月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

クリスマスの料理と父のビーフステーキと

2021-12-29 23:10:00 | 随筆(エッセイ)





 

 

 

24日のクリスマスには、ローストビーフをメーンに、網で焼いた貝柱と海老をいれ、アボガドとサーモンを混ぜてサラダにした。鳴門金時がたくさん台所に転がっていたので、サツマイモのポタージュに。普段ならオードブルをもう一品こしらえるところを、Nもいない、夫婦ふたりなので今年はなし。替わりにふるさと納税で届いた奥出雲の白ワインをあけて、白カビのチーズを開封し、フランスパン&チーズ。ケーキは買物ついでに芦屋のダニエルで購入した。うっすら霜の降りた甲山を背に、芦屋川を流れる水面がみられて、それだけで、心が洗われ、今年のクリスマスの景色を見られたと満足する。芦屋カトリック教会も、車窓から見渡すことができた。

 

25日は、寒い一日だった。長いこと修理に出していたHERMESの時計を引き取り、大丸梅田店へ。デパ地下でバルサミコ酢とすね肉を購入。晩はビーフシチューをつくった。

 

さすがに洋食ばかり飽きたので、一昨日はブリ大根をコトコトと。青菜の白和え、ロッコリーとトマトのサラダ、バルサミコドレッシングを添えて、味噌汁。甘辛キムチ。純米吟醸を2杯飲む。

 

なんの家事も、得意でないが唯一料理だけは、そう面倒とは思わない。作り方のわからないものは、スマートフォンを開いてレシピを確認し、あとは塩梅で(ベターホームの料理本「母さんの味」「家庭料理」が実用的)。おいしいものを、口にいれることが、一日の幸せになる。

 

物を書く仕事を生業にしていると、家系に文筆家がいないのか、探したくなるが。そうはいかない。還暦の年で他界した、わたしの父は、料理人だったのだ。

 

兵庫の城崎温泉、湯村温泉や神戸三宮の料亭で修行をし、晩年には、腕をかわれて支配人として、香住、城崎で、旅館を営んだ。この頃は、父が料理人でいてくれて、ありがたかったと胸に手をあてる。思いを馳せれば、父ほどに。喰うことに貪欲で、あったかい男を、今のところは知らないから。

 

家族はもとより、親戚からわたしの友人や、自分の客人まで。躊躇せず、誰でもサッと手をさしのべられる、そんないざという時に、頼りになる男でいたかったようだ。普段から、人のことをよく見て、人のことを、よく考えていられる。そういう男だった。

 

例えば、夫婦水いらずの旅には、必ずといって義母を誘う。

「お父さんが誘ってくれる旅行では、たったの一度たりとも自分の財布を開けさせたことはない。土産までもたせてくれた」そう言われるのが、嬉しかったよう。見栄っ張りなのだ。

 

高校・大学と、実家を離れて暮らしていたが、熱を出すと、どんなに旅館が忙しくとも、時間をつくって迎えにきてくれた。「お父さんがいるから、もう安心や」そう言って、ふっくらとした大きな掌を、わたしのおでこに乗せた。

 

そんな父が、わたしのために作ってくれた料理がある。当時、わたしは小学5年。母が子宮や卵巣を全摘するため、1週間ほど入院した時だ。

父は、旅館のまかないを、食べさせることをしなかった。

ある材料で何か作ってくれるか。わたしが、なにか作るかどちらかだったと記憶している。

 

あの日、自宅(旅館ではない)の台所で、ビーフステーキを焼いてくれたのを、その味を、まざまざと思い出す。確か。かなり厚みのある神戸牛を、肉を叩く棒でパンパンと叩いたあと、鉄のフライパンに火をいれて、ゆっくり時間をかけて肉を焼いていた後ろ姿。白いコック用のエプロンをちゃんとしていた。

 

いちばん先にニンニクのスライスを焼いたと思う。ガーリックライスをあとで食べたから。バターもたっぷり使っていたはずだ、ウイスキーでフランベし、赤青い煙が、もわっと上がって、換気扇の音がカタカタと激しく鳴っていたのを覚えている。

 

 

父が、ニコニコして運んできたのは、白いオーバルプレートにのった厚いビーフステーキ。ほんのり赤色を残した、こんがりとおいしそうな湯気のたつ肉だった。にんじんとポテトの付け合わせや、カレー風味の酢キャベツ、スープ(たぶんオニオン)もあった。

 

赤身の、噛みごたえのあるたくましい肉だった。バターの香りにプンと洋酒の風味がし、これが欧風料理というものか、と。男の焼く骨太な肉料理を食べたという気がした。小学生には、少し量が多かったが。残さず食べた。美味しかったというより、嬉しかったのが先にきて……、いま、とても貴重な時間を過ごしているのだと、幼いながらにすごくわかっていたのだ。

 

父は、男のくせにすごくチャーミングに笑う。肩を大袈裟にあげて喜ぶ。

そしてうまいものを、味わう時の父の口元が、わたしは好きだった。広角を存分にあげて。目は輝いていた。

「料理は舌が肝心だ。そして、一発で味をつけること(調味料をいれる)。あれこれ、迷ってダメだ」と伝えてくれた。

 

 

「お前は、筋はいい」とよく言ったし、母が、いとこの誰やらが凄いとか、友達の誰やらが賢いとかいうと、ソッとわたしを呼んで「お前は、○○ちゃんや、○○ちゃんとは比べものにならない。お前は、有形無形の力があるからな。よく覚えておきなさい」と励ましてくれた。

 

 

父は、日本料理のなかに、蟹や伊勢エビのグラタンや、コーンスープなどを、洋風なものをアクセントに使うアイデアマンでもあった。おそらく、若い頃に神戸で食べた、ハイカラ洋食の味が父には刺激であったのだろう。うまいものに目がなく。旅好きで、金に糸目をつけず、食べ歩くのが好きだったから。

 

そうだ。香住で(兵庫県香美町)で旅館を営んでいたときに、漁師らが漁船のうえで、松葉蟹を炭火で炙って食べては、甲羅酒を飲んでいたのを話しに訊き、「焼きガニ」というのを初めて考案した(1970年代)という。当時はよく取材の人が来て、それを記事にしてもらっていた。それらのスクラップをわたしに見せ、「プロの仕事とはこういうものだ。1時間くらいの取材でここまで深く書けるんだ。お前はまだまだ。お前くらいの文章が書ける人は五万といる」と、広告会社に就職した当時、よくそう言ってわたしにカツをいれた。

 

 

まあ、親戚筋に文才のある人がいたかどうかは。分からないが。なにはともあれ日日に欠かせない、食へのこだわりと、思いやりのようなものを父から受け継いでいるとしたら御の字。これ以上の、誇らしさはない。

 

 

 

 

 

 


きょう夏がきた

2021-12-24 11:47:00 | コロナ禍日記 2021





 

7月16日(金曜日)晴れ

 

先週から、仕事ばかりをして過ごしている。

困るのは、インプットをできていないこと。全く拾い読みくらいしか、本を開いていない。1日2ページ、2ページの読書タイム。長いものばかりかいているからだ。

仕上がれば、どちらも10万字以上になるだろう。

昨年の夏あたりから取材を進め、12回の取材をしていた。すべて自前でテープおこしをするのに時間がかかった。取材の時に聞いたこと、テープおこしをしながらの復習、そして書いていく過程と3回は、その人の話すことをなぞるので、ポイントがよくわかるのである。

 

このところ、パンフレット24ページくらいのパンフレットのコピー作業、ブックライティング、9月締め切りの仕事、そしてnoteにエッセイを書きためようとする。長いものにたずさわっているのなら長距離を走るランナーのように体力がいる。それで、いま、3つのマシンをつかいわけている。

 

軽いこんな日記のような文章はポメラでかいて、スピードをあげて書く必要のあるものはMacBookエア、長編原稿については俯瞰的に、第3者的視点で書きたいのでMacBookというように。

ほんとうは、それらをメールでスティックのメモリにいれて交換しあい、推敲をしあうのと完璧なんだけれど。

 

きょう、夏がきた。

朝おきたときの光の色、あたる明度で、すぐにわかった。雨はふっても、亜熱帯のような夕立的な雨になるんだろう。

夏がはじまる。今年の夏は、仕事が山のように積まれている、受験生のよう、夏休みの幕開け。

 

 


フジコ・ヘミング昼下がりのコンチェルト in 滋賀県立びわ湖ホール 

2021-12-21 23:14:08 | 随筆(エッセイ)
 
 




 


 
 
 
 
今年も残すところあと2週間足らず。このあとの寒波が心配されます。
さて12月15日、水曜日。フジコ・ヘミングさんのピアノと、オーケストラー生演奏を聴きに行ってきました。ご興味がある方は、下記をクリック!
 

29.フジコヘミング昼下がりのコンチェルトin 滋賀県立びわ湖ホール|みつながかずみ|writer @k_anderu 
 
 
 

この頃のnote事情

2021-12-15 13:11:00 | コロナ禍日記 2021

7月9日(木曜日)晴れ

 





写真は、たねやの水羊羹とペニンシュラ香港のハイグロウンティー

ザ・ペニンシュラの150周年を記念して、ペニンシュラクラッシックティーアンバサダーのバートラ・バジョリア氏が監修をした限定ブランド。西ベンガル州の夏摘みのダージリンと、まろやかで力強いモルティ(麦芽のような)フレーバーのアッサムを合わせた、華やかな香りとミディアムボディの味わい。(説明書より)



今週は某社のパンフレットの原稿を書いている。

最近、長い原稿ばかりを書いているのでどうもコピーの言葉になれず、じたばたし、いらいらして、苦しかった。翌日から急に、資料をみていたら、書くべき要素が降ってきて、その振ってきたものにぶつけるように、バシバシと思いのたけをこめてパソコンを叩いたら、あっという間に仕上がった。

(といっても3日間かかっていた)

 

いま、デザインの仕上がりとコピーのチェックを、何往復もさせている状態だ。

 

目先の課題に終始していたら、やろうと思っていたことができない不甲斐なさで、息できないところまで来ていた。一日のうちに、4つの課題を、時間軸で区切っていこうとしたのに、一番、時間をかけてやりたかったことが、一番あとまわし、とは。

 

腹威勢といってはなんだが、noteというソーシャルメディアのプラットフォームに、エッセイやプロフールを綴りはじめてみる。ふつうの仕事であるなら、提出先のディレクターなり、編集者なり、クライアントの担当者なりの目をとおって、印刷される。が、ソーシャルメディアは、すべて自己責任である。これは怖い!

まあ、ここも同じではあるけれど。そんな読む人も多くはないだろうと思うから自然に書ける。noteは、ほぼ書くこと、描くこと、語ること、なんらか普段、発信している人たちが、書き手であり、読み手。そういう意味で刺激的でもあり、少し作り込んでいく必要がある(構築する必要がある)ソーシャルメディアだ。自意識過剰なわたしは……消しては復元し、写真をいれてみたり、取ってみたりと。自分でいうのもなんだけれど、思いの丈が大きいなら、暑苦しいものになっていっていくのが、わかる。叙情に走りすぎてしまえば、読み手からすれば、しらっとなると思うし、安易ではない。何事も凝り性のわたしは、うまく着地(自分にオッケーがでない)できず、考え込んで。時間ばかり浪費してしまうのであった。この最中にあって、君はなにをしているのだ。問いかけて風呂に入り読書を数ページし、一日が終わっていた。

 


差し歯を失くして (エッセイ)

2021-12-15 11:39:00 | 随筆(エッセイ)





 
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