月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

はかなくも美しいものは消える、映画も宝石のような芸術

2018-09-25 21:42:57 |  本とシネマと音楽と

一人娘が家を出て東京で暮らし始めたので、このところ一人でお茶を飲んで、ぶらりと好きなものをみて早々に帰宅するか、映画を観ることが多い。


足を向けるところは、たいてい決まっている。
梅田界隈なら、evam eva(エヴァムエヴァム)で洋服をみて、阪急百貨店7階のくらしのギャラリーで器や敷物をみる、1階の洋品雑貨ではショール。地階の食料品売り場。あとは本屋、そして映画館(良い催しがあれば美術館)。

飲食をするところも、私をよく知る友人はたいてい検討がつく、というくらい同じところばかりウロウロしていると思う。
好きな映画館は、シネ・リーブル神戸・梅田。テアトル梅田、売布ピピア、そして元町映画館と、このあたりの会員チケットは持っていて、そのあたりでたいてい観ている。


先日も新大阪界隈で打ち合わせのあと、阪急三番街の「ロン」で洋食を食べたくなって、エビフライトとハンバーグ(牛肉100%)、そして生ビールを一杯オーダーして、一人メシのあとで、阪急電車にゆられて途中の駅で下車し、遅ればせながら「ファントム・スレッド」を観た。





評判以上に良かった。
本心をさらけ出し、あれだけ罵り合っても離れない。愛憎が渦巻く世界。
1950年代のロンドンで活躍するオートクチュールの仕立て屋レイノルズ・ウッドコックのプロとしての仕事と、美意識をつらぬく生き方。綺麗で怖い映画だった。





9月20日(木)は、校正のやりとりを何度かして、夕方に1本原稿を入れた後で、大急ぎで神戸の元町まで電車で出かけ、元町映画館でウォンカーウァイの「欲望の翼」を観る。





これまで、3回くらいDVDで観たと記憶するが、今回はデジタルリマスター版で復活。あの作品を大正から昭和の匂いがぷんぷんと残る、元町商店街の劇場内で観られことにとても満足した。

鑑賞前には「はた珈琲館」でコーヒーを飲み、一息ついてからどっぷりと異次元の風にふれることができた。さあ、来いという感じ。






バケツを移したような大雨が降りしきるシーンや墨色の映像シーンが何枚も重なる1960年代の香港。
陰鬱でものうげで、蒸し暑くて、目も当てられないほどいい加減でくだらない男と愛欲から抜け出せない女。閃光のごとく衝撃と陶酔。高揚させる素晴らしい音楽、そして映画のジャケットにうつしだされた亜熱帯な森の神秘。

ウォン・カーウァイ監督の原点ともいえる作品。
その後の、「恋する惑星」、「天使の涙」へと続く序章にして完璧な仕事。やはり映画館でみられて本当に良かった。

映画熱というのは、いちど観だしたらやみつきにする。



翌21日も夕方まで仕事をして、それから車で、見逃した「フジコ・ヘミングの時間」を観る。





結果、冒頭からエンドロールまで釘付けになって涙して観ることに。
年老いた人が主人公の映画やドキュメンタリーにひたすら弱い。

ドビッシューの『月の光』、リスト「ため息」「ラカンパネラ」、ベートーベン「月光」、
ラフマニノフ、ショパン…。全部好きな曲だったし、フジ子が世界各国を演奏公演で旅する映像もきれいだった。等身大の彼女を自然に描いていて、その言葉のひとつひとつにも打たれたのだった。

たとえば、こんな台詞に。

「ええ。キリスト教の信者ですから、少しの小銭でも必ず入れていますね。試されていると、いつも思うのです」といいながら、募金箱をみれば必ず投入するフジコ。

「母にほめられたことは一度たりともありません。アホ、下手だといわれて大きくなりましたから、40歳になるまでずっと自分は、ばかだと思って生きてきましたよね。それでも母も父も、どこかで自分をみてくれていて、必ず会えると私は信じていますね」

「楽しいことばかじゃなくて、悲しいことあってもね。センチメンタルなのもいいじゃない」



「私が弾く、『ラ・カンパネラ』。わかる人はちゃんとわかる。自信はありますね。なんでかというと精神が出がちゃうから。どんなにごまかそうとしても、死にものぐるいでひく曲だから」


「私はピアノの音にね、色をのせていくようにしてひくのですね。(ピアノの音も)歌を歌うようじゃなくちゃあ、いけないんですよ。いまは、教えてる先生がよくない。正しく弾くことばかりだから。ピアノっていうのは自由で、歌うようじゃなきゃあいけないんですよ」


読む本が血肉になるとはよくいうけれど、映画もしかりだ。一度だけの出会い。はかなくも美しいものは消える宝石のような芸術だとも思う。


「フジコ・ヘミングの時間」は
良かったので、9月の3連休(中秋のある日)実家へ戻った折り、一人暮らしの母を誘ってもう一度、観にいった。

最近は足腰が弱くなって好きなところに行けないと嘆いていたので、フジコが演奏旅行で駆け抜ける各国をみたら、すこしは気が晴れるのではと思ったのだ。

それに、私も小さい頃から褒められたことなど一度もなく、近所の誰か、いとこの誰かと比べてはガッカリされ続けた娘であったからーー。

母と一緒に映画を観て、フジコさんのピアノを聴けてよかった。



今年、後追いしてみた映画はこんな感じ。
あと3カ月でどれだけ観られるだろう。






武夷岩茶「白牡丹」と豆かんで

2018-09-17 23:59:11 | あぁ美味礼讃

9月17日(晴れ)


3連休の最終日。いま、お風呂の中で、ポメラを使ってこちらを書いています。
東向きの小窓からは、コオロギがまるで静かに呼吸するように、羽をふるわせて鳴いてくれています。

今日の朝で、手持ちの原稿はいったん終わりました。提出した後のことは、わからないけれど、
くぎりをつけられたことは、本当によかった。今は少し自由な心境を楽しんでいるところです。


今日は午後から、車で丹波篠山の岩茶房「丹波ことり」に、岩茶とスイーツを食べに出かけました。
よく知る面々のスタッフの方々が出迎えてくださって、それもうれしかった。


武夷山で収穫されたお茶には、「白牡丹」。






さわやかな口あたりで始まるお茶は、きれいにのどを落ち、芳醇な花のやさしさが淡くひろがります。落ち着いた後味で、きれいなお茶です。


急須から茶海にいれて、小さな茶杯のなかへ。
移すごとに、とろりと甘みが加わるのは、空気にふれるからなのでしょうか。
7煎くらい、頂きました。


スイーツの豆かんも、とてもおいしかった。(同伴の相方は肉まん)






固めの寒天、スプーンにすくうごとに、
きらっきらっと輝いて。
さすが丹波篠山の黒豆は、ふくふくと煮えて、やさしい味。
舌ざわりもつるり。あっという間に、お茶を一杯、二杯と飲むうちに平らげてしまいました。


さんざし、なつめにくるみ、いちじくのお菓子も。
そして、武夷山産の白きくらげを、蜜で炊いたコラーゲンたっぷりのデザート。
わが家でのお茶時間とは違う、はればれとした気持ちのなかで、
おいしいお茶を味わえました。
同行してくれた人よ、ありがとう。


帰りには、マーラカオ(蒸しカステラ)のおみやげと、
丹波篠山の新米(5分づき)、
ぶどう(ピオーネ)を買って家路へと、車でかえっていきました。



秋は、一年で一番、空気がさらさら、ひんやり、きれいです。気持ちいい。
来月になれば、これに、澄んだ強い花の香り、弾けた木の実の香りのおみやげが、加わるのです。







仕事まみれの生活の中で

2018-09-15 21:34:08 | writer希望を胸に執筆日記







2018年9月15日(土)


今週の峠はどうやら乗り越えたのじゃあないかと、自分では思っている。
16ページものパンフと冊子が2つ。
月刊誌の定期もの、原稿が3本。
それらの印刷入校のための、やりとりと何度かの戻しと校正を数回。

電話や校正や、訂正やのやりとりをしていると、あっという間に時間はすぎて、落ち着いてテープを起こしたり、その原稿をつくるのは夕方以降、それも夕食後が多かったけれど、もう少しあと一息だ。

ときどき、なんのために心を砕いて、これほど原稿の果たす役割を考えてどう書くかに専念したり、内容に意味をもたせ膨らませたり。制作物の出来のよし、悪しにばかり細心の注意を払う必要があるのだろうと思うこともある。

(これだけ、まじめに1つの事に取り組んだら、きっとひとつの哲学だって生まれるんじゃないかとか)

それでも勝手にそういう思考になる。長年、積み重ねた習慣だ。
ほかにすることがあるわけでなし、これでいいのだと妙に納得してみたり。


義務だけでもないだろう。
自分が心から知らないニュースにふれ、「驚き」「おもしろさ」「価値ある内容」だと、
知的好奇心が、私を動かしているのだと分析もする。

危惧するのは、こうやって3連休も仕事する最中にあっても、いざ納品(入稿)してしまえば
その制作物にも仕事のプロセスや出来にも、全く興味をなくしてしまうのが、困ったところなのだけれど。
次のことに関心(課題)が移ってしまうから、だ。

こんなので、遅々としても前に進んでいるのかしら?
せめて、好き好き!楽しい!とか心がさわぐ案件をつくっていかないとね。

「いま」、この瞬間に集中できる環境とか、「面白い」を大事にいきよう。
そして、他人事ばかりでなく、もうそろそろ自分を一番大事に労ってもいいお年頃なのだ。



フルーツ三昧の朝に

2018-09-10 11:57:43 | 春夏秋冬の風

9月9日(日)大雨

9月。近畿地方に大型の台風21号が過ぎ、翌日は北海道に震度7の大地震がきて、日本はもはや大仏殿でも建立する域にきているという人もいる。将来安泰という言葉も絵空事。思うようにならないことが、もはや当たり前のようになってきた。

それでも、朝になれば新しい一日がはじまって、新しい仕事もやってきて、目先の仕事にやはり追われて暮らしているのである。
(来週は、印刷入稿2本と週末に入った原稿が2本、パンフのコピー再考)

そんな最近の愉しみといえば、初秋の果物だ。

9月になってから、果物がおいしくて、毎日切らさずに旬の果物を食べている。
兵庫 川西産の朝もぎたていちじくの美味なること。木々から吸い上げた栄養分が成熟したねっとりとした果実の甘みとバランスのよい酸味。
1個たべると、ああ、いいものをいただいたという気持ち。いちぢくは野生あふれる果実だと思う。

そして。岡山や広島産の種々ぶどう。
プルーンも、おいしい。
この9月の走りの梨(豊水)もおいしい。今年の夏は暑かったので、とても糖度が高く、みずみずしい。






今朝、原稿を始める前に思い切り前髪を、洗面所でカットしてみた。
前方よし。あぁ、スッキリ。前髪の陰影が目前にかかっていると、いつも思考がもやもやとして落ち着かないけれど、これですっきり!


今朝も朝から雨降り、時々は止むがまた降りつづく。
普段は朝か夜しか鳴かない秋の虫が、昼1時すぎているのに盛大に鳴いている。


ランチは、ベランダでつくっているパジルに花が咲き始めたので、たっぷりめに摘んでジュノベーゼのパスタを。
夜は、豪快にジンギスカンをつくる。あとは一日中、仕事をして過ごす。


台風21号のちょっとしたメモ (2018年9月4日)

2018-09-05 00:06:06 | 春夏秋冬の風


今日は博多の取材の予定が中止となり、明日に延期となった。

なので、こうやって自宅で原稿を仕上げる予定にして家でパソコンを前にしているのだけど、台風の脅威にちっとも進まず、窓の外に目がとられたままなのだった。
そこで、原稿のページの下に台風21号の状況をちょこちょこっと綴る。






(12時半)
家中のサッシを二重ロックしていても、海で聴く嵐のような風音。

ヒューヒュー!(時折に吹き荒れるフゥーーー!)ゴーゴー!という爆風の音がやむことなく続いている。

山々の緑を背景に、霧のように軽い雨が、早い風にのって横に走りすぎる。雨霧の縞が横へ横へと、細く流れている。

マンションに隣接している高い樹木(300メートルくらい)も根からもげそう。このまま勢い余って飛んでくるのではないかと思うほど。






(13時32分)
風がさらに厳しく吹く。

強い雨が、強風によってまきあげられる。
窓の外の瓦屋根の上を、雨が滑るようにして東から西へたたきつけられて、西へはねて去る。目前の山はみえない。

暴風の中を雨が滑る映像だけが目前を覆っている。

仕事に集中しようとするが、どうしても目が台風にとられてしまう。
明日は作業できないのだし、と思い直して、資料に目を落とすも、それでも台風が気になる。
リビングの掃き出しになった窓に近づいては、ソファーに座りなおして、また窓に近づく。



(13時50分)
風雨がさらに激しくなり、風を伴う雨で目前が見えない吹き荒れた状況。

風の音は、ザーー!ザーと海の波が打ち寄よせる岩壁の上にいるようだ。これまでに経験したことのない暴風の中に孤立する家々。
(おそらく、今、台風21号が真上です)

(14時10分)
最大瞬間風速は45メートル。
家のトタン屋根が風にとばされてめくら上がる映像がネットで配信されている。
トラックは風にあおられて何台も横転の映像がテレビ画面に映っている。



(14時30分)
台風の目に入ったのだろうと思う。空は曇ったままだ、小雨になってきた。空は少し明るくなり時々、風が強く吹く程度に。

(16時)
峠は過ぎた。激しい雨の日という感じ、時々風が横から強く吹き上げる。途中、しとしと降ったり、強く大量に降ったり。


(17時)
穏やかで、ひんやりとした秋の空気がもどってきた。視界は明るく、雲が南から北へ流れていくのが見える。
雨もあがった。


(20時)
今日は台風の件で何度か友人とメールのやりとりをする。
明日予定の出張は、あさってにさらに延期となった。明日も近郊の電車は終日見合わせとのこと。


(23時30分)
コオロギの声が心なしか小さいが、澄んでいる。
風はない。美しい秋の晩。外は静かだ。
電気も水道、ガスも止まらない幸せ。
今日は1人の夜。夕ご飯は、しらすとブロッコリー、ニンニク、鷹の爪でパスタですます。
1時半に就寝。



      (兵庫南部、山手の住居)