ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

不満?

2011-11-30 13:12:50 | ひとの幸福
「あの人たちがあんな事したから、頭に来た」

「なんで自分だけこんなに少ないんだよ~」

「待遇があまりにも違いすぎる」

「こんなやり方はおかしい」
 
・・・こんなふうな言葉を聞いたとき、

ひとや場合によっては、「不満を言っている」と捉えることがある。

「ナンタラカンタラ・・」と言っているのであって、

「不満」と言っているのではないんだけど。


地震で倒れた建物の中にいる人が

「痛い!もうやだ 息が出来ない」と言ったら、

それを不満と受け取る人はいない。


「こんなやり方はおかしい」の言葉を、

不満と捉え、

「この不届き者めが何を抜かす!」

「おかみのすることじゃ、正しいにきまっとるじゃろう」

「それをおかしいとはなんという愚か者!」


何かの現象を 不満 と捉えることで、

その後の展開は決まってくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無いこと

2011-11-30 10:24:19 | ひとの幸福
「無い」とは存在が無いこと、と辞書にあった。

ところで、「存在」とは文字通り「在ること」だと思うけど、

辞書の意味でいくと「在ることが無い、」ということになる。

「在るは在る」以外ないと思うけど、

何故「在るが無い」ことになるのか。


例えば、「鍵が無い」という言葉がある。

これは在ると思った場所には無いということだろうし、

バッグに入れたと思っていたけど、上着のポケットに在ったとか。

この場合、無い というのは(無いと思った)ということで、

事実として、「在る鍵」は 絶対「無い鍵」にはなれない。

だって、在るんだから。


その鍵は紛失してしまって、ゴミ処理施設で焼かれて、

形の変わったものに“なっている”ということもありうる。

形を変えても在るものは無くなることは出来ない。

鍵という名前の物ではなくなっても、

専門的なことは全くわからないけど、

炭素とか何かの気体とかになって、

この大気圏に存在することになるんだろ。

気の遠くなるほどの昔の人間の身体が他の物とも混じり合い、

時空を経て変化しながら、今の石油に“なっている”のかもしれない。

存在は存在でなく(なる)ことは出来ない。

今、この世に在るものは全部、

地球の太古の昔に在ったものが変化してこう“なっている”もの。

宇宙人が持ってきたものでない限り。


無い という言葉がある。

無い が在る、何処にそれがあるかといえば、

「鍵が無い」という意識に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホントはどこに?

2011-11-29 10:34:53 | ひとの幸福
また、オウム真理教関連で思うことだけど、

この裁判で真相は多くの人にとって明らかにならなかった。

明らかにする気が無かったかのように感じる。

事件が何故起きたのか、

彼が何を思って、何をしようとして、あーなったのか、

多くの人にとって、それがわからないまま終わった。

どんな事件だろうとそれを調べるのは当たり前なんだろうけど。

彼等は悪の集団だ、殺人集団だ、血も涙も無い・・

早く処分しろ、弁護人なんか要らない(そこまではなかったろうけど・・)

マスコミはさっさと“正義の味方”に成り果てて、

彼、松本死刑囚を悪魔と決めて非難批判した。

そうじゃない記事は小さかった。

河野さんが誤認逮捕された時も、

“正義の味方”にすぐになり、

彼が“悪”であるかのように書き立てた。

それが間違ってたことはそれらの記事の大きさと同じ分量ではなく、

ずーっと小さかった。

恥ずかしかったんだろ。

間違ってたことを無いものにしたかったんだろ。

それもわかる気がする。

事柄は違っても、似たような経験は誰でもあるんじゃないかな。


何人もの人たちが精神鑑定をするべきと言ったり、

彼を治療してからまともな裁判に、と言っても、

彼は狂ってる振りをしてるに決まってる、

と盲信してしまった。

本当はどうなのか、わからない。

警察も検察も裁判所も、早く早く早くの渦に嵌って行ったのかな。

オウムの人たちも裁判所の人たちも、警察の人たちも、

検察の人たちもマスコミの人たちも、

私たちただの人も、

根は一緒だ。

良かれと思って、突っ走った。

みんなで“正義の味方”をやった。

それがあると、真相、真実なんかどうでもよくなる。

なんせ、「正しいことをしてるんだぞ!」

「問答無用だっ!」・・・になる。


戦争でもこんな事件でも、家庭や職場のトラブルでも、

それがどういうプロセスでそう“なった”かを検証しないと、

それとは違うプロセスを体験できないことになる。

こんなことが再び起こらないように、

どういうプロセスでそうなったか、

何故それが起こったのか、それを知りたい、

・・という心底の熱意より、

マスコミが煽り立てた多数の「早く処分しちまえ」

・・コールの方が、大きかった、ということなんだろ。

民意を反映した、ということになるのかな。


マスコミの力はとてつもなく大きい。

それでも幾らマスコミが発信しても、

それをどう受信するのかは一人一人。

でもマスコミの人たちも私たちと全く違う人間じゃない。

世間のただの人たちと似たようなもんだろ。


この世間を構成してるのは、一人一人の人間。


一人一人の存在の状態が成長・進化することで、

世の中、社会は同じ過ちは繰り返さなくなるのは理の当然かな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉 今 ここ

2011-11-29 10:20:12 | ひとの幸福
今、ここという瞬間はあっという間のことだから、

言葉で「今コレコレをしてる」と現在進行形で表現しても、

その言葉の内容が表わす現象は、発した時よりホンの少しでも過去の事。

今ここという瞬間は、

言葉で表現されようがない。

言葉を発するその認識は必ず事実の後の時点か、以前の時点。

日本語の動詞は今現在を表現するものはない。

見る、聞く、言う、走る、歩く、働く、動く、話す、

こういう言葉のかたちは現在形だけど、表す内容は未来のこと。

明日見る予定、これから聞くつもり、明日運動会で走る、等々。

「今走るよ」と言っても、

それを発するのは脚が動き出す前。

既に走っていれば、「走ってるよ」だ。

存在だけが現在形か。

これはパソコンである。(在る)


けど、明日の事を思おうと何億年前の事を思おうと、

そう発する意識は 今 ここ に存在する。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温泉座椅子

2011-11-29 09:17:03 | ひとの幸福
今私が座っているカタログハウスの(温泉座椅子)

ここのところの私の腰痛にはとてもいい。

安心して2時間でも座っていられる。

この椅子の成り立ちの元は、

誰かの「こういうものをつくりたい」という思い だと思う。

それがなかったら 今 ここにこれは無い。

またその誰かが「こういうものをつくりたい」

と思うように成ったのは、

それ以前の誰かの考えやら、

考えの結果としての物やら・・の集積だと思う。

いろんな物もみなそうかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄という金属が

2011-11-28 13:42:16 | ひとの幸福
鉄という金属には、その本質、というか、そのものの性質がある。

熱くすると柔らかくなるとか、水分で錆びるとか。

そういう知識ほとんど無いんだけど、

まぁ、そんな感じだとして・・・

鉄という自然物が人の手によって鉄製品になった。

それが錆びたことで、使い物にならなくなった・・・


錆びたという(現状)と、酸化すると錆びるという(本質)

・・こう表現してみると、


「本質」が「現状」という形に現れる。

本質に無いものは現状に現れない。


錆びずに製品として使われている時、

その物は自然と人為が調和していた状態、と言えるかも。

錆びて使い物にならなくなった状態は、

自然と人為が調和していない状態、と言えるかも。


鉄は酸化して錆びるという元々の性質を持っているので、

錆びないように何かの手を打つのが人為。

~すると錆びる、~すると錆びない、ということを人が知って、

錆びないように何かすると、

その鉄製品は人の為の製品として長く使うことが出来る。


これを人間というものについて当てはめて考えてみると・・・


人間の本質がある。

その一つとして、例えば、自主性があること。

(仮定として考える)

それがどんな形になって現れるか。

自主性があることを認めると・・・

自主性があることを認めないと・・・


例えばだけど、子供に何かを作る機会を与え、

大人はただ、温かく見守る。待つ。

材料になるものを用意して、

子供がそれを見て、何を思い、

どうしようかと考え、どうするかは子供に任せると・・

何が出来るかは別として、

子供は生き生きとその作業をするようになるんじゃないかな。

そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。

「本質」に無いものは「現状」に現れない。


反対に、大人が決めたやり方を教え、

そうしないとケチをつけ、

違うやり方をした子供には間違っていると教え、

ずっと見張っていると・・

子供はおっかなびっくりとそれをし、

つまらなさそうな顔になり、やる気を失い、

途中で放棄したり、なんでこんなことしなくちゃなんないの!?

・・って、なるんじゃないかな。

出来上がった物が立派なものであっても。


その後に同じような機会を与えられても、

参加する気は失せるようになる・・かな。

そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。

「本質」に無いものは「現状」に現れない。


自主性というものがある、という人間の「本質」が、

どういう「現状」になるかは、

その自主性という自然と人間がどう調和していこうとするかに、

かかっているのかなと思う。


鉄の本質、性質を知ることが、

鉄製品を創るために欠かせないことのように、

人間の本質を知ることが、

人間が生き生きと生きることに欠かせないのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「なるほど」

2011-11-28 09:33:36 | ひとの幸福
「なるほど」という言葉はスゴイ。

何かを深々と納得した時に使うことが多い。

コレコレがこう“なって”、それから、あー“なって”、

そして、こう“なった”というような説明を聞くと、

「なるほど!」と頷く。

へーぇ!こう“なってた”のか!と驚く。

“なる”ほど・・という言葉の通り、

そうなっているのか、という納得は、

それがそう“なった”プロセスを納得しているということ。

それがそこに 在るということに至ったプロセス、 

を納得している、とも言える。


なる には、それまでの全ての時空が畳み込まれている。

全ての現象、全ての物事は、みんな「なるほど!」。

事実ではそうなんだけど、

ひとの頭では「なるほど」になってないことが多い。

なので、「そんな馬鹿な」、「信じられない」、

「おかしい」、・・・と自信たっぷりに言うことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和

2011-11-27 10:32:42 | ひとの幸福
大和と書いてヤマトと読む。

和と書いて、ワと読む。

「和」の意味は、「仲良くすること、仲直りすること、

数字の足し算、日本の事、日本。和と書いて和む(なごむ)」

・・と辞書にあった。

何故か日本の言葉はそういう意味になっている。

なんということなんだろう!?

和=仲良くすること=和=日本=和=なごむこと。

言葉がそう言っている。

今回の震災で世界の人が日本の人の在りように驚いている。

こういうことも日本の言葉と関係あるんじゃないかなぁ。

言葉が精神に及ぼす影響は大きい。

「言霊」とは古代日本で、

ことばに宿ると信じられていた神秘的な霊力。

今は古代じゃないけど、

それが無いことはないような・・・。

言葉は認識なんだから、当たり前といえば当たり前か・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外車

2011-11-27 08:54:39 | ひとの幸福
外車に関心を持っている人は、

街を走っている外車に目が行く。

外車に関心がない人は、

外車が視野に入ってもなんの印象も残らない。

外車が走ってたでしょ?

あら、そう?で終わり。

関心がないことというのは、

その人の人生という意識劇場に登場しない。

そのものが視野に在っても、無い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長所と短所

2011-11-26 13:41:54 | ひとの幸福
短所には長所が隠れてる、ともいえるのかも。

うるさい→活発

消極的→謙虚・控えめ

早とちり→すぐにやる

ぐずぐず→おっとり

せかせか→てきぱき

・・・まぁ、こんなふうに物事をどう捉えるかというのが、

長所や短所といえるのかもしれない。

アバタもエクボ というのもそうなのかな。

そう観えるということ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現れているもの

2011-11-26 12:55:05 | ひとの幸福
木の枠の写真立てが机の上にある。

この写真立てが何という木から出来ているのか、知らないけど、

昔はどこかの山に生えていた木なんだろ。

木は自然のもの。写真立ては人工の物。

自然と人間とが協力して創った物、ともいえるかもしれない。

物というもの全てがそういうものなのかな。

今、この机の上に在るもの、パソコン、携帯、ノート、ボールペン、

本、懐中電灯、電子辞書、ティッシュ、カップ・・・

みんな全部、自然そのもの(人間が造れないもの)と、

人の頭との合作。


そして、精子も卵子も人は創れない。

人間は社会的動物。自然と社会とで創られてる。

人体という生きてる物質にセットで付いてる心・意識。

心という目に見えないものを創ったのは人間じゃない。

心というものの模様は自分以外の人と自分とで創ったもの。

人間も品物も自然と人との合作。

そう言えるんじゃないかな。

人間という自然は心・意識というものを持つ。

その意識が人工物を創る。

たくさんのその意識がひとを創る。

自然と人間が自然に美しく調和している人を人格者というのかもしれない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

跳び箱

2011-11-26 09:52:52 | 日々の暮らし・思い出
小学生のとき、体育の跳び箱が跳べなかった。

跳び箱じゃなくて、人が台になって跳ぶ馬跳びは出来たのに、

木で出来てる箱が恐くて跳べなかった。

馬跳びが出来るなら出来るはずと言われたけど、

出来なかった。

硬そうな箱に身体が当たったら痛いだろうな、

痛いのはイヤだ、当たるかもしれない、その恐さがあって、

どうしても思いきれなかった。

よく憶えてる。

跳ぶぞと決めて、助走始めても、

箱の前に来ると足がすくんだ。

運動能力的にいえば、私の身体は跳べるように出来てた。

恐さ、不安、が勝っていた。

なんでその恐さ、不安の壁を越えられなかったかといえば、

「跳びたい」がなかったからだ。

跳べるようになりたい、がなかったからだ。

「跳べなくったっていいや」

「そんなこと出来なくったって、構わない」

・・そんな私だった。

あきらめた、という意識が浮かんだこともなかったと思う。

自然にあきらめてた。

いま「あきらめない」という言葉をよく聞くけど、

あきらめないようにしよう、なんて無意味。

やりたい気持ちがどれほどのものか、だけ。

周りの人が直接それをどうこう出来るもんじゃない。

どんなことでも、やるのが良い、というわけでもないし、

勿論、あきらめないのが良い、というわけでもないし。

あきらめるのが良いわけでもないし。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

計器

2011-11-26 09:47:48 | ひとの幸福
私が不愉快と感じた自分の中を点検するとき、

動かないものを使う。

どんなものでも点検する時は較べる正常なものが要る。

正しい位置にそのものがあるかどうかと点検する時は

正しい位置がわからなければならない。

正しい位置を示すものがなければ点検できない。

正しい位置を示す計器が、

時と場合で違う所を指すなんてことがあったら、

点検など出来ない。

点検の為の計器はいつでもどこでも、

誰が使っても、

変わらないモノでなければならない。

変わらないものは自然の法則。真理。普遍性。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏と表

2011-11-25 13:44:44 | 新聞を読んで
今朝の新聞の川柳欄に、

「裏と言う漢字に表かくれてる」というのがあった。

ホントにそうだ。面白い。

この世の物事は相対的なものだからね~。


「艱難汝を玉にす」という言葉がこの世にあるけど、

最近はこういう言葉はあまり聞かないなぁ。

「苦労は買ってでもせよ」こんなのもそうだな。

誰でも苦労なんかしたくない。

苦しいことより、楽しいことの方が楽しいに決まってる。


このブログに、「ムカデのように考えないで歩きたい」がある。

それなのに、「考えるのは面白い」がある。

自分が考えないで歩けるよう(意識が自然状態)になるために、

(考える)が要るのかなと思ってる。


赤ちゃんが歩けるようになるために、

歩けない、転ぶ、よろける、失敗する、・・・が要る。

失敗という「裏」に、成功という「表」が隠れてる。

失敗は成功の元、という言葉があるけど、

失敗という経験をしないで成功することって、あるんだろうか。

大王製紙の元会長さんという賢い人はやっと失敗できたのかな。

「成功」が何を表わすのかは人それぞれなんだろうけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路

2011-11-25 11:42:54 | ひとの幸福
四国という土地に何かパワーがあるのかな~。

最近パワースポットとかいう言葉もよく聞くけど。

「同行二人」と背中に書かれた白い法被(ハッピ)を着て歩く人もいる。

前の菅首相もそれをしたと話題になったこともあった。

それをしたことが彼の人生に何か変化を齎したのかな。

空海(弘法大師)と二人連れという意味で同行二人というらしい。

空海が出てくるのもすごい。

空海は日本に密教を持ってきた人で、

本で知ると、世界歴史上のトップクラスの人と思う。

そういう人が日本では弘法さん、大師さんと、

所謂、普通の人に親しまれている。


遍路をすることで心に何が起こるんだろう?

という疑問をずっと持ってた。

私の心の「わからないもの入れ」に入ったままだった。

ウォーキングをやり始めてみて、これは!もしかして??!


歩くのは歩こうと決めただけで、

足は勝手に動いてくれるので、

意識は何かを“する”こと に向かわない。

日常は常に 何かすること に気が行っている。

けど、歩いていると、気は自分の心に映る(思い)に行ってしまう。

内観的、内省的にならざるを得ない・・・

そういうことなのか、と勝手に思った。

(思うというのは誰でも勝手に思えるもんだけど)

瞑想とか座禅というのも同じようなものなんだろか。

いや、瞑想も座禅ももっと深まると、

自他一体という境地にまで行くらしいとは聞いたことがある。

釈迦もずーっと沙羅双樹の木の下で座り込んでいたらしい。

座り込んで、他になにもしない。

自分の心を観る以外に、することがなくなる、

という場に自分を追い込んだんじゃないかな。

そこで悟りをひらいたというのは有名な話だ。

荒修行という自分に禁止を与える事では悟ることが出来ない、と

思い知ったという話も聞いたことがある。


その場所、空間もなにかしらの作用をしている、

というのも、もしかしてあるのかもしれないけど。

そのへんのことはよくわからない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする