである。」

われわれの見方に応じて現われてくる性質・・

・・人間界もこういったことが日常繰り返され、こういう世界になっていると思う。

見方に応じて現れてくるとは、

そのような観測をすることによって、そこに局所的に現れるということ。

そのような観測が無かったら、それは非局所的に広がっているだけ。

ある物事を観測することによって現象化する。

観測がなかったら現象化しない。

前に書いたけど、観測しないという意志も一つの観測だ。

観測自体が無ということじゃないから。

無視するという観測も何かがそこに現れる。

そんなことはこの世にいっぱいある。


キリスト教で、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい・・

という話があるけど、

右の頬を打たれ、即座に殴り返したとすると、

この人は右の頬を打った人を「悪い人」という見方で観たということだろう。

右の頬を打たれて、左の頬を出した人は、

頬を打った人を「悪い人」という見方では観なかった、ということなんじゃないかと思う。

湯川博士は“その時々の状態、あるいはわれわれの見方”

に応じて現れてくる性質と云っている
その見方に応じて、打った方のその後現われてくる性質が異なってくるはず。

観測者効果とも言える。

打っても打ち返されなかった人はその直後

打ち返した方が悪いとかのどっちがいい悪いの話しではないよ。

観察しているだけのことなんで。

(こういう話にすぐ乗ってこられない人は、

“善悪の観念”をしぶとく持っている場合が多いのはしょうがないとは思う。

余計なことだけど、書きたくなったよ)

また、彼はここで、仏教でいう諸行無常という思想は物理学の見解との共通性を見出すとも云っている。

生命は動的平衡であるというのと諸行無常とは同じことだしね。




湯川博士の言葉から・・

2012-11-26 14:42:06 | 本を読んで
「目に見えないもの」の第一部の扉ページにこれがある。

「物みな底に一つの法ありと 日にけに深く思ひ入りつ々」

ちなみに『日にけに』とは 日に異に と書くようだ。

意味は日々に変わって。転じて、日増しに。

また、その本の中には「真実」という章があり、

その詩のような文章にも、これと同じような感じ(・・と思った)のものがある。

けっこう有名なもので知っている人は知っているだろうけど、その一部・・

「・・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。

達人のみがそれを洞察する。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。

詩人のみがこれを発見する。・・・」


第一部は昭和20年4月の執筆のようで、その扉ページもその時期なのかと思う。

「真実」は昭和16年1月執筆のようだ。

時間的には先の「真実」の方が、簡単な法則に従って動いているのである、と言っているけど、

物みな底に・・・の方はそれから4年ほど経ち、

その思いが日にけに深くなっているということなのかと思った。

第一部扉のはその主語が「物」であって、「真実」の方は「現実」になっているから、

全く別のことを云っているということも考えられるけれど、

自分の中では同じようなニュアンスかと受け取っている。


「物みな底に一つの法ありと 日にけに深く思ひ入りつ々」

この法とは何を云っているのか・・

物はどんなものでも分子の集まりで・・それは電子と原子核で成り立ち・・とかのことではないと思う。

「・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いている・・・」

この法則とは何を云っているのか・・・

彼のほかの文章を読んでも、物と心、物理と心理を繋ぐ路・・といったものや、

世界平和を希求する精神の強さとか、物事に対する深い洞察とか、その哲学的思考とか・・・

彼の人となりを感じてのことだけど、(私が読んで理解できた範囲内での印象に過ぎないのは勿論)

量子力学と人間心理とのかかわりに潜む法則があるのではないか・・と考えていたんじゃないか、

って思ってしまう。

彼は、量子力学は意識力学だと考えていたんじゃないか、と思っている。

もっともっと読み込んで行きたいと思っている。



準備

2012-11-25 13:10:13 | 日々の暮らし・思い出
娘から電話があり、グチ話を聞いた。

明るい自分で聴けた。

最初からただ明るく聴こうと思った。余計なこと言わんとこ。

なんでこんなこと思ったかというと、娘にはすぐにそういうのが出て来る自分だから。

それでいっぱい失敗したから。

携帯電話だと誰からか、わかるようになっているからいい。

固定電話もそういうふうになっているのもあるけど、うちのは違う。

携帯画面見て、あ、娘からだ・・・と、出る前に心の準備をする時間がある。

準備できてるのと出来てないのとでは違う。

他人だと準備することが自動的に出来てることが多いけど、

娘や夫には自動的に余計なこと口走ってしまうことがある。

まだまだ失敗が足りない。


やってくれる

2012-11-25 12:55:38 | 言葉
いろんなことを良くなって、と願うことは当たり前だ。

一度願うだけでいい。それでお終いにすればいい。

後は全体存在がやってくれる。なんだろね、自分で書いちゃったけど、

全体存在。

それに全幅の信頼を寄せていたらいい。

ちょっとうまく行かないことがあっても、全体を信頼し続けることかと思う。

長い目で見る。いい言葉だ。

手も足も出すな。(自分に言ってる)

もしかして「果報は寝て待て」という諺はコレを云ってる???

全ての問題は囚われることから起こる。

釈迦が云っている。

幸福になりたいというのも欲の一つで、

それに囚われることで問題が発生するって。

政治だって経済だってみんな一緒だ。

ひとがしていることだもの。

支え合う・支え合わない

2012-11-25 10:14:03 | ひとの幸福
小さな子供が言葉を使うようになると、

子供自身がナニカを出来るようになるように、そのために周りは何かをする、

という、子供が赤ちゃん時代には当たり前にしてたことを知らないうちに忘れて、

直接子供にあーしろこーしろと言葉で指図するようになるんだなぁと、

この前イブやアダムの居る暮らしを見て確認した感じだった。

自分も子供にそうしていたなぁ。

人は自らの力で育つもの・・という人間観が無いということなんだろうな。

「人」という字の語源は、人は人に支えられるものという解釈と、

人が一人で立っているという解釈があるという。

両方なのだと思う。

自立するお互いが、相互作用で(支え合って)生きるもの。


人が人を信頼できてない現状というのがある。

だって、あんなことしてたんじゃ信頼できないのは当たり前だ、という声がある。

それも当然出て来る思いだとは思う。

“あんなこと”をしてた人はその、“あんなこと”をするように成って来たわけで、

それまでの人生で、そういうふうには人に支えられて来なかったのかもしれない。

支えられたんじゃなくて、

まっすぐ伸びる芽の行く道を邪魔されたことが多かったのかもしれない。


機会均等

2012-11-25 09:02:25 | ひとの幸福
他への干渉が強いという現象はどういうことをもたらすのかはいろいろと書いてきたけど、

その現象は他者にとってどういうことなのか・・・

自発的に発揮される意志を働かせて行動する“機会”を、

その人から奪っている、そのことが一番かもしれない。

特に子供への親の干渉は影響度が大きい。

一昨日だか、書いたけど、日常の暮らしの中ではいろいろなことが起こる。

そういうキッカケを見聞きし、感じ、ナニカの行為を自発的に、

“したくなる”気持ちをもぎ取ってしまう現象なのかと思う。

機会均等が平等ということだけど、

他者への干渉、良かれと思っての口出し、という現象は、

意思ある人間にとって一番大事な機会を奪うこと。

周りにそういう人ばかりの人と、周りにそういう人が少ない人では、

機会が均等に与えられてない、と言える。

人間は太陽の下、皆平等 と云うけど、

運の悪い人、というのもあるのかもしれない。


友人

2012-11-24 15:29:35 | 日々の暮らし・思い出
昔近くに住んで居た人から電話があった。娘同士が友人関係にあって、

そっちの縁からのコンタクト。

今どんなことを思って暮らしているのかしら?という?が彼女から発せられていると知った。

そういう?を持つ人だということがなんだか嬉しい。

今、何しているの?という?も勿論いいけど。

今度近いうちに会おうということになった。

とても楽しみ。

高校時代の友人とも近いうちに会う。コレも楽しみ。

十代の頃の私を知っている人。

40年もの歳月が流れてから年に一度くらい会っている。

まるきり別の時空間でそれぞれの人生を過ごして来たけど、

今のお互いで会っている感じはする。

よく幼馴染はいい、とか云う。幼馴染に会うことがないから、

自分でそういうふうに思ったことはないんだけど、

小学校卒業して初めて会ったなんて場合は、

その人の前に居た自分に今の自分が会うような、そんな気がする。

やっぱり意識はタイムマシンでもある。


風の吹き回し

2012-11-23 15:00:58 | ひとの幸福
どういう風の吹き回しか、こんなことになったよ・・なんて表現がある。

午後、どういう風の吹き回しか、部屋中の雑巾がけをやりたくなって、あちこちがきれいになったよ・・・

と、書いたけど、どういう風だったのか自分でわかった。

午前中も拭き掃除をしていたんだけど、昼ご飯の時間になったので、

洗った雑巾を階段を上がった所に置いておいたら、

夫が何を思ってか、下に降ろしたようで、それを見て、

下の納戸の拭き掃除を始めた。納戸に捨てようと思った物が目に入り、

それを外の物置に持って行き・・・

ナンタラカンタラ・・そこで見た物に又、何か反応し、何かをやりたくなり・・・

頭では午後は歩きに行こうと思ってたんだけど、

モミジの剪定をやりだしたり、なんだり、して・・・今はこうしている・・

何かの行為をしている最中にナニカが目に入り、パッとナニカを思い、

それを始め、それをやっている間に又ナニカが目に入り、

それがキッカケでナニカが頭に浮かぶ。そしてナニカをしたくなる。

自分の意識を振り返ると、こういう繰り返しだった。

ナニカの行為をする時は必ずナニカのキッカケがある。

目からの情報や自分の身体からの情報やら。

その一つ一つは面倒くさいからここに書かないけれど、

そこで自然とナニカを“したくなる”という具合だった。

後でなんでそういうことをしたのかわからないことはあるだろうけど、

必ずナニカのキッカケというものがある。

そういうことをした原因ではない、キッカケ。

意識を精密に観察すると、観えて来る。

キッカケがあって、ナニカを“したくなる”という意志が働き、動きが起こる。

それの連続のようである。

生きているとはこういう活動か。


カタストロフ

2012-11-23 10:50:47 | 言葉
福岡伸一ハカセの「生命と記憶のパラドクス」を読み終えた。

最後の方だったと思うけど、こんな文章があった。

「・・・この星(地球のこと)に満ちている様々な矛盾と無理を知るだろう。

アンバランスを補うために、さらにアンバランスを重ねる。

それはいつか必ずカタストロフを呼ぶ。」

これをどう読むかは読者に任せられている。

カタストロフって、大変災。大変動。悲劇的な結末。破局・・だそう。

どの時点でも、その時点でそれなりの平衡を保とうとする生命、意識だから、

未熟なこの星の人間たちにそういう副作用的働きが起こるのも当然かなと思う。

でも、それを良くないことと観ることはそう観た人にとっては、良くないことになるのかと思う。

当然起こることによいも悪いも無い。