ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

母の具合

2013-06-29 21:09:44 | 日々の暮らし・思い出
母の具合が急に悪くなったと実家の兄嫁さんから連絡があったのは昨日。

石垣から帰宅した翌朝。

あー、石垣に居る時じゃなくてよかったぁと思ったよ。

今日東京の娘から詳しく連絡が入り、急遽明日東京に向かうことになった。

脳梗塞の症状で突然倒れ、それきり寝たきり状態で7年3ヶ月。

いつかこんな日が来ると思っていたし、

倒れたその日から意思の疎通が出来なくなったので、

いま、ショックはそれほどないけど、やはり特別な感情が湧く。

肺炎を起こし、心不全状態ということらしい。

明日生きてる母に会えるだろうか。

娘によれば、はあはあ苦しそうにしているらしい。

本人も苦しいという自覚があるんだろうか。

そんな自覚がないでほしいと思う。

苦しまないであの世に旅立ってほしいと思う。

流行なの?

2013-06-29 20:56:16 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞の仲畑川柳の一つ・・

流行(はやり)なの注意しちゃダメと言われ。・・・野藤哲子さん作。

最近、否定するのは良くない・・というような話があちこちで聞かれるようになっているのかもしれない。

例えば、教育評論家の尾木ママさんの、共感することが大事・・・

・・云々の本意が中途半端に伝わっているような現象なのかもしれない。


「注意しちゃダメ」と、注意されたんだろな。

帰って来た

2013-06-29 11:23:26 | 日々の暮らし・思い出
一昨日の晩家族3人無事帰宅。

とにもかくにも97才になる義父が元気に戻って来られたことが一番。

石垣でのある日、義父は普段と違うモードで、

昼から楽しげにビールを一杯所望され、飲み、

その後すぐに車で川平湾まで私たちと孫たちとで行ったのだけど、

着いて車から降りてすぐ、そのあまりの熱気(暑い空気)にふらっとめまいみたいになり、

これはいけないとすぐに車に戻り、ホテルに戻ったことがあった。

幸い、その時だけのことだった、と思う。

暑さが一番こたえるのだと再確認し、それからはほとんどホテルの部屋と、

ホテルの大風呂だけの暮らしになった。

大風呂が気に入ってくれたのでほっとした。

でも、もしかして義父は「この暮らしでいいよ、自分のことは気にしないでいいからね」

・・・という配慮でその発言をしたんだろうか、と今思った。

私たち夫婦がいろんな用事でそこから出かけるときにはいつも、

わしはここで静かにしとるから・・みたいなニュアンスのことを言ってくれた。

義父は本当にいつも周りのことを気遣ってくれる。

とても有り難い。言葉には尽くせない。


昨日は庭の整理やら、洗濯やら、

部屋の整理(イブたちと一緒にここを早朝に出たから、彼等の痕跡があちこちに)やら、

旅のいろいろの片付けやら、9日間放っておいた畑の作物の収穫やら、

トマトの芽欠きやら、茄子の剪定?やら・・・で、

よく身体を動かした。

旅の間に2キロ体重が増えたけど、今朝計ったら、一日でそれから1キロ戻ってたよ。

なんせ石垣では家事一切無し。スロージョギング無し。テレビ体操無し。

人との付き合い、交流はたくさんあったけど、

身体は見事に使わず、食べるだけ食べて、身体にいいこと何もしなかったよ。

それはそれでよし。

さぁ、今日から普段の暮らしがまた始まる。

11日振りにこのブログの部屋にやって来て、

なんか、書きたいことがいっぱいある感じ。

人との付き合いやいろんな人を見る機会が日常の暮らしでは本当に少ないから、

ひとの在りようを多く観たなぁという感じ。

人は「愛したい愛されたい」それだけの存在なのだと強く思った。

また、人生は苦である、と釈迦が言ったそうだけど、

確かにその通りとも思った。

この頁だけでは書ききれない思いが胸のうちにたくさんある。

少しずつ書いて行くのか、それとも新しい日々に埋もれていくのか、

わからないけど・・・この部屋に来た“時”に今はまかせようと思ってる。

明日から

2013-06-18 18:15:38 | 日々の暮らし・思い出
明日から家中で石垣島に行って来る。

我が家3人とイブ、アダム、その母との総勢6人で出かけることになった。

小さな子供二人と97才近い義父とが一緒なので、

マンツーマンみたいに見ていこうと思っている。

台風が来てるようだけど、大丈夫だろう。

少しくらいの台風なら飛行機は飛ぶよというイブ母。

あの787に乗るようだけど、何の心配もしていない。

どんな道中になるやら楽しみ。

流れに乗る

2013-06-18 14:48:33 | ひとの幸福
さっき書いたヒステリックなイブは自然な流れに乗れなかったイブだったのかもしれない。

そういうこともある。

誰にでもあることだ。それはそれでよし。それが永遠に続くわけじゃない。

すぐにでも変わる可能性に満ちている。

流れに乗る、ということで考えたけど、

在る(流れて来ている)流れに乗るだけでなく、乗りながら新しい渦を作ったり、

乗りながら川の動きを作ったりは出来ることだなぁと思った。

乗るだけじゃ面白くない。

乗りながら創る。これは面白い。

これを思い出した。

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・

ヒステリックなイブ

2013-06-18 12:47:48 | 日々の暮らし・思い出
大型スーパーでイブ母親が用事をしている最中の時間つぶしに、

アンパンマン柄のカートにイブを乗せ、彼女の言う通りにカートを押して歩いていた。

あそこへ止めてとイブが言う。

彼女の言うあそこに止めようとしたが、私が止めた位置が彼女の思っている位置、方向ではなかったよう。

何度かここか、ここか、と聞きながら動かしていた。

違う!違う!ここじゃない!とイブが叫ぶ。

所謂、小さな子供の言うなりになって動いていた自分に、

あぁ、なんと穏やかになったもんだと思いながらそういう言葉を聞いた。

イブはヒステリックに、違う!!!ここじゃない!!!と何度か叫ぶ。

我が子ではこういう経験をした覚えがないんだよ、わたし。

彼女の言うところのあそこが何処なのかこれ以上しても私にはわかりそうもないと思った。

さぁて、どうしたもんかと考え・・・・

イブが違う方向を向いている最中、その場にカートごとイブを置いて、

近くにあった大きな観葉植物の影になるベンチに隠れた。

そこを通る人たちが叫んでいるイブを心配そうに見ながら通り過ぎてゆく。

若い子連れの夫婦は立ち止まって周りをきょろきょろしている。

彼等にそっと木の茂みからうちの子なので、と言っても、

なんか、警戒のような目を向けられたよ。

イブは私の姿が見えなくなったのに気づいてから、

急に静かになり、通り行く人たちをずーーっと見ている。

前を向き、後ろを向き、ずっーっと見ている。

10分くらいしてから、反対方向を見ているイブの後ろ側にそっと行き、

声かけた。イブは平然とした感じで、「何処に居たの?」と。

「ずっとここに居たよ」と言うと。「ふ~ん」

これでおしまいだった。

放って置かれたイブは自分で正常に戻った。

いい経験だった。私にとって。

きつく叱ること

2013-06-16 09:17:44 | 日々の暮らし・思い出
イブがタブレットで静かにアニメを見ていた。

イブ母がタブレットを使う用事が出来たので、それを使いたいと言った。

イブは「イヤ!」と勿論言う。

すぐに「ハイどうぞ」なんて言う子って居るのか居ないのか知らないけど、

この様子は当然なんだろうなと思う。

用事をしないといけないから、「すぐ使わせて」とイブ母。

この様子を見て、昔の自分を思いだした。

こういう時、昔の私は権力者だったなぁ。

子供がどんなにそれで楽しんでいても、

自分の都合オンリーで、子どもの気持ちなんて無視した。

なんでそう出来たのか振り返ると、

私のタブレットを大人である私が使いたいのだから、

それを借りてる子供はすぐに返すのが当然・・・

こういった見方を絶対正しいとして持っていた。

だから「使わせて」なんて言葉は決して使わなかった。

“私が使って当然”だったから。

必要な緊急の用事ですぐに使いたいから使う、という“行動”は今もそれでいいと思うけど、

“気持ち”は・・・

子供でもその時々の気持ちがあるのは当たり前なのに、

権力者はそんなことは知ったこっちゃない・・・そういう私だった。


昨日、父親はきつく叱り、母親は子に起こる副作用を癒す、という

昔の両親の対応について書いたけど、

上に書いたような(~するのは当然)というようなことは、

親のキメツケによるトラワレ現象から起こっていることであって、

きつく叱るなんて筋違いだろうと思う。

きつく叱る・・のは子供自身が危険な目に遭うようなことをした時とか、

他者に傷をつけそうな時とか、

人間以外のものでも意識的に傷つけようとした時とか、

そういった事だけでいいんじゃないかと思った。

それ以外で叱る?のは殆ど(叱り)ではなく、(怒り)なんじゃないかな。

本人が気付いてなくても、(怒り)はキメツケによるトラワレなのかと思う。

思う通りにならないと・・・

2013-06-15 12:58:12 | 日々の暮らし・思い出
イブに関しての事前情報の、「思い通りにならないとキーッ!となる傾向」。

ここ二,三日イブを見て、やはりその根元は

周りが自分の思い通りにさせようとして行なう行為の時に、

そうなるのだなと実感。

その、させようとするところの行為は所謂正しい行為だ。

ひとに乱暴しない、お菓子ばかりでなくご飯をちゃんと食べる

自分で履ける靴は自分で履く、そういったこと。

させようとするとそうならない、生命の動的平衡という正常な姿だ。

その理が小さな子供を観ているととてもわかりやすい。

少し昔の日本の親

2013-06-15 12:41:02 | 日々の暮らし・思い出
アダムが遊んでいる時、イブはいきなりアダムを転倒させた。

そういうとき、遊んでいる時と全然違う表情をイブは見せる。

夫がきつくイブを叱った。

相手が夫であって、普段の両親じゃないせいか、それに対して反発はしなかった。

これを見て思い出した。昔のシツケ。

子供が道に外れたことをすると、父親がきつく叱る。

母親がそれをフォローする。

叱られて泣いたり、反発したりする子供を、

母親はその子の気持ちに共感し、(嫉妬からのものだとわかって)

痛かったねとか、お前の気持ちはわかるよとか、優しく受け止める。

でも、お父さんはあんたのことを思って叱ってくれたんだよと諭す。

こういう話は聞いたことがあるけど、

これは優れたいい方法だと思った。

そういう話を聞いた若い頃の私は、それじゃ、ザルで水をすくうようなもんだ、

両親で一致して叱らないといけない・・と思っていた。

乱暴するのはダメだという正義の御旗しか持っていなかったから。

でもこの両親という二つの対応は理に適っている。


その場で乱暴な行為は相手に傷を負わせるかもしれないし、

注意を受けて起こる子供の副作用(思いをわかってくれないと僻んだり、反発する事)を恐れて、

なんにもしなかったら、そうしていいのだと子供に思わせることになる。

なので、父親がきつく叱る。

そして、母親が優しくその副作用を癒す。

この二つの対応でワンセット。

それで子供は健全に育つ。そうなんじゃないかな。

この親の在りようは、この世という相対性の世界で生きるものの

生活の知恵だったんじゃないかと思った。

イブ登場三日目

2013-06-15 11:35:36 | 日々の暮らし・思い出
面白い。イブとごっこ遊びをしながら暮らしている、というスタイルになった。

イブ3才はなんでもすぐその気になる。

用意された設定のその人にすぐになる。

そこに出来た流れにすぐに乗る。

近くの浜に朝行った。

昨日そこで、たこ焼きやさんごっこをした形跡がそのままであった。

使ったシーグラス、貝殻、平べったい石、枯れた草の茎、草の切れ端、

小さな流木、浜辺はままごとにぴったりの場所だ。

それで又お料理ごっこ。

私がお店の人という設定でいろんなことを喋ると、

ちゃんとその状況に合わせて客としていろんなことを言う、やる。

日が差してきたので、もう家に戻った方がいいなと思って、

たこ焼きの材料を買いに行かないといけないんだけど、

ちょっと道がわからなくなってしまいました、お客さん、一緒に行ってくれませんか?

と言うと、わかりました。じゃあ、行きましょうと言う。

いろんなことを話しながら帰る。

家に戻れば私は私の用事があるんだけど、その調子で、

今度は別の場を作って、また別人同士になって、用事をしながら、

その役割で遊ぶ。イブは浜に戻るなんてことすっかり忘れている。

いつも今ここを生きてる。

ころころと状況を変えても、ちゃんとそれについてくる。

さっきのを・・もっとやりたかったぁ、とか

そんなことは一切言わない。

今ここに集中してるから過去なんてないんだろうな。

お芝居ごっこだけれども、私たちが生きてるこの人生も同じことかと思う。

ごっこ遊びを楽しめればいいのかと思うよ。

そうすればムキになることもない。

けど、ムキになることもごっこ遊びの中のひとつに入れてもいいし。

変わらないと自信がある

2013-06-13 15:24:51 | ひとの幸福
所謂、あまりいい状態とは言えない人の様子に対し、

否定するのは、コレコレこういう姿になって欲しい、というような願いが無意識に働くから。

その姿を否定しているという前提から、注意、訓導、批判、訓告することになる。

ストレートにその姿が変化し、副作用も無く、よくなったのであれば、

注意訓告批判するべしで、どんどんやれば世の中はどんどんよくなるはず。

まぁ、そういうやり方ではなってないのは事実。

なったとしても、いびつなスタイル。

その副作用は後々までも続く。後世までも続く。

でも、最初に書いたみたいに、

元は無意識のうちに働く『良かれと』があることによって、

そういう按配になるのだけど。


また、瞬時にこうじゃいけない、あ~じゃいけないと否定してしまうのは、

言わなけりゃその姿がそのまま“ずっと変わらず続く”に違いないという、

知らぬ間の(無意識的に)確信があるから。

注意しなけりゃ、言わなけりゃ、時間が経ってもその姿がずっと変わらず続く、

というふうに無意識のうちに決めている。

注意や批判訓告をしないでいたら・・どうなるか・・

やってみないとわからない。

その状態、その姿が変わらず続くと観てしまっている見方のことを

山岸さんは「固定」と観る見方と言ったのかなぁ。

イブ明日登場。

2013-06-12 16:32:26 | 日々の暮らし・思い出
明日からイブとアダムとその両親がやって来る。

部屋中を掃除して、布団を出し、テーブルの移動をし、

部屋を整えた。楽しみだ。

事前の東京での情報によると、イブは思い通りにならないと、

かなりの勢いでキーッ!とするという傾向に一段と磨きがかかったらしい。

でも一日中そんな様子だけということはないだろう。

去年イブの弟のアダムが産まれて、その世話がてらイブとも共に過ごしたけど、

それから8ヶ月近い月日が流れている。

もうじき4才になるイブだ。

イブのいろんな様子、状態はイブが一人で作ったものじゃない。

生まれながらの持ち味と周りの皆の在りようとが関係しながら、

繋がりながら、今の状態が在る。

もし、顰蹙を買うような様子が見られても、イブを責めるようなことはしないぞ~。

もしそういうのが見られてもイブの年齢で、イブに自己責任なんかない。

可哀想の一言に尽きる。

みんな周りの人たちがつくって来たものだ。

否定による注意、訓告なんぞしないぞ~。

そう思っている。

頭ではわかっても体得できてない自分から、

どんな思いが出てくるかはわからないけど、

そういうのが生まれて来た時を掴まえたい。自覚したい。

さぁて・・楽しみ。

イブとアダムは会った時、どんな顔を見せるだろうか(^^)


家作りの設計図・生命の設計図

2013-06-12 10:55:50 | 本を読んで
ちょうど1年前のブログの「家の設計図」というのをたたき台にした文章を今、ここに書いた。

「生命全体の設計者、デザイナーはいない」という福岡伸一ハカセの文章について、

いろいろと考えてきて、最初に読んだ時と変わってきたことなんかも、

ここにその後綴って来たと思うけど、

今の自分が前に書いた自分の文章を読んで、どう感じるか、思うか、

というのは自分の変化があきらかになるので、面白く、時々している。

それで書き直したくなった自分だったのでやった。


「せいめいのはなし」の中の朝吹さんとの対談の中の福岡伸一ハカセの言葉・・・

「生命は“事後的”に見ればきちんと設計されていたように見えます。

見事なまでに機能が分担されている様を見れば、

どこかにデザイナーがあるようにみえる。

しかし細胞は、一個の受精卵が二つに分かれて、

細胞同士がちょっとずつ相互に補完しあい、関係しあいながら、

分化を進めていきます。

細胞一つ一つは全体のマップを持っていないのに、

関係しあいながら、繋がりながら、全体としてある秩序を作れてしまうことが

生命現象の特性なんです。」

・・こういう言葉がある。

細胞一つ一つは全体のマップを持っていないのに・・・

全体としてある秩序を作れてしまう、という。

こういう家を作ろうと一級建築士とかが設計して大工さんたちが家を建てる。

一人一人の大工さんや左官屋さんや屋根工事の人は家の全体を設計したりはしない。

けれど、部分についての細かい仕組みや作り方はわかっている。

大工さんだけ、左官屋さん、電気工事士さん、屋根屋さんだけでは家にならない。

それはその誰でもがわかっている。

大工さんは他の左官屋さん、電気工事やさんなんかと、

関係しながら、繋がりながら、全体としてある秩序、家を作れてしまう。

細胞と一緒だ。


屋根工事の人は家の一部分である屋根を作っているとわかっている。

左官屋さんも家の一部を作っているとわかっている。

屋根だけで完成品、壁だけで完成品を作ろうとしてはいない。

・・ということは誰もが“共に家を作ろうとしている”というのは在る。

細胞には、他と共に(関係しながら、繋がりながら)というなり方で、

成長するという「設計図」が存在するんじゃないだろうか。

植物の一粒の種も様々な要因である、太陽、水、大地、らの環境全てと共に、

関係しながら、繋がりながら、一本の樹木や、一つの草や野菜になる。

種には“他と共に樹木や植物という全体になる”設計図は仕組まれてあるんじゃないか。

そして、一本の木という全体はその地域全体と関係しながら、繋がりながら、

(調和して・バランスをとりながら)

成長したり、枯れて行ったりする。

その地域全体ももっと大きな地域全体と関係しながら、繋がりながら、

(調和して・バランスをとりながら)

発展したり、滞ったりする。

その大きな地域はもっと大きな地球という全体と関係しながら、繋がりながら、

(調和して・バランスをとりながら)

成長したり、発展したり、滞ったりする。

どんな物も淀みだとハカセが言ってたように、歴然とした境なんてない。

全ての生命は周りと共に、相互にもたらし合い、補完し合い、

関係し合いながら、成長したり、枯れて行ったりするんじゃないだろうか。

こう考えて来ると、動物の受精卵もそうだろう。

他と共に在る(周りの細胞と関係しながら、繋がりながら成長するing)という設計図を、

最初の細胞である受精卵は持っていると言える。

そして、ヒトやイヌやマウスという(全体)になる。

植物の種と同じ“なりよう”なのかと思う。

入れ子細工の人形みたいな相似的な“なりよう”というか、

なんと表現したらいいのか、よくわからないんだけど。

宇宙の法則は相互作用である、ということと同じなのかな。

全ての生命はそういうふうな“なりよう”でなる。

生命である人の意識も同じ。

何故そうなっているのか???神のみぞ知る???

たった今、今書いたこれを読み直したら、

「一つであり、全てである」この言葉がふっと私にやって来た。

一つに全体がある。

どうして説明した?

2013-06-12 09:27:24 | 実例体験観察
年金通知が義父に来た。

それを広げて、こんなに引かれてなぁ(保険料が)・・

こんなに引かれるほど保険に世話になっとらん・・・

・・・・ちょっと不平っぽい感じで義父が言った。

日常元気で病院などなるべく行きたくないとなってる義父はそう思ったのだろうと思う。

それに対し、去年、日赤病院で脳の硬膜下出血の手術やら、

三月に一度の心臓の検診やら、入れ歯の修正やら、健康保険に入っているからこそ、

診察や治療に何十万も払わないで済んでいる・・

・・なんて説明を私は筆談(耳が遠いから)でしてしまった。

その説明をした後の義父の様子が・・・・

・・ちょっと憮然(失望や不満でむなしくやりきれない思いでいるさま)

とした表情かな・・が見られた。

その様子を見て、ハッ!とした。

なにも義父は「何故このような金額が年金から引かれるのか、

説明して欲しい」と私に言ったわけじゃなかった。

ただ、こんなに引かれるなんてなぁ、とぼやいただけだったんだ、と思った。

そうですね~って共感すればよかっただけの話なのに・・・

そうしたら義父はあんな表情をすることはなかった、と思ったよ。

余計なことをしてしまったと反省。

その後で、説明なんかして済みませんでした、と筆談と動作で謝った。

義父はそれに対し、いやいや、そんなに謝ってもらわんでいい、というような表情ではなく、

あ~、うん・・といったような表情を見せた。

私の要らぬ説明という対応にあまり気分が良くなかったということがよくわかった。

何故私は説明したのか、といえば・・・

彼の言葉を不当な不満感と受け取り、

そう思うのは妥当ではないと瞬時に判断し、

その不満感を解消“させよう”として行為したものだった。


彼のその時の思いを言葉によって強引に変えようとした。

他者の思いをなんとか変えようとした自分だったことを実感した。

そして、それはちゃんとなるべくして、失敗に終わった。

そんな話を夫にした。

夫は「難しいなぁ(対応が)・・でも、保険料が引かれるわけが頭でわかったって、

それで腹立ちが解消するわけじゃないもんなぁ」と言った。

然り。

義父の遠出

2013-06-11 17:38:43 | 日々の暮らし・思い出
今月娘の結婚式が石垣島であるので、夫、義父、私の皆で行く。

近所の友人にそれを以前話したら、

97才にもなる老人は家にじっとしてるもんだ・・・

そんなことをしたら命取りになる・・・

そこで倒れたらどうするんだ・・

年寄りである義父を思って言ってくれたことがわかった。

それを聞いた時、ちょっと不安が生まれた。

義父も一緒に行きたいと、夫も私も自然とそう思っていた。

孫だし。一緒に住んでいた時期もあるし。

義父と一緒に暮らしている私たちが自然にそう思う、ということは、

何があるか、起こるかはやってみないとわからないことではあるけど

無意識のうちに「義父は大丈夫だ」という意識がある、ということだと思う。

もし、その「大丈夫」という意識が「心配だな」に変わったら、

義父と一緒に私が家に残ればいいや、と決めていた。

でも、友人の言葉を聞いてちょっと不安になったので、

そうだ、掛かり付けの医師に聞いてみようと思って聞いた。

(生まれつき心臓が悪い義父なので、

掛かり付けの心臓医に三月に一度だけの検診に通っている。

7年前にそこでペースメーカーも入れている。)

医師は大丈夫です、ただ無理はしないように、と言っただけだった。

無理をしないのは何処にいても同じだ。

やっぱり、一緒に暮らしてる人の感触の方が、

90過ぎた老人は家にいるもんだ・・なんていう常識より、

確かなんだと思ったよ。

でも友人が義父や私たちのことを思って言ってくれたことはありがたいなぁと思う。

そんなのがなかったら思ったとしても友人は言わなかっただろう。