ふみさんの日々雑感

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文庫「陪審法廷」楡周平著

2009-04-01 17:39:50 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
これは、15歳の日本人少年がアメリカで起こした殺人事件を裁く法廷サスペンス。無罪か終身刑か。

アメリカの法廷小説をよく読むし、海外ドラマでもよく見るので、アメリカ法廷の陪審員制度は知っているつもりだ。でも、日本でも、アメリカとはちょっと違うが裁判員制度が始まる。それで、日本では、この事件はどう裁かれるのだろうと思いながら読んだ。

日本でも、残虐な少年犯罪が時々、起こる。少年法も変わり、少年であっても重い刑罰を科せられる事もある。日本では、はっきりと殺人者だと断定されていれば、たとえ情状酌量がついても、必ず何らかの刑罰は受けなければならない。

でも、アメリカの陪審員制度は違う。100%殺人者であっても、無罪になる可能性もある。あの、ハローウィンで日本の少年が知り合いの家と間違って尋ねた家の住人に射殺された事件。殺人者である彼は無罪となった。日本人としては納得がいかなくても、である。

アメリカの陪審員は、被告人が有罪か無罪かを決めるだけである。陪審員だけで議論した内容も、なぜ有罪にしたのか、あるいは無罪にしたのかを説明する事はない。ただ、有罪か無罪かを判断するだけである。

そして、ここが日本の裁判と決定的に違うと思うのは、被告人が有罪であると立証するのはあくまでも検察側にあるという事。だから、法廷に提出された証拠、あるいは証言の中に、少しでも疑義を差し挟む余地があれば被告は無罪にしなければならない。

99%の確信では駄目で、100%被告が罪に問われる行為を犯した、検察側が提出した証拠には一切疑義を差し挟む余地はない場合だけ、有罪とする。

アメリカでも数え切れない程の殺人事件があり、無数の裁判が行われている。だから、判例はその数分だけある。だから、同じような事件も数限りなくあり、判例に照らせば量刑はおのずから確定するはずだ。

では、なぜ、アメリカで陪審員制度があるのか。法律の知識のない一般市民を選び、時間とお金を使って、有罪か無罪か二者択一させるのか。

作者は小説の中で言っている「法の上では犯罪とされる行為でも、状況如何によっては、それも人間としてしかたのない行為だったと認定される場合だってある。法という人間の感情を拝した代物に、人間の感情を吹き込む、それが陪審という制度なんだ」と。

そして、日本との決定的違い、もし有罪と判定されたら、被告には上告という手段があるが、無罪と判定されたら、検察には上告の道はない。だから、日本のように、何十年も裁判が続くという事はない。

そして、一級あるいは二級殺人罪を求めれれた15歳の少年は結局、陪審員によって無罪となる。一級殺人罪は終身刑、二級殺人罪は仮釈放のある無期か25年以上の拘禁。

もし、日本の法律が適応されたなら、この少年は必ずそれなりの刑に服して、更生へのプログラムが整備されるだろう。あの、神戸のA少年のように。

日本は、アメリカとは全ての面で違う。一般市民が銃を持っていないし、多民族の多様な文化があり、ある種の正義感や常識も違う。

いったい、日本の裁判員制度とは、どんな仕組みなのだろう。多分、アメリカの陪審員制度とは違うと思うのだが、私には、まだ、よく分からない。


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