ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

こうしたかったんじゃない・・?

2013-09-30 10:19:44 | 実例体験観察
AさんがBさんに何か注意めいたことだったと思うけど、言った。

そのすぐ後に、Cさんがこう言った。

「(そういうことじゃなくて・・)Bさんはナントカをしたかったんじゃない?」

Aさんはそれに何も言わなかった。

その会話を聞いて、はっとした。

私はCさんのようなことをしていることがあるな、と。

その人はそういうつもりでそう行為したのではないんじゃないか・・

みたいな・・思いが湧いたときに、

ぱっと上に書いたCさんのようにしていたと思う。

昨日のCさんの言い方はAさんの発言を責めているニュアンスはまるでなかったし、

私もそういうことを言うとき、責めるニュアンスで言ってはいない。

けれども、Aさんを観ると、

(そういうことを言われた・・・)という感じだった。

自分の発言、思いが在ることを否定された・・となったのだろうと思った。

なんの効果もないと思った。

いや、否定されたという暗い思いが生まれた。



山岸さんが、あらわす場(生活)と試験する場と研鑽・哲学する場の三つを

完全に分けたのは、やはりすごく意味ある(当たり前か)、

それでないと効果が無いから・・

なのではないかと思う。

それにひとに言われて気付いた、なんてなる場合もあるけれど、

気付くような・・機が熟しているような・・

そういう状態の時に人の言葉がキッカケになるのであって、

ひとの言葉が原因でそうなる、ということじゃないから・・・

でも、その時はひとの言葉が受け入れられなくても、

後で受け入れられるようになる、ということもある・・・か・・・


ここまで書いて今、思ったけど、

「(そういうことじゃなくて・・)Bさんはナントカをしたかったんじゃない?」

というCさんのこの言葉のニュアンスは責めるものはなかったけど、

調子が明るいものじゃなかった。

Aさんの注意めいた発言に対して、ちょっとたしなめるような・・

Bさんの気持ちをもっと汲むべき・・みたいな・・ニュアンスが感じられた。

・・ということは、やはり、

Aさんの発言・気持ちを否定している・・

その気持ちが在ったこと(なるべくしてなって来ていること)を認めていない、受け入れていない・・・

そんなことは思っちゃいけない・・・

そういうニュアンスをAさんはひしと感じた・・のではないか。

Aさんにしてみたら、自分のそのときの気持ちを他者が暗く捉えていることで、

自分の在りようを否定されたと感じる。

Aさんは自分でもそういうふうな注意めいた、非難めいた思いが

出てきてしまうことを頭ではわかっているけど、

どうにもならないでいる、そのことを、

否定されているように感じてしまうのではないか・・・

Cさんの発言に対しAさんはなんの抗議もしなかった、その時の様子から、

そういうことなのではないかと思う。

頭でわかっていても、そうなれない自分・・・経験あるし、よくわかる。

そういう、自他の在りのままのを、

うんうん、そうそう、よくわかるよ(気がするよ)と、

明るく笑える自分から、スタートしよう。






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遷宮で・・

2013-09-29 09:51:08 | 日々の暮らし・思い出
昨日伊勢神宮の内宮に娘と行った。

遷宮という行事が10月の2日に迫っているせいなのか、

正宮の前の石段のところに行くずっと手前から行列。

その行列を見たとたん、踵を返したくなり、返して戻った。

この森が好き、大きな木が見られるのがいい・・というふうな方が私には大きい。

20年に一度の遷宮ということなんだけど、

この人出の多さにびっくりした。

前回の遷宮の20年前に伊勢神宮に行ったことはないけど、

これほどの人たちが伊勢神宮めがけて出かけたのか???

勝手な推測だけど、今回の人出より20年前は少なかったんじゃないかなぁ。

20年前はお祭りとか神社関係の行事に若い人は今ほど関心を持たなかった気がする。

私が若い頃は祭りの神輿の担ぎ手なんかも、

若い人はごく一部だった記憶がある。

今は若い人がこぞって担いでいる感じはする。

パワースポットなんていう言葉も

20年前は今ほどポピュラーじゃなかったんじゃないか・・

そんなものは迷信だ云々の常識が大手を振っていた気がする。

今もほんとの迷信というものはあるんだろうけど。

まぁ、私がそう捉えていた、ということは大いにありだ。

昨日も娘は正宮に向かう手水場できちんと手を洗う(清める?)けど、

私は混んでいるその場に積極的に行こうとならない。

いいよいいよ・・そんなんしなくても・・・とすぐになる。

なので、正宮に行くまでの行列を見ると、すぐに、

いいよいいよ・・そんなんしなくても・・となるわけだ。

一緒に行く人がそれをしたい、ということなら、

喜んで共にそれをするけど、相手もそれほどの熱意がなかったり、

いいよいいよ組ならそういうことになる。

けれど、形をすることで心が整うということはすごくある。

そのことを私は軽視する傾向大いにありだと、

改めて実感した昨日だった。

心と身体は循環しているのだから、身体から・・というのを

意識してやるのも私にはいいかもしれない・・と、

今日コレを書いて思った。







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「弓と禅」 オイゲン・ヘリゲル著

2013-09-28 17:36:19 | 本を読んで
「意志的な意志をあなたがもっていることが

あなたの邪魔をするのです・・・・

まとに当てるために矢の放れを習復しようと

努力すればするほどますます放れは成功せず、中り(あたり)も遠のく・・・・

快と不快との間を右往左往することから(悪い射に腹を立てたり、

善い射に喜んだりすることから)

あなたは離脱しなければなりません。

すなわちあなたではなくてまるで別の人が善い射を出したかのように

喜ぶことを心がけるのです・・・

今やあなたは“それ”が射る、

“それ”があてる、ということが何を意味するかおわかりでしょうか・・・」

・・・これは「ハイライトで読む 美しい日本人」の中の、

オイゲン・ヘルゲルという人が書いた、彼の弓の師範の言葉です。

「弓と禅」という本の一部を引用したもののその又引用です。

この著者はドイツの新カント派の哲学者で、

1924年から29年まで日本に暮らし、東北帝大の講師を勤めるかたわら

弓道の修行に励んだという。

弓道とか剣道柔道という、今ではスポーツとして知られているものが、

日本のものは何故「道」が付くのか、

この年になっても知らなかった無知な私で、

なんでだろ?だけはあったけど、知ろうともしなかった。

それがこれを読んで、そうなのかぁ、と思った。

以下は斉藤孝さんの文章です。

・・・弓道を含め、日本の武芸の究極の状態は、

自意識を解放しきった覚醒にあること。

そしてそこへ至る道は呼吸法によって達成されることを、

達人たちは理解していた。

呼吸法こそが自意識をコントロールする強力な道筋だからだ。

呼吸は自分の内と外をつなぐ道であり、自己と世界は分離したものではなく、

呼吸を通じて一つに混じり合っている。

仏教というとその宗教的考え方ばかりに注目するが、

仏教の悟りという究極には呼吸法があり、「釈尊の呼吸法」には、釈尊が

緩く長く吐く呼吸法で悟りを得たことが詳しく記されている。

だから、弓道の目指したものは、的を当てることではなく、

そんな世界と一体化したような感覚の会得にあった。

それがテキストに出て来る、「放れ」という考え方だ。

東洋の呼吸法が目指したのは、宇宙との一体化であり、

自意識を解き放ち、もはや自分が呼吸しているのではない、

周囲によって「呼吸させられている」と感じるほどに、

世界と溶け合った状態ーーーーそんな、

積極的な受動性の感覚が、禅の精神性であり、

日本人の宗教性の根底にあった。

・・・ここらへんでやめるけど、全部を引用したいくらい。

日本の武芸というものは勝ったり、的に当たったりは結果であって、

そういうことが目的ではなかったのだとわかった。

だから道が付くのか・・・

この師範の言葉でこういうのもある・・・

あの的の中り(あたり)は、頂点に達したあなたの無心、無我。沈潜状態ーーー

その他なんとこの状態を名づけようとーーーー

の外面的な証拠、確認に過ぎないのです。・・・最後の段階に達した人であって

初めて、外面的な目標をも、もはや射損じることがあり得ないのです・・・・


一番最初に引用した文章のコレ・・・

「意志的な意志をあなたがもっていることが

あなたの邪魔をするのです」

コレなんて全く量子力学じゃないかと思ったよ。

量子ゼノン効果の、(眠ろうとすると眠れない)

(忘れようとすると忘れられない)のと同じで、

当てようとするとあたらない。ということだ。

幸福になるには思い(自我意識)を放すことが有用。

「思い(自我意識)を放す」という心での作用が達成されるのに、

呼吸という身体を使って、弓を引く。

心身一元論・・ともいえる。


こんなん書いてるのは全く身体じゃなくて頭だけのことなんだけど、

思いを放す、にはいろんな方法があるのだとも思う。

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「ハイライトで読む 美しい日本人」 ②

2013-09-26 10:27:11 | 本を読んで
日本語が日本人をつくった、と思っていたけど、

そういうことは金田一春彦とかの学者がとうの昔に言ってたんだなぁと

この本を読んでわかった。

「お茶が入りました」「ご飯が出来ました」・・・

というような言葉遣いについての記述が面白かった。

お茶やご飯という物は自分で入ったり出来たりするもんじゃないけど、

日本語はこういう表現をする。

当たり前に使っているけど、この表現には、

私が入れたよ、とか私がつくった、とかのニュアンスがない。

私が私が・・という自我意識が皆無だ。

こういう言葉遣いを自然に聴いて育つということは、

人間形成上大きな意味を持つのだろうなぁと思った。

実際、お茶を入れようと思ったのは自分という一人の人間の意志だけれども、

お茶が入った、という現象が成り立ったのは、

自分の意志だけではない、ということを

日本語は知っている、という感じがする。



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鈴鹿ひろ美歌う♪

2013-09-25 15:33:54 | テレビを見て
今朝の「あまちゃん」で薬師丸ひろ子が潮騒のメモリーを歌った!

彼女の歌はいい曲も多いし、聴いたことがあるけど、

キョンキョンより声に厚みがあって、潮騒のメモリーもとてもよかった。

CD化されないかしら・・・

ま、それはいいんだけど・・・

鈴鹿ひろ美が下手でもいい、自分の声で・・云々言っていたことが

実現した。

東京から歌声の影武者のキョンキョンが息せき切ってやって来たけど、

ちょうど面白くマイクの電池が外れ、

キョンキョンの声は出ないで、

鈴鹿ひろ美一人で最後まで音程が漂わず歌った。

ドラマチックだった。

周りが善意で繕おうとした事が急に色あせて見えた。

本番に強い・・のかもしれない。

それって、やる!ってことに立つ、ということなのかな。

目の前の人たちと自分が一つになる、そういう心境で

行なった結果なのかもしれない。

まぁ、ドラマだからドラマチックな展開なのかもしれないけど。

けど、それをやるのはその時そこという境地に立った人。

それ以前にあーだこーだ揺れている人とは別人になる、んだと思う。

涙もろい私はその場面で泣けた。

なんの涙なのかわからないけど、涙が出てしまった。

今ここに滞在してる娘もなんだか泣けちゃう、と言ってた。
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「ハイライトで読む 美しい日本人」 ①

2013-09-25 09:24:34 | 本を読んで
いま、斉藤孝さんの「ハイライトで読む 美しい日本人」というのを読んでいる。

主に幕末から明治にかけて日本を訪ねた外国人が観た、

日本人の姿についての文章が紹介されている。

まだ全部読んでいないのだけれど、

以下がそれの概要。

日本人ほど上機嫌な国民はいない。

よく笑い親切で無邪気。

日本人の子供ほど可愛がられて育っている子供はいない。

おんぶされて育つことの効用。

いつも大人と一体になって、守られて安心しているということが

小さな子供にとっては最高の環境なのではないか、

ということが書かれてあった。

それと、親と面を付き合わせるのではなく、

親のすることを親の背中で観て、共にしている、ということもあるのかと思った。


この本の半ば過ぎ、デュルクハイムという戦時中に日本に

滞在していたというドイツの哲学者の文章がある。

『肚―人間の重心』というもので、

ヨーロッパ各国で翻訳され、ベストセラーになった名著だそう。

心理療法家でもあった彼は、日本人の心のあり方に深い感銘を受け、

そのキーポイントは「肚」であることに気がついた。

・・という紹介文があった。

詳しくは又書こうと思うけど、

西洋文化を経験してない生粋の日本人って、

どういうものだったかが知れてとても興味深い。





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乖離・・このコトバは相応しくなかった

2013-09-19 17:53:03 | 日々の暮らし・思い出
昨夕のことだ。義父がNHKの相撲を見ていた。

私は台所で夕飯の支度をしていた。

おきのさと とか ことおうしゅう とか はるまふじ とかのコトバが聞こえた。

ことおうしゅう というコトバがどういう字だったか、

まるで浮かばなかった。

ことおうしゅう という音がその人を表わすということはわかっていた。

稀世の里その人が画面に出て来ても、名前がわからなく、

きせのさと というコトバを聞いてもどういう字なのかまるで浮かばなかった。

ただ音だけある、そんな感じになった。

ことおうしゅうのコトってどんな字だっけ?と夫に聞いて、

楽器の琴だと聞いても、「あ~あ~そうそう、そうだっけ」が出て来なかった。

画面の中のことが遠い世界、というか、

全体がもや~っとしてる感じだった。

いや、私の頭がぼや~っとしてたんだろう。

画面のこっちで夫が「どこそこにむかでがいた」と言った。

私が「むかでって?」と言ったら、

あんたが前に刺された奴だよ、と夫が言った。

むかで というコトバを聞いてもその姿が浮かばなかった。

でも、虫だということは夫の返事でわかった。

自分でむかでむかでむかで と言ってみたけど、

現実感がなかった。

大丈夫かなと思った。

どういう現象なんだろう???と思った。

固有名詞とか虫の名前とそのものとが乖離してる感じで、

相撲をやってる、とかいうことはわかった。

頭がおかしくなったのかと思った。

そのとき、頭が痛いというのもあった。

頭のどこかの血管が切れたんだろうか・・?とも思った。

暫くしたらいつもように戻ったんだけど。

何年か前にも同じようなことがあった。

知ってるその人がナンタラさんだと聞いても、

(そうそう、そうだった)にならなかった。

認知症もこういう感じから始まるのかな。

もしそうなら、よ~く観察して「ムカデさんの認知症日記」にしよう。

・・と書けるくらいの元気はいまある。



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ひと 花 わたし

2013-09-19 12:49:47 | ひとの幸福
花を見て美しいと思っているその心は美しい。

人を見て美しいと思えるとき、その心は美しい。

ひとのことがいや~な感じ、悪く見えるとき、その心は美しくない。

ひとのことがいや~に見える、悪く見えるときは、

自分の在るがままの心を無意識のうちに我慢してる。

自分の在るがままの気持ちを無視してる。見てやってない。

花は私で、ひとは私だ。

花にもなるし、汚いごみにもなる。
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準備する

2013-09-17 15:06:13 | ひとの幸福
何かの人に会うとか、したことのない何かをするとか、の前に、

どんな自分が現れるのか、それを観たいというのはあった。

けど、自分に何かを準備する、という自覚が浅かったかなと思った。

何かの物や事を準備する、というのもあるけど、

どういう自分を準備するのか、ということも大いにあるはず。

そう、そこで出て来る自分の心や行為に対して、

何が出て来るかという観察だけでなく、

その時の自分がどういうこころ・意識を用意しておくのか、

それには自分が自覚的になっていることが必要だ。

この連休に初めての人が来てくれたけど、

知らないその人に、どんな料理を用意しておくのか、

どんなもてなしを用意しておくのか、

ということは勿論考えて、出来る範囲で準備したけど、

知らないその人にどういう自分を用意するのかについて、

以前より自覚が深かったかなぁと思った。

やはり自分を準備するという心が在ると無いでは違うと思う。

人生一期一会だし、常にもっと自覚してる自分で在りたいと思った。



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ユイちゃん復活!

2013-09-17 14:32:58 | テレビを見て
今日の「あまちゃん」はユイちゃんがユイちゃんらしくなった場面。

嫉妬とか怒り?だったかな・・そういうのがあるのは元気な証拠とか

したり顔で言っていて、アイドルは諦めた風だったけど、

そんなわけないよなぁと思ってたら、やっぱり今日。

よかったわぁ。(ドラマですけどぉ)

思いっきり本音を喋って生き生きしてた(^^)

やっぱり本音じゃないと力が感じられないもんだ。

そのつど本音で生きてないと、軌道がどんどん曲がって行っちゃうような気がするな。

その本音がどんなものだろうと、

正直に生きてないと後で悔やむのかもしれない。


やりたいと思ったことをやってみてどうか・・じゃなくて、

やりたいことをやらないでどうか・・だけの検証になってしまう。

やりたいことをやらなくてどうか・・の検証は

やりたい気持ちのままやればよかった、という後悔と、

やはり、やらないでよかった・・ということになる、

失敗というリスクを負わないで済んだかもしれない、

というみみっちい思いだけなのかもしれない。

そこに喜び、なんて無いんだろうな・・

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報われず 泣いたぁりして~♪

2013-09-17 11:10:44 | ひとの幸福
♪傷ついて 傷つけて~ 報われず 泣いたりして~♪

“花は咲く”の歌詞のなかの一つ。

本当に人は(傷ついて 傷つけて)だ。

そしてこれ、「報われず 泣いたりして~」・・・

報われず、なんていうと大袈裟なことのように思うひとも居るかもしれないけど、

ひとを思って、良かれと思って、言ったりやったりしたことに、

相手が期待してるような姿をしないときに、

怒る場合もあるけど、泣くような場合もあると思う。

そういうことを歌ったのかな~と思った。

泣いたりして~、の、“~たりして”という言葉遣いが

なんとも上手いなぁと思った。

すごく客観的にそのことを言っている。

自分やひとを観てそういうことに光をあてた、という感じがする。

それを否定することなく、

温かくそういう姿を見ている感じがある。

在るがままを愛する愛かなぁ。 
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波しぶき

2013-09-16 16:35:08 | 日々の暮らし・思い出
台風が去った後、隣の集落の浜までスロージョギングして行った。

浜はまだまだ大波で海の色も薄い緑色という普段とは違う色をしていた。

ザザザブ~ン~と波が押し寄せる。何度も何度も。

浜に座り込んでそれを見る。

目の前まで波しぶきがやって来る。綺麗だ。

ずっと見ているともっと近くで見たいという衝動にかられる。

衝動に駆られる・・なんて凄い表現だけど、

引き寄せられる、といったらいいか、身体の中で何かが起こる感じ。

物理的に身体の中がざざざざ・・・と動くのだ。

頭じゃない。意識でじゃない。

波に身体が反応する。

それを感じて、もう帰ろうと思った。

このまま居るのはやばい。

いや、絶対吸い込まれないという自信はあるけれど、

身体の中で起こっているざざざざざ・・・を鎮めなくっちゃ、と思った。

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花は咲く

2013-09-16 16:02:39 | 日々の暮らし・思い出
「花は咲く」という復興支援歌がある。

6月に石垣島で会った岩手に住む小学2年生の孫が

この歌を一生懸命歌ってくれた。

それも会ってすぐに。一所懸命練習してる最中みたいだ。

NHKテレビからそれが流れて来るのを何度も耳にしたことはあるけれど、

こんなふうに身近で聴こうとして聴いたことがなかったので、

その時、あぁ、こういう歌なのかと新鮮だった。

「死にゆく者からの言葉」を読んでから、

ユーチューブで音楽を聴いていたとき、

その歌が右端に出ていたので聴こうとして聴いてみた。

歌の中にこういうのがあった・・・


叶えたい夢もあった

変わりたい自分もいた

今はただなつかしい

あの人を思い出す (1番の中)


傷ついて 傷つけて

報われず 泣いたりして

今はただいとおしい

あの人を思い出す (2番の中)


震災で亡くなった人のことを思う心境を歌ったものだろうけど、

この詩を自分のものとして感じられた。

画面を見て歌いながらとうとうと涙がこぼれた。

老化して亡くなったのと違って、

多くの人がいきなりぷっつんと亡くなってしまったから

こういう歌が生まれたのだろうけど、

誰にとっても親しい人を亡くすという経験はある。

今はまだ死んでいない私だし、多くの友人知人家族は元気に生きている。

けれど、その日は必ずやって来る。

いつもどのときも(今ここ)を生きることが、

泣かない日を創るのかもしれないけど、

ひとはそれでも泣くのかもしれない。

きっと私は何度も何度も泣いて生きていくんだろう。

あ、そうだ、今日は亡くなった母の誕生日だ。

あの亡くなった母も赤ちゃんとして生まれて来たのだなぁ・・・


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台風 ②

2013-09-16 15:34:57 | 日々の暮らし・思い出
さっき「台風」を書いてみて、

私は鉢を避難させないということに自信を持たなかったか・・?

という(?)が脳裏にやって来た。

鉢を避難させずに居ても、被害に遭わなかったという2回の経験で、

大風でも小さな鉢は倒れない・・・なんていう自信を持たなかったか???

心しないといけないな、と思った。



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台風

2013-09-16 14:07:49 | 日々の暮らし・思い出
台風18号がこの地を過ぎて行った。

それほど大きなものとは思われなかったけど、

だんだん大きくなったみたいだ。

庭に面した窓に沿って小さな鉢が並んでいる台が置いてある。

暴風雨圏内だったから、それらを物置に避難させないとダメかなと思ったけど、

前回の大風のときにそのままにしておいても

一つも倒れたりしなかったので、

今回もそのままにしようと思った。

夫が避難させないの?・・というようなことを言った。

いつもの暴風雨予報のときと違って穏やかなニュアンスだった。

うん、もし倒れて犠牲鉢が出ることがあるかもしれないけど、

それは覚悟して、このままというのを実験してみるね、

と私は言った。

夫は、そうか、ととても静かに応対してくれた。

今までと違った。

今までも、建物のすぐ近くだし、背の高い鉢は倒れるけど、

小さい低いのは倒れないんじゃないかと思っていて、

避難させないと言うと、夫は少し非難風を私に当てていた。

実際倒れる可能性は考えられるし、

夫のそういう言葉や非難風を感じて、

殆どの鉢を物置にしまっていた。

それが前回、物置にしまわずに出しておくと決めてやってみたら、

一つも倒れなかったので、

今回もやってみて、どんなふうになるか試してみたかったので、そうした。

やってみないとわからない。

被害は覚悟の上でそうした。

それまでの夫は私が大事にしてる鉢たちが大風の被害に遭わないように、

めんどくさがりの私に非難風を送っていたのだろうと思う。

それが出したままでも被害がなかったことを見て、

非難風の元にある自信がなくなったのだろうと思った。

このことで自信を持っていた自分に気が付いたのかもしれないと思った。

私もそれまでにやってみなかったことをやってみてよかったと思った。
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