ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「思う」という言葉 ③

2013-01-31 14:52:55 | 言葉
常に『今ここ』からの発信が日本語の表現・・・か???考えよう。

前にも何回か書いた気がするけど、

「歩く」という動詞の形は現在形でも、使い方は未来の状況について語る時にそれを使う。

私は歩く、これは今ここではない、未来のこと。一瞬先のことでもそう。

私は走る・・いつ?明日?一分先?のように。

現在、歩いている時は「私は歩いている」と表現するしかない。

ing。現在完了形。継続を表わしている。

今ここの瞬間を表わす言葉ではない。

今ここという瞬間の動作は表現不能。

「私は明日は走ると今思った」・・これを発したのはそう思った瞬間よりコンマ何秒か後だから、(思った)と過去形で表現したのである。

まことに日本語の用法は事実を捉えている。論理的である。


目に見える形ある現象はいっときも止まってないという事実がある。

形あるもので今ここという一瞬を表わす動詞が無いということは、

いっときも止まっていない事実と日本語の用法が一致している、と言えないか・・??


けれど、今を表わす動詞がある。「在る」コレ。

今という現在を表わす動詞は「在る」だけか?

ここに机が在る もそうだけど、こういう考えが在る もそうだ。

「思う」「わかる」という動詞は、今という時、そういう認識が在ると言ってもいい。

「思う」も「わかる」も認識を表す言葉で、言葉そのものは認識。

認識である言葉が発信されるのは常に“今ここ”である。

~月~日にその会議を行うことを決定した・・これはそれが発信されたその時空での言葉・認識。

実際の~月~日にそれが行なわれるという目に見える現象になるかどうかは、

その時点ではわからない。未定。

あの大震災で予定がその通り現象化しなかったことなど限りなくあるだろう。

ただ、そういう認識が在った、そういう約束が在った、のは事実だ。

在るもの、存在は存在する。形あるものも形の無いものも。

在るものはなってきたもの。形あるものも認識も




「思う」という言葉 ②

2013-01-31 10:29:19 | 言葉
「会議を始めたいと思います」という言葉について、

自分はこう思っているけれど、会場の皆さんの都合はそれでいいでしょうか、という含みがあるのかと思う。

もう少し待って欲しいという声があれば、待ちましょうというような暗黙の心が現れている言葉なのかと思う。

会議は皆でするものだから、皆の同意のもとでやりたいという心が言葉に表われている。

私はそんなふうに思う。

・・・一昨日かな、これ書いたの。もう少し考えたい。

桜井邦朋氏は、こういう言い方が謙譲の気持ちでなかったとしたら、

個人的に思うだけだから、“始めたい”のなら、勝手にどうぞということになってしまう、とあった。

だからこそ、その後に(思います)を付けるのだと思う。

個人的には始めたい・・が、(皆さんはどうか?)があるからこそ、

(思います)がついてしまう。

「始めたい」と(思うこと)が個人的であるということが予めわかっているし、

人それぞれでそれぞれの(思い)が在る、ことを、

“日本語の使い方”はわかっているからこそ、こういう表現になってしまうのではないかと思う。

「思います」は不要だと著者は言っていて、

だが、さすがに書かれた文章にはこういう用法はほとんど見られない、とも云っている。

それは当然だと思う。書き言葉と話し言葉は違う。

書き言葉はその時の自分の認識を表現しているだけで、

その場で他者と何かを為す場ではないから。コミュニケーションの場ではない。

コミュニケーションのために書かれた文章はあるだろうけど、

書き言葉それはコミュニケーションの場ではない。

論文を書くのに、これから論文を書こうと思います、なんていう場違いな表現はしない。

でも、個人的な手紙だったら、あるだろうな。

あなたに手紙を書こうと思います・・・前からあなたが好きでした・・とかなんとか。

この場合の(思います)には何が込められているか?

思い切って書く、という決心が感じられるな。

冒頭から、前からあなたが好きでした、だったら、与えるニュアンスはまた違う。

こういうのを行間を読む、というんだろうか・・・


また、会議は~時から始めるということになっているのだから、

何故「始めます」としないのか、それは不思議だと著者は云っている。

けれど、ここが又日本語の“言葉の使い方”に感服してしまうところだ。

会議は何日の何時からと決めたが、それはその時決めたことで、

予定は常に未定であり、なんらかの都合によっては幾らでも変わる可能性はあるもの。

変わるのは当然、という含みがその言葉の使い方に表われている。

常に現象は動き続けているということを“日本語の使い方”は知っているかのようだ。

常に『今ここ』からの発信が日本語の表現だ。

・・表現だ、と今言い切ったわたし。

明日になって、それは間違いだったと言うかもしれないな。

でも今そう書いてしまった。書き直そうかな・・

何でそう思うんだろう?

例外もあるかもしれない・・言い切れない・・とりあえず、言い換えよう。

・・・表現かと思う。もっとよく考える。


恥の感覚

2013-01-30 15:57:01 | ひとの幸福
「菊と刀」でベネディクトが言った、日本は恥の文化、欧米は罪の文化・・

という話は有名だけど、それを読んだことはないのに、

若い頃、そういう話だと聞いた時はなんだか恥ずかしかった。

「恥」を自分の外側に対して持つ恥ずかしさと勘違いしてたからだ。

でも自分の中にある恥感覚を見てみると、

ひとからどうこう言われるだろうから恥ずかしい、というのではなく、

周りからなんとも言われなくても、思われなくても、

自分が自分に対してつい思ってしまう“恥感覚”は日本人に多いのかと思う。

東北の震災に際しての日本人の姿に対して、外国人の反応は賞賛に満ちていたようだけど、

日本人からすれば、全く当たり前のことで、

なんでそんなに言われるのかわからないという感じだろう。

われ先にとパニくらないとか、不平不満を言わないとか、

略奪行為がないとか、そういった行為は意識してそう振舞ったとかではなく、

自然とそうしてしまうという質のものだったのかと思う。

これも恥の文化といってもいいのかと思った。

われ先にと避難物資に群がるというようなことはてんから浮かばない。

そんなことをする人を見るとよく恥ずかしく思わないなぁと感心してしまう、

というような感じがあるんじゃないかと思う。日本人は。

意識的にそういうふうに振舞うというより、

無意識的にそうなってしまう。

ひとがどうだろうと構わない、というふうに行動出来ない。

さっき書いたように、「会議を始めたいと思います」というのは、

自分はこう思うけれど、皆はどうですか、という意味が込められていると感じる。

「会議を始めます」では一方的だ。会議は人と共にするものだしね。

やはり、根っから他と共に、ひとと共に、が沁み込んでいるように思う。

パニ繰らないのも(自分さえ良ければいい)が潜在意識に無いからだろう。

なんでこういうことになってしまったのかといえば、

やはり言葉から来るものなんじゃないかと思う。

思考と言葉は切り離せない。人間が思考するときは必ず言葉で行なう。

言葉なしに思考は出来ない。

震災で一番アメリカの新聞に出た言葉は「ガマン」と「ショウガナイ」だったそうだ。

その言葉で震災を冷静に受け止めたと。

既に起こったことはショウガナイ。

そうなったものはしよう(やりよう)がない。

なるべくしてなった、と日本人はわかるのだろう。

過去は水に流して前を向いて行くだけだ・・のようなのがあるんだろうな。

まぁ、過去に執着していたら前には進めないのは当然だからね。

在りのままを受け取る素地を日本人は持とうと思って持ったんじゃなくて、

持つべくして持ったのだろうと思う。

日本語というもので。











「思う」という言葉

2013-01-30 11:18:47 | 言葉
桜井邦朋さんという宇宙物理学者の「日本人の知的風土」というのを読んだ。

この人はアメリカのナサでの研究者であったり、

スタンフォード大学の客員教授とかを歴任して来た人だそうで、

日本人と欧米人との思考の違いなんかを目の当たりにする環境にいたようだ。

10年くらい前にこの人の一冊を読んだことがあり、

内容はすっかり忘れたけど、なにかしら惹かれるものがあり、

それで名前だけ記憶に残っていたので、この本を読もうかなと思ったみたい。

今回のこの本の中に「『思う』が論理力を破壊する」という章があった。

日本語には論理性が欠けていると指摘されることがあり、

(そんなことも私は知らなかったけれど)

その要因は日本語の語彙の用法にあるとこの人は云っている。

「文章でも会話でもほとんど意識することなく「思う」「思います」と語尾につける、

いうなれば悪い習慣がある。」と云っている。

「これから会議を始めたいと思います」とか、「頑張りたいと思います」

という例が上げられていて、

会議・・の方では(思います)は不要である、と言っている。

頑張り・・の方では(頑張ります・頑張りたいです)では何故いけないのかと思う、とある。

こういう用法は感情移入が関わっているので、

表現の面ではあいまいさがつい出てくることになり、

私たちの論理的な思考の展開を邪魔してしまうので・・・

といったようなことが書かれてあった。

感情がこもった表現を続けていたら日本人は情緒的で論理力がないと、

外国人からからかわれる事が消えないとこの人は憂えている。


このひとはこう考えているのだなぁと思った。

日本語に論理力がないとは私は思ってないけれど、

論理力が無いと思われるのに、日本語の話や文章を英語に翻訳するひとの力が無いせいもあるだろうとも思った。

私たちは通常、「私は女である」これに(思う)をつけることはない。

語尾に(思う)をつけるかつけないか、日本人は微妙に無意識的に判断している。

そのひとの心の状態が現れる、と云ってもいいと思う。


言葉は認識以外の何物でもないので、ある意味では

全てに(思う・思っている)をつけても間違いじゃないと思うけど、それだと混乱するし、

日本人は無意識のうちに上手に使い分けている。

「そこに花が咲いている」・・そこに花が咲いていても、

それに何の関心も無ければ「そこに花が・・」という言葉は現われないという意味で、

言葉は常に認識を表わすものだけれど、

この場合(思う)をつけないことで、自分の考えではないことを示している。

「あそこに花が咲いていると思う」・・言葉自体はもちろん認識だけれど、

(思う)をつけていることで今そこでの自分の思い・考えであることを示している。

「今から会議を始めたいと思います」という表現は日本人の謙譲の美徳が表れていると観る人もあるようだけど、

自分はこう思っているけれど、会場の皆さんの都合はそれでいいでしょうか、という含みがあるのかと思う。

もう少し待って欲しいという声があれば、待ちましょうというような暗黙の心が現れている言葉なのかと思う。

会議は皆でするものだから、皆の同意のもとでやりたいという心が言葉に表われている。

私はそんなふうに思う。

そう発言したひとのその時の心にそれがあったかなかったかはわからないけれど、

言葉がそう言っている。


「あそこの鰻美味しかったよ」という言葉でも、

相手がアンタがそう言ったから行ったけどちっとも美味しくなかったわ・・なんてことを言いそうなひとには、

「・・と、私は思うけど、あなたがどう思うかはわからないけどね」・・・なんて付け加えたくなるし、

そんなことわかっていると思われるひとには「美味しかったよ」だけで終わる。

こんな日常の暮らしの中でも、存在と認識の相異を私たちは言葉で表わしている。

日本語の話し言葉って、かなり哲学的な言葉じゃないのかな。

欧米人は日本語で育ってないからそういった細かなニュアンスはわからないのかもしれないね。

さて、日本語は論理的でないという指摘はどうなんだろう???










自分と世界

2013-01-28 14:43:30 | ひとの幸福
前に書いたけど、究極の在りようからは究極の姿だけが見える。

そこにある現象から究極の姿が見える。

その現象の向こうに究極の姿が見える。

現象から何を見るかはそのひとの心が決める。

視点で認識は変わる。

自分の目を通しての世界があるだけ。

世界は自分。自分の心が世界を通して見える。

「嫉妬」が自分の中にあれば、嫉妬が見える。

「反発」が自分の中にあれば反発が見える。

「怒り」が自分の中にあれば怒りが見える。

嫉妬も反発も怒りも、現象そのものじゃないから。

ひとが世界で見るのは自分だ。

赤ちゃんがそのような現象を見た時に嫉妬は見えないし、反発も見えない。

その現象を観るだけだ。

そのうち赤ちゃんも現象を観念付けて見るようになる。

周りの言動をじっと観察し、そうするようになる。

周りの人の中に嫉妬も反発も怒りもなかったら、

幼児はそれを真似る。


ソロモン流

2013-01-28 10:11:05 | テレビを見て
昨夜ソロモン流という番組を見た。

何度か見たことのある番組だ。

昨日はレストランをやっている輿水さんというひと。

いいなぁと思った。思うが侭に生きているという感じ。

料理の修業は全然せずに料理人になった。

舌が肥えている、と云うんだろうな、こういう人は。

コレとコレを組み合わせたらどうか、とかそういうのがパズルみたいで、

それを解くのが面白いって言ってた。

「いろんな人がいろいろと情報を伝えてくれるんだけど、

自分が体験して感じる、それでやりたい」と。

こういう生き方してるから、人生を生き生きと生きることしか出来ないんだろうと思う。

ひとの尺度ではなく、自分の尺度で生きている。


インプットしないとアウトプットできない、とも言ってた。

舌が肥えているので、美味しい料理が作れるのだと思う。

或る境地に居るので、~のような行為をしてしまう、というのと同じことだろうなぁ。












持ち味・反応閾値

2013-01-27 10:47:05 | ひとの幸福
山岸さんの言葉で「持ち味を活かす」だとかいうのがあったけど、

広辞苑で見ると、食べ物のことでの持ち味と、

もう一つのは人柄や小説・技芸・美術品などの持つ独特の味わいや良さ。


「働かないアリに意義がある」の本では、

上司がいなくても個であるワーカーが自発的にその時やれる仕事をやっていると、

コロニーが運営されるのに全体の必要な仕事が何の問題もなくできてしまうのは、

いろんな個が居る、という理由でそうなる、ということらしい。


私たち人間界でも不完全ながらそんなふうになっている。

趣味・性向・好き好き・傾向・気質・体質・頭脳なんかが一人一人違うからこそ、

いろんなことが成り立っている。


仕事で流れ作業というものがあるけど、そういうのは人間的じゃないなんていう人もあるけれど、

私はそういう単純作業が好きな方だ。

そういう単純作業も人によって好き好きがある。

じーっと座っているのは耐えられないという人も居るし、

私みたいにそういうのも平気という人も居る。

それがいいという人も居る。

本当に千差万別なのが人だ。その違いはアリなどよりずっと多い。

だからこそこんなふうにアリより豊かな社会がある。

ひとの反応閾値は人の数×やることの数だけあると思う。

何故かこんなことが好き・・とか。

学者、技術者、職人、芸術家、政治家、みんなある程度、

何故かそういうことが好きな人がしているんだと思う。

洗濯を干すのは好きだけど、畳むのは今ひとつとか、しまうのは今ひとつとか、

そんな家事のことでも人によって違う。

また、同じ作業でもその時の気分でやりたくなったり、

やる気がしなかったり、それもこうだと決めることは出来ない。

本当に実に多彩なわたしたちだ。

人の数×やること×気分×時・・・ひとの反応閾値はこんなかな。

どんな反応閾値であってもその反応閾値で行動して、

それを否定されずに暮らせたら楽だなぁ。アリみたいに。

人はアリより高度な生命なんだから、

今よりもっともっと快適な社会になる可能性は大大大だ。



働かないアリに・・・⑤

2013-01-26 14:51:33 | 本を読んで
この本を読んでいると、社会性昆虫にもホントに実にいろいろあって、

裏切りや(自分さえよければ)のような現象など、人から見ると反社会的現象がたくさんあるようだ。

そういう個と社会とがいろんな相互作用によって、

存続したり、存続しなかったりしている。

個と社会が互いの相互作用でなるべくしてなっている、という感じ。

研究してる学者は面白いだろうと思う。凄く大変なことだけど。

最後の方にあったけど、研究という活動は、

理論(ダーウィンの進化論)と一致した結果だと公表されやすく、

理論と一致しない結果は公表されずに終わる可能性が高いという。

人間そのものがもっともっと自由なる存在に成長しないと、

いくら研究しても無視されたりして、日の目を見ないことが多いのかと思う。

そういう結果、その時代に生きる人たちに研究による恩恵を与えられない。

適応するものが残るという進化論では研究についても、

その時代の多数の意識に適応する研究はその時代には尊重され、残るんだろうけど、

時という正直者によって、それは消えることもあるし、

研究者の死後、多数の意識が変化、進化してようやく尊重される研究もあるのかと思う。

どんな進化も共になるというなり方しかないのではないかと思った。

それはなるべくしてなる、という表現も相応しいのかと思った。







働けないアリに・・・⑥

2013-01-26 14:32:58 | 本を読んで
「働かないアリに意義がある」の著者は進化生物学者だそうで、

進化について研究してる。

最後の方に「適応度に基づく進化の考えはもう一つ大きな問題がある。

適応度は未来における値なので、測定する未来をどの時点に置くかで、

値が違ってくる可能性がある。

通常は「次世代」または「孫の世代」での適応度を進化の目標にしますが、

次世代で適応度が高い“ある”性質も、何百世代もの未来で考えると、

次世代で低い適応度しか示せない性質より適応度は低いかもしれない。

言い換えれば『ある生物がどのくらい未来の適応度に反応して進化しているのかは

全くわかっていない』のです。

もしかすると、次世代の適応度に反応する遺伝子型と、

遠い未来の適応度に反応する遺伝子型が今この瞬間も、

わたしたちの体内で競争しているのかもしれません。

しかし、理論上にせよ、そんなことが検討された事は今までにないのです。」

「働かないアリの存在も、あながち進化の原則と矛盾していないと思えます。

彼等には直近の未来の効率ではなく、

遠い未来の存続可能性に反応した進化が起こっている、と私自身は考えています。

皆が一斉に働くシステムは直近の効率が高くても、未来の適応度は低いのです。」

引用ばっかりだけど、とても興味深いから載せるね。

働かないアリに・・④

2013-01-26 11:59:07 | 本を読んで
福岡伸一ハカセの文章にもあったけど、

生命にデザイナーはいないけど、

ひとつひとつの細胞や生命が隣近所との相互作用によって、自分のやることをやっていることで、

全体が秩序だって組み立てられてしまうということが起こる・・・といったようなことが、

このアリや蜂のコロニーでの在りようでも現われている。

アリや蜂も生命なんだから当たり前なんだけど。

人間界も不自然さや未塾ではあるけれど、こういった在りようをしているのだと思う。

アリや蜂は顕在意識がないから、そういう生命本来の性質がそのまま形として現われる。

人間以外のどんな生き物もそうだ。貧富の差も無く、

自分さえ良ければいいという思考を生む「お金」という妄想がなくても生きている。

顕在意識が本来の性質通りであれば、他の生き物と同じように、

誰でもがその生命の意志通りに生きられるはずだ。

けれど、そうなるためにはこの人生やこの世界を生きることが必要なんだと思う。

ちゃんとものには順序があるということなのかな。


働かないアリに・・③

2013-01-26 09:48:08 | 本を読んで
自分だけ働くのは損だとか、

なんで俺ばかりがこんなに働かなくちゃならないんだとか、

とろい奴はいいよなぁとか、

そいうのは働く、その作業をする、ということをマイナーに考えているから・・・だろうな。

そのくせ、仕事だったら大威張りで、

遊びだと肩身が狭く感じたりすることもある。

こういったいろいろなグチャグチャした思いが今現在、人間にはあるので、

上司が必要で上意下達が当たり前で、

戦争や紛争が当たり前で、不幸が当たり前・・な状況になっている・・





働かないアリに・・②

2013-01-25 17:47:49 | 本を読んで
この本の著者が言うように、虫の世界では

働かないアリではなく、働けないアリがいる・・といった説明があった。

ある時間までは仕事の要請がそのワーカーには届かず、

その結果として働けなくて、

仕事の要請がそのワーカーに届いたら、ワーカーは働き出す。

虫たちは顕在意識がないからこそ、それで何の問題も起こらない。


きれい好きな人とそうでもない人、

どのくらい汚れたら掃除をし出すのかはその人の個性。

反応閾値を「気がつく」という表現で言ってもいいかな・・

どのくらいで気がつくかは、天性のもの。

アリや蜂も気がついた時点でその固体がその仕事をする。

なまけるというようなことは虫たちはない。

本能とか潜在意識のままで全体がうまいこと行くように虫たちは何故か“なっている”。

一匹一匹の虫たちのそれぞれの個性が尊重されていることによって、

コロニーという社会がスムースに運営される。

人間界でも個性の尊重とかいっているけど、

走るのが遅いとか、知能指数が低いとか、絵が下手糞だとかは

そういう個性を尊重しましょう・・なんてあまり言わない。

個性というものに善悪はないと思うんだけど、

人間の場合、こういったことにもすぐに善悪の観念が働いてしまうのかと思う。

それに損得の観念も強い。

なので、虫たちにはない、仲間内での(人間界)

いろんなトラブルが生まれるのかなと思う。

働かないアリに・・ ①

2013-01-25 17:26:04 | 本を読んで
まだ途中なんだけど、「働かないアリに意義がある」という本を読んでる。

進化生物学者である長谷川英祐さんというひとが書いたもの。

面白く読んでる。

アリや蜂はコロニーと呼ばれる集団をつくる「真社会性生物」という生物だそう。

アリや蜂の社会には上司がいないし、全体への情報伝達もないのに、

全体がうまく運営されるのは何故か?というのがあって、

ここのところはとても興味深かった。

卵の世話、食糧の調達、敵の成敗、住居の修復やら新築、なんかが、

コロニー全員での情報の共有もないのに全体的にスムースに運ぶ。

虫の社会は、仕事が生じた時にコロニーの部分部分が局所的に反応して処理してしまう、というスタイル。

働かないアリばかり集めても、そのうちの何割かは働き出すとか、

働くアリばかり集めてもそのうちの何割かは働かなくなるとか、

そういう話は最近結構知られているけど、

この働かないアリというのは働かないのではなく、働けないということのようだ。

出番が無いというふうに受け取ってもよさそうだ。

反応閾値(はんのういきち)という言葉がそれを云っている。

これは「仕事に対する腰の軽さの個体差」で、

人で云うと、人にはきれい好きな人とそうでもない人がいて、

部屋がどのくらい散らかると掃除を始めるかが個人によって違う、

そういうことを云うよう。

きれい好きな人は「汚れ」に対する反応閾値が低く、

散らかっていても平気な人は反応閾値が高いといえる。

ミツバチでは蜜にどれくらいの糖が溶けていればそれを吸うかとか、

巣の中がどれくらいの温度になると温度を下げるための羽ばたきを開始するかというような、

仕事に対する反応閾値がワーカーごと(個別)に違っているらしい。

反応しやすさに個体差があるらしい。

反応閾値に個体差があると、一部の固体は小さな刺激でもすぐに仕事に取り掛かる。


例えば、敏感な固体は幼虫が少し空腹になった様子を察知して、

すぐに餌を与える。

幼虫たちはたくさんいるので、他の幼虫も空腹になった場合、

敏感な蜂たちが懸命に働いても手が足りなくなる、すると、

一部の幼虫はさらに空腹になり、早く餌をくれ!とむずかり出す。

つまり幼虫の出す「餌をくれ」という刺激は段々大きくなり、

それが今まで幼虫に見向きもしなかった蜂たちのうち、

それほど敏感ではない働き蜂も幼虫に餌を与え始める。

それでも手が足りなければ、幼虫の出す刺激はさらに大きくなり、

最も鈍感な蜂たちまで餌をやり始める。

幼虫が満腹になってくると敏感な蜂たちだけでも手が足りるようになるために、

鈍感な蜂から順に仕事をやめて、段々と働き手は減っていく。

やがて全部の幼虫が満腹すると、「餌をくれ」という刺激はなくなって、

どの蜂も幼虫に餌を与えなくなる。

こんなふうに反応閾値に個体差があると、必要な仕事に必要な数のワーカーを臨機応変に動員することが出来る。

このメリットが司令官を持つことが出来ない社会性昆虫たちのコロニーに

“個性”が存在する理由ではないかとする仮説が「反応閾値モデル」だそう。


自分の反応閾値より大きな刺激を出す仕事だけを処理していれば、

コロニーが必要とする全部の仕事処理が自動的に進んでいく。

この刺激に対してはこう云う反応閾値、あの仕事に対してはこういう反応閾値、

と一匹の蜂にそれぞれの仕事に対するそれぞれの反応閾値があるのだろう。

腰の軽いものから重いものまでまんべんなく蜂がいて、

しかもさぼろうと思っているものはいないという状態になっていれば、

司令塔なきコロニーでも全てがうまいこと運営される。

著者も「よくできていると思いませんか?」とあった。

「全員の腰が軽くてもダメ、様々な固体が交じり合っていて、始めてうまく点がキモです。」ともあった。

この仮説は本当に興味深い。

反応閾値というのは人間でいっても、個性、持ち味ということだろう。

人間とこういう虫との違いや共通点を考えてみたい。








孫 

2013-01-25 10:14:57 | 日々の暮らし・思い出
友人から絵手紙のようなのを貰った。

水墨画みたいな柚子の絵が描かれている。

孫ってどうしてこんなにかわいいのかね(自分の孫だけ)って、

そのハガキにあって、笑った。

私にも孫がいるのでそういう思いはわかる。

なんで自分の孫は可愛いのか???

自分の孫を可愛いと思うのは、

自分の孫だと思うからだろうな。


畑の春

2013-01-24 13:53:16 | 日々の暮らし・思い出
昨日と今日、畑で夏みかんの収穫。

猿が既に幾つかを食べ散らかしているので、採ろうとなった。

あまり甘くない夏みかんだけど、瑞々しさだけは逸品。

畑の小屋の屋根の上まで枝が張っているので、

その屋根にも梯子をかけて上がった。

勾配のある屋根の上でみかんを採るのはちょっと身体が緊張したよ。

そこにも猿の食事した形跡があった。

房の皮までむいてある。ちゃんとむいて食べているのだなぁ。

外側の皮が途中までむかれている物もある。

むいている途中で用事を思い出したのか、

満腹になったのか、暗くなって山へ帰ったのか・・・


梅ノ木にはどの枝にも赤い蕾がいっぱい付いている。

畑に来てもあまり梅ノ木なんかを見上げない夫が、

「畑には春が来てるんだなぁ」と言った。

家の中に居ると冬としか感じないからね~

ホント、何処かで春が生まれてる♪だっけ?

そんな歌があったような気がするけど、

春が息を潜めてあちこちに隠れている。

そうそう、フキノトウも発見!

ここらへんは暖かいせいか、ついこの前まで葉っぱは青々していたんだけど、

茶色くなった葉っぱの合間からコロンとした丸い物が・・・

よくよく見たらフキノトウだった!

まだしっかり固い。でも三つだけ採って来た。

弟も来ているし、今晩さっそく天ぷらにしよう。