ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

大晦日

2011-12-31 16:13:22 | ひとの幸福
今日で今年はおしまい。

自然は昨日も今日も明日も区切りはなく続いているけど、

こうして区切りをつけて暮らしを楽しむのは、

ひとの知恵なのかと思う。

他の動物や植物はお正月だからといって、どーこーはないもんね。

ひととして生まれた楽しみかなと思ってる。

お煮しめも大根なますも作ったし、お雑煮の出しも美味しそうにとれた。


このブログ八月半ばから始めて、4ヶ月過ぎた。

書くのはとても面白い。

面白くなかったらしない。

考えることで、日常の心の動きも変わって来るし、

行為も変わって来る。

行動はそれほど変わらないけど。


近所の友人や昔からの友人と会う。

それも凄くいい。

現在の自分の発見。ひとと対応する事でわかる。

ひとと付き合わなかったらわからない。

来年はどんな一年になるのか、楽しみ。


「付き合う」

2011-12-31 14:34:37 | 新聞を読んで
今朝の新聞に・・

「自然の脅威に直面した時は対抗しようとするのではなく、

付き合うという思想が必要なのではないか」

政府の原発事故調査・検証委員会を務める、

畑村洋太郎・東京大名誉教授は自著で繰り返し説いている。」

・・・とあった。

「対抗」という考えは、

相手と自分、自然と人間、敵と味方、あっちとこっち、という・・元は二元的。

撥ね返すという印象がある。

「付き合う」というのはそりゃ、付き合うのは相手と自分だけど、

対抗と違って、二手に分かれている感じじゃない。

相手を受け入れている。

彼と付き合っている、といえば、仲良くしている、互いに好きって感じだろ。


自然と対抗するって言っても、

ひとは今のところそんなに強くない。多分負ける。

負けるからって言うわけじゃないけど、

対抗する、って聞くだけで疲れる感じ。

付き合う方が楽しそう。

ガンと対抗する、ガンと闘う、というのも聞くけど、

この頃はガンと付き合うというのもよく聞く。

私も腰痛と慢性鼻炎と上手に付き合っていきたいと思ってる。

治したいというのは無い。

治ったらいいなとは思うけど。











観察

2011-12-31 09:51:03 | ひとの幸福
町のお医者さんは患者を診る(見る)より、

パソコンの画面に向かっている時間の方が長い、

というようなことを最近聞くことがあるけど、

パソコンの画面のデータを見るのも、

レントゲンとかCTとかMRIなんかで調べるのも、

患者の顔色を見るのも、

聴診するのも観察の一部なんだと思う。

患者がどういう状態なのか、わからなければ、

治療のしようがない。


観察って対象(相手の状態)を正確に知る手立てだ。

対象を知るには観察以外ないし、対象を知らなければ、

それからどう行動していいかわからない。


目の前にリンゴが在るのに、

それをリンゴだと知らなければ、

食べることも、ひとにあげることも出来ない。

自分が空腹なのに、

それを知らなければ、食べ物を食べるという行動にならない。


自分が何かを誤解しているのに、それを知らなければ、

誤解したまま行為することになる。


知る=観察 といえるかな。

そうなると・・

観察能力が未熟なために行為行動に歪みが生じるのは

理の当然ということになるのかな。



ひとのせいにしたい

2011-12-30 10:22:03 | ひとの幸福
 自分の身に何か不都合なことが起こった時に、

それを「ひとのせいにする」という心の状態になれば、

悪いのはひとで、自分は悪くないのだと感じられて、

気が楽に成るということが起こる。

ひとは基本的に気が楽でいたい、

重い荷物は背負いたくない、

というようになっているのかな。


ひとのせいにしたいとなるのは、

自分で起こしたことを自分で引き受けられないと、

無意識のうちにわかっているんじゃないのかな。

だから、なんとしてでもひとのせいにしたい、

というような心の状態になるんじゃないかな。

もしそうだとすると・・・

自分の心に起きたことは自分で引き起こした、

と無意識のうちにわかっている、ということじゃないかな。

自分を幸福に出来るのも、自分を不幸に出来るのも、

自分だと、

ひとは無意識のうちにわかっているということ。

意識のカラクリはそう云っている・・・・

ひとのせいにする ③

2011-12-29 14:16:14 | ひとの幸福
ひとのせいにするのは良くない、ってのがあると・・

ひとが「あの人のせいでこんな目に遭った。もう嫌になるよ。」と発した場合に、

そう発したひとの辛い気持ちをすんなり聴けなくなる。

「ひとのせいにばっかりして、全くこの人は!」

と裁きにとりかかりたくなる。

そのひとが「ひとのせいにする」という思いを、

持つように“なった”のは、

そのひと一人でなったわけじゃない。

小さな頃から周りには「ひとのせいにする」という思いを、

当たり前のように発していた人がたくさんいたんだろ。

今現在もテレビドラマにもたくさん出てくる。


あなたのせいでこうなった、

とか言われて、心が傷付いたこともあったかもしれない。

その人がした行為を「その人以外の人のせいにすることが出来る」

・・という考えがこの世にあるから、

「ひとのせいにする」人が生まれる。

それをその人個人が悪いかのように、

「ひとのせいにするのはよくない」と裁く。

ひとのせいにしている人を自分より下に見る。

そして軽蔑する、冷笑する。


軽蔑することが出来るのも、

「自分が軽蔑するのはその人がそんな人だからだ」になってる。

その人のせいにしていることに気付いてない。


軽蔑・冷笑された人は

「この人がこんなふうだから、自分は悲しい」と、

また ひとのせいにする。



ひとのせいにする ②

2011-12-29 10:15:30 | ひとの幸福
ひとのせいにしたくない、と思ってた時期があった。

でも、こう思うのには、

自分がした何かを、「他人のせいに出来る」という前提がある。

人は 出来ないことを したくない、という思考はしないので。

「月に今すぐ行きたくない」なんて思いは浮かばないから。



ひとのせいにする

2011-12-29 09:12:02 | ひとの幸福
「あいつのせいで時間に遅れた」よく聞く言葉。

あいつという誰かが約束の時間にその場所に来なくて、

その人は自分の意志で待った。

その結果何かの時間に間に合わなかった。

あいつを待つという選択をしたのはその人。

「待っていて」とか「待ってろ」とか、と言われたとしても、

待つという行為をするという選択をしたのはその人。

あいつのせいで何かの時間に遅れた、のではなく、

自分が待つことを選択したので遅れた、ということ。

自分の不都合をひとのせいにしたり、

ひとの不幸を自分のせいにして苦しむという思いはよく聞く。


ひとのせいにすることなど思いもしないときの意識は、

「ひとのせいにするのは悪いことだから、しない」

というような意志の結果じゃない。

自然にそうなっているのかと思う。



2011-12-28 10:58:46 | ひとの幸福
「気」を使ってる言葉はとても興味深い。

広辞苑で「気」を見ると、長い長い。

いろんな意味合いがある。

「気は心」

「気狂い」と書いて 気違いと読むのも面白い。

「気」がそそられる言葉だ。

「気分」「気味悪い」「気合」「気風」「雰囲気」「大気」「人気」

「気が済まない」「気が合う」「気がある」「気が改まる」

「気が置けない」「気が重い」「気が気でない」「気が差す」

「気が知れない」「気が進まない」「気がそがれる」

「気が散る」「気が付く」「病は気から」

今度ゆっくり・・「気」が向いた時に、勉強しよ。

自分を苛める

2011-12-28 10:01:32 | ひとの幸福
関係性を気にして、我慢して、

伝えたいことを伝えずにいると・・・

ひとを我慢させるようになることもある。

関係を良くしようとしてやったことが、

関係を余計悪くすることがある。

自分を抑えつけると、

そのエネルギーは出口を求める。

傷付く事を恐れることが,

自分の傷口を又大きくする。


「A3」を読んで

2011-12-28 09:58:38 | ひとの幸福
オウム真理教の裁判が終えた先月、

森達也さんという作家の「A3」を読んだ。

いろいろと思うことがあって、いい体験をしたと思う。

新聞や週刊誌は「オウム=悪」の方程式ばかり。

自分の経験から、それに違和感を感じるようになったのはここ数年。

何故心優しいオウム真理教のひとたちがあーいうことをしたのか。

裁判では明らかにされなかった。

けれど、一人一人が考えることは出来る。

このブログでもそんなこと書いてきたけど。

その本を読んで思ったことの少しを書いてみたい。


オウム真理教は 人類救済計画 というものを持っていたそう。

けれど人類などというものはどこにも無い。

在るのは一人一人の人間。

人類救済という言葉を聞いて、

「俺は別に救済してもらわなくても構わないんだけど・・」という人もいるだろ。


ひとには一人一人意識があり、意志がある。

それを自覚してるか、してないかは別にして、

自発的、主体的に生きたいのが人というもの。


「人類救済」のために、他者をナントカしたいという考えは、

それぞれに意思のある他者を救済“させよう”という思考。

苦しみから解放される主体はひとりひとりだし、

救済されることを望むも望まないもその一人一人が決めること。


他者が苦しみから救済されるように“なる”ために、

自分はこう“する”、というのならわかる。

そこには他者に意思があることの自覚がある。

一人一人に刻々と働いている意思・意志・意識が在る、

そのことが麻原さんは心底わかってなかったのかと思う。

終わらないストーリー

2011-12-27 15:23:57 | ひとの幸福
掌にちょこんと乗るような、

ガソリンの空気を調節する小さな部品を作っている東北の工場が

地震の影響でその部品を作れなくなって、

その部品を輸入してアメリカの車を作っている工場は

その小さな部品が一つ無いことで、車を作ることが出来ず、

工場の操業が停止された、という記事を読んだ覚えがある。

労働組合の委員長がインタビューを受けていた映像を見たような記憶が在る。

日本で地震や津波が起こったことで、

アメリカの工場が操業停止になるなんて、

思ってもみなかったと言っていた。

なるほどと思った。全く「なる」ほどだ。


風が吹けば桶屋が儲かるという落語?があるけど、

風が吹くとゴミが目に入り・・・

ずーっと繋がって桶屋が儲かるという昔の話だけど、

この話でわかることは、

どんな現象もそれで終わることなんてないってこと。

いつもいつもどんなことも途中経過に過ぎない。


桶屋が儲かるの続きは・・・

桶を締める道具を作っている道具屋も繁盛し、

道具屋が繁盛すると、道具屋の若旦那は女遊びをし、

若旦那が女遊びをすると、家が滅亡し、・・・・(これフィクション)

・・・・それからもずーっとずーっと途切れることなく繋がっていく・・


結果が原因となり、その原因が結果を生み、

その結果が原因となって又結果を生み、

その結果が原因となって又結果を生み、

その結果が原因となってまた結果を生む・・・。

終わらないストーリー♪。

時間的にも空間的にも全ては繋がっている。

周辺症状 ④

2011-12-26 15:36:35 | ひとの幸福
赤ちゃんが生まれると、上の子供は赤ちゃん還りをしたり、

乱暴な行動をとることがある。

「そんなんじゃでダメでしょ、お兄ちゃんなんだから・・」

昔はそんな感じだったのが、

今はこんなふうに上の子を叱るのは、

逆効果だということがかなりポピュラーになってきてる。

こういう上の子の行動は、

嫉妬から来るものだということがわかって来てるんだろ。


嫉妬 というのは

自分にもっと関心を向けて欲しい、

という気持ちなので、

上の子と二人だけの時間をとったり、

甘えさせてあげたりすることで、そういう乱暴な行動は消える。


こういうのも周りの対応が間違うと、

暴力的な行動をするようになる、認知症と同じかと思う。

対応という行為は、

相手の行為行動をどう捉えているか、でスタートする。







周辺症状 ③

2011-12-26 14:00:31 | ひとの幸福
認知症のひとが『夜中に徘徊する』と言う。

『うろうろ歩き回る』と言う。  

認知症の人は徘徊しているのか・・・

いや、その人は歩いている、という行動をしている。


徘徊している、というのはそう言った人の見方。捉え方。主観。


街中で認知症のその人を知らない人が、

その人が歩いているのを見たとき、

徘徊している、とは見えない場合もあるかもしれない。


夕方になると自宅に居ても『家に帰る』と発する人がいる。

その人はその人の思うところの家の方向へと歩き出す。

自分の幼かった頃の家かもしれない。

結婚したばかりの家かもしれない。


その人は徘徊してはいない。

その人はうろうろ無目的に歩いてはいない。


『徘徊してる』と言う人は正常で、

家に帰ろうとしている(その人の意識では)その人だけが認知症なんだろうか・・・


白神山地

2011-12-26 10:08:14 | ひとの幸福
毎朝海岸沿いの道を歩いている。

いろいろな木を見る。

テレビで白神山地のことをやっていたのを見たことがある。

そこはブナの木が群生している山らしい。

世界中でブナの群生林だか群生山だかはそこだけということで、

世界遺産に登録されたらしい。

正確な記憶じゃないけど、まぁ、そんな感じ。

日本にもいつ頃までかよく知らないけど、

あちこちにブナの山があったらしいけど、

その頃のブナについての見解は「何の役にも立たない」だったらしい。

なので、じゃんじゃん伐採して、

そこに役に立つというところの杉をじゃんじゃん植えたらしい。

だけど、今いろいろと研究されて、

ブナにしか出来ない何かの作用があることがわかり、

ブナは環境を良くするのにとても役立っている、

というのがわかったらしいというような番組だった。

それを見て、へー、そうなのかと思った。

実際のところはブナは当時も何かの作用をしていた。

環境にとって有益な役割をしていた。

だが、そのことを人は知らなかった。

ブナのことをほとんど知らないという自覚はなかった。

・・・ということだろうと思う。

ブナは役に立たないという見解・解釈の元にどしどし伐採をした。

当時そのことは正しい行為だったんだろ。

どう“したら”よかったんだろう、という反省は出来ない。

その時のひとは そういうふうでしか在りえなかった。

研究も進んでなかった。

悪いことなんかなにもない。

誰も咎める事は出来ないのは勿論だ。

ただ未熟だった。

ひとの未熟さが社会の未熟さを齎す。

ひとの意識と社会の在りようは相似関係にあるんだろな。

わかろうとすること

2011-12-25 14:58:28 | ひとの幸福
聞いてわかる位のことは聞かなくてもわかる。

例えば誰かが「前の総理は菅さんよ」と言ったとして、

それを聞いて、うん、そうだなと思う。わかる。

聞く前からわかっているから。

小さな子供から「3+5=8だよ」と言われてもそう。

うん、そうだね、とわかる。

聞かなくてもわかる、ということは、

聞くということが、

わかるために聞いているんじゃないことがわかる。



「3+5=8」も「前の総理は菅さんよ」も、

以前にそれをわかった瞬間があったということ。

なので、「そうだね」が出てくるのは、

自分の意識に在るそれまでの知識、情報、記憶のストックを探して、

同じものをみつける、という作業。


自分に無いものを聞くときは、

わかろうとして聞いてもわからない。

無いものを探すことなんて出来ない。


何を聴くのかなといえば、

その人がそう“言っていること”が在る。

内容がわかろうとわかるまいと、 在る ことはわかる。

だって、書いて在る  言って居る。