月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

父の33回忌 法要を終えて

2021-06-27 21:06:00 | コロナ禍日記 2021

 

5月8日(土曜日)晴れ

 

 



 

 

 先週に引き続いて、再び母の家にいる。

父の「33回忌」の法要のために、昨日の夕方から一泊し、午後1時30分からの法要へ向かう。

 

5月というのに、西宮の家は寒いが、きょうは朝から気温は上がり続け、五月晴れの陽気だ。

「腰は痛いし、お墓の石段を上がったり下ったりたりできないし、今度は無理かもしれない」と母はしきりに口にしていたが、いま、私たちが乗ってきた車の後部座席にこうして一番に来て座っている。

 聞くところ、母は朝早く起きるや近くのコープデーズまで(シルバーカーをひいて)お墓にたむける仏花一式と、お寿司などを購入。数珠や線香も準備して、お化粧も念入りにし、真っ先に車に乗り込んだという。88歳にしては上々だろう。

 

 最寄り、兵庫県 八鹿の道の駅で、なにか食べようと思っていたのだが、緊急事態宣言発出のため、「閉鎖」の貼り紙が貼られていた。

普段はにぎわう9号線の道の駅もしずかなものだ。しかたなく、道の駅のベンチに腰をおろし、ペットボトルのお茶をあけた。

 

「ほら、お寿司。おいしいよ」と手渡してくれたのは母だ。道の駅、駐車場に並ぶ、数十台の車のほうを向いて、3人で寿司をつまんだ。背中から妙見山からの緑の風が、樹林の葉をゆらしていた。

 

 わが家の墓地は、思いのほか、敷地が広すぎる。春のお彼岸に、家人と墓掃除をして雑草を抜いたばかりだというのに、もう膝位置くらいには伸びている。ドクダミと竹の根が多い。

 母を、寺の境内に待たせているのだし、はやく掃除をしなければ。這うようにして両手で草ぬきをし、墓石に水をかけ、ごしごしと素手で石の水場を磨く。新聞紙を燃やして、線香をたむけるまで、30分弱だ。お墓掃除とお墓参りを済ませて走って、寺へ上がると、母は、御住職の阿闍梨(高野山の阿闍梨、密祐快氏 高照寺)と楽しそうに話していた。

 

 いよいよ父の33回忌の法要が始まった。浪々とした声で丁寧に拝んでいただいた。

般若心経の1節が終わり、「毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 (ひろーしゃだーふー、 ひろしゃだふ) 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 (ひーろーしゃだーふー、 ひーろーしゃだーふー) 」のところは、阿闍梨に習い共に声を揃えてお経をあげる。

 

 位牌堂でお経を唱える時には、いつもろうそくの火の瞬きを、みつめる。ピンと張った張りのある声に、応えるように、そうそくの火は、縦に横に揺らぎ、細く飛び、激しく燃える。

 あるいは、もっともっと細くなって、左右にはみ出し燃える。火が意志をもっているよう。幽玄、という言葉を思い出した。

 ああ、と思う。ああ、来てくださっていると感じる。火の中に仏の御霊を感ずるのだ。

 

 法要のあと、ひさしぶりに座敷に座って阿闍梨と話した。大日如来のすぐ隣の席だ。

 護摩供養の話しに感銘をうけた。720年に、行基が開山した寺には、古い蔵があり、そこに護摩供養ができる「不動明王堂」を設けたという。さて観音菩薩をどうしようか。どこからもってこようかと、考えたあげく、阿闍梨自ら出雲から砂岩を取り寄せ、手堀りの石仏を一心に掘られたとのことである。

 

 ここで護摩を焚いてほしい、そういった願いも多く、臓器移植の人、癌患者など不治の病をもつ家族の願いを聞き、「不動明王堂」で護摩を焚かれた。すると、「仏は聞き入れて下さったんや。わしも奇跡は起こるんやとびっくりしたで」と阿闍梨は熱をこめて話す。

 

「で、僕は思うんですよね。現代には現代の仏が必要だ。わたしのようなものでも一心不乱に堀りまして、お性根をいれる。するとな、腰を抜かすようなことが本当におきるんや」と浪々と諭してくださった。

 

この阿闍梨、(密祐快さん)まあ、ユニークな人で、若い頃はバックパッカーでインドやタイ、Oストアリアと世界中を歩いて旅されたのだという。

 アジア、オーストリア、中南米などを放浪時に、紡ぎと原始機を取得し、珍しいシュロ縄を用いて編む、技法を学ぶ。それを作品として昇華させ(生と死をテーマの作品を発表)、自らの手で石仏や木の仏を掘る、アーティストでもある。いわゆる自分は経験主義で生きてきたそうだが、いまは、「経験はさておき、人の知恵や思いは宙を飛ぶ、ほんまにそうなんや、とわかったんです」と仰っていた。昨年まで(約3年)ブラジルで、真言宗、密教の布教に出られていた。当時の記憶をもとに、朝3時に床を出て、大和創世の古文書をひもとき、本を書いていらっしゃるらしい。またその本、すでに脱校し、英語とブラジル語に翻訳している最中にあるという。その内容もとくと話してもらった。楽しかった。

 

 集中して話しを伺っているうちに、はや3時間以上、が流れていた。奥様が、煎茶から、甘茶へ。さらに、本場のブラジルコーヒーと、飲み物を3回も供して下さるのだから、よほどこちらも粘って話しを聴いたのだろう。

 あれ? と背後をふり向く。か、風。雨? 耳を澄ますと、樹齢3百年のイチョウが、葉をざーーっ、ざーーっと葉や枝を揺らしていた音だった。台風だと疑うほど葉ずれの激しい音。すずなりの葉ずれ。それはものすごい迫力だった。

もう5時になろうとしていた。

 ちょうど、わたしが阿闍梨に「いま、こんなことを初めて試みてみました。ものになるかどうかわかりませんが……父の口癖は、……」こうでした、と話し、わたしは「この言葉をいまも支えに生きています」なんて話していた時のことだ。そして、ゴーーと大風!!に遭遇したのである。

 ふと、寺のお座敷からイチョウの大木と、水色の空を見上げるにつけ、時間が立ち止まって、こちらをみておられるような、何か大きなものに包みこんでもらっているような、温かい気持ちが訪れ、ハッとした。

 うれしくて、佳き日。母がちょこりと私の座ってくれていて、わたしは、永遠に、いまの時空に閉じこめられてもいいと思う、不思議な衝動にかられた。

 





 

 


家を守るモンスター出現!

2021-06-25 00:21:00 | コロナ禍日記 2021









 

 5月5日(水曜日)晴れ


  

 ゴールデンウィークは、ほぼステーホームで過ごす。それでも、実家の母が何度、電話をしても、取らないのが気になって様子を見にいった。

  電話は、音量を誤って最小に設定してしまったようだ。

 日帰りの帰省だったが、ワクチンの予約確認のための書類作成を手伝い、「インターネットで西宮から予約をするからね」と約束をし、戻る。

 

 

 それ以外、買い物へ出かけては食事をつくって食べ、あとは仕事をして過ごした。ずっと働いていた。休みの仕事は好き。誰からも緊急の連絡がないので、自分ペースで仕事ができることがなにより気に入っている。

 それに、うさぎと亀の話しではないが、人が遊んでいる間に、亀が働くのは合点がいくというものである。

 

 またゴールデンウィーク中、2日間は、家人が出張だったので、誰にもとがめられずに、悠々すきなように家の空間をつかうことができて、楽しかった。食卓の上に原稿や書類をパーンと広げて校正をし、和室の部屋で原稿を書き直すというように。夕食の後は、BS映画をみて、風呂ではアイスクリームやフルーツを持ってはいって本を読むというように。   

 小学生の夏休みのような怠惰な一日を過ごした、と記しておこう。まあ、基本は仕事をしていたが。

 

 

 残念だったのは、DVDを借りていなかったことだ。それでBSをつけたら「いま、会いに行きます」をしていて、それをみる。

 

 翌朝は、朝散歩をし、瞑想とヨガ、仕事に戻る。

 夜は気ままに風呂読書。

 

 最終日の5日。風呂場でシャワーをあびていると、熱〜い視線を感じたので、なにげなく振りむいてみたら、あれ? と違和感。誰がこんなところにシールをつけたの? NO!NO! 









 腹の白いmonsterが、浴室のタイルに張り付いていらっしゃる。びっくりした。

どこから入ってきたのだろう。あちらこちら黒い網で覆われており行き場がなくて逃げ出したのかも、きっとそうだ。

 それからは、シャンプーの泡を流したあと、体を洗いながら、背後をじっーとみてしまうのです。おめめ、ぱっちり。ながーい、くるっと先をまきあげたしっぽ。落ち葉より小さな吸盤のある五本指でがっしり、壁をつかんでいる。おぅー! 

 夜中12時。やはりいた。全くびくとも動いていない。大好きな風呂読書を、この子に譲る。ヤモリは縁起がいいので、つまんで外へ出してやることもできないのであった。

 

 

 


水琴窟の音色をたどれば

2021-06-16 02:15:00 | コロナ禍日記 2021

 

 






 

 

4月28日(水曜日)雨

 

 昨日は、久しぶりの外取材だった。朝から夜まで一日仕事。自宅に戻り、家人のテレビ音声から逃れるように風呂の中で、2時間読書。そのまま、風呂で寝てしまい、起きたのが1時。全感情移入をしすぎたのだろうか。夢の中で、セリフらしき言葉を発し、ぐるぐる回る。と、20代の頃のわたしになっていた。勤め先(1番目の広告代理店)で上司や営業マンに囲まれて、仕事のお題を出され、喉が痛いほど声をはりあげてプレゼンをしていた。

 いまひとつ腑に落ちないな、変な定義だなと自分を客観視しながら、それでも声にしながら論じる内容を、信じていたい自分もいて……。変な夢。

 

 目が覚める。すぐ目を閉じ眠る。今度はまた別の職場。仲間との打ち合わせ。頭を抱えて、コピーを考えているところで目が覚めた。脳波の測定をすると、現実世界より夢のほうが脳の動きは活発だそうだ。

 もっと仕事をしたい!という欲望の表れなのか、それとも人恋しさなのか。

 今朝は雨だ。朝4時半。コロナ禍で人と合わないようになってから、いろいろな人が毎日、日替わりで会いにきてくれる。ここへ(夢に)。起きた時に懐かしくて、しばらくぼーとする。

 

 もう一度、眠る木がしないので、散歩にいきましょうと勢いづいて飛び起きたのに、今朝は、鳥が鳴かない? あれ?雀は? と思いながら、外へでると、雨がふりはじめていた。土っぽさと灰っぽさが混じり合う、生まれたての空気。家の近所(短いコース)を1週だけ歩いて、帰る。

 仕事机で本を広げていたら、耳のはしのほうで微かに金属音がする。あれ、なんの音?

 あの音。「水琴窟」のような……。つくばいのそばにある竹に耳をそっと近づけ、目を閉じたら聞こえている、あの音みたいだ。どこから? うちの大規模修繕の骨組みであるパイプの空洞に雨の滴が落ちていたのか、当たっていたのか。キーンコン、キーン、コンカン。キーン……。本当に水琴窟にそっくりの響きなのだ。まあ、風流な。しばしの静寂。

 さて。これから、仕事をはじめよう。

 


朝の散歩日記

2021-06-12 08:43:00 | コロナ禍日記 2021

 

4月25日(日曜日)晴れ 早朝のこと

 

 



 

 今朝は5時に目が覚めた。朝の散歩をするために勢いをつけて飛び起きる。鉄瓶からお湯を1杯だけ飲んで、玄関を出た。

 

1日が生まれたばかり、だと思える!

 

 いつもの道を歩いていたら、家のそばで、花に水をやりながら、ふわーっとのびをしているおじさんがいた。おじさんと目がバッチリ合う。またすぐ歩き出す。と、目の前、宙にうかび、くるくるまわっているものがある。そういえば、昨日もおなじように宙ずりになってくるくる回る葉っぱをみた。なんだろう。透明な蜘蛛の糸のようなものがあるんだろう、じっとみる。小指の先ほどの緑の葉っぱ、小さい円で美しくまわっていた。踊るように、かわいらしく。そういえば、この間、回っていたのは、桜の木からすーっと真っ直下に落ちてきた毛虫の赤ん坊だった。

 わたしが散歩の途中にたちどまって花や葉っぱをみているものだから、さっきのおじさんが、裏庭から表玄関のほうにまわって「なに?」という感じで首をかしげてこちらをみているのと眼があってしまう。不審者におもわれてはいけない、と思い、やや早足で歩く。

おはようございます!

 しばらく行くと、むこうからウォーキング中のおじさんが歩いてきた。両手に黄色と赤のテニスボールを握りしめて、ぶんぶん振り回して歩いている。なぜ、ボールを持っているのだろと、振り返ったらおじさんも振り返った。

 また眼があってしまった!

 

 

 少しいく。3日前の桜の実がどうだっただろうと思い、間近に行くと、3日前とあまり変わらない。

 

 赤黒い桜の実が落ちそうになりながら枝にしがみついていた。八重桜の花が、道にぺちゃんこに潰れて。染井吉野とは違い、八重桜は花びらでなく、一枝の花が椿のようにぽとりと落ちるのか、と思う。真向かいには梅の実がたわわに。

 

 



 

 

 そう。花! 作家吉田修一氏は、「パークサイド」という小説の中に、もう一編「フラワーズ」という小説を書いているが、花はエロいと定義していた。男と女の性そのものである、と花をのぞき、生け花をみて興奮するシーンがあるのだけれど。 

 それからわたしはしばらく散歩のたびに、一度立ち止まっては花の中をのぞき見する。エロいのか。ふむ。そういう風にはわたしにはみえてこない。ただ、わからなくはないけれど。おしべとめしべ。メスとオス。同類である。

 風景とか視覚の対象物って、同じものをみていたとしても、唯一無二というか、固有のものをみているのだな、と思いながら、またてくてく歩く。

 

 

 きょうの散歩はちょっと長い。もう40分は歩いた。

 散歩の途中はいろいろなことを思い出している。とても、とても古い記憶が多い。この日は3歳の頃の自分が浮かんできていて、もっと思い出してみようと頭をひねったら、部屋の中の様子まで脳裏に浮かんできたのだ。灰色のブラウン管、こたつの脚のような4本の茶色の脚が、外側にばっと開いて、立っていた。流れていたのは「ひょっこりひょうたん島」だっただろう。母の声が聞こえる。

「ああ、この子、本当にいつまで寝ているんだろうか。まさか死んではないわよね。本当にねているか、つねってみようかね」

私は、寝たふりをしていながら、びく!としたと思う。

最初、母は、父に話しをしているのかと思ったけれど、よくよく考えると、父は仕事へ行っている時間だから、ひとりごと、だろう、と私はうつらうつらしながら、目をとじていたような気がする。

 

 いま目を覚ましたら、ごはんを無理矢理、口の中にいれられる。いつもごはん!ごはん!それがいやで、寝たふりを決めこんでいたのだった。すると、母が「この子は、4時間も寝て頭がへんになつてしまわないだろうか」とまた、ひとりごとを言った。あれは、何歳だっただろう。記憶って、面白いなと思う。

 時々、黒い海のむこうから、波にゆらり揺られて、いまの時空によみがえってくることがあるのだ。

 

 そんなことやら、あんなこと、ともかくいろいろ思い出しながら、おもしろいものを探して朝の散歩をたのしんでいるのだった。

 

 毎朝家の前の近くの草っ原で、男の子が太極拳をしている。髪の短い、肌のきれいな、イケメン風の6歳児くらいだ。きょうも、いつもの太極拳のポーズ。脚がよく上がるなあ。なんて涼しげな瞳。知的そうな眉毛だな、と思いながら。

 バッドを自分の脇において、サッカーボールを踏んだり、蹴とばしたりしていた。あの子のご両親はどの人だろう。みたことがない。将来はどんな子になるのかしら。男の子を産んだことはないけれど、女の子以上に楽しいだろうな、だって可能性がきらきら耀いているもの。と思いながら、部屋に入る。

 

 誰もいない。ひっそりとした部屋で、仕事の原稿をほっぽり出して、つらつらとこんな朝のひとときを、日記に書いている。

 紅茶1杯ではここまで、で終了。この日は1日中テープおこしと原稿を進めた。

 

 


徒然なる怠惰と明日こそはの決意。

2021-06-10 00:04:00 | コロナ禍日記 2021






 

 4月22日(木曜日)晴れ

 

 インドでは二重変異のウイルスが拡大しているらしい、というニュースを聞いて布団にはいったせいか、朝方4時半、息苦しくて目がさめる。咳が出た。ぎょっとする。ふと、人類はコロナウイルスに果たして勝てるのだろうか、ワクチン接種がはじまって、イギリスやイスラエルの状況をテレビのブラウン管を通して目にし、開放感が漲った民衆の、よろこびっぷりを、乱痴気騒ぎを恐ろしくなった。予期せぬことの序章ではないか、ソファーに転んでいたのに飛び起きてしまったのである。

 

 昨晩は1時半まで仕事していたので少し寝不足だ。

 

 散歩にでた。外は新緑がいっせいにはじまっていて、まぶしい緑の幕開けだ。近所をぐるっと歩いていたら、桜の木々にさくらんぼが落ちそうにしがみついている。赤い実と、緑の実と。かわいらしくて、ほおずりしたくなる。一輪だけ、桜の花が実の中に混じっていた。少しいくと、今度は梅の実が一本の枝に行儀よくならんでいた。一昨年前におとずれた青森の奥入瀬渓谷を思い出す。









そろそろ、新しい葉っぱが出て、せせらぎの川面にゆれているに違いない。行きたい! 青森! 急いで帰って息をきらしながら、家人に、そう告げると、「いまは緊急事態宣言だからね、常識ははずれのことをしちゃあいけないよ」なんとも……返す言葉がない。正論とは、人を黙らせるだけだ。

 

 思い直して朝食を食べ、個室にこもってヨガ、瞑想。

 昨晩からよみはじめた、辻邦夫氏の本を読む。水素ガス吸入をしながら。

それから仕事をする。午後、デザイナー女子のAと電話。来月号のうちあわせ、互いの仕事をほめあい、1時間くらい話す。

 

 けらけらと笑いながら、レースのカーテン越しに外をみると。ベランダに3人の男がはいりこんで、電動ドリルとかなずちで、マンション修繕のための作業をしていた。むこうからはみえないと思って平気な顔をして(私は)電話をしているのだが、本当をいえば相手の灰色のズボンのたれ具合をみながらしゃべっている。と。あちらも、しごく自然体で、仲間の作業員とだじゃれをいいながら、「コンコン」「ガンガン」と外壁をたたいて、大笑いしているのをみて、やるな、と気になる。負けてはいられぬ。電話を切っても、サッシのむこう側で、ずっと刷毛で白いペンキのようなもので、あちらこちら塗りたくって、あげく「びゃくしょん!」とくしゃみをしたりするので、大急ぎで風呂に潜伏した。できたところまで原稿の推敲。

 

 一昨日につづいて、お風呂の中で本を読む。体があたたまりすぎて、また眠気けに襲われた。我慢できず、バタンキューッと、50分の睡眠。(風呂はやはり夕方以降でなければいけない)

 

 起きると、ゴールデンウィークの仕事が雪崩込んでいた。レギュラーの仕事だが、雑誌社から10本の依頼。こ、これは………。来週から、定期ものの仕事にもはいらねばならない。うーん。頭を悩ませ、なんとか良い返事を書こうとしていた。断ってはならぬ、ならぬのだ。コロナ渦に、お仕事を頂戴できるだけでもありがたいことなのだ。自分はついている!ラッキー!と奮い立たせるのだ、そうだ!と強く心に誓いながら。

 

 気を取り直して、止まったままの原稿に戻った。

夕ご飯は、羊肉のステーキ肉(薄いもの)を2枚。ポテトサラダ。新キャベツと海老の炒めたもの。納豆。味噌汁。デザートは夏蜜柑(皮はピューレにするために保存)

 

 食事後。テープ起こしをして、11時になったのでレンタルDVDをセット。映画館で見逃していた「82年生まれ。キムジュン」。話題作なのだ。面白かった。ストレスが、人間の細胞を変異させて、精神を犯していく話。病に侵されたキムジュン本人はもとより、彼女を見守る母と夫の悲しみが、心を打った。しかし、怠惰は癖になる。明日こそは絶対に勤勉に励もう!





最近のシネマ記録




あきれるほどに怠惰な一日を記録

2021-06-06 12:56:00 | コロナ禍日記 2021







 

 

4月20日(火曜日)晴

 

 一昨日19日には、6時に起きて30分散歩をし、ヨガと瞑想。午前中から原稿に入り、夕方には別のテープおこし、仕事。夕ご飯は、家人の好きな鯨のしょうが風味ステーキをこしらえて、日記やSNSを更新、寝る前にはお風呂で短編を1冊読んで寝るというフルコースを過ごした。これで生活習慣をきちんとおくれるようになった、とばかりに安心していたら。翌日は、リバウンドしてしまい、とんでもない怠惰で、まあ、幸せな1日をおくる。

 

 きょう、家人は出張でいない。普段なら、一日のやることをすべて終えてからシネマをみるのに、こらえきれない感情に任せて、DVDをセット「トリコロール青の愛」を観る。






 家の周囲は騒音がはなはだしい、ヴィラの修繕工事の真っ只中なのだ。それもタルザム茶園のセカンドフラッシュダージリンと、はちみつトーストを食べながら。ま、なんて怠惰な。


 20年前、この映画にはまりにはまり、そこから、ジュリエット・ビノシュの大ファンになって、監督のクシシュトフ・キェシロフスキ 監督の類いまれない才能に震えたのが「トリコロールシリーズ」。かつての自分がどれくらいこの映画を理解できたのかはよく覚えていないが。

 きょうは、ジュリーの心の動きや監督がこめたかったメッセージが(正しいかどうかは別として)わかったような気がした。自分なりに有意義な鑑賞の仕方ができたと思う。ジュリーは、夫への愛や家族への愛を何より求めてきた女性のように解釈されているが、本当は自分の作曲(音楽の創作)を最も守りたかったのでは、などと考えながら鑑賞した。そう考えるとラストの欧州統合の協奏曲を完成させたジュリーの行動に納得がいく。

 

 ノートを出してきて、シーンをはじめの部分からおしまいまで、自分なりの言葉で整理した。感想らしきものも加える。

 

 映画を見終わった時には、5、6人の工事人がいて、ベランダや妻側が包囲されていた。壁を手でさわりながら歩く人。足場をたしかめながら、電動ドリルと、とんかちで、カンカン叩かれている(家が)。人がサッシの向こうに張り付いていた。おかしいやら、うるさいやら……。仕事をする気も一気にうせて、近くの隣人とメールのやりとり。しんどさを共有し合った。そのままの流れで本をもってお風呂に潜伏した。

 

お風呂からあがって、にんにくと赤とうがらしのスパゲティをこしらえる。広島産のはるみもいつもは半分なのに1個ぺろりと平らげた。そして、なんとそのまま、ベッドで爆睡。Oh ! NO!

 30分後に起きて、また紅茶を飲むところからやり直し。あっという間に夕方になった。机のまえにすわって、パソコンを叩く。が、いまいち乗り切らない。

 

それで、早めの夕食をこしらえた。一人だから、すきなものばかりを食べてやるのである。イカリスーパーから買い求めた少しお高いめの黒毛和牛を、酒をたっぷり注ぎすきやき風にアレンジ。あとは、トマトサラダのみ。すき焼きにいれた日本酒を、ワイングラスに注いで飲む。

 シーンとつまらないので、テレビをつける。どのチャンネルをぱちぱちしても、もっとつまらない気分になってくる。今度は「トリコロールの赤の愛」を観た。

 




 

 こうなれば、もう自分の文章など、とるにたらないものに思えて続ける気にはならない。また風呂で面白い本をめくって、とろとろと過ごす。

あがって部屋をみると。荒れているなあと思い、申し訳程度にさーさーっと片づけて。寝室にひきあげ、文庫本をめくってみるが、猛烈な睡魔におそわれて抵抗できずに、寝た。Oh!怠惰日和という日記にしようか。読む側にとっては真面目な日記より、面白いんじゃないかとふと思ったりする。

 

 


 きょうも修繕工事は続いています

2021-06-02 00:19:00 | コロナ禍日記 2021








 

  

2021年4月16日(金曜日)

 

 目が覚めても、暗い。明け方というわけではなく、家自体が黒い蚊帳の中にすっぽり収まっている。動物園の野鳥園を思い出す。

 マグナムコーヒーのコーヒー豆を手動で摺り終わり、カップにお湯を通して、マグカップに移して、唇のふちにつけてすーっと吸う。瞬間に。ど、ど、どーー、どーんと外壁の面に穴をあける騒音。わたしは、口をあけて歯を掘り進む時の音を思い出す。今度は、コンコンと金槌のようなもので叩く音。







 テラスヴィラの建物修繕工事を行っているだけにしては、乱暴だなと。ため息をつきながら、まだコーヒーカップを手離さなかった。

 

 家が仕事場だし、カフェや街に出ようとしてもコロナ渦なので、仕方なくここで息を潜めて暮らしている。サッシのむこうは、足場の棒ばかりが、ジャングルジムのようにめぐらされていて、その隙間から空と山がぼんやりと透けてみえている。

 

 昨日は確定申告の書類を提出したので、きょうは神奈川の友達に手紙を書いた。これが精一杯だ。薄暗いし、人の膝の位置が自分の目線のところを忙しく動き回るのだし、ドリルの音や外壁を叩く音がするのだし、どうも落ち着かない。ブックライティングのテープ興しはずっと溜まったまま、はやく進めないといけないのに、わたしは机の前には座らない。

 

 お昼は、卵とほうれん草のチャーハンにした。

5時半になって工事人がいなくなってから、やっと風呂に入って本を読んだ。すごく面白かった。本の世界と同じように、わたしの中にも本と同じ、静謐で美しい時間が流れて、幸福だった。あがって、またコーヒー豆を摺って、一杯のコーヒーを味わって飲む。そのまま、夜の10時45分まで原稿を書いた。

 

 30分前に家人からの「電車マーク」のスタンプが、送られていた。慌てて仕事を切り上げ、いかにもキチンと生活をしていた人であるように、台所を整え、本だらけのテーブルを整えて、キャベツをあられに刻んで、ネギをいれ、粉をおだし、で溶いて、イカにあみえびや天かすをまぜて、お好み焼きの準備をすませて。おしゃもじ一杯分だけ、お好み焼きをじゅーっと焼き始めた。途中、薄切りの豚肉を5枚のせた。

 

 11時半。家人が鍵を自分であけて、ぬっと台所に顔を出す。わたしは、もうとうの昔にいただきましたよ、という涼しい顔をして、「食べる?お好みよ」と聞く。「おいしそうな匂いがしていたから」と家人。

 キッチンのガスコンロでお好み焼きを焼きながら(普段はホットプレートです)、いま、ぺろっと自分のお好み焼きは食べてしまう。あまりにおいしいので、120CCのミニ缶ビールを飲む。お好み焼きはビールといっしょに味わうもの、と教えたのは、大正生まれの叔母である。自分の体の中にするするすると、きれいに消えたイカ豚のお好み焼き。

 まだ欲しい!と体からたまらなく欲するため、家人のを特大サイズに焼いて、お皿をテーブルまで持っていき、ほんの二口分だけ分けてもらった。

 

 それから、ちっとも面白くもないテレビみて、家人と談笑していたが、寝る前に風呂をわかして読書。今度は「完璧な病室」。おしまいまで読んでしまった。この人(小川洋子さん)の書く初期の頃の作品、箱庭のような小さな場所と時間の流れ方がとても好ましい。ラストのおわり方に安心し、深夜3時前、ベッドの中へ、そーっと抜き足で滑り込む。