ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

雨ニモマケズ

2013-03-31 08:09:16 | 日々の暮らし・思い出
友人からハガキが来た。この友人は花を描く水彩画を習っているよう。

時々こうして自分で描いた花の絵が描かれているハガキを送ってくれる。

今回はモクレンかな。なかなか上手いもんだ。

その花の周りに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が書かれてあった。

この詩は昔から好きで、いつだったか、その詩のことが話題になったことがあって、

そこに居た知人に「私の理想なんだ、これ」って話したら、

その人は笑いながら、へぇ~そうなんだぁ、面白いなぁ~、なんて感じで言ってたことを思い出す。

私がそんなこと思ってるなんて意外だったのかもしれない。

全然この詩とは違う私だからね~。

でも、サウイウモノニ ワタシハナリタイ っていうのが最後の行で、

今、そうなってないから、そうなりたいって、思えるんだよね~

宮沢賢治もこういう人になりたいって熱望したんだろうな。





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ぶらぶら

2013-03-30 13:41:47 | 日々の暮らし・思い出
泊りがけで夫と二人一緒に出かけられたのは、夫の弟が我が家に滞在中だからなんだ。

そうだ、じゃあ、行って来ようかと急に決まった。

二人で京都に出かけてくる、と夫が話したら、

義父は「何しに行くんじゃ?」と言ったそう。

出かけるのは用事のため、というのが義父にはある。

私たちが出かけるときはだいたい人に会いに行く、用といえば用なんだけど。

そのせいか、知り合いでもおるんか、とも。

ただの旅行だと話してもすぐにはわからない風だったそう。

ぶらぶらして来るんか、と最後には納得したよう。

まことその通り。ぶらぶらして来た。

義父にとって旅行なんてのは人生で関係ないものだったのかもしれない。

働いているのが一番気楽だったようだ。そんな感じがする。

私たちの友人が家に来ると、必ずどんな仕事をしてるのかと聞く。

60才を遠くに過ぎているような人にでも仕事は何かと聞く。

仕事をしているとわかると安心するみたい。

仕事をしていないことを引け目のように感じるような日々だったんだろう。

そんな素振りを感じることがあった。

朝寝をして、雨戸をいつまでも閉めておくといったことを嫌う。

寝ていたくても、雨戸を開けて、それからもう一度布団に入る・・そんな感じ。

仕事するのがいい、朝寝坊なんかするもんじゃない、

・・そういった気風のなかで暮らして来たんだろうなと思う。

三つ子の魂百までもというけど、百歳近い義父を見ていると、

そういう受けて来たものをずっとしょって来たのだなぁと思う。

そうするもんだ、と思いこんで。

義父一人に限らない。ずっと義父よりは若い私だけど、

長い期間、そういう思い込みをしょって来た。


天気のよい日、早起きするのはとてもいい気分のモンだし、

元気に仕事できるのは楽しいもんだけど、

休みたい時、仕事するのがいいという思い込みは、ひとを苦痛にする。

自分が見る世界は、人生は、自分そのものだから、

変えたい部分があるなら、変えられる。

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民宿

2013-03-30 11:18:59 | 日々の暮らし・思い出
一昨日は嵯峨の民宿に泊まった。

一泊2食付で7500円。大正時代誰かの別荘だったという民宿。

私たちの部屋は回り廊下付きの角部屋の庭に面した部屋で、

庭にはしだれ桜やらなんやらかんやら古い感じで庭木が植えられ、

灯篭あり、水がめありの風情あるものでした。

障子もガラス戸ももちろんアルミサッシではなく、木製の奴で、

その障子を開け放すために動かしたら、あら、大変、止まったまま動かなくなった。

ありゃ、これはこのまんまで・・元通りにならないか・・?

強く押して、壊れてしまわないか・・などと躊躇したけど、

なんとか大丈夫、動いたので、元の位置に戻した。

庭に出ようと思ったけど、

ガラス戸を開けるのは止めておこうと決めたよ。

この価格で夕飯は部屋に運んでくれた。

翌朝、泊まった部屋よりずっと小さな部屋で、

幾つかの座卓をくっ付けたテーブルで宿泊客7人が同時に食事した。

初めて会った人たちと同じ釜の飯を食った、というわけだ。

7人が黙ってご飯を食べるということになんだか、不自然な感じがしたもんで、

前に座っていた若い人に、テーブルのホットプレートの用にかこつけて話しかけたら、

待っていたように、ニコニコとしながらいろいろと話してくれた。

すると、その隣に居た老夫婦?もなんとなく話を聞いていたのか、

頷いたり、笑ったり、して。

そのうち、隣の一人旅?らしき中年男性も、

会話に加わり出し、老夫婦も聞くだけでなく、発言したりして。

テレビもある部屋でNHKが低い音量でかかっていたんだけど、

老夫婦が普段見ているので、朝の連ドラを見たいとなり、

若い人たちもいつも観ていると言い、夫も見ていると言い、

音量を大きくしてみんなで見た。

大きなホテルとは違う味わいで、なかなか面白く楽しかった。

袖擦り合うのも他生の縁ということで、これは袖擦り合うより深い縁かなと思った。

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嵯峨 化野念仏寺

2013-03-30 10:26:52 | 日々の暮らし・思い出
京都に夫と二人で行って来た。

昨日は朝から嵐山の天竜寺、常寂光寺、落柿舎、二尊院、祇王寺と周り、

化野念仏寺まで歩いた。

この地に来たのは45年ぶりくらい。

いや、まぁ、驚いた。浦島太郎みたいな気分。

念仏寺の辺りはさびれた山道を歩いて行った記憶があるのだけれど、

石畳みたいな道に造りは昔風だけど、新しい当世風の店が幾つも並び、

きれいな新しい民家が整然と並んでいた。

建設中の住宅があり、4700万円とかの看板があった。

私の中のあの化野があの化野じゃなくなっていた。

そんなこと当たり前なんだけど、びっくり。

念仏寺も、なんだか様子が変わっていた。

45年前の記憶では、

並んでいた石仏以外に幾つもの石仏やら墓石が無造作にごろんごろんと山になっていて、

凄く、なんというか、殺伐というか、寂寥というか、

そんな雰囲気を感じたものだったけど、

そういうものは今回全然感じなかった。

きれいに整理整頓され、きちっと収められ、

周りは砂利が敷き詰められ、無造作というような雰囲気は一切なかった。

お客様を迎える為にきれいに整えています、みたいな感じだった。

どこでも観光地と言われるところはこんなふうになっているよう。

何年か前に倉敷に行ったときも、40年振りくらいで、

やはりまるで雰囲気が違っていたのでびっくりしたし。

それはそれでいいことなんだけど、なんだろう・・・この受ける感じは。

自然なものを不自然に美しくしてる・・・そんな感じ。

私の思い込みがこんな思いにさせるのか・・なぁ・・

観光に力を入れるのは経済効果を狙っているため。地域にお金を落とすため。

観光事業としてやっている、というのを感じてしまうからなのかな。




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聴いてもらえないのは・・・

2013-03-27 16:39:36 | 実例体験観察
夫と話していて、

話を聴いてもらえない、と被害者的な感情になった。

どうしてそうなったのか、検査した。振り返った。考えた。

・・聴いてもらえないと感じたのは、

私が先に彼の言うことをそのまま聴いてなかったからだ、

ということがわかった。

夫がある事をそうしているという話を聞いて・・・

その事実を、あぁ、そうなのかと聴かないうちに、

そんなんじゃ、ナンタラが出来ないよ、と私は否定口調だった・・・

もっと熱意があったら、他に方法も浮かぶんじゃないか・・

そんな事も言った。

そうしたら、それを出来ない理由をアレコレ彼は話した。

彼はその時、否定されていると感じたのだろう。

だから、自分がそうしている事が間違いではないことを説明したくなったのではないか。

その方法しか出来ない事を力説することになったのではないか。

私の否定のニュアンスを感じた彼は、

自分の考えを否定されてるとすぐになったから、

私の話を聴いてみようなんてところまで行けないわけだ。

そして見事に、私の伝えたいことが伝わらなかった。

伝えたくて話したのに、伝わらなかった。

失敗だ。まだまだ失敗が足りないんだろう。

『コレコレの思いを伝えたい』と、そのことに自覚がなかった。意識的でなかった。

無意識のうちに言ってしまった。

それが意識されてたら、伝えたいことが伝わるような表現が出来たかと思う。

否定などせずに。

その結果、悪循環という奴だ。ホント未熟!

自己に発し、自己に還る、という奴でもあった。

反省する!!!

・・でも、こうして、自分の中にコレ、否定があった!!と気づくと、

一気に気分が晴れる。被害者ではなくなるからだろう。

頭と心と一緒になってそうなる。

これをやるともうやめられない。

自分が幸福になるツールを持っているなぁと思う。

そうだこれはツール・道具だ。
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不安と願望 ②

2013-03-27 15:46:57 | ひとの幸福
最近、医療界は予防医学だといって、勧めまくっているけど、

ガン検診するなんていうのは、その根底にある不安感情を利用している。

けれど、不安が基での行為はうまいこと行かない事が多いんじゃないか・・・

あ~なるんじゃないか、こ~なるんじゃないか、という不安はその現象をおびき出す。

幽霊が出るんじゃないか、出るんじゃないか、と不安でいっぱいだったら、

枯れ尾花も幽霊に見えるという話があるけど、

枯れ尾花を幽霊と見れば、その時のその人にとっては幽霊なのだ。

だから一目散に逃げるという行為になる。

ガンでもない人を間違えてガンだと診断し、余命何ヶ月と言ったら、

本当に何ヶ月で死んだという例が医学界にあるそうで、

幽霊だと思い込んだので、逃げたように、

ガンだと思い込んだので、そういう展開になったということだろう。

考えてみれば余命何ヶ月のガンだと医師から診断されたら、

だいたいがそう思い込むだろうし、

それで、不安になり、泣き、あらゆる心配をし、

食欲も落ち、暗い気分になり、そんな場合が殆どだと思う。

健康体であった人も具合が悪くならないわけがない。

そこから復活する場合も多いけど、

余命何ヶ月と言われ、そう思い込んだら、復活が間に合わない。

ひとは事実の枯れ尾花であってもなくても、そうと観たらそうなのだ。



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不安と願望

2013-03-27 15:40:36 | ひとの幸福
身体を健康にしよう、金を得よう、という思いなど持たずに居ればいい。

無い方が結果的にそうなることになる。

こう書いたけど、思いを“持たずに”居ればいいということで、

思わないのが良いということじゃないよ。

願いは実現すればいいので、その思いを持ち続けることが執着になり、

願いが実現しないということに“なる”というだけの話しだから。

でも、今、ガンでもないのに、

ガンにならないように、なんて殊更に思わなくてもいいんじゃないか・・・・・

ちょっとどこかが不調だとガンじゃないか、と、すぐになるのは、

あまりいいことないんじゃないかなと思う。

ならないようにと、それに又執着してると・・・

ならないものもなるようになるかもしれない。

ならないようにと願うということは、

なるんじゃないかという不安を持っているゆえかなと思う。

そんなのがなければ、願わない。

「ナンタラカンタラという難病になるんじゃないか・・」

「コレラになるんじゃないか・・・」「麻疹になるんじゃないか・・・」

「進行性ナンタラ病になるんじゃないか・・・」

・・・そういう不安は持ってないから、そういうことは願わない。


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身体とこころ

2013-03-26 16:22:54 | ひとの幸福
他者の願いが自分の願いになっているとき、

心は快適・・

窮地に居て、少しの水を自分だけが飲もうとするというのは、

自分の身体・肉体の幸福を第一に考えているということだろう。

それが悪いわけじゃないのは勿論だ。

ただ、身体の幸福じゃなく、意識の幸福を第一に考えたら自分だけ飲もうというふうにならない。

そう行動しようとすると、自分の意識が幸福な状態ではなくなるとわかるから。

人間を第一に肉体と捉えるか、精神・意識と捉えるか、で対応が違ってくる。


心が快適と感じたいから、ひとはそのために身体を快適にしようとする。

身体がガンになったら、心が不幸になる、という方程式があるので、

身体がガンにならないようにと願う。

その方程式と違って、身体がガンになっても心は不幸にならないと自分でわかったら、

ガンにならないようにとは殊更に願うこともない。

自然に居るだけだと思う。


お金がないと、心が不幸になる、という方程式があるので、

お金を多く持ちたいと願う。

その方程式と違って、お金がなくなっても心が不幸にならないと、自分がわかったら、

お金がなくならないようにと殊更に願うこともない。

そういう願いが頭に浮かぶ事はない。

と、なると、金を得よう、身体を健康にしよう、という思考は頭に浮かばなくなる。

と、なると、それらが手に入る・・・のではないか・・・

~しよう、しようとするとそれは手に入らないことが多いから。

こういったことは今までに何回も考え、書いてきたけど、また書くね。

うまいことやろう、うまいことやろう、と思っていると身体は緊張するし、

寝よう寝ようとすると寝られない、

速くしよう速くしようとなってると、焦って結果的に早く出来ない、

そんなふうになりやすい。

その時点で自然に任せると、自分のその時の能力・状態が自動的に引き出される。

寝よう寝ようという思いに邪魔されず、身体は自然のままに眠りにつく。

うまいことやろう、という思いに邪魔されずに、在る能力が発揮される。

速くしよう、という思いに邪魔されずに、在る能力がそのまま発揮される。

だが、しかし・・・寝よう、速くしよう、うまいことやろう、

という願いが生まれるのは、自分がそれを出来るとわかっているからだ。

自分が出来ないとわかっていることは人は望まないから。

パスポートも持ってないのに今日、今すぐにアメリカに行きたいなんて望まないのと同じで。


こう考えて来ると・・・

自分はそのようなことが出来るのだから、何も心配せずに、

身体を健康にしよう、金を得よう、という思いなど持たずに居ればいい。

無い方が結果的にそうなることになる。

元々、健康でありたい、快適に暮らしたい、というのは本能のようなものなんだから、

心を在るがまま、自然にしていれば、

結果的には、自動的に願いはあらゆる相互作用で、叶ってゆく。

そういうことが「無為自然」ということなのかもしれない。

・・・考えるとそういうことになってしまう。


わたしがそういう状態である、というわけじゃないよ。

それとこれは全く別。

山岸さんに、「条理と相対者を切り離して」というのがあったけど、

私にもそう言わせてね。条理と相対者は切り離して読んでみて下さい。
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ひとの不幸は蜜の味?!

2013-03-26 16:17:24 | ひとの幸福
他者の喜びが自分の喜びにならない現象はこの世に多いと思う。

高校受験や大学受験で合格者の人数が決まっていると、

ひとの失敗が自分の合格に繋がることがある。

こういうのを「ひとの不幸は蜜の味」なんていう言葉で表わしたりするんだろう。

けど、そこで凄く喜んだら、隣に泣いている人がいたなんてことがある。

そういうとき、ひとはどんな反応をするか?

喜びの表現を抑えようとするかもしれない。

自分だけ幸福なんて申し訳ないみたいな心が働いてしまうこともあるかもしれない。

優越感に浸るひともあるかもしれない。

けど、優越感は形を変えた劣等感だから・・・ほんとの幸福じゃないことを本人が一番知っている。

知ってることを知らないというのはあるかもしれないけど。

ひとは共に幸福になるというのが一番気楽だということがこういうことでもわかる。

入学したいと思う人が全員入学できればこんなことはない。

こういうことを修得したので卒業できる、ということにすれば、

卒業の人数は決まっているわけじゃないので、

ひとの卒業と自分の卒業は利害関係がないからいいなぁと思う。

アメリカではこういう方式らしいから、日本でも出来ないことじゃないだろうと思うんだけどな。


合格になる数が決まっていると、

「ひとの不幸は蜜の味」になる。

でも不合格になっても人生はそれで終わりになるわけじゃない。

常に「続く」なので。

不合格=不幸とは言い切れないので、人生は面白いんだろうな。

ひとの不幸は蜜の味・・うひひ・・なんてほくそえんでいたら、

後々転落の一途を辿ったなんてこともこの世ではあるかもしれない。

ないかもしれない。











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「日本の原像を探る」

2013-03-24 18:46:33 | 新聞を読んで
毎日新聞日曜版、『神宮とおおやしろ』

今日のも面白かった。

出雲大社の宮司の弟さん、千家和比古権宮司(せんげよしひこごんぐうし)さんの言葉、

以下。

「物事は常に相対性を持って考えたいですね・・

そうは言うけど、待てよ。こういうこともあるよ、と。

そういう思考の形を持ち続けていかないと道を誤ります。」・・・

うんうんそうだよね~。

先週書いたけど、天つ神と国つ神。

天・・の方は高天原の天照大神、国・・の方は大国主神。

それぞれの神のグループは対立関係にはなく、互いに補完し合う相対関係にあると思う、と千家さん。

「グループ内でも神々が補完し合い、

全体でひとつのコスモスをつくっている。

それが日本人の発想で、神道の神々の体系もそのように形成されています。

そうでないと、人間と他の地球生命との関係ひとつとっても、

人間のその場の都合だけでなんでも行なわれるようになってしまいます。」

そうした古来の思想が記紀に表現されているという。

日本書紀にはこんなことが書かれている箇所もあるという。

7世紀大和政権が東北経営に乗り出し、とある地域を征服したときに、

征服した土地の神の神殿を壊すのではなく、祭ると。

それともう一つとても興味深いのもコレ。

遣唐使が唐の皇帝に謁見したとき、「日本は平穏か?」と尋ねられ、

それにこう答えたという記録があるという。

「政治は天地(あまつち)の意思に沿っており、

国民は平穏無事に暮らしています」

・・・山岸さんの青い本に日本の神話を思わせる記述があるけれど、

やはり、日本の神話や神道の、私たち後世の人間に伝えたいエッセンスと、

彼の思想はとても共通項があると感じる。
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見えないと・・

2013-03-24 15:44:46 | ひとの幸福
泣いている赤ちゃんや、苦しがっている老人を目の前にして、

他に誰も居ないとき、

その人は何もしないで居ることはないかもしれない。

①その時空で何もしなくて自分だけ快適に居られる人って居る・・んだろうか・・?

昨日、こう書いた。

上の①の問いについて考えたい・・・

多分、それを見てもへっちゃら、自分は関係ないから、と感じる人は居ないんじゃないかと思う。

苦しんでいる人と自分たちだけだったら、(他に誰も居なかったら)

そこで例えば、恋人と一緒に美味しいもの食べてるんで、快適、幸福!

という気分で居るという人は居ないんじゃないかと思う。

その時空では(自分さえよければいい)という気持ちに“ならない”

多分万人がそうだろう。

関係なしと頭で思おうとしても、気持ちは落ち着かないと思う。

だが、この世では(自分さえよければいい)と思っているかのような現状はある。

人は上に書いたような状況ではそういうことは有り得ないのに、

何故それが起こるのか???

それは苦しんでいる人たちが見えないこと、

実際の出来事が不透明になっていること、

ひとの財布が見えないシステムになっていること、

自分じゃない他の誰かが居るだろう、という思いが出てくること、

・・・そんなわけがあるから???
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技術・こころ

2013-03-23 13:34:24 | ひとの幸福
技術的に出来ないことって、私なんか数限りなくある。

昔は所謂、肉体労働がかなり出来たけど、そういうことをしなくなったら、

身体はそれなりの身体になってしまって、今は出来ない。

やったとしたら、後が大変な状態になるだろう。

体力と共にそういう技術もなくなってしまう、ということになるんだろうな。

そんなふうに何かの願いを実現したい気持ちはあっても出来ない、ということもこの世にはある。

だから、年をとってもジムに通ったりして体力づくりに励んでいる人がいるんだろうな。

病身にならないように身体を鍛えておこうとか。

私も歩いたりラジオ体操したりしてる。やらない日もあるけどね~。


願ってもそれが叶わないという状況の時に、それでも、ひとはそれをナントカしたいと願い、

それがキッカケで技術革新・・みたいなことが起こる。

・・んじゃないかと思う。

情熱が何かを起こす。情熱はキッカケになる。

医療現場でも病人をナントカ治したいという情熱で、

革新的な手術方法が生まれたり、薬の発達にもなるのかと思う。

けど、医療が発達して来てるのにちっとも病気が減らない、増えている、

ということがよく言われている。


ナントカ治したい・・という願いは・・・

“病気が在る”という前提から始まっているから、じゃないかと思う。。

いま、予防医学が言われるようになっているらしいけど、

ガン検診とか健康診断とか位みたいだ。早期発見を狙っているだけ。

在るだろう、出てくるだろう、と待ち伏せしてるようなもんじゃないのかなぁ。

あるものを探そう、という考え。

出てくることは間違い無いという考えがそこにはあるような気がする。

出なく“なる”ように、病気が生まれなくなるように、という考えはそこにはない。

あるとしても、今のところ、食事だとか運動だとか、目に見える身体のことばかり。

ストレス云々はよく言われてるけど、

どうもそういうことに本腰入れてる人は少ないように見受けられる。

ストレスもあって当然、あるストレスをどう誤魔化すかという方向にしか考えが行ってないように見受けられる。

日本には「病は気から」という非常に的を得た諺があるのに、

そういうことを仮説にしてでも研究する人が

たくさんいてもいいだろうと思うのだけれど。
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快適・幸福 ②

2013-03-23 11:31:38 | ひとの幸福
ひとがするどんな行為も快適になる・幸福になるという目的につながっている。

そんな汚いこと、とても出来ないと思ってそれをしない人は、

自分が快適で居たいという願いを実現する方法として、

それをしないという行為をとるわけだ。

それはそれでいけないことではない。

自分の願いがその行為で実現しているのだから。

ただ、こういう場合は、

上の例で書いた赤ちゃんや老人の願いは自分の願いになっていない。

けど、泣いている赤ちゃんや、苦しがっている老人を目の前にして、

他に誰も居ないとき、

その人はきっと、何かを出来る人を探すかもしれない。

何もしないで居ることはないかもしれない。

その時空で何もしなくて自分だけ快適に居られる人って居る・・んだろうか・・?


喉が渇いたので自分で水を飲むという行為も、自分が快適で居たいからだし、

その人が水を持ってない時に、自分が持っていればそれを差し出したくなるのは、

その人の願いが自分の願いでもある、ということだろう。

けど、窮地で水の量が絶対的に少ないとき、ひとにやりたくないと思うこともあるだろう。

それがいけないことじゃない。

けれど、そういう時、やりたくないという自分の願い通りにしていても、

心はすっきりしないんじゃないか。

とても快適!ってなっていないんじゃないか・・・

そういう時、ひとの心というものは快適で居られないのはどうしてなのか・・・?


その人の心が快適な時、自分も快適。

自分の心が快適なとき、その人も快適。

そういう時、何故か、ひとは心から快適だ。

ひとの心はそうなっているとしか思えない。


他者の幸福、快適さと自分のそれが一致してる、こういう状態の時って、

心にその事以外なんの気がかりもない、他になんにも気になることがない、

状態かなと思う。一心、という言葉が相応しいな。

上で書いた、自分はとてもそんなこと出来ないと思っている人が、

誰か出来る人を探すという行為のときも、そのことだけを考えて、

他に何の気がかりもない、という状態かと思う。

何かやれることないかな、そのことだけを考えている・・・

どうだろう???






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快適・幸福

2013-03-23 10:42:08 | ひとの幸福
トイレ掃除や自分で出来なくなった老人のお下の始末やら、

汚物を持って行ってくれるバキュームカーの仕事やら、

そういった所謂汚いものを見たり触ったりする作業がこの世にはある。

福島原発で爆発があった時なんかも、危険な仕事を名前も知らない誰かが後始末をしてくれた。

誰かがそういうことをやってくれるのでこの世はそれなりに動いていく。

一人で排泄できない老人の肛門に指を突っ込んで大便を掻き出す行為が必要なこともこの世にはある。

技術の問題ではなく、気持ち的に、

自分にはそんなこととても出来ないと言う人もこの世にはいる。

自分に出来ると思うことは人それぞれなのだから、

それで別に構わないと思う。

汚いものを触るのが大好きな人は多分あまり居ないと思うけど、

汚物を触る、見る、匂いをかぐ、美しくない言葉を聞く、

危険物を扱う、そういう行為をイヤだと思わない場合はこの世にある。

汚物に触りたいから触る、その匂いをかぎたいからかぐ、

危険な目に遭いたいからやる・・・そういうことじゃないのは勿論だ。

その行為が目的ではないことがわかっているから、やれるわけだ。

ひとつひとつの行為は目的ではない。目的を実現するための手段だ。

自分で排泄できない老人の便が出るように、快適な状態になるように、

それを願ってやる。

そういう願いが自分にあるから、汚い、なんてことが“気にならない”。

臭い匂いだ、とは思うだろう。いい匂いではない。

けれど、だからその行為がイヤだと“ならない”。

“老人の願いがそれをする人の願い”でもある。

赤ちゃんのオムツ替えなんかもそうだろう。

子供に快適で居て欲しいと願うのでやる。

快適でいてほしい、そのための具体的な方法がこの場合、

オムツ替えをすることではないかと思うのでそれをやる。

その時空で、赤ちゃんが快適、幸福になるだろうための具体的な方法・具現方法の一つだ。

赤ちゃんは快適で居たいなんて意識的に思っているわけじゃないけど、

快適ではない時に泣くことが、そう願っている証しなのかと思う。

“赤ちゃんの願いが母親(誰でも・それをする人)の願い”でもある。

・・続く。




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何故悲しく思うのか?

2013-03-22 11:00:21 | 実例体験観察
悲しかったし、寂しかった。

ある事で非難された気がした。

全く不当だと思ったし、抗議したい気持ちも出てきた。

昨日はこれを彼に言おうかと、思ったけど、しなかった。

するとしても、ちょっと自分を観てからにしようと思って、

今こうして書いている。

何故私は非難されたと思うと悲しくなるのか?

非難されて嬉しいひとはいない。

非難したと観ると悲しくなるのは当然だ。

非難というのは解釈。

けど、明らかにそれは非難だった。この前書いたようなのとは違った。

それを非難と解釈しないでどういう解釈があるのか・・・?

彼の癒されてない部分がそうさせる、ぱっと今、それが浮かんだ

私の僻み根性と一緒だ。

今回の例みたいに、非難されなくてもいいことを、彼はたくさん非難されてきた。

“されて来たからするようになる”

そうだ。

たくさん非難された悲しみがまだ癒されてない。うん、そういうことだ。

あ~したら怒られた、こうしたら非難された、悪い成績をもらったら怒られた・・・

子供時代、親の未熟な解釈の元での誤解曲解をたくさん経験して来た。

親に限らないけど、親の影響が一番かと思う。

非難され傷ついたことはとっくの昔に忘れているけれど、

それは潜在意識にちゃんとある。消えない。そのまま残っている。

それが癒されるのはどういうふうにか???

周りである私がそれを在るがまま受け入れることだ。

非難せず。悲しまず。

そうなるには、自分の癒されてない部分が癒されてからだ。

だって、そういう自分でなきゃ非難してしまう。

悲しくなってしまう。

始まりはわたし。私が幸福になることが彼が幸福になることに直接つながる。

“わたし”って云ってるけど、全ての“わたし”だよ。

誰でも自分のこと、私 っていってるでしょう。


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