ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

質(たち)

2012-08-31 14:10:23 | 実例体験観察
近所の友人から最近の私のある行動を、信じられない、普通そういうことはしないよと、

呆れたように笑って言われた。

そのついでに夫もアンタにはそういうところがあるよ、と。

振り返ってみると、あるある。

私のそういう行為をある人には責められ、ある人には笑われ、ある人には賞賛された。(たった一人だけど)

そのことについてゆっくり考えたことがなかったので、考えよう。

若い頃、何かの集まりの帰り、数人で繁華街の通りをぶらぶら歩いていて、

皆とちりじりになってしまった時に、私は皆を探そうとせず、

そのままひとりでぶらぶらし、一人でそのまま帰ったことがあった。

この後皆で何かをしようという取り決めがあったわけでもなく、

何時頃には駅に着こうというような話をしていたわけでもなかったし。

後で聞くと皆は私を探したという。


なんでその時そういう行動をとったのか・・・?

意識的にその行動をしたわけじゃない。その時の自分にとっては自然な行為だった。

特に何とも思わず自動的にやった。

でも、行為には必ず前提がある。その行為に至る何かがあるはず。

ちりじりになった時や、何か事が生じた時に、

人は自分がどう行動するか、自分で考えるもんだ、

というような人間観があったんじゃなかったのか・・・?

見えなくなった一緒に歩いていた人たちのことを心配するという発想が私には全然なかった。

なので、無意識のうちに自分も心配されるわけはない、となっていたのだろう。

一緒にいたのが小さな子供だったら、

そんなことはいくら私でもしなかったと思うから。

人は人それぞれで、その場でそれぞれのままにそれぞれの行動をとる、

という当たり前のことがわかってなかった。

今回呆れられたというのは、今もわかってないということだ。

「3.自己弁明」 生きがいを感じて・・

2012-08-31 13:27:21 | 本を読んで
「私は私としての理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、

その理想実現に生きがいを感じて、明け暮れる日夜は楽しみの連続です。

家が傾こうが、債鬼に迫られようが、病気にとり付かれても、

将来誤った観方をする人達から、白州に引き出されようとも、

先ずこのよろこびは消えないで、終生続く事でしょう。・・・」

一部の人には有名な文章だけど、

青い本のまえことばにある。

彼の心境、境地を綴ったものと思う。

明け暮れる日夜は楽しみの連続。

何故なら理想実現に生きがいを感じているから。

日々、その時その時理想を描いて、その理想が実現される具現方式を知っているから、

その通りすると、理想は実現していくのではないかと

・・そしてやってみて・・また考え、策を練り・・・

それに生きがいを感じている。

債鬼に迫られたときも、きっとその時の理想を描いて、

その理想が実現するような具体的行為を実践しようとするのだろう。

病気にとりかれたり、白州に引き出されることで、

消えるような類のよろこびじゃないんだろう。

「~イズム社会の実態」

2012-08-31 09:21:59 | 本を読んで
~イズムというのは例えば、マルキシズムなら、

カール・マルクスという人間の思想体系を表わしていると云っていいと思う。

(正確にはマルクス・エンゲルスの思想体系らしいけど)

何度も書いているけど、彼が表現として使っている“社会”とは

心の状態を指しているものも多く、

このタイトルの場合もそう解釈した方がよさそうに思う。

実態という言葉の意味は実際のありさま。実情。

このタイトル、「~イズム社会の実態」とは、

「彼の思想体系による心の状態はこうなっています」ということかと思う。

そしてサブタイトルが・・実践の書とある。

本誌の中には、

「私の思想について・・・それは・・・今全部を発表する時機でもなく、

時間的にも不可能な事で、没後に気付いた人達によって、

二百年後に完成される予想の下に、

余命のある間に書き綴っているのですが、・・・・」

というものがある。

これは1954年11月22日に書かれたものだ。

「あれから40年」は綾小路きみまろの決まり文句だけど、

これは、58年近くの年月が経っている。

200年も経たないうちに完成されるといいなぁと思う。




真の自由

2012-08-30 18:37:45 | 本を読んで
「行ける所へ、行きたい時に行く自由、

寝たい時に寝られる自由、ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

そうした自由の社会を目指しているのです。」

・・・行ける所へ、行きたい時に行く自由・・とは?

行ける所とは、行くことが出来ると本人が思っている(そうなっている)所のことかな。

例えば皇居の天皇陛下の寝る部屋。 

物理的には不可能な場所じゃない。

でも、私自身が行ける所だと私の心ではなってない。

そこへ行きたくないわけでもないし、覗いてみたい興味はある。

でも今という時、そこに行きたいと思わないから不自由感もない。

もし、そこに今、行く権利があるなんていう気持ちになったら、不自由に感じるだろう。


寝たい時に寝られる自由・・・とは?

眠気が襲って来てない時でも、寝ようと(身を横たえようと)思えば、

寝られる(身を横たえられる)な。

眠くて眠くてたまらなくても、でもここではどうしても寝ないと決めてたら、

眠いのに寝られなかった、とは言わないだろうし。

不自由に思わないはずだ。

眠くなくても布団に身を横たえられるし、

眠くても起きていられる自由、寝ない自由があると云っていいかもしれない。


ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

・・・ここで、「ある人は食べ、ある人は食べられない不都合“や”」とあるけど、

この“や”は上の行や下の行の・・行く自由、寝られる自由、妨げられない自由、

そういう自由“や”、この不都合“や”と云っている。

あれやこれやの“や”である。

ある人は食べ、ある人は食べられない、というのはよくあることで、

好き嫌いとか腹の不調という不都合は自由であるということを云っているんだろう。


食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由・・とは、

これはあなたの分なんだから・・というような悪平等のことなのか、

食べたくないのに、栄養があるから食べるべきとか、

食べたくないのに、お金を払ったんだから、食べる権利があるとかの、

権利や義務で強制されることなしに、という意味だろうか・・・

これやあれやの自由、不都合が真の自由と云えましょうと云っているのだろうか・・・

「そうした自由の社会を目指しているのです」・・・

そうした自由の境地を目指しているのです。

誰が?

彼は目指したんだと思う。私も。


自由のこころ 

2012-08-30 13:36:12 | 本を読んで
「行ける所へ、行きたい時に行く自由、

寝たい時に寝られる自由、ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

そうした“自由の社会”を目指しているのです。」

・・・ここで彼は『自由な』社会と云ってない。

『自由の』社会と云っている。「な」 と 「の」 でどう違うか?

普通、自由“な”社会を目指すとか表現するものだ。

自由“の”社会とは言わない方が自然に感じる。

自由“な”社会というと、自由以外まだ他にも形容できることがあるということを示している。

その社会は自由な社会であり、且つまた不自由な社会でもある、

というような表現を許すものだ。

ニューヨークの自由“の”女神、これも自由“な”女神ではない。

自由“な”女神だと、その女神は自由でもあるけど、

美しくもあるというような意味合いがあってもおかしくない。

あの女神は乱暴者だけど自由な女神でもあるという表現を許すもの。

けど、自由“の”女神というと、

その女神は自由しか表わしていないという意味になる。

自由“の”社会というと、自由の女神というのと同じで、

その社会は自由を表わしているということだ。

・・と考えると、

自由とはそもそもかたちではないし、

一つの認識を表す言葉だ。

自由の社会とは自由状態の心と云っていることになる。




差別待遇のないこころ

2012-08-30 13:03:37 | 本を読んで
「・・・理想社会には、左様な不愉快の人を一人もなくし、

世界中から劣等感や優越感、差別待遇を無くします。」

不愉快の人をなくす・・・こういう表現は実現したい社会の説明に普通はないと思う。

民主的社会、民主主義社会、資本主義社会、社会主義社会、

共産主義社会、共和制社会、王制社会・・・なんていう言葉からは、

愉快だの不愉快だのという感情の話しは出てこない。


ここで彼が「社会」と云っているのは・・・・!?

平和な社会というような言葉はあるけど、

今の日本は平和かといえば、戦争はしてないから平和な社会と言われるのかもしれないけど、

政治を見ても経済を見ても、学校のいじめ事件や幼児虐待事件があるのを見ても、

平和という感じじゃない、幸福な社会とも言い難い。

まぁどんなことであっても、人間の意識が元で、考えが行動や物になるもの。

これぞ理想の姿、理想的状態、これぞ幸福、とか言うけど、

そう言う人がそれをその時、理想の姿云々と“捉えている”ということである。

その姿がその時その人には理想・・と映っているということ。

その人だけでなく、万人がそれを理想・幸福と捉えられる状態の社会を理想社会、幸福社会というのだろうと思う。

又、社会というものは流動的なものでいっときもじっとはしていない。

人間は生きて動いているからね~


飢えに苦しむ事など無い社会を望むけど、

食べたくもないのにあるからと強制されるのは幸福じゃない。不愉快だ。

赤ちゃんのウンコで汚れたオムツや下着を洗うのは幸福か不幸か・・・

幸福と感じることもあれば、不幸と感じることもあるかもしれない。

それは全ての人に不幸なことと言い切れない。

紙オムツがあることは有り難いことではあるけれど、

そういう発明やら改良やら増産は万人が幸福になるかたちとは言い切れないと思う。

それを洗うこと位しか自分には出来ないから、

是非させてもらいたいというおばあさんだって、広い世の中にはいるかもしれない。

いない、とは言い切れない。

・・・他のページでも思うことだけど、こんなふうに考えてくると、

彼が云う社会は心の状態を指している場合が多いように思う。

そして、心の状態という目に見えないものが現象化されてあるのが社会。

それが順序だろうから。


「条理 と 相対者」

2012-08-30 08:53:11 | ひとの幸福
「条理と相対者を切り離して・・」・・こんな言葉が彼にある。

「条理」は道理とか、すじみち。もう一つ、広辞苑におおっと思う言葉があった。

自然を支配する、対立物統一の法則性。(三浦梅園が主唱)。


相対者でしか私たちは在ることが出来ない。

富士山に登って下界を見たら、自分が高い所に居ると思うだろうし、

エベレストに登ったことがある人は、富士山に登っても高いと思わないかもしれない。

物理的世界に住むのが人間なので「相対者」という表現を彼はしたのかもしれない。

条理(自然を支配する対立物統一の法則性)をみつけた彼は、

あの文章の中で道理とかすじみちという言葉より、

「条理」でなければならなかったんだろうと思う。

神は絶対者・・いや、神は人じゃないから、絶対なものと認識していいと思うけど、

人間は神じゃないから、相対の世界に居ることを利用して、

到着はできないけど、絶対への道を歩いているのかと思う。

絶対への道を歩く相対者は失敗しないと前に進めない。

成功というと語弊があるかもしれないけど、成功と失敗は同じコインの裏と表だ。

相対者は失敗を恐れていては前に進めない。

失敗すること、間違うことは喜びだ。

笑顔 ②

2012-08-29 21:50:17 | 日々の暮らし・思い出
相手がよく知っている人だから笑顔になる・・・ずっとそうだった。

勿論それは自然とそうなれたんだけど。

ヨーロッパを旅行してた時、エレベーターなんかでそこに居た人とたまたま視線が合うと、

必ずにっこりされた。

日本のエレベーターで視線が合ってもにっこりされたこともないし、

したこともなかったと思う。

何故西洋人は視線が合った時ににっこりするか、

ということが書かれた本を読んだことがあるけど、

自分はあなたの敵じゃないですよという表明だという。

ヨーロッパは日本と違って国と国が陸続きなので、

そういうことをしないと敵と思われるとかなんとか・・・

ふーん、なるほど思った。

日本は仏頂面をしていても敵とは思われないというのは、いいといえばいいのかな・・・

いや、日本はそういう場合、

敵だ味方だなんていう発想すら無いんじゃないかな・・・

今はにっこりされると嬉しいなと思う。

初めて会う人やよく知らない人と顔をあわせた時、

にっこりするのは、あなたのことは何にも知らないけど(あなたがどう在っても)、

あなたを受け入れます・・ということなのかと思った。

それは相手の人間性を引き出す現象なのかな・・

少なくとも獣性は引き出されない。

何か罪を犯して逃げ回っている人に、にっこり笑って挨拶したり、

その調子で付き合ったら、

きっとその人は再びよくないことはしない、しにくいんじゃないかな・・・

凶悪犯がつかまらないのは、“凶悪な事をした”と周りの人が“知らないで”付き合っているから、

きっと普通に付き合っているから、

“凶悪な事をした”人は再びよくないことをしないでいる・・のかもしれない。

獣性が引き出されないでいるのかもしれない。

だから周りと溶け込んで暮らしているのかもしれない。

いや、捕まりたくないからよくないことは“しないように”、

という気が働いているのかもしれないけど・・・

でも、それは、例えば、ムッとして手を挙げそうになったときに、

その行為を“抑える”役目を果たしているだけであって、

周りが「悪いことをしたからまた何かするかも」という視線などなく、

笑顔で接したり、普通に付き合うことで、

自然と、そのような行為をしたく“ならない”というのとは違うだろう。

笑顔

2012-08-29 21:02:51 | 日々の暮らし・思い出
笑顔なんて言葉をここで書いたことがあるだろうか?!

多分無い。

私は若い頃からあまり知らない人に会った時、いつもぶすーっとしていた。

そうしていた自覚がまだなかった頃、

その後に親しくなった人に「ホント、いつも無愛想というか、ぶすーっとしてた」と言われたことがある。

聞いて、ホントだ!と気がついた。

ちょっとだけ知っている人にどう対応していいのかわからなくて、

自意識過剰というような感じでいつもどぎまぎヘドモドしていた。

きれいな人がぶすっとしてるならまだ可愛いけど、

ブスがぶすーっとしてたんだから、本当に可愛いげがなかったろうなぁと思う。

この地に住む事になったとき、いくらか大人になって、

道で会う人とは「必ず挨拶しよう!」と決めた。

そして必ず挨拶した。

本当に決めたとおりだった。ちっともにっこりと挨拶してなかった。

「挨拶しよう」と決めたんで、「にっこり挨拶しよう」と決めてなかったから。

そういう自分だったんだよ~

つい最近そのことに気がついた!

相互作用だなんていろいろ書いて、自分ではそんなことも出来てなかった。

近所のK子さんはいつも眉間にしわを寄せて歩いている。

その人に笑っておはようございますってこの前言ったら、

凄くいい笑顔がにゅっと現われた。嬉しかった。

人のこと、いつも眉間にしわ寄せてる、なんて言って、

自分の顔はどうだったんだろう!?




一人で頑張るより

2012-08-29 09:43:58 | ひとの幸福
あー、あれをするといいんだけどなぁ~

やる気が起きない・・・でも誰かと一緒にやるとやる気が出て来る。

本当にひとの心は面白い。

だから学校に行くのが楽しかったんだろうか、子どもの頃。

夏休みも楽しみだったけど、新学期が始まるのも嬉しくてたまらなかった。

その頃は宿題もそれほどなくていい時代だったのかもしれない。

この前小学6年生が来てて、宿題をかなり時間かけてやっていた。

そんなに時間かかるのかと思って見せてもらったけど、半端な量じゃなかった。

こんなに宿題出すなんて呪うべき先生だね~なんてつい嘴ってしまった。

・・・脱線。

人間というものが、共に存在する=相互関連的に在る=一体で動いている=

人間の身体=小宇宙=宇宙=生命・・と、まぁ書いてしまった。

そう在ることに理解が深まる、そのことで世界は変わる。

そういう事実実際であることを知らないことで、

世界は混迷を続けているのかもしれない。

知ることが何より先なのかと思う。

事実実際に山奥に金塊が在っても、それを知らなかったら、何も変わらないのと同じで。

(しつこい引用だね~)

知るだけで、現状そのままで変わる。


見る 観る

2012-08-29 08:50:51 | ひとの幸福
人の運動をぼーっと関心もなく見てるのと、

関心を持って見てるのとでは脳の動きも違うはずと思うんだけど・・・

・・と、さっき書いた。

見るということについては今までもいろいろと考え、書いてきた。

庭の花に視線を宛てた、という現象は同じでも、

それをどう見てるか・・土を耕し、種を蒔き、成長を楽しんで来た人と、

通りがかりにそれに視線を宛てる人とは違って当たり前だし、

一瞬一瞬その人その人で異なるもんだ。

人だって「好きな人」と観ていてたのが、

一瞬で「嫌いな人」と観るようになるという現象はあるものね~

この観るということと量子力学とは切っても切り離せない関連があると思うよ。

物である脳がすべてを決定するかのような決定論は、

意識という存在をどう考えているのかなと思うけど、

物理学界で量子力学を検討する人が「意識」をどう観ているのか、

意識の状態がどの程度なのかが、

そのまま物理学界に現われているということでしかないのは当然の事だから、

あー、そういう状態なんだと了解する。

人が心理学的方面で成長発達することが物理学的方面に表現されるのは当たり前のことだからね。

脳は年齢が行っても変化するものだとかの話は、

最近テレビでも云ってるし、ジワジワと変化しているのだと思うけど、

脳の研究はあくまで物理的なもので、意識は物ではないから、

脳と心の繋がりはどう“なっている”のかに目が行かないと進まないのかなとも思う。

実際の現状の物理学界や脳科学界のことを全く知らないから、

こんなこと言ってるんだけどね。実際はもっともっと進んでるのかもしれない。

そうだといいんだけど。楽しみ。

「元気をもらった」

2012-08-29 08:03:40 | ひとの幸福
何年か前位からか、「元気をもらった」という表現を聞くことがある。

オリンピックの選手やら、何かを生き生きとやっている人を見聞きした人が

そういうことを言う。

それを初めて聞いた時、なんか違和感を持った。

元気はもらうもんじゃなくて、湧き上がるもんちゃうか?!って。

夫はいいんじゃないか、その言葉遣いでも・・と鷹揚な返事だった。

他者の生き生きとした姿を見ることで、

見た人の中に同じものが引き出される現象なのかと思ったよ。

誰かが身体の運動をしているのを見るだけで、見る人の脳では、

運動してる人の脳と同じ動きが起こっているというのは聞いたことがある。

脳にあるミラーニューロンという神経伝達物質の働きがオンになる現象なのかもしれない。

そういう神経物質が脳に在って、その働きを、

オンにするかオフにするかは意識が先導して行なっているんじゃないだろうか・・・

まぁ、脳のことなど全くのど素人の勝手な解釈ではありますが。

でも、人の運動をぼーっと関心もなく見てるのと、

関心を持って見てるのとでは脳の動きも違うはずと思うんだけど・・・


「元気をもらった」と思う現象は生命の相互関連現象の一つ。

動的平衡状態の姿なのかと思う。

“意識”がそういう状態になるのは、

まさしく“意識”が生命の在り方そのものだからなんだろうと思う。









ひとと共にだったら出来ること ★

2012-08-28 20:00:23 | ひとの幸福
リベットの実験で言われる自由意志は、

沸き起こった衝動を行為するか、しないかの選択を、

一人で考えて意識的に選択しているもの。

実験は好きな時に手首を曲げたり伸ばしたりするということだったらしいけど。

さっき「私意 と 公意 ②」で書いた例の、

そういうことをしないという意志を自分で選択した人は、

他者である私の行為というキッカケがあった。

謂わば、そういうことはしないという選択は一人で選んだことだけれども、

共にやった、というか、相互作用でというか、そういうものだ。

たった一人で意志的に行為するというのは実際の生活でも、

事によっては難しい。やったらいいと思うような事でも、

一人だとなかなか手をつけられないけど、何人かでやると、

スムースに進んだりする。共にやることの効果はかなりなものなんじゃないか。

同じことでも一人だと頑張る世界だけど、

共に行なうと楽しいというのは本当に面白い現象だ。

当たり前なのかもしれないけれど。

私たちはどうしたって「共に在るもの」だから。

湧き起こる衝動(非人間的な)をしないという自由意志は“共に”で成功する。

元々持っている(持ち味である)人間性が引き出されるような、キッカケによって。

人は自発的に無理なく自然な行為へと移れる。


私意を尊重することで、獣的ではない人間的(本来の)な行いに自然に移行する。

獣的ではない、人間的な意志のことを、

「公意」と名づけたのかなぁと思ったんだけど・・・






自由意志のこと

2012-08-28 19:47:45 | ひとの幸福
人間に自由意志があるか、ないか、なんてことが

世界のその筋の学会では問題になっているというようなことを読んだことがある。

「わたしの遺伝子が、わたしの神経伝達物質が何かの行動をさせた」というような

考え方が大手を振って歩いているらしい。

「行動の独立した原因となる意志の力なんてものは神話なんですよ」

・・ということをアメリカの臨床心理学教授は言ったそう。・・・

カントも自由意志と取り組みたいと思い、取り組んだけど、

論理的に証明出来なかったという。

カントは私たちの五感が知っている世界が物理的決定論に支配されているとしても・・・

世界には自由な倫理的選択の余地が(隠された余地ではあるが)なければならない、

と考え、この考え方を否定する証拠がないという事実、

それがそう考え続ける根拠になると思った・・という。

実際カントは、証明できないから自由意志がないと考えることをしなかった。・・・・


自由意志を支持する科学的根拠が発見できなかったので、

20世紀になって科学研究の対象として自由意志の地位がだんだんと低下したそうだ。

1931年アインシュタインは「自分が自由意志で行動しているというのは人間の幻想」

と宣言したらしい。

・・・神経科学と遺伝子で新しい発見が相次いだ10年に、

人間はロボットだ、遺伝子や神経伝達物質の奴隷だ、

自由意志などといったって子供のぜんまい仕掛けの玩具程度に

過ぎないというイメージが生まれたようだけど、

私たち普通の人は普通に自由意志?持ってるよと思っていると思うけどね~

でも、ぶん殴られたら、殴り返さずにはいられない・・というようなことは、

ぜんまい仕掛けの玩具と言われてもしょうがないことなんだろうけど。


ベンジャミン・リベットは意志が生まれる瞬間をつきとめた実験に成功した。

リベットは長い間、自分の実験結果を自由意志と結び付けようとしなかったそうだけど、

それが晩年には変わってきたようだ。

もしかして「自由意志は存在する」と明らかに論評するのがはばかられたのかもしれない。

意識だ意志だなんていうと、あいつはおかしい、オカルトだ・・なんていう風評がささやかれ、

学者としての地位も失うような風が物理学者たちに吹いている、

というようなことは他の本で読んだことがある。

物理学という科学の世界でもそんな風が吹くのかと思うけど、わかる気はする。

専門が物理というだけで、心の世界では他の分野の人と同じで、

自分で言うようにロボットの人間が多いのかもしれない。


晩年リベットは、

自由意志が脳から湧き起こる考えに対し、

門番の役割を果たしているのではないかと考えたようだ。

・・ちょっと前書きが長くなったけど・・・

続きます・・


私意 と 公意 ② ☆

2012-08-28 10:00:35 | 実例体験観察
その人は自分はそうしたいと思ったけど、

私からの働きかけがキッカケで自分の意志でそのことをしない、と決めたのかと思う。

他からの強制もなく、無理強いもさせられず、自らそうした。

これも「公意」なのかと思う。

その人の中にある人間性が引き出されたのかとも思う。

自分の意志で行動したいという作用がスムースに発揮された現象かと思う。

松本サリン事件で、数多くの不当な扱いを受けた河野義行さんの言葉にあったけど、

その頃、家には無言電話や嫌がらせがわんさと来たらしい。

無言電話の時、抗議するのではなく、

「あなたから何のお話も無いようですので、こちらから切らせていただきます」という対応をしたそうだ。

その前に高一の息子から電話番号を変えようと言われた時、

河野さんは「私たちは全て赦そう。そういう立場でやって行こう」

と息子と話したという。

18年も前の話だ。本当に頭が下がる。