昨日のことである。
ずっとブログを綴りたいと思っていて、リビングと子供部屋に掃除機をかけられたので、少し落ち着いてようやくデスクの前に座る気になった。
明日こそは一日中、家の掃除をしたいと思う。
トイレもお風呂も、台所もピカピカに磨き、不要なものは処分して、
整理整頓をしよう。
そうすることで、少しでも心がフラットになるかもしれない。
できれば、アダージョばかりを集めた「ベストオブベスト」のCDを聞きながら。
リストの「愛の夢第3番」や「ラ・カンパネラ」やドビュッシーの「月の光」「版画」などの音楽がふり注ぐなかでとても幸福な気持ちになって掃除がしたい。
実は今日も掃除、を予定にいれていたのだが、大幅に狂ってしまった。
理由は、うちの受験生が高校生活で始めて学校を休んだことも、要因だったのだろうか。
そう、彼女がいつもギリギリまで登校準備が間に合わないことは常であり、
「ママ駅まで車出して…」とお願いされることも、これまた日常茶飯事なのだが、
駐車場に向かったら車は凍結していて、家に戻ってお湯を汲みに行く時間もないなあ…と考え、迷ったあげくに、
フロントガラスが凍結して霜に覆われた状態で、ノロノロ運転で家の前まで辿り着き、
そこから霜を取り除く作業をしたので、駅に到着したらナント、電車は過ぎ去った後…という始末なのだった。
あ~あ。と思いながら、
アクセルと踏み込もうとした瞬間に、見慣れた薄紫のシュシュとポニーテールの頭がみえた。あれ?
「私、遅刻は絶対にいやだから今日は休む。家で勉強する」。
そう言って、再び彼女は車に乗り込んできたのである。
今日は入稿前で電話がガンガン鳴りっぱなしなのに、
おかげでリビングではセンターの過去問を解いていたりするから、いつもの甲高い声が出せない。
電話はなるし、メール音はなるし、どんどんこちらもいつもの大きな声になっていくしで…。ちょっとイライラしていたら、リビングの向こうから彼女は言った。
「家は携帯の電話がうるさいし、ママの切羽詰まった声で話すのを聞いていたら、しんどくなってきた。やっぱり塾に行く…」。
あらら。わたし、切迫つまってた?
そうでもないと思うんだけどな。
しかしながら、彼女は、
11時過ぎにお弁当を食べ、スープポットの野菜たっぷりのコンソメスープを全部飲み干し、デザートのいちごまで食べて、
家を飛び出していったのであった。ああ、申し訳ない。でも内心ほっとした。
だから、せめて、
お部屋でもお掃除してさしあげましょう、という感じなのであった。
さて、本題の話を…。
1月10日(木)に時間をさかのぼっていこう。
この日は、毎年恒例のライター友達と西宮神社の戎さんに参拝に行った。
よく晴れた日だったと思う。
4時頃に到着した時には、混み具合も普通で、本殿までは長い列はなしていなかった。沢山並んだ屋台からもおいしそうな匂いがこぼれていた。
毎年の光景をぼんやり眺めながらも、ともかく参拝と西宮神社の本殿前で財布をあけると、
お賽銭用の小銭が5円、1円。
という哀しい懐事情に遭遇し愕然としたが、それでも樋口一葉さんや福沢諭吉さんを入れるほどの勇気がなくて、少ない有り金を賽銭箱に。
まあ、こんなことで御利益はあるのかしら。
それでも、3千円の福笹と一緒に、今年は「福銭」と書かれた御守りを買った。
金色にキラキラ光って、きれいなのが嬉しかった。
それから、今年はイタリアンバルの「Gastronomia e Bar Giulietta」 (ガストロミーア エ バール ジュリエッタ)へ。
ここは、一昨年には5回くらい足を運んだと思う。
それも春から秋にかけて。
あったかい季節には、店の扉を開け放って風がぬけていくのが心地よく、いつ訪れても人・人・人で賑やかで。
気取っていなくて。イタリアのバルさながら、上品でない店構えも好きなのだった。
この日は、赤ワインを3杯ほど飲んで、前菜の盛り合わせを注文し、
生牡蠣を食べて、ラザニアを食べて、
ほたて貝と菜の花のサラダを食べて、
ゴルゴンゾーラのパスタを食べた。
おいしかった。
おいしかったが、もっとモリモリと食欲がわき上がってくるはずなのに、
思ったほど食べられない自分の胃袋を疑った。
その昔、ここのカウンターに座って外からの風に吹かれながら、今日食べたいろいろに加えて、
レバーペーストやチーズの盛り合わせや、野菜サラダ、手づくりソーセージ、子羊ロースト、バジルソースのパスタや魚介のパスタ、
チョコレートケーキなどを食べても、まだ食べたかった頃がちょっぴり懐かしい。
もっと料理の出来上がる臨場感が味わえたような気がするんだけど
まあ、その日、その日の楽しみ方があるので気にしないでおこう。
私たちはこの日、ワインを飲みながら、仕事の話や食談義、フェイスブックについて、
そして人との関わり合い方などを、いろいろ語り合った。
彼女との会話はいつも愉しい。建設的な話になることが多く、いつも刺激を感じる。近くなら、毎日でも会いたいと想う。
この日も、彼女は食談義のなかで、
「おいしい、おいしくないというのはその人の、味覚の好みの問題も大いにあると思うわ」というような事をいった。「私は基本的に、食べて幸せになれるものが好き」と。
そうだなあ。好みかぁ。確かにそうだなあ。
家にかえってお風呂に入りながら再び、考える。
わたしは22歳から食の取材を繰り返してきて、どんな料理をおいしい!と定義づけているのだろうかと。
私の好みのおいしさ、って?なんだろうかと。
うちの父は旅館の経営者で料理人だったから、職人そのものには大いに興味があるんだけど、
それでも決して職人の手技からなる渾身の一皿というものだけに、感動するタイプじゃないなあ。
人柄のいい料理人のつくる、ごはんは確かに好きなんだけど。
また、つくり手の心意気を感じられる一皿には確かにテンションもあがり、脱帽もするけれど、それでも…、
再び足を運びたくなる店の料理って、なんなのかなあ。
人が醸し出す、店の雰囲気もたいせつなポイント。
私が好きなのは、そう野菜であれ、
肉料理であれ、魚介類であれ、異国の料理であれ
生きている味わい、が大好きだ。
素材の生きている生命力というか、そのもののちから(power)がストレートにこちらにも伝わってくる料理が
好きなんじゃあないんだろうかしら。
言葉をいい替えると、いきいきした味!かな(勢いのあるおいしさ、とも)。
それは、ものすごくこってりした重い味であっても、
シンプルすぎるくらいシンプルで、料理人のひと手間だけという料理であっても、
そんなのはあまり重要でない。
生きているエネルギーのあるものを食べた時に、私の食欲は一気に花開く。
ものすごい勢いでそれを平らげてしまう。そんな時は感動して、
インタビューしていても職人の顔がまともにみれないほど、うれしくて、感動する。
泣いてしまうのである。
野生的なのだ、わたしは。
だからコンビニのごはんとか、
既成の冷凍食品にありがちな、
妙に整った味は苦手だ。
ほんとうに時々はっとするような本物の、
そう私が思う本物に出会えるからまた、味の旅・食の旅を求め続けるのかもしれないな。
生命力のあるものを、しっかり自分のなかで受けとめられるように、
普段から体調と舌を準備しておかないとね。
今、わが家の受験生がお風呂からあがり、私の部屋に来て「おやすみなさい」を言いにきた。
真っ黒な瞳をらんらんと輝かせながら、いくつもの不安を口にする。
どうしたら「明日にならなくて済むんだろう」と本気で言っていた。
ガンバレ、受験生よ。あと2日でセンター試験だ。