月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

手動のコーヒーミルでのんびり

2021-05-31 00:07:22 | コロナ禍日記 2021

 

 

 



(マグナムコーヒーのホットチリドッグとオーガニックスペシャリティコーヒー)

 

 

4月13日(火曜日)

 

 きょうは家人が在宅ワークの日。

 朝から家の用事をしていて、お昼の3時頃にやっと机の前に座る。6時まで仕事をして、それから買い物へ行った。

 大阪のコロナ新規感染者は、ついに千人を越えて1099人だという。遅くなったのでお寿司でも、と思って2軒立ち寄るが、どちらも8時20分頃にはオーダーストップで9時には完全閉店。あわただしい気がして、結局は家に帰ってきてしまう。うちは五分つきの米を使用。1時間以上は浸水しないと固くなってしまう。40分浸けて、水を多めにいれて土鍋で炊いた。

 

 スーパーに甘鯛があったので塩焼きにして、蕪と新たまねぎのおみそ汁、にらと卵の炒め物を大急ぎでつくって夕食にした。(米はもさもさして粘りがなかった)

 

 買物の際に、コーヒー屋さんで手動のコーヒーミルを新調していて、ゴリゴリと力を入れてコーヒー豆を摺る。ぐらぐらと動いて安定しない。ソファに座り、脚と脚の間にはさんで、またゴリゴリと摺る。思ったより力がいった。が、じきになれるだろう。この日は、篠山マグナムコーヒーさんのエチオピア産「イルガチェフェ エチオピア オーガニック」にした。

 柑橘系かな、と思わせる、ふわっと柔らかなコーヒーの香り、口に含んだ時の酸味、スッキリしているのに奥行きある深い味だ。「うわーー、店でひいてもらう粉のコーヒーと全然違う!」と思わず大きな声を出しそうになった。やはり、おいしいものを味わうには手間ひまがかかるのである。

 夕食のお味噌汁にも、自分の挽いた自家製かつおぶしで、お出汁をとろう!と誓う。

 さっそくこの晩、お出汁を作って冷蔵庫へ入れて、1時半に就寝。

 

 


たまには一人で。仕事とシネマと。

2021-05-30 00:53:00 | コロナ禍日記 2021







 

4月12日(月曜日)晴れ (後追い日記)

 

 4月も半ばになってきたというのに、わが家はとても寒い。骨の芯が寒がっている。それで、絹と綿で交互に靴下を2枚履いて、その上に奈良で買ってきた「あしごろも」を履いて、ホームウエアの上に、毛皮のベストを着ている。

 

 なぜ、これだけ寒いのか。外へ新聞をとりにいけば、春っぽいホコリの混じった生ぬるい風が頬にあたる。ということは、家の中だけが寒いということ。神棚や父の写真、バリの神仏から漂ってくる? いやいや。たぶん、ヴィラ1棟、足場(大規模修繕のため)を組み、真っ黒い網目で太陽の光や、外気から覆われているからではないかしら。寒い部屋に、吉野桜がまだ咲いてくれている。4月2日に購入してから、10日間も、吉野の桜を見ることができるという幸せは、はかりしれない。

 

 きょうは、家人がいないので、朝は存分にお香(みのり苑)をたいて瞑想し、それから原稿にかかる。5時までに切り上げるのが目標だったが、結局は昼過ぎから8時半くらいまで、だらだらと書いたり、訂正したり、電話打ち合わせをしたり、といくらでもすることはある。

 

昼ごはんは、鯖味噌、納豆、ブロッコリーのおひたし。

夕ご飯は、すき焼き風、肉豆腐。グリーンサラダ。おつけもの。

 

 一人の食事のあと、TVをつける気にならず映画「ボンヌフの恋人」をみる。







2回目だ。ジュリエット・ビノシュの初期作品。最高!視力を失っていく女、車に引かれて脚をけがした男。だから出会えた、パリでの路上生活者の恋愛。

 はじめて心ひかれた女に、手を出せず、どこまでも寄り添う。破天荒に遊び、歌い、笑い、孤独を抱きしめあう。男の一途さ。なにも持たない同士だから野生たっぷりに愛しあい、信じあえる。純粋な目がとらえたパリの街、花火、夜景、水上スキー、セーヌ川を何度もわたる。恋愛ってやっぱり自己中なものだって宣言。いいじゃないの。楽しくいきましょう、それがパリよ、と。塞ぎがちな気分の時におすすめ!古きよきヨーロッパ万歳。

 

 11時半。見損なっている仕事関連のZoomを1時間みる。1時に就寝。

 

 

 


マンションの大規模修繕工事はじまる。

2021-05-25 23:34:00 | コロナ禍日記 2021






 4月8日(木曜日) 晴れ

 朝はヨガ、瞑想。午後から仕事をする。

 きょうは、家人が在宅のテレワーク。ついにうちのマンションの大規模修繕の工事を始めた。鉄芯を巡らせ、ジャングルジムみたいな足場をつくっている。「観念しなさい。君たちは包囲されている。手を上にあげて出てきなさい」と閉じ込められているような気持ちになった。






 ゴーゴー、ドドドッ。ドリルで外壁に穴をあける音が、部屋中をふるわせる。ミシミシと柱が動く。カンカンカンと鉄と鉄を鳴らす音。工事の騒音はすごいのに。学生時代の文化祭や体育祭行事で大道具、小道具をこしらえている感じすら。チームワークは、バッチリなのだ。暗い部屋、息を潜めて静かに隠れている約2名の住人の図を想像した。カンカンと鉄を打つ音にまじって、ひそひそと話を聞いている内容のほうが面白い。

「ちょっと、こっち手伝ってや」「あかん、たらん。のばして」「よっしゃ、はまった」「昨日な、おれ、晩たべてないからふらふらよな」「お前なあ」

 

 住人は平気で、盗み聞き。にぎやかなものだ。彼ら工事現場のお兄さんをつい、信用したくなるのは、その規則正しさにも現れているのだった。8時45分に、人がわらわらとやって来て、10時前にはすっと引いていなくなる。午前中の休憩タイムは40分間だ。

 

 12時から昼1時。3時から3時45分までも休憩タイムらしく。ものすごい騒音と金属音が一瞬にやんで、シンとした静寂の時がもどってくる。その緩急はすばらしく、「動」が激しく活気にあふれているだけに、静は湖のそこのように静まりかえっている。

 

 夕方5時。ぴたりと音がやんで、家人のテレビ音がひとしきり大きく耳に響いてきた。ふー、ため息が思わず出た。きょうから7月まで延々、修繕工事が続くのだという。

 夕食には、みそかつ卵のせ、グリーンアスパラガスとゆでたまご。グリーンサラダ、しじみの味噌汁。夕方からテープ興しを12時半近くまでした。ようやく8時間終ったが。まだ6時間以上残っている。

 夜中2時、お風呂にはいって本を少しだけ読んで就寝。

 


食卓に花があるだけで

2021-05-24 22:14:00 | コロナ禍日記 2021









 

4月7日(水曜日)

 

 土曜日に下のスーパーマーケットで購入した奈良の吉野桜。2分咲きを買って帰ったのが、7分になった。部屋が非常に明るい。枝の先にぷっくらふくらんだ黄緑のつぼみ。少ししわがはいった白い5枚の花弁、レモンイエローの花粉をつけた12本ほどの花弁も、とてもかわいい。毎日、花見酒、花見の食卓を高じて上機嫌である。

 いまも、篠山で借ってきたいちごをパクリとやりながら、その上に宝塚牧場のヨーグルトをたらーりとかけ、食卓でひとり花見を楽しんでいる。

 

 お昼ごはんは、長崎の皿うどん。具にはちくわ、新キャベツ、ピーマン、人参、マイタケ。中華スープをつくり、後は吉野葛を水に解いてまわす、簡単なものでも十分に満足。

 

 午後1時から6時まで原稿を書く。ダイニングテーブルで校正し、訂正し、区切りのところまで書く。休憩には、この間から読み進めている吉田修一氏の「パークライフ」を読んだ。𠮷田修一氏の文章は「翼の王国」のエッセイからファンになり、小説としてはまだ2作目。

 

 肩の力をぬいて、できるだけ軽く書こうとされている。読んでいてリラックスする楽しい小説。特に事件らしきものが起こるわけでもないが、主人公の佇まいに好感がもてる。リアルな主人公、リアルな視点、リアルな日常が描かれている。構成も文章も、観察眼も上級である。土台がしっかりとしているとこれだけおもしろく読めるのだと、ある意味、特別な本でした。

 

 夕ご飯は、百日鶏の照り焼きステーキ、からし菜とレタスのサラダ、もずく。おつけもの。お味噌汁。5分づきごはん。

 

 8時から映画をみる。「ペトラは静かに対峙する」。






詩的な映像。静かにドキュメンタリーのように人生の中の時間の流れをみせる映画。ペトラをとりまく不遇な出来事を、淡々と描く。芸術と金を最も価値がある、とする冷酷な父。ゆがんだ孤独。しかし、この映画は欠陥の多い高圧的な男(父)を描こうとしたのだろうか。むしろ、自分の意のままに、行動しているだけで、その理由づけを、偏屈に語っているだけではないだろうか。とも思えてくる。射殺されたシーンで、ちっともスカッとしなかったから。同情心すら沸いてきたから。ラストの一幕で、ペトラと娘とのシーン、義理の母(父の妻)とのシーンがなおさら、ほほえましく温かく映った。好きなタイプの作品だ。11時から風呂に入り、1時に就寝。

 こんな平凡な日が理想だ。

 


2時間のウォーキングはご近所のFと

2021-05-20 02:50:00 | コロナ禍日記 2021

 

4月2日(金曜日)晴れ   

 

起きて、瞑想とヨガ。このところ恒例の朝読書。

お供にしている飲み物は、白湯から葛湯に切り替えた。奈良の黒川本家の葛を水にとき、少しざらめ砂糖を加え、熱湯をそそぐ。おいし。






 今朝は、ご近所のライター友達であるFと、近くの住宅街の中を50分歩いて、桜の樹木をみながら、高速道路のパーキングステーションまで、急勾配の道を上がったり降りたり、150度カーブをぐんぐん歩たりした。

 全ての時間にして約2時間コース。






 2020年のコロナ禍は、一度も会わなかったのでつもる話しがたまり、笑いながら喋りながら、歩く歩く。

 NHKで、この頃、好んでみているのが「歩くひと」という番組であるが。


 この日は、ウォーキングシューズとナイキのウエアという服装で、薄桃色の桜の中を、歩きつづける喜びを味わった。そして高速道路沿いにある最寄りパーキングでのランチという流れに。同業なので仕事のことを少しと、近況の報告やコロナのこと、家族の成長話など。ランチからコーヒータイムへ、再び帰りのウォーキングまで延々と話し続けた。よく笑った日だった。

 

 駅前のスーパーの前で手をふって別れる。ご機嫌ついでに花屋で「吉野桜」の木を4本購入。ガラスの花瓶に生けて食卓のテーブルの上に飾った。わが家での花見、第二章へと続くことになる。

 




 

 

 

 


花のころ。平安神宮から歩く、歩く  関西の桜巡礼(3)

2021-05-15 01:00:00 | コロナ禍日記 2021

 

4月1日(木曜日)晴

 

近所の桜もいよいよ満開近し、朝に夕に花を仰ぐにつれて、気もそぞろ。再び、京都の桜が気になりだす。

ということで、友人を誘って平安神宮まで出かけていった。

 

目当ては、当然として「八重紅垂桜」だった。遅かったのか、早かったのか。朱塗りの門から、明治に作庭された神苑へ入るところで立ち止まる。

ほんとうなら、溢れるように咲き競う紅垂桜と朱塗りの建築の風雅に、心奪われるはずだけれど……。うん? 色は薄ピンクで、色香が漂う紅色ではない。

あの雪崩のごとく華麗さはいずこに。恥じらう可愛らしい花枝は? と肩すかしである。

 

たくさん、写真はとってみたもの。友人は、喜んで歓声をあげていたものの、わたしは内実、少し残念な思いでいた。






 

池泉回遊式の庭園を歩く。春の七草や新芽の緑と。花色を目に焼き付ける。

水辺へとさしかかり、淡い桜を見上げて。時間が経つと菖蒲園や、蓮が咲くのだなと回想しながらあるく。

 

 

いよいよ、最後のところだ。泰平閣から池と桜をみた。美しさには変わりはないが、何年も最高の花を見続けてきたので、やはり物足りなさを覚えていた。何を探していたのだろう。。。

 

 











苑を出る。と、に京都の写真家水野克比古氏の絵はがきが売られていた。絢爛豪華な八重紅垂桜をみて、これ。この勢いをみたかったの。

すぐさま、寺の人に訊いてみた。

 

「花の時季はこれからでしょうか。いまひとつ、寂しいようで。気のせいでしょうか」

「ああ。そうなんですな。一昨年の台風でね、ようけ枝が折れてしまいましてね。かなりの花々が被害に遭いましたからなあ。これからまた手当していきますんやけど、財政も厳しいて……」と仰る。そう思ってみると、激しい風雨に耐えた桜の花々がなお、はかなげで、愛おしさがつのる。

来年ぜひ、また足を運びたいと思いながら後にした。

 

 



 

南禅寺までまわり哲学の道のコースを歩いた。

うって変わり、満開から散りゆく桜は、それは見事だった。ざわわとふくと、虫も鳴いた。













熊野若王子神社から大豊神社まで琵琶湖疎水に沿って、細いせせらぎと哲学の道が並行して、続く。黒い枝は艶めいて、染井吉野の花が先の先まで艶やかに薄色の花を咲かせている。芝や草におちた白い花びらも素敵。

小川をながれる花びらの軽い舟がいくのを、いつまでもみていられる。時の流れがゆっくりになった。

風がざーっと吹くたびに、薄色の花が一斉に舞い散る。

とても、満足し、とてもたくさんのお喋りをしながら、銀閣寺の近くまで歩いた。

 

 

鹿ケ谷通り沿いまで降りて、「銀閣寺 㐂み家(きみや)」。一服である。

 




 

前に来てから随分とたつが、訪れるたびに休みだったので、開店していてうれしい!

ここは、赤えんどう豆に、寒天と黒密をかけた「豆かん」が有名な店だ。

贅沢に、バニラのアイスクリームをトッピングしてもらった。ふっくらつやよく、炊かれた赤えんどう豆、食べる直前に蜜をかければ、純粋なる甘さに、ほっと。おいしい。



 

たっぷりの豆が光る。賽の目に切った寒天、天草の豊かさよ、と思いほおばる。涼菓に、歩いた体の疲れが思わず吹っ飛ぶ。

 

店を出てから、まだ桜の中に出ていけるのがありがたいやら。うれしいやら。

 

 





 





帰りは平安神宮までまた歩いた。タクシーなんぞは使わないのだ。もう、日が暮れていた。ちょっと、どこかへといっても店仕舞いがはやい。あ!

創業七〇年の老舗。うどんの「おかきた」に入った。行列で入れないことしきりの店であるのに。よいこともあるものだ。初めてだった。コロナ禍だから、お客も少ないし、瓶ビールをいただいて、仕事の話しを交わし合う。

細めの京うどんに甘めのだしがよくあい、アツアツのあんの泉のなかに海老が顔をだす。ビールを1本飲みきり、満足のいくシメ。

 





 

 

花の頃。ああ、楽しや。こうして毎日そぞろ歩いてみたい。

 

 


満開のさくらの頃に

2021-05-07 23:25:00 | コロナ禍日記 2021


 

3月31日(水曜日)晴れ

    





 5時半に目が覚めてしまった。布団の中で、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらせる。30分後、起きあがって表へ出た。ご近所にも満開の桜があるのだ。

 いつもより、長く、市民体育館のあたりまで50分のコースを歩く。20度くらいの上り坂が続くが、すべて薄ピンクの桜の雲の下を歩けるのだから、幸せの香りに酔いそうになり、みあげながら足を運ぶ。気持ちいい、これだけ歩けるのか。まだまだ、じゃないかという気になる。

 

 ソメイヨシノが主流だが、シロヤマザクラや、紅しだれも数百本ある。住宅街の干し物や庭に散乱したおもちゃに、目が奪われて、飛んでくる鳥の鳴き声にも耳を澄まして歩く。感覚が内から開いていくのがわかる、蕾が眠りから覚めるように。朝の散歩は感性のエンジンをまわす。


 帰宅後。奈良の葛を水に解き、ざらめを少々加えて熱湯をそそぐ。おいし。この「葛湯」を啜りながら小川洋子さんの処女作「揚羽蝶の壊れる時」を読む。ヨガと瞑想をして、仕事をした。




 夕食はカレーライス。仕事のあとのお風呂で、本当は原稿の推敲をするつもりだったが、自分の書いたものがつまらなく思えて、朝読んでいた「揚羽蝶の壊れる時」を読み、そして読み終わった。それで十分に満足してしまい推敲もしないで就寝するところだ。

 この作品。ストーリーの展開に起伏も少なく、登場人物は3人+1。書きたいもの、なぜそれを描写したかったのか、という作者の強い欲求(願望)があれば、時代を越えていつまでもひきつけられるのだ。独特の不穏の空気に閉じ込められる幸福感がある。正常とそうでない状態の境界をみつめる。

「放っておいたら汚物になるものを食べて生きている」「濡れた果物のような顎からの線」(男性の比喩)

 自分の眼に映ったものを執拗に観察し、なぜ見えたのかを執拗に考え、それら他人の目で解釈する。一文、一文を、石を積み上げるようにして物語にしていける。それは信念だろう。

処女作には、その言葉が示すとおり、編集の担い手のおもわくや、書かねばならない世論的なものはあまり感じない、最も作者の原風景的な匂いに濃く出会えるからすばらしい。といつも思う。 

 

 


やちむん通りから琉球古民家の「ぬちがふう」(4)

2021-05-05 00:58:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

 



  

 再び、那覇。猥雑でノスタルジックな沖縄へ帰ってきた。三月とは思えないギラつく日差し。青い空、入道雲に導かれて歩く。壷屋やちむん通り、器屋さんの店の前にやってくると、ベンチのうえに荷物をおいて、手ぶらで店内へ入る。手にとって、自分の眼のあたりまでもっていき、器のお尻の佇まいや色合いや口をつけるところの厚さや滑らかさ、などをみる。

 ふむふむ、なかなか。個性的なものがほしい。沖縄の母さんみたいに温かくて、まるっこい、けれど自然を写した色がいい。お目当ての品をみつけるのはとてもむずかしく、楽しい。






 
 


 ガジュマルの木や、ハイビスカスやブーゲンビリアが、ぶどうのようにたれ下がった家々や。民家の佇まいが、映画的でうっとりする。

 お腹が空いたので、器の店のオーナーに聞いて、ランチは琉球料理「ぬちがふう(命果報)」へ。

 





 琉球の瓦に国有文化財に指定されている、新垣住宅の古民家だ。玄関口では猫が、お昼寝中。暖簾をくぐれば、もうそこは、ゆるると沖縄時間。

 お座敷へ上がって見渡す。客人はわたしたちの他に一組。 

 親戚のおばあちゃん家で寛ぐような、懐かしい風が部屋の中をぬけていた。やさしそうな、沖縄ことばで、オーダーを聞いてくださった。

 

 わたしは、ぬちがふう御膳。Nは『ソーキそばセット』で。

 




 ここでも沖縄料理を食べ続ける。飽きない。沖縄天ぷら、ゴーヤチャンプル、きびまる豚のソーキ、三枚肉の煮付け、もづく酢、こんぶの煮付け、黒米いりのごはん。デザートにはちんすこうのアイス付き。ここの味は、素材本位の薄味で、おいしかった。

 

 植物園のような庭のむこうには、やちむんを焼く、登り窯もみえるそう。再び、器を探して歩く。汗がつーっ!と肌をつたう。琉球らいしお茶碗などを購入し、タクシーを飛ばして那覇空港まで。

 







 弾丸の沖縄旅は、これにておしまい、おしまい。Nと別れて、手を振る。わたしは伊丹、あの人は羽田。また夏の終わりにでも、この島を旅してみたい!

 

 


3月の沖縄 グラスボートで海中へ (3)

2021-05-04 00:02:47 | どこかへ行きたい(日本)
 
 
 


 

 

 日差しの強さで目が覚めた。ベッドの下に投げたままにしていたiPhoneを拾ってみると七時半だ。飛び起きて、窓の近くに立つ。カーテンは閉めていないので、空も海も、きれいな水色をしているのがよくわかった。きょうも、波は穏やかに、打ち寄せて、ひく。ざーっ。ざーっ。

 

  朝食レストランは、数十年前に訪れた時と同じだった。あの頃は熱帯の植物を多く置き、バリのリゾートのように、砂地とフローリングの場所があって、ビーチから草履のままでレストランに入れたように記憶している。(たぶん……)。

 わたしたちは、海に近いオープンテラス席を選ぶ。

 






 

 

 コロナ禍なのでビニール手袋をしての、ビッフェ。

 マンゴーや、シークワーサーのジュースがおいしい。海藻のサラダ、種々のチーズにはハチミツを。オムレツや、トマトのひよこ豆煮や。普段は加工されたものはあまり食べないのだが、ハム、サーモン、ポテト料理も皿にたっぷり盛り付けて。海沿いの席で、コーヒーをのみ、六〇分近く、心地よい朝の時間を過ごす。

 若いカップルの姿がやはり多い。女性が黙っているところは、男性もうつろ眼で携帯をみている。昨晩のレストランは、ご年配の夫婦が多かったがもう済まされたのだろうか。

 食事のあと、着替えて海中公園まで散歩した。

 プールには、日よけ用の布パラソルが出ていた。木戸を押して、砂浜へ出る。昨日、Nが踊った場所。海中公園までは、ホテルの送迎カートもあったが、私たちは歩いて日差しの中を歩いていく。途中、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲くところがある。植物と海が調和している。

  

 

 三月の沖縄は、みずみずしく、清らか。眠りから覚めたみたいに美しい。

 海の色がほんとうにエネラルドに耀いている。私たちは、クジラ型のグラス低ボートで、漕ぎ出した。海からホテル全景をみる。室内から望めばとても穏やかにみえるのに、波の中にいると躍動感いっぱい。光が、きれきら遊ぶ。ボートが水面を撥ね、真っ白な波がソーダーのようにどんどん大きくなって泡立つ。黒い小さな魚の群れ。餌付け。グラスボードから海中をみる。

 「あれがカクレクマノミ」「ポニョですね」「あ、尾びれまで瑠璃色のは、ルリスズメダイです」「サンゴに隠れているでしょ、あれ、ハナグロチョウチョウイオ」。スタッフが教えてくれる。

 サンゴ礁は魚たちの母だ。とても多くの魚を隠している。

 

 









(餌付けをすると、魚たちが群れてきます)↑ 

 

 ホテルに帰って、プールサイドのデッキで、しばらく読書をした。昨晩、サックスの演奏が行われた場所だ。ゴールデンウィークには、こうは、のんびりといかないだろう。ホテルのショップをのぞく。焼き物がいっぱい。読谷村には車がないからいけない。けれど……。「そうだ! 帰りに壷屋やちむん通りを歩いてみよう」と決めた。

 










 


 ブセナテラスの夜 (2)

2021-05-01 11:17:00 | どこかへ行きたい(日本)
 
 
 

 

 ブセナテラスのロビーに立ち、風の匂いを嗅ぐと、ああ沖縄と思う。オープンエアになったテラスの空間には外に張り出す籐の椅子。そこでチェックインした。

 一日中。このロビーで宿泊客が出入りする人を眺めていたり、本を読んだり、花々の咲き乱れる先にある海の水平線や、空の色を感じながら、時間の過ぎるのを、ただ受け止めていられたらどんなに贅沢だろうと、すでに考えている。

 とるにたらない願望だ。館内を歩き出した瞬間から、そうわかった。外の回路や廊下、エレベーターを降りた窓外、ショップなど。どこへ行っても、ロビーからの海へのプロローグは目と耳と感覚の中に引き継がれていくから。

 

 ずっと忘れていた、と気付いた。こんな時間だ。ずっと昔、オーストラリアの小さな港町、ポートダグラスからグレートバリアリーフを見に行った時の、肌感覚や、ベトナムのダナン、なんて思い出していた。海の自然のよさは、波Soundの静けさだ。







 
 


 


 

 

 部屋の中も、お風呂のバスタブでも、寄せては来る波のしじまが聞こえていた。本島では桜が開花したばかりというのに、水着に着替え、これから泳ぎに行こうとしている、そのことに心踊らされる。ロッカールームで着替えて、裸足の脚で屋内プールへ!急ごう! 





 


 プールの窓は、すべて開け放たれ、屋外プールと砂浜の気分を残したまま、泳ぎを堪能できた。

 すいすーい。すいすーい。かえる泳ぎと背泳ぎ。プールサイドでは、パソコンを広げてオンラインの映像を視ている人、子どもを遊ばせているパパさん、マスク姿で寝そべっている人もいた。

 

 プールから上がり、大浴場で汗を流す。再び、屋外のプールサイドに出る。と人の息遣いで奏でる憂鬱な金属音が。

 

たった一人、俯いてサックスを吹いていた。黒人でないのに、ブルースを奏でる男の子にも思えるそんな悲しい、身をよじる吹き方だった。プールサイドから仰ぎ見る、各部屋にあるテラスにむかって。コロナ渦で、宿泊客も少ないのに。ハワイのハレクラニ、オーキッドのフラと生演奏の陽気さを彷彿しながら、聴く。

 
 

 海岸まで出て、夕日を見た。Nがジャンプして、砂浜、海で遊びはじめて、裸足でダンスする。「撮って」「撮ってよ!」日が沈むまでの二〇分、沖縄の海風と戯れた。サックスの中で踊る。

 











 

夕ご飯は、日本食レストランで、泡盛ともに郷土料理や天ぷらやお刺身など土地の味を。

 

「牧志公設市場、面積が縮小されていたし、市場の活気も薄れて寂しかったです」

「ああ、市場ね。近くに住んでいます。何回か移転し、そのたび狭くなりました。けれど私たちにとっては居酒屋であり、遊び場、集いの場所。変わりません。観光客が大切だから地元民はもっと遠慮してと言われちゃうんですけどね」

 柔やかなスタッフと会話する。

 

 






 

 

 いま、夜の一二時。

 テラスに出て波の音を聴きながら、ポメラを叩いている。耳に聞こえる、多種類のかえるの鳴き声。あちらから、こちらからの鳥の声。ヒューヒュー、ざざー。そして、いつの時も波の音が耳に浸みついている。

 打ち寄せる波の音より、大きな声でかえるが鳴いているのが面白い。薄い暗色の海から見えていない波が、打ち寄せる。向こう岸には小さな灯りが、ひとつ、ふたつ。ひときわ明るい灯りも。船灯りもある。

 こういう時間を忘れていたなぁと思う。

 マスクが、肌と一体化しそうな日々。閉塞し、不安定で、いろいろなものを無くしそうな家での日々も、仕事も、なにもかも忘れそうだ。

 海のむこう、どこまでもどこまでも遠く続いて、延びて、届かないのがいいのだ。