ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「・・「こころ」の子育て 」 ②

2012-10-12 14:18:06 | 日々の暮らし・思い出
それが何故出来なくなっているのか???

親もその親から話を聞いていてもらえなかった・・からかもしれない。

話をしたとき、いや、話というほどまとまった話じゃなくても、

ここが痛いとか、何かが嫌になっちゃったとか、やる気がしないとか、・・

そういったことをただ、あら、そうなの、って聞いてもらえるだけでいいんだと思う。

実は今朝、起きて洗濯物をたたんでいたら、イブがやって来た。

その部屋にはキティちゃんの家セットが置いてある。ままごとセットだ。

「キティちゃんで遊ぼうよぅ」とイブが言う。ここでそれを見たら当然の運びだ。

ここで二人して、昨日これで遊んだから。

片付けておかないといけないな・・でも今は・・

まだ朝飯も食べてないし、保育園にも行くんだしなぁ・・と、つい即答的に「今はダメだ」と言いそうになって気が付いた。

イブの気持ちを聴いてないな、と。それで、

「そうだね~、遊びたいね~、でもおばあちゃん、ほら洗濯物たたんでいるでしょ、

あ、これ(ランチョンマット)初めて見たけど、

どこにしまうのか、イブ知ってる?」

ちょうど、それをたたんでいるときだったので、話をままごとから逸らすことが出来た。

すると、イブはすぐに「これは・・の部屋のタンスのとこ」と言って、

さっさと持って行った。そして又戻ってくると、

私が何かを言ったわけじゃないのに、他の洗濯物も、しまう場所を知っているのだろう、運んだ。

小さな子は今ここに生きているなぁ。


話を聴く、本当に聴くだけでいいのだと思う。

こんな時聴けない状態に“なる”のは

瞬間的に、こんなこと言ったら、遊ぶ羽目になるんじゃないか、

保育園に間に合わなくなるんじゃないか・・といった、不安が頭をもたげる場合が多い。

そういう時、覚悟があればどうってことない。

保育園に間に合わなくてもいい、遊ぶことになってもいい、その時考えよう・・

こんなふうに思えると楽になるもんだ。思いを放すって奴。


聴けないときのわけ・・他にもいろいろあるだろう。

又ちょうどいい例題がきっとあるに違いない。そうしたら書くね。

「親だからできる『こころ』の子育て」①

2012-10-12 14:12:30 | 本を読んで
尾木ママの本である。

娘が講演会にって買ったものらしい。面白い。

なかにこういうのがあった・・・最近の子供たちの大きな特徴として、「人の話を聞けない」。

聞かれる心地よさをふんだんに体験している子供であれば、

目を見開き、耳を澄ませて人の話を聞こうとするもの。

「学級崩壊」や「キレル子現象」など、子供のおかしさが話題になればなるほど、

大人たちは耳をふさいで(子供の声に)、

指示・命令を出し、訓練で現象を封じ込めようと躍起になります。

こういう現象に対し、尾木ママは子供たちの自尊感情をいかに高めるかについて、

もっと真剣に考える必要があるのではないかと言っている。

そうだなぁと思う。

教育現場でも家庭でも子供たちはいつもあるべき姿を求められている・・・

それらを実行できないのが人間であるという、リアルな人間認識を持てるかどうかということです・・・

加えて失敗してもそこをくぐりぬけながら「仲良く」なり、

「団結」できたという経験を積み重ねることです。

そのプロセスを通して人間への信頼が生まれ、自信も芽生えるのです。

目に見える行為が問題なのではなく、プロセスが必要なのです。

教育実践や子育てというものの本質は、

人間同士が複雑にからみ合った「動態」的な関係を基礎に、

豊かな感性と人格が形成されてゆく営みではないでしょうか・・・

・・・以上、「あるがままの我が子を受け入れて」という章からの抜粋です。

本当にその通りだなと思う。

それが何故出来なくなっているのか???


言葉遣い

2012-10-12 10:43:10 | ひとの幸福
3才のイブに向かって、「もう食べなくていいよ」と別に怒っているわけでもなく娘が言う。

イブは「食べるぅ!」と叫ぶ。

多分、昨日だかに書いた褒美のデザートが食べれなくなるということがいやで、

そう反応するのかと思うのだけど・・・

食べなくていいよ、という言葉遣いを、何度か続けて言っていたので、なんだか変な感じがして来た。

なんだろう?・・・

このことで思い出した。

舅と同居してそれほどの日にちが経ってない頃、

何かの料理を作って出したけど、それが美味しくできてなかったので、

無理して食べないでくださいね、という意味合いで、舅に「食べなくてもいいんですよ」と発したら、

舅は「何をぅ!」という感じで、さっと顔色を変えた。怒った顔付きになった。

誤解されたと思って、慌てて、いや、そういう意味じゃなくて、

美味しくないから無理して食べたりしないでくださいね、って言いたかったんです、と言った。

したら、すぐにそうか、とわかってくれたんだけど。

私に対して6年9ヶ月の間に怒った顔を見せたのはその時だけだ。

穏やかな義父だけど、あー、誇りを傷つけられたと思って怒るんだなぁと感慨深かった。

他者のする行為(食べる)に対して、行為しなくてもいいよという上から目線を発するのは、

3才にしても嬉しくてたまらないことじゃない・・のかもしれない。

それをやっている今ここで、それをしなくてもいいよ、と上から目線で第三者が言う・・・??

3才でも行為の主体は自分だということがわかっている・・んじゃないか・・





コトバ

2012-10-12 10:02:01 | ひとの幸福
物を落とすと、割とすぐにイブは「お母さんが拾う!」と言う。

何か不自然な感じがしていた。

親が「自分で拾いなさい」なんて言うと、すぐに「お母さんが拾う!」。

いたちごっこ。

これはなんなんだろう・・どうしてこうなるんだろう・・?

イブは3才と1ヶ月。去年5月会ったときに比べるとコトバが飛躍的に増えた。

親は子が言葉を話すようになると、どうしてもコトバに頼るようになる。

あーしなさいこーしなさい、という便利なコトバを使うようになる。

コトバで相手(子)を動かそうとする。

そしてコトバを使い始める子供は2才前後からだ。この時期の子供は京大のチンパンジー?の研究でもあったけど、

(以前引用したことがあった)

生活習慣などは周りの大人の行動を的確に緻密に観察し、

言葉によらなくても全部その通りやれる(真似る)ようになる、という。

この時期の子供の脳波もそうするように“なっている”よう。

その脳波のときは大人でも鵜呑みモードなよう。

子供は親の“言う通り”には“ならない”けれど、親の“する通り”に“なる”。

この例も、この通りの現象が起こっている、んじゃないか・・・

「自分で拾いなさい!(自分で落としたんだから)」とコトバを発するので、

その言葉使い、イントネーションを観察して真似る・・「お母さんが拾う!」

前も書いたけど、自分がしたんだから自分で落とし前をつけろ、という理屈は子供には通用しない。

それ以前の人生で自分のことは自分ではない誰かがみんなやっていたのだから。

オムツの交換、洗濯、食事、移動、全てやってもらうのが当たり前だったので。

なので、理屈ではない、「拾いなさい」というコトバ、そのイントネーションを真似ている・・・!?

・・・そんな気がする。


“コトバ”で教える、のは、知識であって、その人の行為や行動じゃない・・んじゃないか。

そこのところ、大人は間違えているんじゃないか・・