前に見に行った映画の予告編を見て、見たいと思って行ってきた。
そんなに泣く映画ではないとは思うが、もちろん、感動して涙が浮かぶ場面はあるが、私は涙が止まらなかった。
映画が始まった時、画面一杯に主人公の顔が大写しに。こっちをじっと見つめている。そしてその瞳にジワっと涙が滲み出てくるのである。
何を見つめ、何に感動しているのだろう。
カメラが引いて、彼が一枚の水墨画を見つめているのが分かる。しばらく動かない。
私にも、そんな経験がある。
夫が生きていた時には、よく絵を見に行った。今は友達とよく見に行く。
ずっと昔、東山魁夷の絵を一緒に見に行った時、夫は先に行ったけど、私はある絵の前で、動けなくなった。なぜか分からないが、胸が一杯になって涙が溢れてきたのだ。何にそんなに心が揺れたのか分からない。その絵は、枝々に雪が積もり、その中に鳩が1羽枝に止まっている。
私は、時にはその時の心のありようで見たものに、感情が揺さぶれる事がある。
映画の主人公は、心に鬱屈を抱えているが、それが何か分からない。後半、その過酷な過去が分かり、胸が辛くなる。後ろの若い二人連れの女性が啜り泣くのが聞こえてきた。
静かな、本当に水墨画のような映画だった。静かに流れる時間の、それでも真っ白な紙の上に引かれる一本の線。緩やかに激しく、そして豊かに流れていく濃淡の世界。
私には、どんな場面でも、心が揺れた。
水彩画や墨絵を時々書いていた亡き夫。水彩画や油絵を書いていた亡き姉。農作業を出来なくなって、なぜか絵を書くようになった亡き母。
私も、学校のクラブで主に油絵を書いていた。
そんな諸々の思い出が溢れかえり、涙を堪えられなかった。
もう一度、見に行ってこようかな。
しかし、俳優さんて、凄いなと思った。
観客がいる前で、大作に水墨画を書くシーンがあったが、真っ白の紙に墨を含んだ筆を置き、一気に引く。顔も手も一緒に写っているから、実際に書いているのだ。もちろん、部分部分だけど。それでも、相当練習したのだろう。
やっぱり、もう一度見に行ってこよう。
そんなに泣く映画ではないとは思うが、もちろん、感動して涙が浮かぶ場面はあるが、私は涙が止まらなかった。
映画が始まった時、画面一杯に主人公の顔が大写しに。こっちをじっと見つめている。そしてその瞳にジワっと涙が滲み出てくるのである。
何を見つめ、何に感動しているのだろう。
カメラが引いて、彼が一枚の水墨画を見つめているのが分かる。しばらく動かない。
私にも、そんな経験がある。
夫が生きていた時には、よく絵を見に行った。今は友達とよく見に行く。
ずっと昔、東山魁夷の絵を一緒に見に行った時、夫は先に行ったけど、私はある絵の前で、動けなくなった。なぜか分からないが、胸が一杯になって涙が溢れてきたのだ。何にそんなに心が揺れたのか分からない。その絵は、枝々に雪が積もり、その中に鳩が1羽枝に止まっている。
私は、時にはその時の心のありようで見たものに、感情が揺さぶれる事がある。
映画の主人公は、心に鬱屈を抱えているが、それが何か分からない。後半、その過酷な過去が分かり、胸が辛くなる。後ろの若い二人連れの女性が啜り泣くのが聞こえてきた。
静かな、本当に水墨画のような映画だった。静かに流れる時間の、それでも真っ白な紙の上に引かれる一本の線。緩やかに激しく、そして豊かに流れていく濃淡の世界。
私には、どんな場面でも、心が揺れた。
水彩画や墨絵を時々書いていた亡き夫。水彩画や油絵を書いていた亡き姉。農作業を出来なくなって、なぜか絵を書くようになった亡き母。
私も、学校のクラブで主に油絵を書いていた。
そんな諸々の思い出が溢れかえり、涙を堪えられなかった。
もう一度、見に行ってこようかな。
しかし、俳優さんて、凄いなと思った。
観客がいる前で、大作に水墨画を書くシーンがあったが、真っ白の紙に墨を含んだ筆を置き、一気に引く。顔も手も一緒に写っているから、実際に書いているのだ。もちろん、部分部分だけど。それでも、相当練習したのだろう。
やっぱり、もう一度見に行ってこよう。
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