ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

小池龍之介さんの「超訳ブッダの言葉」

2014-03-31 09:51:44 | 本を読んで
最近この人の本を読んだ。

この中の一つの章。「『誰々の』を忘れるハピネス」

「この考えは僕のオリジナルさ」

「これはあの人の発案だ。負けたなぁ」

「これはあいつの意見だ。けなしてやろう」

これら「誰々の」という狭い見方をすると、

君の心はガタピシ(我他彼此)と苦しくなる。

「自分の」。「他人の」。

このふたつを君が忘れ去ったなら、

仮に何も持っていなくても、

しあわせな心でいられるだろう。

・・・・・以上。

全くその通りで、他の章もみなその通りだなと思うものばかりなんだけど、

どうしたらこういう境地になれるかは書かれていない。

他の小池さんの本には、瞑想をする、ということが書かれてあった。

自分の意識観察。

それと先人が得た智慧を学ぶことだと思う。

瞑想という方法もあるんだろうし、

ブッダもそうしてなれたのだろうと思う。

他の多くの僧もそういう経験をして、

このような境地があることを知り、

それを実感したのが瞑想という経験だったのかと思う。

それが山の頂上だとすると、

そこへの行き方はたくさんあるのかと思う。

山岸さんが考えたものかと思うけど、

鶴見俊輔さんも受けたあのセミナーは瞑想をするわけでもなく、

教えられたわけでもなく、

哲学的命題をただただ自らに問う、というもので、

私にはとてもいいキッカケでいい方法だった。

どんな方法で頂上に行き着いたとしても、そこにずっと居られるとは限らない。

この世で暮らしているといろんなことがあって、

いろんなこと思って、

山の頂上から滑り落ちることなど簡単だ。

あっという間に一合目まで滑り落ちるなんてこともあるだろうと思う。

だからこそ、常に自らに問うということが要るのかなと思う。

そうしたければ、だけど。






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順序

2014-03-29 15:22:30 | ひとの幸福

自分が今なにを思っているかに無意識的状態、すなわち、

自分の行動行為に無自覚な状態

(それはそれ以前の人生での体得があるから)→

自分の意識にときたま意識的になる→

自分の意識に自覚的で居ることを体得する→

自覚的に行為行動することを無意識的にやれるようになる。

・・・こんなふうに思ったんだけれども・・・
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指貫行方不明 

2014-03-29 14:48:39 | 量子力学と心
手芸をしてる途中で他の用事をして戻ったら、右指にしてた指貫がない。

外した記憶がなかった。洗濯してたから、

その時指から抜けて洗濯機に落ちたかもしれないと思って見たら、

脱水された洗濯物と一緒にそれはあった。

今回、指貫を外した記憶がなかった事をちゃんと覚えていた。

手芸していて、使っていた待ち針や糸を、

「いま、待ち針を抜いて針山に刺した」

「いま糸を針箱の引き出しに入れた」と、

いちいち意識的になる練習をしていたからだ。

手芸をする前とした後で待ち針の数が減っていることがあって、

周り中を探し回る羽目になる。探すのが面倒くさい。

以前は「コレコレを覚えていよう」という思いを、

“意識的に”する練習をしたことがあるけど、

それでは効果がなかった。

それが「指貫を今外してドコソコに置いた」と鉄道員の指差し確認みたいに

声は出さないけど、いちいち意識的に思う、

ということを始めていたので、

「指貫を外してドコソコへ置いた」、という記憶がまるでなかったから、

外してないのに外れてしまったんだなと思って、

探したら、すぐに見つけることが出来た。

こんなこと些細なことだけど、私には大きな出来事だった。

「これを覚えていよう」という思いでは効果が無く、

「指貫を外してドコソコに置いた」と自覚的に思うことは効果があった。


『見ようとすると見えない』という不思議な粒子の振る舞いがある。

眠ろうとすると眠れない。忘れようとすると忘れられない。

覚えていようとすると忘れる。

見る、眠る、忘れる、覚える、この4つとも(行動)じゃない。

自然な(思い)だ。

「~しよう」は行為・行動の意志を表わす言葉だから、

行動じゃない「覚えよう」では覚えられない。

「忘れよう」「眠ろう」「覚えよう」という言葉はこの世にあるけど、

自然に忘れることは忘れる、自然に眠くなったら眠る、自然に覚えてたら覚えてる。

けど、覚えていたかったら、

「指貫をドコソコへ置いた」という言葉を意識的に思うこと。

「それを覚えよう」という顕在意識は要らない。

見ようとすると見えない、という粒子の振る舞いと、

意識の振る舞いは同じだからかなと思う。



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インド・バラナシ

2014-03-27 10:23:15 | ひとの幸福
BSで世界水紀行というのをやっていて昨日はインドのベナレス。

今はインド風の発音なのかバラナシというらしい。

ま、それもどうでもいいんだけど。

ガンジス川はインドのヒンズー教徒にとって神そのもの。らしい。

日本人にとっては違うだろう。

この番組見ていて思った。

日本のあるホテルでは最近、

イスラム教徒の人たちが観光客として来るということもあって、

メッカの方向に向かって礼拝する場所を用意している、

という話を聞いたことがある。

たくさんの客が来て欲しい、という経営的なものが

あってのことは無論だけど。


日本は神道あり仏教ありキリスト教あり、

結婚式は神道で葬式は仏教というようなことも、

なんら不思議もなく為されている。

この前書いた「菊と刀」の中の話で

第二次大戦後、多くの日本人が天皇崇拝が占領軍(アメリカ)崇拝に

すんなり変わったという現象と似てるものがあると思った。

誰が何の宗教をやって(?)いようと構わない。

このことを日本人は一貫した考えがなくて、

いい加減だとか言われるようだけど、

そういうことなんだろうか・・・

上に書いたホテルの話でもそうだけど、

何教だろうとその人が“それを尊ぶ気持ち”でいることを尊ぶ、

というのがあるんじゃないか。

対象である事柄がどうのこうのではなく、

それについて、コレコレ思う、その“気持ち”を

尊ぼうという風潮があるように思う。

小さな子供が汽車の玩具で遊んでいようと、

ままごとセットで遊んでいようと、そんなことはどっちでもいい。

それを楽しんでいるか、ということが大事、

というのと同じじゃないかと思う。



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春だ♪

2014-03-24 09:43:12 | 日々の暮らし・思い出
この頃は庭に出るのが楽しみになってきた。

チューリップも幾つか蕾が開き始めた。

モッコウバラも凄い大量の蕾が嬉しそうにしてる。

白のモッコウバラを植えて4年。

一昨年数輪、去年は10くらいの枝に花をつけたのが、

今年は素晴らしく成長して塀の三分の一を占めるくらい。

黄色の方より勢いづいてる。

黄色が白鵬関、白いのが鶴竜関のような、そんな按配。

枝が若い。見てて白い方がエネルギッシュに感じる。

黄色のは東京に居る時、通りがかりの道で素晴らしいこのバラの生垣を見て

そこの人と話をしたら、その人がくれた小さな苗がこれだ。

東京では庭がなかったので鉢植えにしてベランダに置いといたものを

こちらに来て地植えにしたらぐんぐん大きくなった。

やっぱり大地は凄い。

この土は地球全部と繋がっているんだよね~



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白鵬関のつぶやき

2014-03-23 14:20:16 | 新聞を読んで
昨日相撲の横綱白鵬関が大関の鶴竜関に負けた。

今日のスポーツ欄には小さなこんな記事があった。

白鵬関・・「かみ合わなかった。(相手を)見てしまった。

鶴竜はいつもと違う感じがした。」

おおっ!と思った。

白鵬関、自分を観察してるなと思った。

そんなこと当たり前か。

「相手を見てしまった」・・この台詞をどう受け取るか・・・

相手をよく見るのは勝負してたら当たり前のことだろうけど、

そういう“見る”とは違う“見る”をしてしまったんだろう。

見てしまった、んだから。

見なけりゃよかったのに見てしまった・・・

自分のやることだけにかまけていればよかったのに、

ひとのこと見てるとろくなことはない、

ということかなと思ったよ。

まぁ、それも勝負のうちなんだろうな。

「鶴竜はいつもと違う」・・・

いつもと違う“気”というものがびんびん伝わったのかもしれない。

相撲はとてもシンプルな勝負だから、

スポーツのいろんなルールのわからない私にもわかりやすい。

体力や技が左右する勝負ではあるけれど、

気というものが大きく作用することが

凄くわかりやすい気がして面白く見てる。

まぁ、どんな勝負でもそうなんだろうけど。





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徳のジレンマ

2014-03-23 10:27:56 | 本を読んで
「菊と刀」読み終えないうちに返却しなきゃならなくなった。

第二次大戦後、アメリカ軍が占領軍として日本にやって来た。

日本に来る前、アメリカ人はすごく警戒したらしい。

軍国主義一辺倒の日本は本土決戦とか、

決して捕虜にはならないということなどで、相当抵抗が激しいのではないかと思ったのに、

殆どの日本人は占領軍に協力的で穏やかで平和的だった。

これはどういうことなのか、

アメリカ人や西洋人には本当に不可解だったという。

あまりにもあっさりと変わった。

信用できないともいえるんじゃないか。

こういう日本人の行動の規範はなんなのか???と彼は探ったんだろう。

平べったく言うと、

天皇崇拝が占領軍崇拝に変わっただけで、

天皇と占領軍・アメリカという新しいものとのどっちが正しいか、

なんていう思考は働かない・・・

どういうふうにしたら物事がスムースに運ぶかという思考をしてしまう、

そういう在りようを示してしまうというようなのが日本人・・・

こういう感じなのかと私は捉えたよ。


義理という領域、人情という領域、

忠という領域、孝という領域、

そういう“領域”というものが日本にはあると著者はいう。

「義理と人情」「忠と孝」などと言われるように、

日本人には義理と人情の狭間で迷い悶々とするというようなことがある。

それに対し、西洋では善と悪との領域しかないという。

今の日本人とこの本が出版された頃の日本人とではだいぶ違うと思うけれど、

義理という言葉はまだ健在だ。

面白いと思ったのはこれ。以下。

・・・「日本人は人間の人生を、

善なる力と悪なる力が競い合う舞台 とは見なしていないということだ。

日本人にとって、人生というドラマはバランスを取ることなのだ。

一つの「領域(上に書いた)」において取るべき行動が、

別の「領域」が要求する行動とぶつかってしまうことがある。

あることを実現しようとしてとった行動の道筋が、

別のことを実現するための行動と相容れないこともある。

そうした場合に慎重にバランスを取ることが重要なのであって、

それぞれの「領域」や行動自体は善なのだ。

誰もがその真の衝動に従うなら、誰もが善なのである。

先に引用したサー・ジョージ・サンソムの言葉を借りれば、

日本人は「悪の問題と取り組むことがない」。

日本人の見解によれば、宇宙的な視点に立たなくとも、

悪行は十分に説明できる。

・・・・(それはこういうことだ。)

元来すべての魂は徳により、焼き上げたばかりの刀のように輝いているのだが、

とはいえ、磨くことを怠れば、曇りを帯びてしまう。

この日本人のいう「身から出た錆び」は、

刀についた錆と同じほどに悪いものである。

ひとは自分の徳性に対して、

刀に対するのと同じように手入れしなければならない。

しかし、輝き閃光を放つ魂がやはりその錆の下にあるのであり、

必要なことはそれを再び磨き上げることだけなのだ。」

・・・・・以上引用。

とても面白く読んだ。なるほどと思った。

性格の一貫性や善と悪との相克といった、

西洋人の当たり前が日本人にはない、と彼は観たようだ。

戦後の教育を受けた私たちには結構それがあるようには思うけど。

善悪の相克というのは本当にひとを苦しめるものだなと思う。

今の社会は戦前の頃の日本人の苦しみと違う苦しみを生んでいるように思う。

美醜の相克があるとすれば、

それは善悪の相克と比べて苦しみはないだろうとも思う。

けど、上に引用した刀の錆という例で表わしている日本人の見解というものは

所謂性善説に則っているのかと思う。

街中の自動販売機も性善説に則ってそこに在るものだ。

「輝き閃光を放つ魂がやはりその錆の下にあるのであり、

必要なことはそれを再び磨き上げることだけなのだ。」

こういう見解を日本人が持っているとすれば、

それはすごいことだなと思う。

錆の下には輝いているものがあるとわかっていれば、

錆を落とそうという気になる。

元々そうなっていると思っていれば、錆を落とす気になんかならない。

第一それは錆とは言わない。

錆びていると認識すればそれを落とそうという気になるもんだ。
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ちくちくちくちく・・

2014-03-23 09:49:13 | 日々の暮らし・思い出
アダムちゃんの通園手提げが縫い終えた。

歩きにも行かず、ちくちくちくちく・・・

楽しかったぁ。

保育園布団入れ用手提げやらその他手提げやら

シーツやらをちくちく縫った。

ミシンもあるにはあるけど、何年か前使ったときに調子悪くなってそれきり使わない。

元々メカに弱いし、縫おうと思えば針と糸だけあれば

その場で縫える手縫いがやっぱり面倒くさくなくていい。

テレビやCDの音だけ聞いて目は針や糸や布に。

こういう時間がすごく好き。

手芸は至福の時間といってもいいな。

母も晩年は編み物をよくやっていた。

私の娘たちの小さい頃は何枚もセーターを編んでくれた。

きっと母もそうすることを楽しんでいたんだろう。

ただのメリヤス編みは編んでいても面白くないと言って、

編むのは細かな模様編みのセーターばかりだった。

母が倒れて何年かして、兄嫁さんがたくさんの輪針(編み針)や布や

編みかけのセーターなんかを送ってくれた。

兄嫁さんはそういうことをする趣味はないみたいで。

母は洋裁のプロで私の小さい頃は

下着から胴のところにシャーリングというかゴムを何本も入れた水着なんかも作ってくれた。

既製品を買うよりずっと安く上がったからというわけなんだろうけど。

中学や高校の制服も母が縫ってくれたもので、

嬉しいと思うときもあれば、皆と一緒がいいと思った時もあった。

働くようになってからも通勤用のスーツから何からみんな母が作ってくれた。

渋谷の生地屋さんに何度も一緒に行ったものだ。

あ~、あの頃の私も母も若かったなぁ。

ちょっと感傷に浸っちゃったよ。

送ってくれた母の編みかけのセーターは見るのが辛くて捨ててしまった。

編み目をほどいて別の物を編むという気にもならなかった。

それを最後まで編む気で始めたんだろうけど、

ちょっと休むつもりがそのままになってしまったのか、

やる気がなくなったのか、わからないけど、

針の端には最後の編まれた目があった。

その編みかけのセーターが人生で

最後の編み物になるなどと母は思わなかったろうか。


人はいつも何かの途中で死ぬんだろうなと思う。

当たり前のように次の時があるかと思って今を過ごすんだろうなぁ。

ちくちく作業が好きな私も最後のちくちくがあるんだろうな。

その時がいつかはわからないけど、

物でも心でも途中の物を残して別の世界に行くことになるんだろうなぁ。

でも、できれば制作中の物は残したくないと何故か思うよ。


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小保方晴子さん 

2014-03-14 10:43:30 | ひとの幸福
理研がSTAP細胞の論文を撤回要請へとの一面記事。

今頃彼女はどうしているだろう。

どんな気持ちで寝ているのだろう。

どんな気持ちで日々を過ごしているんだろう。

娘といっていい位の年齢なので、気になる。

科学的なことはまるでわからないけど、

このブログで一つの細胞と人間の意識は共通性があるんじゃないかって書いた。

その考えは変わらないし、

彼女たちの研究ももっとすっきりした形で再び世に出るようになるといいなと思う。


話は違うけど、そういう科学誌の論文の再現性は70%

だとかの話は以前も聞いたことがある。

それにはいろんなわけがあるんだろうけど、

こういう事も言えると思う・・・

どんな研究でも発表された結果に対して不信の目でその実験をしたら、

細胞という生命は量子力学の観測者効果によって、

同じ結果にならないということは明らかなんじゃないかと思う。

どんな研究結果もそういう点でも、

再現性が100%になることはないんだろうと思う。

人の意識の力は大きい。

目に見える形としては同じ行為でも、それをどんな気持ちでやるかで

対象の対応や様子が違ってくるのなんて、

生命の一つである人間界では当たり前のことだと思うよ。

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遠慮と配慮

2014-03-13 16:43:56 | 日々の暮らし・思い出
最近義父が酒の肴はいつも刺身がいいと言った。

遠慮がちの彼にとってはこういう発言は本当に珍しい。

何年か前は酒の肴にはさつま揚げのようなもんでもええんや、

と言ったことがあったので、

その気持ちが続いているのかと思って、

魚がないときはそういうものに登場してもらっていたことがあった。

それがこの前、久しぶりに焼いたさつま揚げを出したんだけど、

一切れ食べただけだった。

あれ??と思ったけど、上に書いたような気持ちでいたとは気づかなかった。

長いこと鰹漁の漁師だった彼は何より鰹の刺身が大好き。

鰹船に乗っていた時は昼飯は毎日ご飯と鰹の刺身だったという。

上の発言を聞いてから、なるべく毎日刺身にしようと思った。

肴を何にしようかと迷わず済むし、

近くのスーパーには他の店で見た事のない刺身用の鰹冷凍ブロックが

いつもあるので買い置きできるし、

それほど高価なものじゃないので、

特売で安い時にまとめて買ってる。

何でも遠慮する彼なので、気遣いないようにと、「安い時に買ってるから・・」

・・みたいなことをこの前言ったら、

安くない時でもない時は買ってくれと言われてしまった。

あ~、それほど刺身がいいんだなと思って、それからはほとんど毎日鰹の刺身。

私は鰹の刺身が彼みたいに大大大好きというふうでもないので、

夫と私の分は同じ皿に盛り付けていたんだけど、

そうすると彼は私のがないと思ってか、

急いで食べ、私に渡そうとする。

それまで毎日刺身じゃなかったときには気づかなかったんだけど、

自分が刺身が大好きだから他の人も大好きだと思うのか、

他のおかずはそういうことはしないのに、

刺身に関しては、早く食べ、残して私に渡そうとする。

ぱっとテーブルを見てそうするようだ。

それに気づいてからは3人だから3皿にした。

すると安心してゆっくり酒を飲んでくれるようになった。

自分だけ刺身をたくさん食べたら申し訳ないと強く思うみたい。

自分だけいい思いをしてはいけないと思うのかなと思う。

本当に優しい。

そしていろんなことに本当に遠慮深い。

もっと遠慮なしでやってほしいとここに来た頃は思ったけど、

彼のこれまでの人生で培われたものだし、

90才過ぎてそれが変わるとは思われないので、

遠慮しないで済むようにこちらが配慮するようにしてる。

遠慮なんてない間柄というのは本当にいいなぁと思うし、

その気楽さはなんともいえないもんだけれど、

今ここに共に暮らしている義父は遠慮する。

そういう彼と一緒に暮らすことで、

今そのままの姿とは違う姿を要求しないことを実践させてもらってる、気がする。

させてもらってる、なんて表現はうざいと思う人もいるかもしれないけど、

平和に仲良く暮らして行きたい私なので、

この境遇が私をそうさせる、んだなと思う。

自分よりずっと高齢な人と共に暮らすという経験は、

しようと思ってもなかなか出来るもんじゃない。

彼に対してそれが苦も無く出来るのなら、

他の人にもそうだろう、とは行かないのが人生の面白いところだ。

他の人にはついつい違う姿を要求する気持ちになる。

テレビや新聞に出てくる人にもそれが出てくる・・・

何やってんだろ!?・・なんて偉そうに。

ま、それも今そういう私だな、ということで。丸。

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5億円宝くじ

2014-03-12 13:30:04 | テレビを見て
キムタクと朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」に出てた俳優さんが出てる宝くじコマーシャルがある。

あれ、好き。なんだか笑っちゃう。

「お金持ちになって、幸せはお金じゃないよって言ってみたい」っていう台詞。

なんで好きなんだろ??

『幸せはお金じゃない』なんて誰でも知ってる。

でも、実際お金で美味しい物が食べられたり、

洒落た洋服着物を着られたり、外国に行けたり、

いい家に住めたり、やりたいことやれたり・・・

・・するこの世で、

幸せはお金じゃ得られないって堂々と言いたいけど、

お金がなくて貧乏暮らしをしてれば、実感込めて言えない。

本当に欲しいものがなんでも得られる体験をしてからなら、

この言葉を実感をもって言える、ともいえる。

お金を持ってなくて結構しんどいのに、

幸せはお金じゃないよ、なんていうのは

負け惜しみみたいだもんね。

やっぱり幸せは物も心もだ。






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さわやかなそよ風や・・

2014-03-08 14:48:49 | 本を読んで
仏教法典の中に、「仏国土の建設」という見出しがあって、

それに・・・

「さわやかなそよ風や一輪の花が春の来たことを告げるように、

一人がさとりを開けば、

草木国土、山河大地ことごとくみな仏の国となる。」

というのがあった。

一粒万倍という奴かな。

山岸さんも釈迦と気が合うと言ってたくらいだから、

これを読んで同感したろうね。
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断ち切る

2014-03-08 13:47:21 | ひとの幸福
「すでに起こった悪は“断ち切る”」

例えば、殺人という起こった悪に対しての、「断ち切る」ということは

どう行為行動することなのか・・・?

さっきのこの問いについて・・・

「四正勤」の他の三つはそう“なる”ような、そう“ならない”ような、

キッカケとなるような行為行動をとることだと思うけれど、

断ち切るというのもやっぱりそれか???

二度と殺人などしない、となるような周囲の行為行動とは・・・

罰を与えるというのが今のところのそれだろう。

けれど、そうして来て、殺人行為は断ち切られたか?

答えは否。

四正勤を考えついた人は多分仏陀となった釈迦だろうと思う。

釈迦やキリストは罰したか。罰を与えたか。

やっぱり釈迦の言ったという「見ないことが究極のありようを見たことなのです」

という言葉のように、

それを判断の目で見ない。決め付けて見ない。

それは空(くう)なのだから。

・・ということだったんじゃないかと思う。

そして周囲が皆そういうふうに行為行動したら、どうなるか。

地球上で起こった悪がその方法で再び起こらないかどうかは・・・

人類はまだ経験してない。

釈迦やキリストのようにみんながならないとその実験は出来ないんだろうな。

でもそういう人が一定程度の人数を越えたら、

後はあっという間なのかもしれない。

燎原の火のように。

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「四正勤(ししょうごん)」

2014-03-08 13:21:19 | 本を読んで
その仏教経典に「四正勤」というのが載っていた。

四つの正しい勤め・・か。この勤めは仏教的なものだろうけど。

「これから起ころうとする悪は起こらない先に防ぐ。

すでに起こった悪は断ち切る。

これから起ころうとする善は起こるように仕向ける。

すでに起こった善はいよいよ大きくなるように育てる」というもの。

とても印象的な文章だ。

いろんな現象は因縁によって起こると捉えているからこその

見解なのかと思った。

“因縁”て、広辞苑によれば、(仏)で、物事の生ずる原因。因は直接的原因、

縁は間接的条件。因と縁から結果(果)が生ずること。

物事は因縁によって起こるので、

それが起こらないようになるにも因縁によるということだろうと思う。

“因縁”には由来、来歴、縁、ゆかり、とか関係、

キッカケ、動機というような意味もある。

来歴なんていうのはそうなった一部始終のプロセスという感じがする。


これから起ころうとする悪は起こらない先に防ぐ・・

これから起ころうとする善は起こるように“仕向ける”・・

すでに起こった善はいよいよ大きく“なるように”育てる・・・

これらはみな、対象を~になるようなキッカケを創る、というような感じがする。

それに比べ、表現が明らかに違うのは、

「すでに起こった悪は“断ち切る”」という表現だ。

例えば、殺人という起こった悪に対しての、「断ち切る」ということは

どう行為行動することなのか・・・?




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最上の施し

2014-03-08 12:43:52 | 本を読んで
前に泊まったホテルのベッドサイドテーブルに聖書と仏教経典があって、

そのとき仏教法典を読んだ。

なかなか面白かったけど一泊だけでは読みきれず、

それきりだったんだけど、

この前図書館に行ったら同じ本があったので借りて全部読んだ。

とても面白かった。なるほどなるほどと読んだ。

そう思えない箇所も在ったけどね。


なかに、最上の施し というのがあって、それは

「施して喜び、

施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、

この三つを共に忘れることであり、それを常に行なうこと」

それが最上の施しだという。

それが出来るのは自我というやっかいなものが

完全になくなっている状態なんだろうと思った。

昨日書いた郵便局に車を置き忘れてきたというような忘れる、とは

ちょっとというか、かなり違う“忘れる”ことだね~。

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