月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

是枝監督の「真実」

2020-01-26 00:01:00 |  本とシネマと音楽と


1月9日(木)晴

昨晩お酒をぬいたのがよかったのが、体が軽く、朝から爽快だ!湯たんぽで足元がぬくぬくしいいのがよかったのか、健やかにヨガと瞑想をして、原稿にすっきり入れた。


午後1時。NHKの朝ドラ終わりに車をとばして映画館へ。

是枝監督の「真実」特別版をみた。






昨年秋頃から、見たい映画を随分とみそこねたので、今日はどうしても行きたかった。

愛するカトリーヌ・ドヌーヴとジュリエット・ビノシュという2大女優の競演、みないわけには行かない。今年の初映画だ。「万引き家族」と同様「家族」がテーマ。日仏合作。カメラワークが自然で絵づくりが美しい。


この人の作品は、心の小さく揺れる機微を、丁寧に余すことなく掬い取る。

日本人や日本を描くのがうまいと思っていたが、人間の中身をみせてしまえる監督だとしった。ちょっとした目の動かし方、横顔からの焦る表情、なにげない会話の中で。大物俳優を通じて、いまの、世の中が風刺されている。

木々の影、風が吹いた時の葉のゆらぎ、中国の食堂での人々。なんでもない余白、シーンの描写に、是枝監督らしさがある。ちゃんとカトリーヌドヌーブ、ジュリエットビノシュを、好きで、敬愛しているのも分かった。途中、2度、泣いた。見てよかった、よい映画。


若い頃は、嘘か真実だ。白か黒だ、と追求しがちだが、そんなことは大きな問題じゃない。大事なのは、いま、あなたがどう思っているのか。大切な存在であるのか、思いやりと愛情をもって相手の眼差しをみつめているの か。それだけで十分じゃないか。ええ十分ですとも。


真実も、虚構も、お芝居さえも。本質は変わりない。サイコロはどちらにでもどうとでも転ぶ。

母と娘の複雑な感情の揺れ、愛のからんだ嫉妬、孤独、許されると思う家族に対する甘え。親子の愛というぬぐいようのない「真実」の中にも。。。


シネマの帰りに、市立図書館で郷土資料を探した。ついでにおもしろそうな本を3冊。


帰り、喉が乾いたので図書館の隣のカフェに立ち寄る。

マリアージュフレールのイングレッシュブレックファーストがあった。紙コップだけれど。パリで飲んだ生ぬるいマリアージュフレールより、十分においしい。おそらく、ティーバッグだろうけれど、香りがよくフレッシュ。おいしいお茶だ。












プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画ー 会期わずか

2018-10-12 00:08:49 |  本とシネマと音楽と


先週の半ば。3日間の弾丸東京から帰宅した後にすぐ出掛けたのが、大阪の国立国際美術館の「プーシキン美術館展」——旅するフランスの風景画——10月14日(日曜日)まで。いよいよ終わりに近づいています。




シスレー、セザンヌ、ルノワール、ゴーガン、ルソー、そしてモネなど。17世紀から20世紀、それぞれの画家たちの目がとらえた風景を観覧できる贅沢がありました。全65点と多くはないのですが、1点1点の見応えが素晴らしく、想像以上に良かった。


「夜のパリ」(エドゥアール=レオン・コンテス)、





「ポントワーズの道」(ポール・セザンヌ)
「霧の降る朝」アフルレッド・シスレーなど。
「草上の昼食」(クロード・モネ)

近代風景画の源流にはじまり、自然への賛美、
パリ郊外や近郊、市内、農園、南への光と風景。
場所で魅せて。時代の移り変わりで魅せて。

特筆するなら、セザンヌの「緑」はやはり一流で、その豊かな表現はため息をついてみました。

1875年に描いた「ポントワーズの道」。
10年後の1882年「サント・ヴィクトワール山の平野、ヴァンクロからの眺め」
そして1905年「サント・ヴィクトワール山、レローブからの眺め」

年月を経るにつれて、(モネ「睡蓮」シリーズもそうですが)、鮮明な光をとらえた描写から、曖昧な色とふくよかな(優美)画風、あるいは寂寥な画風へ移りかわり、晩年はさらに画家の絵筆のタッチは激しく、色彩も深くなる。同じ風景をみても、抽象画から晩年はさらに心象で描いているのがよく理解できます。



また今回の展覧会は、展示の構成順序、時代に応じてバックの配色を変えるなど見せ方も素晴らしかった! 良い展覧会だと思います。


ひとしきり、絵を愉しんだ後には、中之島のリーガロイヤルホテル大阪のメインラウンジで一服。葡萄のフレッシュジュースを愉しみました。





緑を借景に舞台から滝の流れる、おなじみの空間。この夏はたくさんのぶどうを食べましたが、本物に勝るしずる感。
みずみずしいのに、水っぽさはなし。酸味、甘みのバランスがとれたフレッシュな果実味のジュース。同席してくれた友人が食べていた和栗のパフェも美味しそうでした。





はかなくも美しいものは消える、映画も宝石のような芸術

2018-09-25 21:42:57 |  本とシネマと音楽と

一人娘が家を出て東京で暮らし始めたので、このところ一人でお茶を飲んで、ぶらりと好きなものをみて早々に帰宅するか、映画を観ることが多い。


足を向けるところは、たいてい決まっている。
梅田界隈なら、evam eva(エヴァムエヴァム)で洋服をみて、阪急百貨店7階のくらしのギャラリーで器や敷物をみる、1階の洋品雑貨ではショール。地階の食料品売り場。あとは本屋、そして映画館(良い催しがあれば美術館)。

飲食をするところも、私をよく知る友人はたいてい検討がつく、というくらい同じところばかりウロウロしていると思う。
好きな映画館は、シネ・リーブル神戸・梅田。テアトル梅田、売布ピピア、そして元町映画館と、このあたりの会員チケットは持っていて、そのあたりでたいてい観ている。


先日も新大阪界隈で打ち合わせのあと、阪急三番街の「ロン」で洋食を食べたくなって、エビフライトとハンバーグ(牛肉100%)、そして生ビールを一杯オーダーして、一人メシのあとで、阪急電車にゆられて途中の駅で下車し、遅ればせながら「ファントム・スレッド」を観た。





評判以上に良かった。
本心をさらけ出し、あれだけ罵り合っても離れない。愛憎が渦巻く世界。
1950年代のロンドンで活躍するオートクチュールの仕立て屋レイノルズ・ウッドコックのプロとしての仕事と、美意識をつらぬく生き方。綺麗で怖い映画だった。





9月20日(木)は、校正のやりとりを何度かして、夕方に1本原稿を入れた後で、大急ぎで神戸の元町まで電車で出かけ、元町映画館でウォンカーウァイの「欲望の翼」を観る。





これまで、3回くらいDVDで観たと記憶するが、今回はデジタルリマスター版で復活。あの作品を大正から昭和の匂いがぷんぷんと残る、元町商店街の劇場内で観られことにとても満足した。

鑑賞前には「はた珈琲館」でコーヒーを飲み、一息ついてからどっぷりと異次元の風にふれることができた。さあ、来いという感じ。






バケツを移したような大雨が降りしきるシーンや墨色の映像シーンが何枚も重なる1960年代の香港。
陰鬱でものうげで、蒸し暑くて、目も当てられないほどいい加減でくだらない男と愛欲から抜け出せない女。閃光のごとく衝撃と陶酔。高揚させる素晴らしい音楽、そして映画のジャケットにうつしだされた亜熱帯な森の神秘。

ウォン・カーウァイ監督の原点ともいえる作品。
その後の、「恋する惑星」、「天使の涙」へと続く序章にして完璧な仕事。やはり映画館でみられて本当に良かった。

映画熱というのは、いちど観だしたらやみつきにする。



翌21日も夕方まで仕事をして、それから車で、見逃した「フジコ・ヘミングの時間」を観る。





結果、冒頭からエンドロールまで釘付けになって涙して観ることに。
年老いた人が主人公の映画やドキュメンタリーにひたすら弱い。

ドビッシューの『月の光』、リスト「ため息」「ラカンパネラ」、ベートーベン「月光」、
ラフマニノフ、ショパン…。全部好きな曲だったし、フジ子が世界各国を演奏公演で旅する映像もきれいだった。等身大の彼女を自然に描いていて、その言葉のひとつひとつにも打たれたのだった。

たとえば、こんな台詞に。

「ええ。キリスト教の信者ですから、少しの小銭でも必ず入れていますね。試されていると、いつも思うのです」といいながら、募金箱をみれば必ず投入するフジコ。

「母にほめられたことは一度たりともありません。アホ、下手だといわれて大きくなりましたから、40歳になるまでずっと自分は、ばかだと思って生きてきましたよね。それでも母も父も、どこかで自分をみてくれていて、必ず会えると私は信じていますね」

「楽しいことばかじゃなくて、悲しいことあってもね。センチメンタルなのもいいじゃない」



「私が弾く、『ラ・カンパネラ』。わかる人はちゃんとわかる。自信はありますね。なんでかというと精神が出がちゃうから。どんなにごまかそうとしても、死にものぐるいでひく曲だから」


「私はピアノの音にね、色をのせていくようにしてひくのですね。(ピアノの音も)歌を歌うようじゃなくちゃあ、いけないんですよ。いまは、教えてる先生がよくない。正しく弾くことばかりだから。ピアノっていうのは自由で、歌うようじゃなきゃあいけないんですよ」


読む本が血肉になるとはよくいうけれど、映画もしかりだ。一度だけの出会い。はかなくも美しいものは消える宝石のような芸術だとも思う。


「フジコ・ヘミングの時間」は
良かったので、9月の3連休(中秋のある日)実家へ戻った折り、一人暮らしの母を誘ってもう一度、観にいった。

最近は足腰が弱くなって好きなところに行けないと嘆いていたので、フジコが演奏旅行で駆け抜ける各国をみたら、すこしは気が晴れるのではと思ったのだ。

それに、私も小さい頃から褒められたことなど一度もなく、近所の誰か、いとこの誰かと比べてはガッカリされ続けた娘であったからーー。

母と一緒に映画を観て、フジコさんのピアノを聴けてよかった。



今年、後追いしてみた映画はこんな感じ。
あと3カ月でどれだけ観られるだろう。






シネマと、本屋と。

2018-04-16 23:27:55 |  本とシネマと音楽と

4月6日(金曜日)晴れ

金曜日は、朝のうちに1本原稿を仕上げて提出し、午後からは大阪・西梅田のジュンク堂と茶屋町のジュンク堂をはしご。
気になっていた資料を探し、ついでに新刊の雑誌にも目を通した。

夕方。交通量は増え、喧噪の時間帯がやってくる。

私が会社勤めをしていた頃は、夕方のジュンク堂はサラリーマンやOLで座るところもないほどの混み具合で、人に推されながら本を選ぶというのが通常だった。
なのに、今では大型書店・ジュンク堂でさえ、本を探す人はポツリポツリ。活気がない。
書棚のレイアウトも大きく変わっていて、レジ前には誰でも手に取りやすくわかりやすい本ばかりが並び、専門書のコーナーにはアニメ本がきれいに陳列されていた。「活字ばなれ」というコトバを今さらのように実感する。

8時からはテアトル梅田で「ナチュラル・ウーマン」を観る。
痛いシネマだった。
哀しみを自分の内側に秘めてだまって黙々と闘う人の姿を、久々に目の当たりにした。
世間の常識は、おそろく人を傷つけるということも…。
オルランドの死により容赦ない差別や偏見を受けるマリーナは、女性として生きていく権利を胸に前を向いて歩くことを決意する。

「私はもう次のページを生きているのよ」という台詞が胸に響いた。

夏のある日、河瀬直美監督の「光」を鑑賞。

2017-08-11 14:05:16 |  本とシネマと音楽と




先日から、吐くくらいに難解な仕事をしていたので、その後、お仕事が2日途絶えて
7日(月曜)まで入らないことに内心はホッと安堵していた。

日曜日だったので、以前から観たいと思っていた河瀬直美監督の「光」という映画を観る。

小さな、古い流行らない映画館で、先週からの疲れを引きずっての鑑賞だった。
冒頭のシーンから2秒くらいで、すでに映画世界の中に自分がいた。
良い作品。こんなに秀作の映画をなぜ、こんな小さく流行らない劇場で観なければいけないのか、そこに無償に腹が立った。

ミニシアター系も好きで時々は足を運ぶのだが、そこの10倍は劣る映画館。
午前中の観覧だったので、コーヒーとクッキーもしくはスコーンでもないかなと思ったが、

ポップコーンが2種類と、自販機があるだけで、(ビールが1種類だけ売られていたが)チェロスなどもちろん無いし、
店員が機械をセットして煎れてくれるコーヒーや紅茶すらないのにも腹がたった。
古い上に、埃っぽい空気の中での映画鑑賞など、思っただけで気落ちする。

いや、こんな優れた作品をなぜ堂々と大きなスクリーン劇場がある映画館でせず、
ディズニー系などのエンタメ系に推されてしまっているのか、日本の映画事情にまず腹がたってしまった。
(すいません)

「光」は、こんな話である。
情景を言葉で説明する視覚障碍者向けの(映画の)音声ガイドの仕事をする美佐子と、
弱視のカメラマン雅哉との、仕事を通しての葛藤や互いの人生観や、そして愛が描かれている。
命よりも大事なカメラを手にしながら、次第に視力が奪われていく雅哉の言いようのない孤独も。

視覚障碍者の人が、ごく自然に映像が浮かぶように、説明しすぎず丁寧な言葉だけの描写を心掛ける音声翻訳(音声ガイドの訳)という仕事。
言葉をひたすら、丁寧に研ぎ澄ませて、シンプルに。でもキチンと説明するというのは、
なんて難しいのだろう。だって主人公の美佐子には目が見えているのだから。

彼女や彼を支える人達のぬくもりと掛ける言葉。
そして、天才カメラマンの才能を嫉妬し、カメラを盗もうとする仲間(時代の潮流にのしあがりたいカメラマン)との、諍い…。
ラストでは、題材になっていたもうひとつの映画をキチンと鑑賞させるという度量もある、いい映画だった。

自分に素直に、誠実に生きるということは、大変なことだ。
前を向いて生きようとすればするほど、泥臭くかっこ悪い、誰しも。ということを、
映画の時の中で、見せつけられた作品だった。

映画を、誰よりも愛し、映画は人生そのものだという河瀬直美監督の、思いが
画面から情熱的に湧き上がってくる作品。

例えば、自殺をするかもしれない痴呆の母の元へ必死で向かおうとするのに、
雑木林の中でぬかるみに足をとられて、ドロドロの靴のまま、はまり込んで抜けられない、美佐子の姿の中に。

あるいは、日々光を、視力を失っていくカメラマンの雅哉が、酔っ払いのゲロでこけてすべるシーンの中に。
それでも起きて公衆洗面所でドロドロの背広を洗い、(命より大事な)カメラを後輩カメラマンから取り返しにいく雅哉の悲痛なまでの哀しみ。
「2度と使えないとわかっていても、自分の心臓と同じ、ここで鼓動しているんだよーー」とカメラを手に叫ぶ雅哉。

もう一つの映画の作品。
著名な芸術家が足をとられながらも砂の山を這い上がるシーンで。失った妻は彼の元へ帰らない。それでも生きる、光を求めて生きる姿…。

ともかく、捨てカットも、捨て科白も、一つもない。


自分の仕事を一生懸命に全うすること。
人を愛すること。誰かを必死で支えようとすることも。
夢中で生きるということは、それだけで人の心を鷲掴みにするんだと、この「光」という作品で改めて痛感する。
奈良へ行くたびにこの映画を回想するだろう、素晴らしい作品(光)だった。









シャンソンの降るある晩と、その翌日のこと

2015-01-23 00:25:26 |  本とシネマと音楽と



先週半ばから難案件(株式会社日本ビジネス出版「環境ビジネス」の取材記事作成)を抱えていて、
テープ起こしをしても3割程度しか理解できず、どうにもこうにも1行の原稿が書けないというちょっとした恐怖と絶望の淵にいた。

頭の中は覚醒していながら、どこか諦めモード。
まるで苦手な数学でも前にしているかのような気分であった。(苦手なことは努力をせず避けて通りたい性格)
それでも自分が怖しいのは、最後にはなんとかなるだろう…と年の功からそして経験からくる開き直り。

取材内容もテーマも、道筋も、知識がなく。また資料を読んでも頭からポロポロと消えてなくなるよう。
少しだけばらしてしまえば…「太陽光発電市場における再生可能エネルギー電源(バイオマス、pps、風力、地熱、中小水力)など総合エネルギー企業を掲げる某社社長の見解とトータルソリューション。
あるいは市場におけるこれからの見通しを、記者の視点で述べるという記事づくり」だった。

しかも、専門的すぎる内容のため、
東京から環境ビジネスの編集トップの方がインタビューをしてくださったという異例中の異例で(自分で取材しない記事作成は初めて)。
もらった日程も3日ほど。
そんな最中に出掛けたのが、これ。

や、やばいんじゃないの。月曜朝一に入稿できるの?

そんな自分を客観視しながら、
それでも、約束はしたのだから、気になるし、突然友達を誘うのも気がひけて
主人を誘って出掛けたのである。









「シャンソンのソロ・ライブ」人生は一度だけー。

ちょっとした縁から昨年2度ほど仕事をご一緒させてもらったライター(兼シャンソン歌手)海江田文さんの、20年を祝うステージ。



「主人とともに伺います」とメールをしたら
1番前の上席を確保してくれていた。


シャンソンを始めて聴いたのは、15歳の頃。金子由香利さんの「銀巴里」でのライブアルバムから。
(なぜ中学時代に聴いたのかといえば、私の当時(中学時代)大好きだった歌手が、金子さんが好きでよく聴いている、というインタビュー記事を読んだのがきっかけで私も辿り着いたのだ)。

それからエディットピアフや、リュシエンヌ・ボワイエ、ギュリエットグレコ…。それにジャン・ギャバン。
有名な曲は、少しは知っている、その程度の知識。
だけど、シャンソンの世界観は好きだった。映画や文章からの影響もある。

クラシック時代のフランスの空気感は、ポーランドの映画監督クシシュトフ・キェシロフスキや、
フランス映画でお馴染みの
フランソワオゾン、パトリス・ルコントなどが、とてもとても好きだから。
独特のモノクロのそういった映像は自分の中で描ける

ライブは、実に素晴らしかった。




第2ステージは、1番前の席だったこともあり少し緊張して、その場の雰囲気にのまれて、音質がまっすぐに入ってこなかったのだが。
第3ステージ目からは、完璧に唄とピアノが自分の中に溶け込んでいった。

赤ワインをぐびぐびと飲んでいたのだけれど。
まるで、雨と霧に煙ったうす暗い晩に。ふと立ち入ったパブで、氷のたっぷり入った冷たいウイスキーを飲みながら、聞いているほどのリラックスした気分に。最高だ。



梅田のシャンソニエ ジルベール・ベコー。
すっかり、想いはフランスのパブ、

そして、降ってくる、どんどん降ってくるシャンソンの雨が私の体の中で旋律となって、心に響いてきたのだった。
こんなにも贅沢な、泣きそうになる心地よい時間って。
本当に久しく忘れていた。
海江田さんの声は、深く心に沁みる包容力のある大人の声。
やさしくて、コミカルで。それにドラマチック。まるみがあった。


特に、グレコの「街角」。
マレーネ・デートリッヒのナンバーで「ベルリンのスーツケース」、「ブラックマーケット」、「イリュージョン」。
そしてセルジュ・レジアニの「ウイスキーは水に」。
セルジュ・レジアニは確か男性のシンガーなのだけれど、
彼女の唄のほうが私はこの楽曲にしっかりとよく馴染んでいるように思うのだった。




帰りには、少しお腹がすいたし、ワインも飲み足りなかったので、近くのお初天神にあるサルヴァトーレクオモでピッツァとワインを飲み直して帰宅。

家に着いたらすでに日は変わっていて、さぁ仕事と思ったら、娘がすでに帰宅していて、一緒にお風呂に入り1時間半も浸かりながら恋愛のちょっとした相談を聞いて。
頭がフリーズしそうになったが、気をとりなおして2時から朝6時まで原稿を書く…。

翌日は、1年ぶりにお寿司の宅配をオーダーしてしまった。
(上盛り合わせと赤だし)
夕食を作らなかったので、なんとか翌朝2時半に一旦は仕上がり、それからお風呂のなかで推敲。
朝5時まで手直しをして、
2時間仮眠を。
朝11時になんとか提出できたのであった。

その翌日からはいつものペースでの仕事に戻る。
レギュラーでのよくわかる内容である。ほっとするなぁ。新鮮な気分。

これからは、あまり手に負えない内容の仕事を依頼されたら、
やはり慎重に受けなければならないのである。

専門誌での仕事はやっぱり怖い。

今回はいい記事を書く、どころか。終わりまでたどり着けるのかどうか…。それすら危うかった内容。
そんな綱渡りの仕事…はこれからどうしようか。
資料を5本。どうにかネットと本屋で見つけたから参考にして、ある程度のかたちになったが、インタビュー内容と会社案内では、どうにも書けないような。

しかし、シャンソン。
シャンソンはいい。やっぱり。ライブはしびれるなぁ
このライブをきっかけに、もう1回あの頃に戻って、シャンソンに、はまっていきそうな予感。

毎月1日の映画の日に。

2014-07-01 19:57:29 |  本とシネマと音楽と


朝10時から2時間トップインタビューを終えて、それから中央線と御堂筋線を乗り継いで梅田まで戻る。
その足で食事もとらずに、映画館へ向かった。

1日は映画の日。1,100円で映画が観られる、ありがたい日なのだから。
水曜のレディースデーや1日に外出した日は、できるだけ映画館に足を向けるようにしている(昨年あたりからね)。

今日観たのは、テアトル梅田で上映されていた「ブルージャスミン」。
ウッディ・アレン監督の思惑に期待して。
会場につくや、箕面の地ビール×ベーグルを購入し
いつもの真っ赤なビロードのシートに座って、予約編を見ながらランチ。
ワクワクする思いで映像をみる。

結果からいうと、先月DVDで観た、「ミッドナイト・イン・パリ」のほうが、
はるかに私好みの映画だったように思う。
最後にいくに従ってどんどんイメージが悪くなり、そのまま救いようのない終わり方で幕を閉じた。
きっと、もうひとひねりあるんじゃないかな、という期待も叶わず、なんともいえない喪失感。そして席を立つ。

でも、帰り路。茶屋町のブティックに立ち寄ったりしながら、あれこれ考えるに
これこそ、アメリカ社会におけるミセスの悲哀なのだ、と思えてくる。
自立した女性とは何か?女性の幸せって一体何だろう、その答えをおのおのに、問いかけられている映画だった。
あなたならどんな台本にし、どんな人生を歩むことが、一番しっくりくるのか、
というのがこの作品のテーマなのだ。そんな想いとともに、
夏のキラキラした都会の街と雑踏のなかを、お気に入りの日傘をさして歩く。


先週の金曜日に観た、「グランド・ブダペスト・ホテル」(ウェス・アンダーソン監督)は、それに加えても刺激的な作品だったなとふと想い返した。


舞台は、リトアニアとしていたのは違ったみたいで、
「グランド・ブダペスト・ホテル」は、ヨーロッパのハンガリー共和国のひとつ、ズブロフカ共和国にある。もちろん、架空の国。
時代は、1910年~1930年である。






ミステリー仕立ての作品なのだが、
映像そのものがしっとりとして、艶感にあふれて、そのうえコミカル。独特の世界感だった。
その昔、ウォン・カーウァイ監督の、「恋する惑星」とか「欲望の翼」を観たときのような(全く別の次元のものだが)驚きがあった。


どこを切りとっても迫力満点だし、華麗だし、
広告的視点でみても、美しい仕上がり。だけど、ひとつひとに毒がある。
世紀末の古き良きホテルへの憧れや
当時の生活様式への郷愁がちりばめられ、
1幕ごとに、中欧、東欧の悲しく残酷な悲劇の歴史が織り込まれ、
恐怖もはらんで(人がどんどん死ぬので)。
それなのに、目が離せないくらいに美しく幻想的な映像の数かずがスピーディーに展開していく。


ホテルを切り盛りするコンシェルジュの生涯が、描かれている作品なのだが
どこがミステリーなのかといえば、
この優れたコンシェルジュ目立ての上客で賑わっていたホテルの馴染みの顧客、伯爵夫人が殺されるところからミステリーは始まる。犯人は分からない。
遺産として名画が一枚、グスタヴに遺贈されるのだが、これが遺産目当ての殺人容疑へと発展し
コンシェルジュ、グスタヴは、そこからずっと追われる身となるのだ。
1933年、ドイツでヒトラーが政権を握り、不況にあえぎなら、
忍び寄る戦争さえもギャグのように、風刺的に描かれている。
映画の中で、ズブロフカ共和国は、ファシストたちによって、消滅し、そしてコンシェルジュのグスタヴは……というようなストーリー展開。

この作品。ウェス・アンダーソン監督自身は、戦争に絶望しながら、
希望をもって、この時代を生き抜いたある人々へのリスペクトとして、本作を捧げられたのではないか、といわれている。

ふむ。出来れば、もう1度じっくりと観てみたい。
ドイツとイギリス合作というだけあって、
あまりに、残虐なシーンが多かったが
本編のなかに気高さみたいなものは、始終失われなかったのは、さすがヨーロッパ映画。
この作品のコミカルな仕掛けを、もう一度よく観てみたい。

私の目前に座っていた外国人は、エンディングの音楽で
体をくねらせて、ノリノリに踊っていらした(上半身だけで)。最後のご機嫌のハンガリー音楽がまた良かった。


映画を観た後で、

いつものニュータウンの街に到着する。
暑いなぁーと「もう夏じゃないの」と思いながら、1人でとぼとぼと歩いていると、いつもの道路脇にある大きな銀杏の木の下で、
突然、セミが鳴き始めた!えっ!セミだ。と耳を疑う。
ハッとした想いで、目の前の街路樹の緑に慌てて目をやると、


いつもの緑の色が、したたるような濃さに変わっていて、
ふっくらとして丸みをもって、私の目前に差し出されていた。
キラキラ、クルクルとした明るい色の緑。
それは紛れもなく夏のはじまり。

まさに、生まれたばかりの夏といった感じ。

いつも見おろす高速道路といえば、もやっとしたなかでやっぱり煌めいていて、わーとびっくりした。


仕事へ行って映画館へ入って、ビールを飲んでいる間に「夏になっちゃったんだわ」。

夏の訪れは毎年のように、こうして驚くことになる。
部屋に帰ってもやはりそうだった。夏の部屋の色に変わっていた。
今朝とは全く違うじゃないの。
梅雨空けは確かまだ、だよね。これから祇園祭だもの。
でも、なんだか不意うちみたいで、うれしい夏が今年もやってくる!

雨にとじこめられた一日も、なんだかとてもホッとするのだけど。
夏の雨もきれい。
神戸森林植物園であじさいは、緑の海の中に浮かんでいるのかな。
紫陽花の森も、もうそろそろおしまいだろう。




12月の神戸。映画(ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート)とランチとショッピングと(1)

2013-12-16 22:49:49 |  本とシネマと音楽と

先日、娘のNがつけたTVをなにげなくみていたら、
「孤独な人ほどお風呂の時間が長い」というのがあった。

「あ~よかった、私は孤独じゃないわ」とN。
「……」(私)

人は、本来、孤独なるものだと信じている。
それに孤独は人生を愉しく生きるためには、必要。
孤独は時に愉しい。
そう無論、愉しいけれど、時にやるせないのも真実である。

12月。凍るほどに寒い晩ほど、冬のイルミネーションは美しい。今日のように。
夜空がキレイ。
星座が青白く光って、宝石みたいだ。


先週、「ニューヨーク・ 魔法のデパート」というドキュメンタリー映画を、ちょっぴり孤独な女ふたりで観にいってきた。




生鮮食品も雑貨も扱わず、人が憧れてやまないファッションだけを追求する創業112年のデパート。
オールド・アメリカな回顧シーンが、特にステキだった。

それは、ニューヨーク5番街のバーグドルフ最上階に暮らすオーナーの朝のシーンだったり、
オノヨーコがトランク何杯もの毛皮を、お買い上げするエピソードだったり、
バーグドルフ1の販売員の志であったり。アルマーニの含蓄のセリフだったり。
日本のデパートでよくみるような、
石橋を叩いて叩いて渡る販売戦略会議の壮絶感漂う絵などは、
ひとつも映されなかった(そこがアメリカという国)
ちょっぴり出来すぎたドラマだけどむしろ、爽快!!

良いものは良いと。一流のものが必ず人々の心を溶かすのだと、一点の曇りもなくそう言い切るところがさすが!!
バーグドルフには、2号店3号店がないのだ。
だからターゲットは世界中の上顧客になる。

本音をいえば、もう少しだけこのデパートを支える舞台裏(の人々)を見せてほしかった。




映画を観たあとで、洋食「ラミ (L'Ami)」でランチをした。
(私は、コロッケ定食。お友達は、シチューオムレツを)。



「ラミ (L'Ami)」は私が好きな洋食店。

訪れたのはきまっていつも夜だった。それも夏の夜が多かった。

生ハムとサーモンの盛り合せ(892円)、明石鯛のカルパッチョ(945円)、
カニクリームコロッケ、牛フィレカツレツ(1785円)、舌シチュー(2100円)がとてもおいしい!

昼の「ラミ (L'Ami)」は、夜とは雰囲気が違っていて、サラリーマンやOLで行列ができ、
慌ただしい店になっていたが。
本来は旧オリエンタルホテルの老シェフが厨房にいて「気軽だけど、本当の洋食を食べさせる」。
値段も比較的手軽だし、家庭的なところが好きだ。(スヌーピーのぬいぐるみがいろんな所においてある)



このあと、香港スイーツの「甜蜜蜜」でお茶をして、(写真は鉄観音とココナッツダンゴ)



冬の居留地(大丸神戸店から南、洋館が建ち並ぶ海側の街)をぷらぷら。


お友達はさっそく、「VIVIENNE TAM」( ヴィヴィアンタム)で最新ワンピをお買い上げしていた。
私たちは、その前にバーニーズニューヨークを見て、
「VIVIENNE TAM」でコートを着て、ワンピースを着て、レザーのバッグも持って鏡にうつしてみた。
冬の都会は愉しい。特にお買い物がいちばん愉しい季節だ。

そうやって、冬の神戸を愉しんだあと、別れ際に。
さりげなくこちらを手渡してくれた。
「プレゼント」と。
オトナだね。ありがとうございます!!(中身は西宮甲陽園・ツマガリの「グリオットロワイヤルケーキと焼菓子の詰め合わせ」)




師走のハードワークのなかの、ひとときの至福!

今週末でいよいよ、仕事が終わる。
今年はいつもの年よりヒマな12月だ。それじゃあ、いつもの年より、より気合いをいれて掃除しなければ。
修行僧のように掃除してみたい。音楽もかけず、ただ黙々と整理して。空間を磨く。
何にもないキレイな部屋で、クリスマスとお正月を迎えよう。それが目標!


「かぐや姫の物語」の試写会を観て。

2013-11-09 20:56:45 |  本とシネマと音楽と
かぐや姫の物語 予告




昨晩。とあるクライアントさんからチケットを譲り受け、
スタジオジブリ高畑勲監督の、もしかしたら最終章となるかもしれない
「かぐや姫の物語」の完成試写会に行ってきました。

まさか、「かぐや姫」で泣くナンテ映画を観るまでは想像しなかった。
周囲でもおそらく、大勢の大人のマスコミ関係者が泣いていました。
誰ひとり飲食する人もおらず、スゴイものを観せてもらったー!という独特の雰囲気。

日本の古典(竹取物語)を完全に描いていました。
草と虫、花に象徴される日本の、そして地球の豊かさと親の愛、
自分の生を活きることの善良さと愚かさ、そのすべての意味を問う大作。

アニメなのに、実写以上の臨場感というか、日本古来の美しさみたいなものが描かれ、
最後は、絵と音の世界に完全に入ってしまっていました。
普段は忘れている私たち日本人の古里みたいなものに出会った気、すらする。

(高畑勲さんと宮崎勲さんは、「いつか日本を舞台にハイジ(アルプスの少女ハイジ)を作りたい」と語り合って、40年越しの思いが実ったというのですが)


月からやって来たかぐや姫が
実は、私たち自身を語っている物語だなんて誰が思う!? 
私はこの映画は「風立ちぬ」の第二章だと思います。

二階堂和美さん「いのちの記憶」の唄声、
そして母親役の、あまちゃんが記憶に新しい宮本信子さんの温かさと気品の感じられるセリフ(声の素敵さ)にもジーンときた作品。
あー、せめて1月に1本は映画を観なきゃあ、と思いましたね。ありがとうございました。



車でシネマへ行きましょう

2013-07-03 23:28:11 |  本とシネマと音楽と


日々の営みのなかで、溺れそうになったらどこに脱出しますか?

時々だが、ほんとうに時々なのだが。日々の営みのなかに、自分を見失いそうになることがある。
目の前の、生きるために、やらねばならないコトに向き合ってばかりいると、
時々、どこかに行ってしまいたくなる。
でも、だからといってすぐ旅の準備をできるほど、身軽な身の上でもないのだ。

そんな時、どこに行く?
(私の場合には、ウインドーショッピングをして気が晴れるタイプの人間でははい)。

電車に揺られて、美術館へも時々でかけた。一人美術館は、愉しい。
ひとりの画家が生きた見知らぬ国、生活、その人の見た風景、視点をゆっくりと
追いかけるうちに、心が洗われた。
でも、わたしは今、なら「シネマ」に出掛けるだろう。
友達と誘い合っていくシネマもいいけど、衝動的に出掛ける「シネマ」というのも、
とても贅沢なものがある。

先日、近所のミニシアター系の映画館で「マリーゴールドホテルで会いましょう」という映画をみた。





決めてから20分で準備して出掛けたので、普段着に近いスタイルで「車」に乗って出掛けた。
チケット売り場で、本当ならビールとポップコーン(塩味)を買うところを、この日はコーヒーで辛抱する。
映画はインドを舞台に紡がれた、イギリス人男女7人の物語だ。
男女といっても若い男女ではない。50代後半から70代の、人生の終末期を前にした男女。
熟年世代へのエールといってもいいかもしれない。

車とバイク、オートリキシャ(日本のオート三輪に似たようなもの)、自転車などの乗り物の洪水。騒音。
大勢の人の波。泥色の河。砂ぼこりの舞い上がる中の雄大な自然。最もエキサイティングな熱帯都市・
インドという舞台設定がおもしろかった。

7人は夫を亡くして初めての一人暮らしを決意したイヴリンを筆頭に、
皆それぞれの日常の混乱を抱えていた。
(イヴリンは40年間連れ添った夫に頼りきっていたため、多額の負債があることも知らず、
返済のために家を売り、一緒に暮らそうという息子の誘いを断り、インドへやってきた。
長年連れ添ったある夫婦の心はすでに別々の心でインドへ。持病の治療のために訪れたキャリアの老婆も)

そんな彼らを迎えてくれたのはインドの高級リゾートホテルとは名ばかりの、衝撃的な異文化の洗礼である。
カルチャーショックに襲われながらも、パワーに満ち溢れた国インドの風に背中を押され、
新しい世界に踏み込み、人生が 変わり始める7人の姿が描かれる。

「インドは、人の感覚、それまで当然だと思ってきたことのすべてを常に攻撃してくる」
「あらゆるコントラストを提示し、あなたを変えてしまう国です。時にスリリング、
時に魅惑的、そしてショッキング。 溢れる生命に満ちています」

という言葉に、インドという国の魅力がすべて込められている。
画面から溢れだしてくる熱い風のパワー、生きる人の笑顔、笑顔、笑顔。滴る花の色。
大きすぎる自然の姿に圧倒される。

この映画の根底に流れていたのは、自分の人生を変え、新しい何かと出会うのに、
遅すぎるということはないというメッセージである。
最後のセリフが衝撃だった。

「もう年だと諦めてしまうことがある。本当の失敗とはやらないないでおくこと」。
「朝起きたら毎日を懸命に生きる。それでいい」。

シネマというのは、一冊の本を読みおえたほどの爽快感と疲れと、満ち足りた気持ちを運んできてくれる。
帰宅したら自分の骨格がまっすぐになったような気がした。
せっかく近所のミニシアター系の会員になっているのだし、もっとせっせと足を運ばなきゃね。

そういえば、ゴールデンウィークは毎日連ちゃんで5本のシネマをおうちで観た。
おうちシネマも、積極的に続けたい…。





マイア・ヒラサワの音楽はハッピー!

2012-09-24 23:15:02 |  本とシネマと音楽と

秋の散歩は愉しい。
あたりからは、薫りのよい風が吹くし、
太陽の日差しだって
草木や自然の虫たちのために注いでいるような気がするから。

ウォーキングがご機嫌の理由の一つには、このところ音楽と一緒だから、
というのもあるのかもしれない。

マイア・ヒラサワの「ウィ・ガット・イット」というアルバムは、
アンデルの最近の、お気に入り。

九州新幹線開通のCM でお馴染みの「ブーン!」は、ご存じの人も多いのではないかしら。

「South Again」は、希望とか、インスピレーションを感じる一曲。
「I Woke up」もスキップして一緒に唱い出したくなる。

アルバム全体は、30分で全10曲と短めなのだけど、
なんといっても、ハッピーな気分満載!なのだ。

先日あるテレビを観ていたら、憂鬱な気分を吹き飛ばす手段として「上(空)をみながら歩く」というのが紹介されていたが、まさしくそれ!

人間の心理として下を向くより、上を向いたほうが、俄然気分は上向きになるようだ。

上をみたら、きれいな雲や高い空が
広がっているもの。
小さなこだわりも、解き放たれる。

今日はご近所さんから、「日曜日にバッテリーが上がった車を、ケーブルで繋いでもらって大変助かった」という理由で、お菓子まで頂戴した。
ショータニの姉妹ブランド・菓響から「和の香」シリーズ。

深煎りきなこや和三盆がまぶしてある、和風クッキーで、紅茶とよく合う。

「ガトーフェスタハラダ」のラスク
も、
ここのところお気に入りのおやつで、よく仕事の合間によく食べる。

サクッとした軽さと、甘さがスーと消える感じが素敵である。