古事記や日本書紀には「なる」という言葉が一番多いそうだ。
養老先生の「無思想の発見」に出ていた。
どんな物でも、事でも、目に見えるもの、見えないもの、ぜ~んぶ、
在るものは なってきたものだ。
この日本語は本当にほれぼれする。
お母さんになる。春になる。雨になる。
優しい気持ちになる。石油からプラスチックになる。
地球のいろんな堆積物から石油になる。
土から器になる。木から机になる。
大人になる。出来るようになる。やれなくなる。
悲しい気持ちになる。嬉しくなる。眠くなる。
ケンカになる。仲良くなる。
批判したくなる。非難したくなる。
認めたくなる。やりたくなる。
戦争になる。平和になる。
「なる」は現在形の言葉だけど、
それまでの全ての時空を含んでいる。
この前怒鳴ったことを書いたけど、書くという行為をすると、
後になって、その文章だけでは済まないものが浮かんで来るときと、
全然そんなことが浮かばない時とがある。
怒鳴ったことを書いた後はこんなのが浮かんだ。
いきなり右の頬を叩かれたら、左の頬も差し出しなさい・・・
こんなふうなのが聖書にあるようだけど、
それを思い出したんだ。
いきなり頬を叩かれるなんて、通常そんなことないよなぁ・・
そう思ってた自分だったけど、今回のこれ、
この前書いた、自分がなんの落ち度もないのに(そう思った)、
いきなり怒りをぶつけられた、そのことはこういうことも言ってるのかと思ったのだ。
そうだ、通り魔とか無差別殺人無差別攻撃なんかもそれに入るね。
相手の勘違い、誤解や曲解による怒りを受けた場合のことも言ってるんじゃないか・・
そう思ったんだ。
いや、本当の意味は知らないよ。
もっと違うことなのかもしれない・・わからないけど。
その時の自分にとっては理不尽な対応も、
相手がその時そうなった・・ことは自分に全く無関係とはいえない・・
いや、初めて会っていきなりのことであっても・・
そういう全てのことは時空の中で繋がって今ここに在るのだと、
時間的にも空間的にも一体なのだと、
心底納得出来ていれば、
右の頬をいきなり殴られても、腹立ちは生まれないのかもしれない・・・
腹立ちがなければ、それが起こらないためにじゃあどうしたらいいのかを
理性的に考えられるはず・・・と思う。
けど、実際腹が立ってあんなふうに我慢なく、八つ当たりしてみて、
馬鹿なことしたなと思ったし、
また同じようなことをされたときに
自分がどんなふうに振舞えば双方の今後にとっていいか、
いろいろ考えるきっかけにはなったよ。
信心とか神さまとかの宗教で使われる言葉は
長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う、
とこの前書いたけど、その本、その文章、その人の言葉、を、
読みたい、知りたいと強く思って読んでいると、
蓄積されている人間の悪臭は消えて行くものだ。
言葉についてのいわば、思い込み、キメツケが離れて行かざるを得ない、という感じ。
長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う、
とこの前書いたけど、その本、その文章、その人の言葉、を、
読みたい、知りたいと強く思って読んでいると、
蓄積されている人間の悪臭は消えて行くものだ。
言葉についてのいわば、思い込み、キメツケが離れて行かざるを得ない、という感じ。
空海の言葉。
「働いているときも、
休んでいるときも、
思いと行為は一致していなければなりません。
眠っているときも、
目覚めているときも、
世界は常に変わっているのです。」
原文は・・・
「行に在り、座に在りても、
観智離れず。
あるは眠り、
あるは覚るに、道場すなわち変ず。」
観智離れず、という言葉は
思いと行為は一致しなければならない と訳するのか・・・
そのような意味なのか・・
美味しいと思ったら、そのように行為しなければならない、
嫌な奴がくれた食べ物を食べ、美味いと思ったのに、
不味いなんぞと言わないように、
と空海は言っていたのか・・・
また、
~こうしたいと思っていることは、
そう“なる”ように行為しなければならない、と、
空海は言っていたのか。
そうなっているか、ならなかったか、見届けることをしなければならないと
空海は言っていたのか。
智という字はそんなニュアンスがあるんじゃないか・・などと
無学な私は勝手に思ったよ。
道場を世界と訳しているのはどうしてなんだろう???
「道場」を広辞苑で見ると・・・
1.釈尊が成道した菩提樹の下。
2.仏法の修法・修行の場所。寺院。
3.武芸を教授し練習する場所。
4.修養を訓練を主として団体生活をする所。
・・・この4つが書かれてあった。
「道場」が「世界」・・・
仏教や空海や、空海の居たその時代のことを研究した人が訳すのだから、
きっとそういう感じの言葉なんだろうと思う。
世界は人が修行する場所・・ということなんだろうか・・・
そんなふうに思っている人はあまりいないと思うけれど、
思っても、思っていなくても、
結果として、そうなっているんじゃないか、という気もする。
「働いているときも、
休んでいるときも、
思いと行為は一致していなければなりません。
眠っているときも、
目覚めているときも、
世界は常に変わっているのです。」
原文は・・・
「行に在り、座に在りても、
観智離れず。
あるは眠り、
あるは覚るに、道場すなわち変ず。」
観智離れず、という言葉は
思いと行為は一致しなければならない と訳するのか・・・
そのような意味なのか・・
美味しいと思ったら、そのように行為しなければならない、
嫌な奴がくれた食べ物を食べ、美味いと思ったのに、
不味いなんぞと言わないように、
と空海は言っていたのか・・・
また、
~こうしたいと思っていることは、
そう“なる”ように行為しなければならない、と、
空海は言っていたのか。
そうなっているか、ならなかったか、見届けることをしなければならないと
空海は言っていたのか。
智という字はそんなニュアンスがあるんじゃないか・・などと
無学な私は勝手に思ったよ。
道場を世界と訳しているのはどうしてなんだろう???
「道場」を広辞苑で見ると・・・
1.釈尊が成道した菩提樹の下。
2.仏法の修法・修行の場所。寺院。
3.武芸を教授し練習する場所。
4.修養を訓練を主として団体生活をする所。
・・・この4つが書かれてあった。
「道場」が「世界」・・・
仏教や空海や、空海の居たその時代のことを研究した人が訳すのだから、
きっとそういう感じの言葉なんだろうと思う。
世界は人が修行する場所・・ということなんだろうか・・・
そんなふうに思っている人はあまりいないと思うけれど、
思っても、思っていなくても、
結果として、そうなっているんじゃないか、という気もする。
同じく『空海 人生の言葉』より・・・
「あなたの心が暗闇であれば、
巡り合うものはすべて禍いとなります。
あなたの心が太陽であれば、
出会うものはすべて宝となります。」
原文はこれよ。
「心暗きときは即ち遭う所悉く禍なり。
眼明らかなれば則ち途に触れて皆宝なり。
奈良時代の空海が書いた言葉。
古文というのはいいね。
理解できれば。
「あなたの心が暗闇であれば、
巡り合うものはすべて禍いとなります。
あなたの心が太陽であれば、
出会うものはすべて宝となります。」
原文はこれよ。
「心暗きときは即ち遭う所悉く禍なり。
眼明らかなれば則ち途に触れて皆宝なり。
奈良時代の空海が書いた言葉。
古文というのはいいね。
理解できれば。
「あまりに近すぎて見えないものは、
あなた自身の心です。
とても微細で、どこにでも存在しているのは、
あなた自身の仏なのです。
仏というものが
不思議で理解しがたいのと同様に、
あなたの心もまた広大で
はかりしれないものなのです。」
・・・空海 秘密曼荼羅十往心論 巻第九。
こういうのを読むと、
心や仏というものが量子力学的な存在なんだと、
空海は知っていたのかとなぁ・・などと夢想する。
あなた自身の心です。
とても微細で、どこにでも存在しているのは、
あなた自身の仏なのです。
仏というものが
不思議で理解しがたいのと同様に、
あなたの心もまた広大で
はかりしれないものなのです。」
・・・空海 秘密曼荼羅十往心論 巻第九。
こういうのを読むと、
心や仏というものが量子力学的な存在なんだと、
空海は知っていたのかとなぁ・・などと夢想する。
「哀しい哉、哀しい哉、復(また)哀しい哉。
悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉。」
・・・これは空海の『遍照発揮性霊集 巻第八』にある言葉だそう。
川辺秀美さんという人が編訳の『空海 人生の言葉』というのの中にある。
最初の方にこれがあった。
声に出して読み始めると涙が流れ出て来る。
なんで???と自分でも思うけど、
勝手に出て来る。
空海がこれを書いたとき、どんなふうに哀しかったのか、
何がどんなふうに悲しかったのか、わからないし、
哀しいと書いて何を伝えたかったのかもわからない。
何故私から涙が出て来たのかも、わからない。
何か一つのことで悲しくて涙が出た、という感じでもない。・・
何かを具体的に思い出して涙が出て来たわけじゃない。
なにか・・この、人生というもの・・に
そういうことを感じたんだろう・・・
この詩のような言葉を読んだだけで、
涙が流れた。
言葉の力なんだろうな、と思った。
悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉。」
・・・これは空海の『遍照発揮性霊集 巻第八』にある言葉だそう。
川辺秀美さんという人が編訳の『空海 人生の言葉』というのの中にある。
最初の方にこれがあった。
声に出して読み始めると涙が流れ出て来る。
なんで???と自分でも思うけど、
勝手に出て来る。
空海がこれを書いたとき、どんなふうに哀しかったのか、
何がどんなふうに悲しかったのか、わからないし、
哀しいと書いて何を伝えたかったのかもわからない。
何故私から涙が出て来たのかも、わからない。
何か一つのことで悲しくて涙が出た、という感じでもない。・・
何かを具体的に思い出して涙が出て来たわけじゃない。
なにか・・この、人生というもの・・に
そういうことを感じたんだろう・・・
この詩のような言葉を読んだだけで、
涙が流れた。
言葉の力なんだろうな、と思った。
相手との関係性よってとか、
状況によってなんかで言葉遣いは変わるものだ。
この前書いたけど、「~してもらっていいかな」編では、
「~して」「~してちょうだい」「~してください」
「~して頂けますか」「~して頂けませんでしょうか」
「~してくれる?」「~してもらえる?」
「~してもらっていいかな」
・・・こんなふうにいろいろある。
「~してもらっていいかな」を聞くようになったのはここ3,4年かなぁ。
この言葉遣い自体には許可を求める、という意味合いがあると思う。
そう思うんだけど、違うかな・・・
この言葉遣いをたくさん聞くようになった世の中に、
相手の機嫌や相手との関係性を過剰に気にする、最近の風潮を感じてしまう私だ。
おっかなびっくり生きてるみたいな・・・
こんなふうに感じるのは私だけなんだろうか?????
でも言葉ってたくさん聞いていると、
知らぬ間に使ってしまうということがある。
この前、スーパーで私も知らぬ間に使ってたし・・・
その時、別におっかなびっくりはしてなかったわたしだ。
言葉を覚え始めの幼児が聞いた言葉をなんでも真似するのと同じなのか・・・???
・・・でも、それじゃあなぁ・・・
・・と言葉にこだわる私です・・・
状況によってなんかで言葉遣いは変わるものだ。
この前書いたけど、「~してもらっていいかな」編では、
「~して」「~してちょうだい」「~してください」
「~して頂けますか」「~して頂けませんでしょうか」
「~してくれる?」「~してもらえる?」
「~してもらっていいかな」
・・・こんなふうにいろいろある。
「~してもらっていいかな」を聞くようになったのはここ3,4年かなぁ。
この言葉遣い自体には許可を求める、という意味合いがあると思う。
そう思うんだけど、違うかな・・・
この言葉遣いをたくさん聞くようになった世の中に、
相手の機嫌や相手との関係性を過剰に気にする、最近の風潮を感じてしまう私だ。
おっかなびっくり生きてるみたいな・・・
こんなふうに感じるのは私だけなんだろうか?????
でも言葉ってたくさん聞いていると、
知らぬ間に使ってしまうということがある。
この前、スーパーで私も知らぬ間に使ってたし・・・
その時、別におっかなびっくりはしてなかったわたしだ。
言葉を覚え始めの幼児が聞いた言葉をなんでも真似するのと同じなのか・・・???
・・・でも、それじゃあなぁ・・・
・・と言葉にこだわる私です・・・
「~してもらっていいかな」
この言葉遣いを娘からたくさん聞くことがあって、
そのとき、なんだか居心地悪く、
そういう中で一度だけシンプルに「~して」と言われた時は
とても自然に感じた。
そういう言葉遣いをされて嬉しかった。
石垣から戻って近くのスーパーに行ったとき、
日曜日だったのでレジ係は普段見ない高校生?のアルバイトだった。
割と重いものを買ったので、そこにある段ボールを持って行き、
「これ(店の清算済みカゴじゃなく)に入れてもらっていいかな」と私は言ったのだった!
その言葉を聞いたアルバイトの女の子はきっと
居心地悪くも良くもなかったろうと思う。
なんとも思わなかったんじゃないかと思う。
私は何故「これに入れてもらっていいかな」と口走ったのか・・・
なじみのない高校生らしき女の子だったから・・・・・と思う。
いつもの人なら、「入れるね」と言って勝手に入れる私だ。
そう、高校生らしき彼女に対して遠慮があった私だった。
娘から「~してもらっていいかな」の言葉を投げかけられて、
遠慮なんてしてほしくないのに・・・
遠慮されるなんて、寂しい・・・
・・・そういう心があった。
けれどまぁ、娘が遠慮してその言葉遣いをした、とは言えないし、わからない。
最近はそういう言葉遣いをテレビでもよく聞くし、
職場でもそういうふうに言っているんだろうし・・・
そういえば、娘はダンナにもそういう言葉遣いをしていたからなぁ・・・
娘の言葉遣いに居心地悪さを感じたのは他の誰でもない私だ。
“私が”居心地悪さを感じただけで、
そういう言葉を聞く彼女のダンナも高校生バイトの女の子も
なんとも思ってなかったろうし、
最近の日本では「~してもらっていいかな」は
特に考えもせずに当たり前に使っている言葉遣いになったんだろうと思う・・・・・
そういうのについていけない私は年寄りということなのかなぁ・・・
この言葉遣いを娘からたくさん聞くことがあって、
そのとき、なんだか居心地悪く、
そういう中で一度だけシンプルに「~して」と言われた時は
とても自然に感じた。
そういう言葉遣いをされて嬉しかった。
石垣から戻って近くのスーパーに行ったとき、
日曜日だったのでレジ係は普段見ない高校生?のアルバイトだった。
割と重いものを買ったので、そこにある段ボールを持って行き、
「これ(店の清算済みカゴじゃなく)に入れてもらっていいかな」と私は言ったのだった!
その言葉を聞いたアルバイトの女の子はきっと
居心地悪くも良くもなかったろうと思う。
なんとも思わなかったんじゃないかと思う。
私は何故「これに入れてもらっていいかな」と口走ったのか・・・
なじみのない高校生らしき女の子だったから・・・・・と思う。
いつもの人なら、「入れるね」と言って勝手に入れる私だ。
そう、高校生らしき彼女に対して遠慮があった私だった。
娘から「~してもらっていいかな」の言葉を投げかけられて、
遠慮なんてしてほしくないのに・・・
遠慮されるなんて、寂しい・・・
・・・そういう心があった。
けれどまぁ、娘が遠慮してその言葉遣いをした、とは言えないし、わからない。
最近はそういう言葉遣いをテレビでもよく聞くし、
職場でもそういうふうに言っているんだろうし・・・
そういえば、娘はダンナにもそういう言葉遣いをしていたからなぁ・・・
娘の言葉遣いに居心地悪さを感じたのは他の誰でもない私だ。
“私が”居心地悪さを感じただけで、
そういう言葉を聞く彼女のダンナも高校生バイトの女の子も
なんとも思ってなかったろうし、
最近の日本では「~してもらっていいかな」は
特に考えもせずに当たり前に使っている言葉遣いになったんだろうと思う・・・・・
そういうのについていけない私は年寄りということなのかなぁ・・・
「転んでもただでは起きない」
転んでもただでは起きぬとは、たとえ失敗しても、
そこで利益になるものを得ることのたとえ。
また、どんな事態になっても必ず何か自分の利益になるものを見つけ出すという、
欲深い人間のたとえ。
という意味だそう。
人は転ぶ。失敗をする。間違う。
転ばない人は多分一人もいない。
転ばぬ先の杖、というのもあるけど、消極的過ぎるとも感じる。
転ぶのや失敗することを、以後そうならないための機会にすることも
私たちは出来るし、
そういう機会にしないことも出来る。
失敗をいいキッカケにすることが出来るのは欲深の人間だ。
欲はいいものだ。
転んでもただでは起きぬとは、たとえ失敗しても、
そこで利益になるものを得ることのたとえ。
また、どんな事態になっても必ず何か自分の利益になるものを見つけ出すという、
欲深い人間のたとえ。
という意味だそう。
人は転ぶ。失敗をする。間違う。
転ばない人は多分一人もいない。
転ばぬ先の杖、というのもあるけど、消極的過ぎるとも感じる。
転ぶのや失敗することを、以後そうならないための機会にすることも
私たちは出来るし、
そういう機会にしないことも出来る。
失敗をいいキッカケにすることが出来るのは欲深の人間だ。
欲はいいものだ。
「腫れ物に触るよう」
気難しい人などを、恐る恐る取り扱うさまの形容。
機嫌を損じやすい人に恐る恐る接するさま。 「 -に扱う」
身体にできた腫れ物には触らなければいい。
触られた人が痛い思いをしないで済む。
まぁ、触らなければ痛くないけど、
そこが正常じゃない状態だから熱を持ってる、ということはあるだろうね。
そこを治療しようとすれば、触らないとできない。
又は、治療せずに自然治癒を待つという選択肢もある。
この諺にあるように、心に腫れ物を持ってる状態というのが人にはある。
自分ではそういうものを持ってるなんて思ってないことの方が多いかもしれないけど。
腫れ物に触らないようにする、というのは
相手の心の傷が痛くならないようにという配慮からの行為だろう。
治療のつもりで触ってしまって、
治療にならず悪化してしまうことも身体の腫物でもあると思うけど、
心の傷やトラウマでも結構あると思う。
自分の経験ではそういうことがある。
要らぬお節介という奴だ。
『触らぬ神に祟りなし』で書いたけど、
触らず様子を観るだけにしてると、自分の力、自然治癒力で治る場合もある。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」というのもあるけど、
下手な鉄砲だとわかっていれば打たない方がいい、ということだ。
下手だという自覚がないのが一番手に負えないのかもしれないなぁ。
これ、自分のことだよ。
自分の状態を知らないのは一番の困り者だね~
気難しい人などを、恐る恐る取り扱うさまの形容。
機嫌を損じやすい人に恐る恐る接するさま。 「 -に扱う」
身体にできた腫れ物には触らなければいい。
触られた人が痛い思いをしないで済む。
まぁ、触らなければ痛くないけど、
そこが正常じゃない状態だから熱を持ってる、ということはあるだろうね。
そこを治療しようとすれば、触らないとできない。
又は、治療せずに自然治癒を待つという選択肢もある。
この諺にあるように、心に腫れ物を持ってる状態というのが人にはある。
自分ではそういうものを持ってるなんて思ってないことの方が多いかもしれないけど。
腫れ物に触らないようにする、というのは
相手の心の傷が痛くならないようにという配慮からの行為だろう。
治療のつもりで触ってしまって、
治療にならず悪化してしまうことも身体の腫物でもあると思うけど、
心の傷やトラウマでも結構あると思う。
自分の経験ではそういうことがある。
要らぬお節介という奴だ。
『触らぬ神に祟りなし』で書いたけど、
触らず様子を観るだけにしてると、自分の力、自然治癒力で治る場合もある。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」というのもあるけど、
下手な鉄砲だとわかっていれば打たない方がいい、ということだ。
下手だという自覚がないのが一番手に負えないのかもしれないなぁ。
これ、自分のことだよ。
自分の状態を知らないのは一番の困り者だね~
触らぬ神に祟りなし
関係しなければ、災いを招くこともない。傍観的に対処するのが最良である。
・・・という意味合いだそうな。
今までこの言葉は人生を生きるのに何か消極的だな~
みたいな感じがあったんだなぁ・・
最近この言葉がふっと湧いてきたよ。
この諺、かなりなもんなんじゃないかと思ったわ。
要らぬ干渉、お節介をしなければ、物事は物事自身の力で進んでゆく。
物事自身の力、というより、その人の事ならその人自身の力で。
関係しなければ、災いを招くこともない。傍観的に対処するのが最良である。
・・・という意味合いだそうな。
今までこの言葉は人生を生きるのに何か消極的だな~
みたいな感じがあったんだなぁ・・
最近この言葉がふっと湧いてきたよ。
この諺、かなりなもんなんじゃないかと思ったわ。
要らぬ干渉、お節介をしなければ、物事は物事自身の力で進んでゆく。
物事自身の力、というより、その人の事ならその人自身の力で。
「狭き門より入れ」という言葉の意味は
幸福になる一番の近道のことなんじゃないかと思った。
相対的に物事を捉えることを超えて、絶対的な処から自分を観る方法。
他はどうで在れ・・・と云った考え方で自分を観、実践する方法。
いろんな物事が今そのような姿で在るのは時間的空間的全体の動きでそうなった、
というのは勿論なんだけど、
自分の身に起こることは自分が引き起こしたと、
そうなったプロセスを納得できる自分になること。
幸福になるのも不幸になるのも自分。世界は自分。
青い本に、…自分に一番きびしい事で・・・
という箇所があったけど、
その意味はこういうことなんだとこれを書いて思った。
「狭き門より入れ」は、新約聖書の言葉で、
天国に至る道のけわしさのたとえ、と広辞苑にあった。
なるほどと思った。
幸福になる一番の近道のことなんじゃないかと思った。
相対的に物事を捉えることを超えて、絶対的な処から自分を観る方法。
他はどうで在れ・・・と云った考え方で自分を観、実践する方法。
いろんな物事が今そのような姿で在るのは時間的空間的全体の動きでそうなった、
というのは勿論なんだけど、
自分の身に起こることは自分が引き起こしたと、
そうなったプロセスを納得できる自分になること。
幸福になるのも不幸になるのも自分。世界は自分。
青い本に、…自分に一番きびしい事で・・・
という箇所があったけど、
その意味はこういうことなんだとこれを書いて思った。
「狭き門より入れ」は、新約聖書の言葉で、
天国に至る道のけわしさのたとえ、と広辞苑にあった。
なるほどと思った。
今朝の新聞に「決河」は何と読むか。というのが出ていた。
週に一度掲載される漢字の読み方欄だ。
元々「決」という字の意味は堤防を切って水を流すことだという。
なるほどと思った。
迷っていたことや、とても出来ないと思うことなんかを
よし!やる!と覚悟する気持ちで決心すると、
それまで停滞していた物事が思ってもいなかった方向に生き生きと動き出す、
という感触を持っていたけど、
「決」という字の元々の意味を知って、
そういう現象になるに相応しい言葉なのだと思った。
「決」を広辞苑で見てみたら覚悟するという意味もあった。
言葉は不思議だ。不思議に思ってしまう私なんだけれど、
不思議でもないようにも思ってしまう私もある。
目に見えない世界を表わすものとして最初に言葉があった・・・
最初に言葉があった 言葉は神であった
この言葉が抵抗なく入ってくる。
週に一度掲載される漢字の読み方欄だ。
元々「決」という字の意味は堤防を切って水を流すことだという。
なるほどと思った。
迷っていたことや、とても出来ないと思うことなんかを
よし!やる!と覚悟する気持ちで決心すると、
それまで停滞していた物事が思ってもいなかった方向に生き生きと動き出す、
という感触を持っていたけど、
「決」という字の元々の意味を知って、
そういう現象になるに相応しい言葉なのだと思った。
「決」を広辞苑で見てみたら覚悟するという意味もあった。
言葉は不思議だ。不思議に思ってしまう私なんだけれど、
不思議でもないようにも思ってしまう私もある。
目に見えない世界を表わすものとして最初に言葉があった・・・
最初に言葉があった 言葉は神であった
この言葉が抵抗なく入ってくる。
「我を忘れる」という言葉がある。
その意味は物事に心を奪われて無意識状態になる。夢中になる。ぼんやりする。
こういう我を忘れるという状態は他を忘れている状態でもある。
面白い。忘我の境地ともいえるのかもしれない。
自我、私が私が・・という自己顕示みたいなのがない心の状態なのかと思う。
忘我であり、忘他。
日本語は面白い。
その意味は物事に心を奪われて無意識状態になる。夢中になる。ぼんやりする。
こういう我を忘れるという状態は他を忘れている状態でもある。
面白い。忘我の境地ともいえるのかもしれない。
自我、私が私が・・という自己顕示みたいなのがない心の状態なのかと思う。
忘我であり、忘他。
日本語は面白い。