ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

義父の腎臓の具合

2014-09-28 13:38:05 | 日々の暮らし・思い出
とうとう血液検査の日が来た。金曜日のこと。

よかった、よかった!

腎臓の状態を表わす数値のほとんどが少しだけどよくなっていた。

ほっとした。

本当に嬉しかった。

身体の老廃物をキャッチして、大便と一緒に体外に出す、

というほぼ活性炭で出来ている薬と、

タンパクと塩分の制限食を続けたことがいい結果をもたらしたのかと思った。

前回、制限食に慣れるため、入院を強く勧めたドクターも

「よかった」と言ってくれた。

「何もせず、このままの状態が続けば、三か月か半年のうちに

人工透析をしなくちゃならなくなりますよ」とその時言われ、

「透析をしなかったらどうなりますか」と尋ねたら、

かなり強い語調で、「死にますよ」とも言われたのだった。

義父にはそういうことは話してないけど、

その言葉は私にはショックだった。

先生の脅し?は確かに効果があったと思う。


透析なんかさせたくないと強く思った。

そんなことをしたら、義父の人生の最後の季節を台無しにしてしまう。

若い人ならともかく、98才の老人に透析なんて酷すぎるからね。



透析をしてもしなくても何れ誰でも死ぬ。

けれど、98才で今も見たとこ元気で生きている義父には

彼が望んでいるように、この家で、

老衰で亡くなってほしい。

腎不全で苦しみながら死んでほしくない。

義父の好きなお寿司や刺身もちゃんと計算すれば、

量は少ないけれど、安心して食べてもらえる。

他に糖尿やら高血圧やらの症状がないから、

糖分も油も結構摂ってもいいからその点はやりやすい。

他の病気を持っている人の腎臓治療食というのは大変だろうと思う。

さっき、馬鈴薯デンプンでわらびもち風を作った。

冷蔵庫で結構持つから何食分かをまとめて作った。

ちゃんと材料全部計って、出来上がりの重さも計って、

一回分の栄養計算もした。

こういうことも面白いよ。

引き続き無理せず、楽しく食事を用意していこう。






毎朝、起こそう起こそうと・・・

2014-09-23 16:26:00 | 日々の暮らし・思い出
娘から電話があって子育てのことやなんか20分くらい話した。

話しの中でその娘が小学2年生の頃の出来事が頭に浮かんだ。

ここにその出来事のことを以前に書いたような気もするけど、

書いてないような気もする。

まぁ、二度書いてもその頃の自分とは又、違う自分だろうから、書いてみる。


平日の朝、小学生だった二人の娘に起きるように声をかけた。

下の2年生の方は眼が覚めているらしいのになかなか起きようとしなかった。

私は学校に遅れることを心配して声を何度も掛けた。

・・と、その時、私は娘を『学校に行かせよう、行かせようとしている』、

自分だったことに気づいて、声をかけるのを止めた。

こういうことをするのは効果がない、と気づいた。

小2は再び眠り込んでしまったようで、気が付いたら学校の始業時刻はとっくに過ぎていた。

「なんで起こしてくれなかったの!」と私を責め、

遅刻することが恥ずかしいと思ったのだろう、

「お母さん、今日は休みますと学校に電話して」と頼んで来た。


「私が声をかけたとき、目が覚めたのに、

起きなかったのは○△子だよ。だから、

お母さんは学校に電話しない。

寝坊したと自分で先生に言いなさい。」

というようなことを話した。

小2は観念したらしく、学校に行った。

授業の始まっている教室の中、多くの級友の前で

そういうことを言うのは当時優等生だった小2にはかなり勇気が要ったに違いない。

けれど、学校から帰って来た時は、

朝と違って凄く生き生きとしていたことをよく憶えている。

自分で、寝坊しました、とちゃんと言えたことが、なにか彼女にとってよかったのだろうと、

当時思ったことを憶えている。

翌日から一回声をかけたら、ぱっと起きるようになった。

ずっとそれは続いたよ。

娘と私、いい経験になった、と思った。


それまでの月日、毎朝、何度も何度も声かけて、最後は暴力的に布団をはぐということもした。

そうした結果、小2は起きなくちゃいけないとわかっていながら、

いつか本当に遅刻しそうになったら、

お母さんは起こしてくれる、と思うように“なった”。

起こされる・・のは決していい気分ではないのに、

それに甘んじるようになってしまった。


そうなるようにそうなるように、私がしたのだった。


小2を自分の意志で物事を行うことが出来る人間だと見なさずに、

ロボットを動かそうとして、スイッチを入れるみたいに、

『起こそう、起こそう、学校に行かせよう、行かせよう』としていた。

無意識的なその思いが小2をそういう姿にした。


小2をその時間、意志のないロボットのように扱ったから、

小2はその時間、ちゃんとロボット状態になった。


教育学のピグマリオン効果、実証だよ。


量子の集まりである対象に向かって~しようしようとすると、

~しようとしてないときより時間がかかる、

という量子力学のゼノン効果でもある。

~しようも、~させよう、も同じだ。


やかんの水を火のついたコンロにかけたら沸くという、

水や火そのものの本来性を信頼していないことから、

沸かないか沸かないかという思いが生まれるのと同じように、

自分の意志で起きる、自分の意志で学校に行く、という、

自らの意志で物事を行うのが人間で在るということを信頼してないことから、

(そういう自分だと、自覚はなくとも)

他者に~をさせよう、子供を学校に行かせよう、というような思いを生む。


ロボットと違って、人間は心や意識を持ち、

自分の意志で行為行動したい生きものだという、

あまりにも当たり前のことを忘れてしまっていることが

親子関係も夫婦関係も国同士の関係もよくないものにするんじゃないかと思うよ。

この最後の文章も何度か書いただろうなぁ・・

ま、いいか。何度も思うんだもの。

お喋り

2014-09-21 17:00:10 | 日々の暮らし・思い出
なんだかわからない?けれど、何か書きたい感じ・・・

私は今ここで何を書きだすんだろう・・・

まだわかってないよ。

さっき以前に書いた文章を読んだ。うん、だいぶ読みにくいのがあったよ。

でも、書いた当人だから、ずっと読み進めていくと言おうとしてることはわかる。

それに自分で書いたもんだけど、

中には、ひとが書いたものみたいに面白いと感じるのもあるよ。

ま、それにしても、もっとわかりやすく書けよ。うん、そうだねぇ。

もう一度書き直すのも面白い過程になるだろうなぁと思うなぁ。


今、右腕が痛い。左手で揉むと筋肉が痛いよぉと言う。

そこが冷たい感覚。なんでこうなってるか、わかってるんだ。

針を持ち過ぎなのかと思う。ちょっと固い布だと力が入る。

ミシンを使わないから、全部わが右手にかかっている。

勿論左手も使うけど、縫うのは右手だけだしね。

やりたい、もっと縫いたい、これを仕上げたい、

そういう気持ちに縛られている自分なんだなと思った。

やりたい気持ちをちょっと横に置く、というのをするぞ!と決める。

さっき、縫い掛けの布を目に見えない所に置いたよ。

つまらないのはイヤだというのも困ったもんだよ。


98才になった義父も何かすることないかな・・と探してる感じはある。

裏が白いチラシを適当な大きさに切ってホチキスで止め、メモ用紙を作るのをやる。

以前は自分からテレビなどをつけることはなかったんだけど、この頃はつける。

とうとうそれに手を染めたか・・なんていうと

それが悪いことみたいに思われるかもしれないけど、

そういう意味じゃなく、そういう受け身的行動はあまりしなかった義父が

とうとう・・・という感じがあるんだ。

昨日は自分の穿いてたズボンやワイシャツを出してきた。

これ△□が着ないか・・、まだ着れるから・・と言いながら。

今日はごみを入れるコーナーに金属で出来ている見慣れぬお菓子の函が出ていた。

自分が管理しているものを整理して出したのかと思った。

ここのところ、そういうことをしている。

自分史を既に書いてあるんだけど、その追加を書くと言っている。

昨夜は「一日が長いなぁ」と言っていた。

今週には義父の検診日がある。

出来る範囲で毎日栄養計算をしてノートにつけている。

大好きな刺身も50グラム前後程度にして食べてもらっている。

カツオ50グラムでタンパク質が一日のタンパクの半分弱を行ってしまう。

カツオよりイカの方が同じ重さでもタンパク質が低いことを知った。

野菜にもご飯にもうどんにも赤福にも練りワサビにもタンパクはあるから、

タンパク質一日30グラムまでというのはかなり少ない量だ。


昼までにタンパク質を何グラム摂ったから、

夕飯にはあとタンパク何グラム分の魚が食べられるとか、

一日のタンパク質摂取制限グラムを超えてはいないけど、

総摂取カロリーの割に多いから、夜は業者からのメニューにしようとか、

そんなことを考えながらやっている。

けれど、いくら成分表と突き合わせて計算しても、

あくまでこのようではないだろうか・・程度のことだと思う。


成分表のししとうの数字とうちの畑のししとうの数字は違うかもしれないし、

楽しい気持ちで食べるのと、いらいらしながら食べるのとでは身になり方が違うんじゃないか、とかも思うし、

こんなに食べていいんだろうか、という不安を抱えて食べるのと、

そんなことまるで考えずに食べるのとでも体内での働きが違う気がする。



その食品は塩分0.3gタンパク2.5gなんていっても、

平均値ではない彼にとってそれがどう作用するのか・・なんてことを考えだすと、わからなくなる・・


ま、わからなくて当たり前か。そうだよね~

やってみなきゃわからない。うん。

今度検診に行って血液検査をするけど、その時の腎臓の様子を表わす数値でわかるのだろう。

けど、なんだか、一カ月勉強して、試験に臨むような気分もある。

忙しくもない身なので、栄養計算は面白くやってるけど、

どうなるかなぁ。

「死ぬと心はどうなるのか」

2014-09-18 15:53:48 | テレビを見て
死ぬと心はどうなるのか・・・

もう何日も前のことなんだけど、NHKで、「臨死体験」を書いた立花隆さんのレポートをやっていた。

死ぬと心はどうなるのか、というテーマだったと思う。

ここのところ、なんだかんだ忙しく、ゆっくりブログを書くモードにならなかったんだ。

立花さんはどこのガンだか忘れたけど、癌だそうだ。

彼が穏やかな感じだったのが印象的だった。

『臨死体験』の本は読んだことはある。

前に何か思ったことを書いたかもしれない。忘れている。

意識は蜘蛛の巣のようなもので、勿論蜘蛛の巣よりずっと複雑な繋がりそのもので

数学的に表現できる、とジュリオ・なんたらという教授が言っていた。

それでも脳が心を生じさせているのだから、死ねば心は消える、と言っていたと思う。

それでも、脳=心 になっていなければそういうことは言えないなぁ。



20年前だかに「臨死体験」を書いた時に取材したナントカ教授だったか、が

当時は死ねば何もなくなると言っていたのが、

その当人がその後、どんなキッカケでそうなったか、忘れたけど、

臨死体験をして、死んでも心はある、と思うようになったというようなことを言っていた。

彼はとても穏やかな心優しい感じで、以前より自分の心をみつめるようになった、

と言っていた。

そうだろうなぁ、と思った。


きっとまたいつか(死んだ後?)あなた(立花さん)に会えるだろうと思っていますよとニコニコとして言っていた。


「私たちはどのようにして臨死体験が起こるのかという脳の仕組みを知るだけで、

それが何ゆえ、そうなのかは信念に委ねるしかない」

と別の研究者が言っていたのも印象的だった。

そういう発言をする人は、死ねば心はなくなると言う人より、顔つきが穏やかで謙虚な感じがした。


死んでないうちに死んだ後のことはわからない。


臨死体験のような神秘体験をするときに動く脳の部分もわかっているという。

その脳は大脳の古い部分にあるそうだ。

と、いうことは人間は元々そのような神秘体験をするように出来ているということだという。

あぁ、そうなんだろうなぁと思った。

臨死体験はしたことはないけれど、

起きていながらの意識の神秘体験は小学生の頃したことがあるのでとても納得する。


番組の最後の方で立花さんが、

人は心楽しく生きる方がいいに決まっている。

本当に死んだらどうなるかは体験しかない。

この研究をして今は死が恐くなくなった。

お楽しみが待っていると思うようになった・・・


確かこんなふうなことを言っていたと思う。

正確かどうかは自信がないけど、感じとしてそんなふう・・・だったと思う。


彼がそんなふうに思えるようになって、本当によかったなぁと思った。

「街場の共同体論」内田樹さん

2014-09-11 14:18:19 | 本を読んで
本を読んで面白いと思うのは、知らなかった考えにあたって、

なるほどなるほど・・そうだよね、うんそうそう・・ってなることと、

今まで自分なりにこういうことかなって思ってたことが

別の表現で書かれていることなんかだ。

この本を読んだ。特に面白かったのは

「コミュニケーション能力とは何か」という章と、

「弟子という生き方」の章だった。

『コミュニケーション失調からの回復の一番基本的な方法は、

いったん口をつぐむこと、

いったん自分の立場を「かっこにいれる」ことです。

コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、

身を乗り出すほかにありません』

ほんとうにそうだよね~

この著者の本はなるほどなるほどってよく思う。

数学的思考をするから面白い。

弟子という生き方・・・以下引用です。

『師に就いてものを習うとき、弟子は自分がこれから何を学ぶことになるのか、

修業を始める時点では知らないのだ。

弟子のわずかな知見や経験の範囲には、

とても収まりきらないようなスケールの知識や技術を学ぶわけですから、

それが何であり、どういう意味を持ち、どのように活用されるかものであるかを、

稽古開始時点で見通せるはずがない。

自分はこれから「自分の手持ちの物差し」では

その価値が考慮できないような種類のことを学ぶのだ、ということです。

自分がこれから学ぶことの価値をはかる「物差し」は、

修業を通じてこれから自分で手作りしてゆかなければならない。

だから今はわからない。わからなくて当然である。

今はわからなくてもよい。

師弟関係というのは、双方向的というより、

師の叡智、師の技量に対する〈帰依〉がないと成立しない。

師の一挙手一投足、片言隻句すべてが

叡智に満ち満ちていると信じている弟子からすれば、

先生が何をしても、それこそくしゃみをしても、あくびをしても、

「先生はそうすることによって何を伝えようとしているのだろう」と

我が身に引きつけて、食い入るように見つめて、

無限の解釈運動を開始してしまう。

「師の一挙手一投足、片言隻句すべてが叡智に満ち満ちている」

という信憑がいったん成立してしまえば、

もうあとは学びの運動はエンドレスなんです。

「あなたはそう言うことによって、何を言おうとしているのか?」というのは、

ジャック・ラカンが「子供の問い」と名付けたものですけれど、

弟子の問いでもあるのです。

この問いは、師がどう答えても、終わらない。

仮に師が「私が言おうとしたのは、コレコレこういうことである」

と正直に答えたとしても、その時には

「どうして先生は、あんなに正直に答えを教えてしまったのだろう。

先生はそうすることによって私に何を伝えようとしたのか…?」

という次なる問いが生れてくる。そういうものなんです。

師が答えを隠せば、弟子は「なぜ答えを隠すか」を問い、

師が答えを明かせば、弟子は「なぜ答えを明かすか」を問う。

弟子とは師が何をしても、そのすべてを

自分に向けられた「問い」として、「暗示」として、

「叡智へのヒント」として受け止めてしまう、そういうポジションのことなんです。

ですから、いったん弟子のポジションを取ったものは、

無限の解釈運動に巻き込まれてしまう。

弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。

学ぶというのは、なんらかの実定的な知識や技術や情報を教わることではなく、

「学ぶ仕方を学ぶ」ということなんです。

師を持つ弟子のポジションというのは大きなメリットがある。

それは、自分を守る必要がない、ということです。

自分の今の手持ちの知的なフレームワークや、

今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。

「お前のその知識や技術は使い物にならない」と

誰かに言われても、全然気にならない。

だってまさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、

師に就いて学んでいるわけで、

「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。

あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいものを知らないか、

技が使えないか、誰よりも自分が知っていますよ。

だから師匠に就いて学んでいるじゃないか」という話です。

弟子はいくらでも間違えることが出来る。

いくらでも失敗することが出来る。

この広々とした「負けしろ」が弟子というポジションの最大の贈り物です。

今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。

この開放性が弟子であることの最大のメリットだと思います。』


・・・ね、面白いでしょう。

人生は長いか短いか・・・

2014-09-11 13:46:01 | ひとの幸福
書きながら考えること・・が私なりにひと段落ついたような・・

なんて前に書いたけど、

その考えが身になってなかったら何の意味もない。

見になるってのはそれが行為に現れることだ。

身体という相対的なもので生きているのだから、

それを利用して生きなきゃ意味がない。

人生という場でそれが現れなくては意味がない。

常に動き変わる脚本を書きながら、自分の役、その行為を演じる。

他の登場人物と一緒に。


演じるとは常にその役を自覚している、意識的で居る、ということだけれど、

上手に演じるとはまるで演じてないように演じることだ。

役に成りきって演じることだ。

演じている自分が役その人なのか、生身の自分なのかわからなくなるくらいに。

その役を本気で愛してそうなりたいと望み、

そうなるようそうなるよう片時も役を忘れず、

そして役だということを忘れるようになるまで。


そういう人生劇場を送りたいなら、

一回の人生は短かすぎるんだろうな。

面白い劇にしたいもんだよ。

自分が観て面白い奴を。




栄養計算している。

2014-09-05 13:25:12 | 日々の暮らし・思い出
義父が腎臓の働きが落ちているということで、

医師から食事制限をするように勧められたので最近はそれに嵌まっている。

食事記録ノートを作ってそれに書いてる。

嵌まっているなんて言い方はちょっと相応しくないんだろうけど、

何かを始めると割とすぐ楽しんでしまう質なのかな。

パソコンがあるから助かる。「栄養成分表」の本をゲットしないでもやれる。

タンパク質と塩分を控えるようにとだけ言われた時は、

タンパク質と塩は大敵みたいな感じになってしまったけど、

単に“控える”ではなくて、

何を何グラム以上摂らない方がいいとかが具体的にわかると、

むやみに不安にならないね。

調べて計算すると、これもあれも食べられる、となったりすることが多い。



食品の成分を調べて、それに義父の好み、傾向を考えて出すものを決める。

ある程度カロリーを摂るのに糖分を摂るのに、

たんぱく質の少ないデンプンで作った手製のわらびもち風に

手製の黒蜜をかけて出してたんだけど、成分表を見たら、

黒蜜より上白糖の方がカリウムがグンと少ないから、

それにしようとか具体的にやることが見えて来る。


こんなこと書いてると凄いと思う人もあるかもしれないけど、

夕飯は病院から紹介された業者から、タンパク、塩分制限食なるメニューを宅配してもらってる。

こういうサービスがあるのは本当にありがたい。

いろんなメニューがあって美味しそうだし、

タンパクも塩分も制限内におさめられてるから大安心。


義父も嫌がらずに食べてくれるからほっとしている。

なんせタンパク質の刺身ばかり食べてたからね。

野菜を摂らなかったりしたことも影響してたのかなと思うけど、

98才にもなったらいろいろ出て来るのも当たり前だと思うし、

今まで元気に生きて来られたことの方がずっと凄い。


病気にならないために生きているわけじゃないから、

あまり制限食に囚われないようにと思うけど、

もっと長生きしたいと思ってる義父が元気で長生きできるように、

按配考えてやって行こうと夫と話してる。


でも人間の身体は機械じゃないから、こんなふうに栄養をグラム単位で計算しても、

血液に現れる数値は人によって違うのかと思う。

98才と30才と50才の人が摂取したことによっての数値はみんな違って当たり前だ。

その時々でも違うだろう。


どういう結果が出るかは次の検診まで待たなくちゃならないけど、

その結果でまた楽しく改善して行こうと思ってる。




ワクワクすること

2014-09-05 10:26:10 | ひとの幸福
ブログを書くのも頻度が落ちて来て、パソコンの前のあの楽しい時間が減った。

前は考えながら書く、書きながら考える、というのが楽しくて楽しくて、

一日があっという間に過ぎた。

ここ数年間考えたいだけ考えて本当に面白かった。

何年もずっとそれを楽しんで来て、私なりにひと段落ついたような感じがしている。

するとこんなことを・・

あ~、この先何して楽しんで行くんだろう・・

義父の年まで生きるとしたらあと30年以上。

まぁ、それほど長生きするとも思えないから、それほどでないにしても。

十分楽しみました・・・という感じもするけど、

お楽しみはこれからだ♪・・・こんなふうに生きて行きたいなぁ。

なんせ、つまらないというのが一番耐えがたいことだからね。

いつもつまっていたい・・ワクワクして過ごしたい私だ。

ちょっと時間があると、何か楽しいことないかな、と思う。

楽しいこと=何かをやりたい気持ちでやること、だからね。


そんなことを考えながらさっき刺し子をしていた。

全体に刺し子したテーブルセンターの長い奴、だいたい縫い終えた。

これから縁を縫って、さっと洗って、紺色に染めて、

糊付けして、乾かして、アイロンかけて出来上がりだ。

この子の行先は未定。

誰かもらってくれる人が現われるまで。

後腐れなく使いたいという人があったらいいんだけどな。


こういう作業も誰か周りにいて、

なんとなくいろんな事をお喋りしながらするのが本当はもっと楽しく面白い。

工期に追われてるわけじゃないしね。

こうしなきゃいけない、というのもないし。


こう考えて来て、人生暇つぶしは、

自分に合ってることをしていけばいいんだと思った。

書くと当たり前だね~

好きなこと、それをしようと思うとワクワクすること・・・

そういうことをして生きて行きたい。


いろんなことを探るようにいちいちと考えること、(思い煩うではなく)

手芸すること・畑仕事をすること(腰が痛くならない程度に)

部屋の模様替えすること・話を聞くこと・面白い本を読むこと

親しい友達とお喋りすること・美味しいものを食べること

部屋を住み心地良くするにはどうしたらいいか考えること

小さな子供と遊ぶこと・美しい景色を見ること・・・


こういうことを今よりももっと人と共に一緒にやって行きたい私なんだと思った。

そのことはきっと面白い。

つまらなくないよ。つまる。


同じことをしていても・・

2014-09-02 16:14:50 | ひとの幸福
こんな自分でいいんだ、、、と、なってから、

同じことをしていても又楽しくできるようになった。

いや、ずっと、こんな自分じゃいけないんじゃないか・・って、

なってたわけじゃないよ。

数日そういう感じだった時と今とを比べるとよくわかる。


何かをする時はそのことをやりたくてたまらなくて・・

・・というのが楽しい時間の過ごし方。

自分に合ってることをするのは楽しい。

自分に合ってることはやりたくなる。

土砂災害や・・・

2014-09-02 15:04:28 | ひとの幸福
私たちは共に在ることによって生きていける。

魚と海。魚と海藻。魚と人間。人と植物。人と人以外の動物。

人と大気。人と大地。人と人。国と国。

多分、顕在意識のない動植物は本能という素晴らしい能力だけで生きている。

共に在るという体得だけで生きているとも言えるかもしれない。

互いが互いのその時の在るがままを受け容れている。

広島の土砂崩れもそういう出来事だといえる。

その山のその土のその性質、その場で降った雨の量、時間、

大気の状態・・雨を降らせた雲、前線の動き・・・

そういう自然の全ての条件、要素と、

人的要素(そんな場所に住宅を建てたようになったことなど)が一致して起こった。

土は雨に文句も言わずそれを受け容れ、雨も雲に文句を言わず・・

どれもが互いの在るがままで。

なので、在るがままが良い・・なんてことは言えない。


ただ、起こってしまった事をよく検証して、

そういう在る状態をより良き在る状態にすることが人間は出来る。

そういう能力があるのに使えなかったからこういう災害が起こったのだけど。

人間の能力がスムースに発揮出来なくなっているのは何と言っても

お金で社会が動くという仕組みなんだろうなぁ。


地盤が軟弱だからその場所はナントカ指示区域?とかに指定したくても、

そういうふうに指定されると土地の価格が下がるとかで、

反対する人が出て来てなかなかスムースに事が進まない、

というようなことが新聞記事にあった。

そういう人を自分勝手だと非難するのは簡単だけど、

本当に非難できるのかなとも思う。

いろんな経済事情でそれぞれの人は生きている。

それぞれが生活設計もあるのかと思う。

まじめに働いて得たお金で買った土地を買った時より

うんと安く買いたたかれたんじゃたまらないという気持ちもよくわかる。


前に自民党の石原さんが震災の復興のことだったかな、

「結局は金でしょう」と言ったとかでちょっと問題になったけど、

それも一概に批判することも出来ない気がする。

美しい行為とは言えないと思うけど。


お金で世の中が動くようになっている、

ということをそのままにしているうちは揉め事が続くんだろうな。

それだけじゃないだろうけれども。




掛け時計の位置

2014-09-01 14:00:16 | ひとの幸福
掛け時計の位置を替えた。

替えてから三日経っても、以前に掛けてあった所を見てしまう。

(時計はそこに在る)という過去の経験が長いと、

今、時計はこの場所に在る、という事実はないがしろにされる。

時計が無い場所を見て、あ、そうだっけ・・になる。

元あった場所を見る「癖」がついているともいえる。

過去の経験による癖に振り回されている、という表現もできる。


「癖」の意味に、かたよった嗜好または習慣。

いつもそうであるならわし。

ある状態になって、もとに戻しにくくなること。

・・・なんてのがある。


いつもそうであるならわし、を卒業するのはなかなかである。

こういうのも潜在意識にあるプログラムなんだろうな。

そのプログラムは在った場所を見てしまうという失敗経験をたくさんすることで、変わる。

掛け時計が在った場所を見るのは時間を知りたいからで、

その欲求があることで、積極的に失敗出来る。

まぁ、時計の位置なんか一週間もすれば

ちゃんと見られるようになるからいいんだけどね。

生き方の中のなくしたい癖でいうと、

そんなふうに、やりたくてやって失敗するということが

要らぬ癖が早くになくなる方法なんだろうか・・・???



落ち込むということ

2014-09-01 13:18:38 | ひとの幸福
私もこの前ちょっと落ち込んだけど、

最近では「ブルー入っちゃって」というのも聞く。

「沈没してる」なんていうのもある。

なんで気分が塞ぐのかといえば、なんといっても自己否定だ。

反対に他を否定して批判非難してるときは威勢がいいもんだ。


なんで自己否定するかといえば、

自分のコレコレこうしてることはいけない事ダメな事と判断して、

ダメな事してる自分は悪い、

と、まぁ、怪しげな検察官と裁判官を自分がやってるからで。

決めつけてそれに囚われている状態だ。

そうしていてニコニコすることはまずない。

うつ病が増えた、という話は何年か前から聞いたことがあるけど、

決めつけて囚われて・・という心の現象が増えているということなのかなぁと思うよ。

物事をスムースに運ぶために人を管理しようとする、干渉しようとする、

という傾向が強まっているのかもしれない。

物事なんかスムースに運ばなくったっていいんだ。

・・というところまで落ち込まないといけないのかもしれない。