月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

やちむん通りから琉球古民家の「ぬちがふう」(4)

2021-05-05 00:58:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

 



  

 再び、那覇。猥雑でノスタルジックな沖縄へ帰ってきた。三月とは思えないギラつく日差し。青い空、入道雲に導かれて歩く。壷屋やちむん通り、器屋さんの店の前にやってくると、ベンチのうえに荷物をおいて、手ぶらで店内へ入る。手にとって、自分の眼のあたりまでもっていき、器のお尻の佇まいや色合いや口をつけるところの厚さや滑らかさ、などをみる。

 ふむふむ、なかなか。個性的なものがほしい。沖縄の母さんみたいに温かくて、まるっこい、けれど自然を写した色がいい。お目当ての品をみつけるのはとてもむずかしく、楽しい。






 
 


 ガジュマルの木や、ハイビスカスやブーゲンビリアが、ぶどうのようにたれ下がった家々や。民家の佇まいが、映画的でうっとりする。

 お腹が空いたので、器の店のオーナーに聞いて、ランチは琉球料理「ぬちがふう(命果報)」へ。

 





 琉球の瓦に国有文化財に指定されている、新垣住宅の古民家だ。玄関口では猫が、お昼寝中。暖簾をくぐれば、もうそこは、ゆるると沖縄時間。

 お座敷へ上がって見渡す。客人はわたしたちの他に一組。 

 親戚のおばあちゃん家で寛ぐような、懐かしい風が部屋の中をぬけていた。やさしそうな、沖縄ことばで、オーダーを聞いてくださった。

 

 わたしは、ぬちがふう御膳。Nは『ソーキそばセット』で。

 




 ここでも沖縄料理を食べ続ける。飽きない。沖縄天ぷら、ゴーヤチャンプル、きびまる豚のソーキ、三枚肉の煮付け、もづく酢、こんぶの煮付け、黒米いりのごはん。デザートにはちんすこうのアイス付き。ここの味は、素材本位の薄味で、おいしかった。

 

 植物園のような庭のむこうには、やちむんを焼く、登り窯もみえるそう。再び、器を探して歩く。汗がつーっ!と肌をつたう。琉球らいしお茶碗などを購入し、タクシーを飛ばして那覇空港まで。

 







 弾丸の沖縄旅は、これにておしまい、おしまい。Nと別れて、手を振る。わたしは伊丹、あの人は羽田。また夏の終わりにでも、この島を旅してみたい!

 

 


3月の沖縄 グラスボートで海中へ (3)

2021-05-04 00:02:47 | どこかへ行きたい(日本)
 
 
 


 

 

 日差しの強さで目が覚めた。ベッドの下に投げたままにしていたiPhoneを拾ってみると七時半だ。飛び起きて、窓の近くに立つ。カーテンは閉めていないので、空も海も、きれいな水色をしているのがよくわかった。きょうも、波は穏やかに、打ち寄せて、ひく。ざーっ。ざーっ。

 

  朝食レストランは、数十年前に訪れた時と同じだった。あの頃は熱帯の植物を多く置き、バリのリゾートのように、砂地とフローリングの場所があって、ビーチから草履のままでレストランに入れたように記憶している。(たぶん……)。

 わたしたちは、海に近いオープンテラス席を選ぶ。

 






 

 

 コロナ禍なのでビニール手袋をしての、ビッフェ。

 マンゴーや、シークワーサーのジュースがおいしい。海藻のサラダ、種々のチーズにはハチミツを。オムレツや、トマトのひよこ豆煮や。普段は加工されたものはあまり食べないのだが、ハム、サーモン、ポテト料理も皿にたっぷり盛り付けて。海沿いの席で、コーヒーをのみ、六〇分近く、心地よい朝の時間を過ごす。

 若いカップルの姿がやはり多い。女性が黙っているところは、男性もうつろ眼で携帯をみている。昨晩のレストランは、ご年配の夫婦が多かったがもう済まされたのだろうか。

 食事のあと、着替えて海中公園まで散歩した。

 プールには、日よけ用の布パラソルが出ていた。木戸を押して、砂浜へ出る。昨日、Nが踊った場所。海中公園までは、ホテルの送迎カートもあったが、私たちは歩いて日差しの中を歩いていく。途中、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲くところがある。植物と海が調和している。

  

 

 三月の沖縄は、みずみずしく、清らか。眠りから覚めたみたいに美しい。

 海の色がほんとうにエネラルドに耀いている。私たちは、クジラ型のグラス低ボートで、漕ぎ出した。海からホテル全景をみる。室内から望めばとても穏やかにみえるのに、波の中にいると躍動感いっぱい。光が、きれきら遊ぶ。ボートが水面を撥ね、真っ白な波がソーダーのようにどんどん大きくなって泡立つ。黒い小さな魚の群れ。餌付け。グラスボードから海中をみる。

 「あれがカクレクマノミ」「ポニョですね」「あ、尾びれまで瑠璃色のは、ルリスズメダイです」「サンゴに隠れているでしょ、あれ、ハナグロチョウチョウイオ」。スタッフが教えてくれる。

 サンゴ礁は魚たちの母だ。とても多くの魚を隠している。

 

 









(餌付けをすると、魚たちが群れてきます)↑ 

 

 ホテルに帰って、プールサイドのデッキで、しばらく読書をした。昨晩、サックスの演奏が行われた場所だ。ゴールデンウィークには、こうは、のんびりといかないだろう。ホテルのショップをのぞく。焼き物がいっぱい。読谷村には車がないからいけない。けれど……。「そうだ! 帰りに壷屋やちむん通りを歩いてみよう」と決めた。

 










 


 ブセナテラスの夜 (2)

2021-05-01 11:17:00 | どこかへ行きたい(日本)
 
 
 

 

 ブセナテラスのロビーに立ち、風の匂いを嗅ぐと、ああ沖縄と思う。オープンエアになったテラスの空間には外に張り出す籐の椅子。そこでチェックインした。

 一日中。このロビーで宿泊客が出入りする人を眺めていたり、本を読んだり、花々の咲き乱れる先にある海の水平線や、空の色を感じながら、時間の過ぎるのを、ただ受け止めていられたらどんなに贅沢だろうと、すでに考えている。

 とるにたらない願望だ。館内を歩き出した瞬間から、そうわかった。外の回路や廊下、エレベーターを降りた窓外、ショップなど。どこへ行っても、ロビーからの海へのプロローグは目と耳と感覚の中に引き継がれていくから。

 

 ずっと忘れていた、と気付いた。こんな時間だ。ずっと昔、オーストラリアの小さな港町、ポートダグラスからグレートバリアリーフを見に行った時の、肌感覚や、ベトナムのダナン、なんて思い出していた。海の自然のよさは、波Soundの静けさだ。







 
 


 


 

 

 部屋の中も、お風呂のバスタブでも、寄せては来る波のしじまが聞こえていた。本島では桜が開花したばかりというのに、水着に着替え、これから泳ぎに行こうとしている、そのことに心踊らされる。ロッカールームで着替えて、裸足の脚で屋内プールへ!急ごう! 





 


 プールの窓は、すべて開け放たれ、屋外プールと砂浜の気分を残したまま、泳ぎを堪能できた。

 すいすーい。すいすーい。かえる泳ぎと背泳ぎ。プールサイドでは、パソコンを広げてオンラインの映像を視ている人、子どもを遊ばせているパパさん、マスク姿で寝そべっている人もいた。

 

 プールから上がり、大浴場で汗を流す。再び、屋外のプールサイドに出る。と人の息遣いで奏でる憂鬱な金属音が。

 

たった一人、俯いてサックスを吹いていた。黒人でないのに、ブルースを奏でる男の子にも思えるそんな悲しい、身をよじる吹き方だった。プールサイドから仰ぎ見る、各部屋にあるテラスにむかって。コロナ渦で、宿泊客も少ないのに。ハワイのハレクラニ、オーキッドのフラと生演奏の陽気さを彷彿しながら、聴く。

 
 

 海岸まで出て、夕日を見た。Nがジャンプして、砂浜、海で遊びはじめて、裸足でダンスする。「撮って」「撮ってよ!」日が沈むまでの二〇分、沖縄の海風と戯れた。サックスの中で踊る。

 











 

夕ご飯は、日本食レストランで、泡盛ともに郷土料理や天ぷらやお刺身など土地の味を。

 

「牧志公設市場、面積が縮小されていたし、市場の活気も薄れて寂しかったです」

「ああ、市場ね。近くに住んでいます。何回か移転し、そのたび狭くなりました。けれど私たちにとっては居酒屋であり、遊び場、集いの場所。変わりません。観光客が大切だから地元民はもっと遠慮してと言われちゃうんですけどね」

 柔やかなスタッフと会話する。

 

 






 

 

 いま、夜の一二時。

 テラスに出て波の音を聴きながら、ポメラを叩いている。耳に聞こえる、多種類のかえるの鳴き声。あちらから、こちらからの鳥の声。ヒューヒュー、ざざー。そして、いつの時も波の音が耳に浸みついている。

 打ち寄せる波の音より、大きな声でかえるが鳴いているのが面白い。薄い暗色の海から見えていない波が、打ち寄せる。向こう岸には小さな灯りが、ひとつ、ふたつ。ひときわ明るい灯りも。船灯りもある。

 こういう時間を忘れていたなぁと思う。

 マスクが、肌と一体化しそうな日々。閉塞し、不安定で、いろいろなものを無くしそうな家での日々も、仕事も、なにもかも忘れそうだ。

 海のむこう、どこまでもどこまでも遠く続いて、延びて、届かないのがいいのだ。

 

 

 

 


2021年3月のおきなわ弾丸(1)

2021-04-29 14:49:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

3月25日(木曜日)晴れ

 



 

 機上にいる。いつものANAクラシックを聴いている。大阪・伊丹空港から那覇空港までの飛行時間は2時間15分。搭乗率70%以上。小学校は今日から春休みだから観光客が少し戻ってきたようだ。ふぅわ、ふぅわと、飛ぶように揺れ(まさにそれ!)雲上に顔を出し、さらに高度をあげる。強く、明るい日差しを強烈に受ける。すると地上での靄々(もやもや)はすべて飛ぶ。この世での役目を終えて、魂だけになって空へのぼっていく時も、そうだろうかと思っていた。

 

「翼の王国」3月号、吉田修一氏のエッセイ「空の冒険」が最終回だった。足かけ15年、らしい。(通路席だったので客室乗務員が行ったり来たりしていたが)感慨深く、活字が滲んでみえず涙が止まらなかった。本で顔を隠しながら、目を閉じて、客室乗務員がサービスしてくれたホットコーヒーをいま飲んでいる。

 

 心地よく集中しているうちに、あ!と衝撃。

 ゴ、ゴーンと力強くお尻を突き上げられて、着陸した。大阪から那覇空港までの所要時間は機内アナウンスとぴったりの2時間15分だった。

 

 



 

 

 Nは、羽田空港から飛行機に乗り、先に着いていた。免税ショップ近く、魚だらけの水槽の前で待ち合わせする。たったの1週間、離れていただけでも会うときは他人っぽく、涼しげな顔で登場するのがこの人だ。免税ショップで、ゲランの化粧水、ランコムの日焼け止め下地乳液を予約し、ゆらレール乗り場へ。国際通りの近く「県庁前」までいく。

 



  5年前、取材の折に立ち寄った「ゆうなんぎい」(沖縄料理)へ入る。Nもよく行く、という。道路側まで人が並ぶほどの人気店である。

 あの日は、2日間の取材を終え、ほっと安堵しながら開放感ひとしおで沖縄料理を肴に泡盛をどんどん飲み、ご機嫌だったことを思い出す。

 奥に深く薄暗いうなぎの寝床。座敷では髪の薄い父親が娘を前にソーキそばを箸でかきまぜている。私たちはカウンターに座った。

「初めて?これとこれが上手いよ」と女将さんが勧めてくれた。

「ゆうなんぎい定食」B定食(ラフテー、フーチャンプルー、ミミガー、ジーマミー豆腐、クープイリチ、いなむるち、ごはん・お新香のセット)、「沖縄そば」をオーダーした。

 




 

 ジーマミー豆腐がさっぱりとして最高。フーチャンプルーの、フーには和風とソーキのだし汁が溶け、おいしかった。やっぱり旅のスタートは、地産地消の味でなくっちゃ。国際通りをふらふら歩く。途中、民芸の器の店や沖縄の雪塩、琉球ガラスの店などをのぞく。

 



 
 

 濃いブーゲンビリアがたわわに咲く。薄汚れたコンクリート。マッチ箱みたいなビル。灰色になった洗濯物が下がったアパートには、植物が原生のままで大きく成長し、にょきにょきと茂っている。カフェの前では、綿の肌着のままの日に焼けたおじさんが、薄い氷が浮いたアイスコーヒーをうまそうに啜っていた。沖縄なのに台湾の匂いがした。商店街を歩くと、腐った魚の臭いと、南国のフルーツの匂いが入り交じった、煩雑な昼間。まるですっぴんで昼寝をしているような那覇の姿だった。

 

 国際通り沿いの商店街をのぞきながら牧志公設市場の方角へ。楽しみにしていた市場は、5年前にみたあのにぎやかな市場ではなく、人も店も閑散とし、面積も以前の半分以下の、別の市場になっていた。あまりに寂しげなひどい状態で胸がしめつけられた。

 

  気温はすでに3月といえども22度。もはや入道雲が浮かんでいた。ナハテラスで一息。震え上がるほど酸っぱいシークワーサージュースを飲みながら、いまリムジンバスを待っている。

 



 


白一色の田園にポツンと。「出西窯」のギャラリー工房

2021-02-10 19:52:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

1月8日(金曜日)

 

車窓からの雪は、極寒の風に吹きあおられて増え、舞いながらさらに生命が生まれていくよう。やがて一面が雪だらけになった。

 

出雲から松江方面にむかって車を走らせ、斐伊川を越えたら、のどかな田園風景が続いていた。

お目当ての出西窯は、日本家屋風の思いのほか小さな工房だった。「スタッドレスタイヤを履いてはいるが高速道路が立ち往生になるといけないから、早めに切り上げてね」

と、パパさんに念押しをされて、ギャラリーの戸をガラガラーッと横にあける。

 

「用の美」。日常の暮らしの中で育て、惜しみなく使って生かす手仕事の美しさをいう。こういった民芸が好きで、河井寛次郎記念館や大山崎山荘美術館や、東京の日本民芸館など、機会があるたびに訪ねてきた。

 

だから「出西窯」を訪れるのが楽しみでたまらなかった。

(平松洋子さんの出西窯を書いたエッセイをどこかで読んでいたのも影響していると思う)

 

 

 

 

ある書物によると、出西窯の作家たちは安来市出身の河井寛次郎に指導を受け、その繋がりから柳宗悦や濱田庄司、吉田璋也、イギリスの陶芸家バーナード・リーチらと交流し、大いに影響を受け、用の美とはなにかを教わったとされていた。

 

そんなことに思いを馳せて、一階を一周まわり、二階もぐるっとまわって、眼を慣らしてから再び一品一品を丁寧にみた。なるほど想像していたものよりもシンプルな品が多い。作家のネームは書かれていない。それで、出雲の土や色に注目してみた。

手に持って馴染むかどうか、口を付けたときに柔らかい入り方をしているか。色は、かたちは、佇まいは。何をどう料理に使おう。テーブルに盛った時のイメージや料理のことに思いめぐらせるうちに、だんだんと楽しくなってくる。

器とは、ある意味、着物のようだという人がいる。人を、料理を、ひきたたせるという意味なのだろう。絢爛すぎる色は、素材を選ぶ。そういった意味で、最初にまわった時には鮮やかすぎる瑠璃色の器は敬遠しようとしていた。むしろ、白磁や黒に振ったほうがいいと。

 

ただ、家に帰ったらやはりこの「出西ブルー」が恋しくなるのではと思い、灰の色を器の縁のところにめぐらせていた「縁鉄砂呉須釉皿」の7寸とスープボウル、それにブラウンの砂糖壷を購入した。

白の塩壷はもともとBsshopから購入して持っていたので、これでペアが揃ったわけだ。

Nは渋めの黒のモーニングカップを買っていた。






この流れで出西窯と同じ敷地にある、ベーカリー&カフェの「ル・コションドール」へ行く。ここが、とても良かった。コーヒータイムとするには、あまりにも居心地がよく、コーヒーがおいしく、パンを数種購入したほか、ランチやケーキまで頂いた。料理もレベルが高い。大満足!

 

 

 

カウンターからむかって正面(山側)には、大きな窓を借景として、木々や屋根に白雪がふわりふわりと降り積もるさまが存分に臨め、美しい。おまけに、この後Bsshopで黄色とピンクのセーターなどもみた。

 

松江にも立ち寄りたかったし、出雲蕎麦にも惹かれたが今回はこれにて退散。

 

 

いつのまにか、周囲が見えないほどの猛吹雪に。みるみる田園や山が真っ白で、長靴一杯分はゆうに溜まった。

 

大山連山や蒜山高原では、休憩途中に雪投げをする。町のどんな屋根も、花片のような薄雪が軽やかに舞い降りて、やがて重く一面を覆い尽くし、空気ごと白にたちこめていく。

 







 

 


’2021年「出雲大社」吹雪の中のスピリチャルな参拝

2021-02-03 10:10:45 | どこかへ行きたい(日本)
 
 


 

  

1月7日(木曜日)暴風、風雪のち粉雪

 

奥の部屋のエアコンが付きっぱなしになっていたので夜中の3時に起きて消した。それからトイレに行ったり外を見たりとしたせいで寝付かれず、うつらうつらしたところで外が白んできた。

 

あいかわらず風は強い。6時半。

カーテンをあけたら、薄っすらと屋根や電柱に雪が積もり、ゴーゴーと風が吹き荒れ、細い雪が斜めに降っていた。まだまだ強くなりそうだった。参拝ができるのか。だんだん心配になってくる。

 

朝食前にお風呂に立ち寄る。熱い湯に浸かりながらも窓ガラスのむこう、舞う雪ばかりをみていた。竹はあいかわらず揺れまくっていた。

 
 

昨日のダイニングで朝食。白酒の食前酒のあと、おせち風のお膳が並ぶ。だし巻きがおいしかった。

丁寧につくられた食事をゆっくりと時間をかけていただいた。

 

 

9時。外へ出るのを躊躇する大風だったが、勇気を出して「竹野屋旅館」の玄関を出る。

 

 





 

 

正面門まで2分ほどだが、まっすぐ歩けないほどの強風。大丈夫? といいながら皆で身を寄せ合って進む。

 

 



 

鳥居をくぐると、なんと!立ち入り禁止の札にロープがしっかり掛かっている。先に行くな!といわれているよう。

大ショック!

 

せっかく、参拝のために宿を予約したのに。残念で諦めきれない。Nがしきりにネットを検索している。

出雲大社の隣「古代出雲歴史博物」(展示ディスプレイ)の案件を担当したパパさんが、「出雲大社の裏門を知っている」というので、Nと一緒に腕をからませて付いて歩く。が、そこも閉鎖。無理か。諦めかけていたところ、Nが出雲大社の社務所へ電話がつながった「裏の○○からなら入れるそうよ」と。どうやら正面門は松が倒れてきたら危険なので、閉鎖したらしい。

 

ほっと安心して裏へまわる。猛吹雪の中、出雲大社の境内へ。

するとこれが不思議だけれど、風がやんだ。後ろに控える八雲山が盾になってくれているのだろう。そればかりか雲間から光が差し込んでくる。信じられない現象だった。

 

手を洗い、御仮殿(拝殿)に。総檜造りで屋根には銅板を拭く、質素で古式ゆかしき拝殿(昭和34年に建築)。御本社をのぞむ。大社造りとよばれる日本最古の神社建築である。

 

 







 

ただ、そこでおしまい。真後ろの素鵞社(そがのやしろ)まではお目にかかれない。ロープが張られもう先には行けなかった。それで、遠くから、柏手を4つ叩いて参拝。最後に神楽殿までいく。また再び本殿を仰ぎ、出雲大社を後にする。

 




 

出雲大社を司る大国主大神様は、目に見えない世界、そこに働くむすびの御霊力によって人々を導いて下さる神さまだ。

 

小さい頃に父母と参拝した思い出も深いが、私にとってはもうひとつ。2017年の宣伝会議「わたしの広告論」という連載ページで、銅版画家の小松美羽さんのインタビュー原稿を書かせてもらって以来、特別な神社として自分の中に深く刻まれていた。(3年越し)

 

小松さんは、神様の使いとされる神獣の自由闊達な姿ほか、「生死観」をテーマにした独特の画風が特徴の現代アーティストだ。2013年には出雲大社に絵画「新・風土記」を奉納されている。一カ月以上も出雲に滞在されて絵を描き、いろいろな神社をまわるうちに「死生観」が変わったとおっしゃっていた。

「出雲大社の神在祭に正式参拝(2013年)して、お庭まわり(神社参拝)をしていたのですが、突然にパーンと光が差し込んで本殿に当たったのです。それが光の加減なのか何種類もの彩を重ねたような鮮明な彩が私の目に飛び込んできました」。

 

小松さんはそれまで前世や魂が肉体に入るイメージを、ピュアな光を連想させる白で表現されていた。

黒は人間の業を清算する意味合いによって地獄を表す色だと思い、筆を握ってきたそうだが、出雲大社で見た色と光の織りなす不思議な世界にふれた瞬間から、「生きている人の魂や生き方には必ず彩がある。それを表現することがあの世とも繋がるのではないかと考え、ダイナミックな彩を幾重も重ねる着色技術に踏み出すきっかけになった。宇宙とつながった」と仰っていた。

 

 毎日、本殿近くの社に参拝するうちに、とてもスピリチャルな世界を目でみた、とも言われ、わたしは彼女の声を耳で聞いて文字の中に織りながら、真夜中にぞくぞくっとしたことを覚えている。冷蔵庫やダイニングテーブルや背後で、暗闇からみられている気配を感じた。そして、出雲に行ってみたい(子どもの頃はよく覚えていないので)とずっと焦がれてきたのだ。

 小松さんは、それからインドやイスラエルなどの聖地を旅しては宗教を学び、瞑想されたという。

 

出雲大社の門を出ると、再び、激しい雪が舞い始めた。白いきれいな雪だった。青い松が音をたてる。寒さと風を背に受け、押されるようにして参道に行く。土産物屋へ逃げ込む。そこで「立ち往生にならないうちに早く帰りんさったほうがよいですよ」と店のおばちゃん。

お世話になった竹野屋旅館を後に、出西窯まで車を走らせた。

 

 

 


 

 

 

 

 


出雲大社の正門前「竹野屋旅館」へ

2021-01-31 01:55:17 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

 
 


 
 

 

2021年1月6日(木曜日)雪

 

玉造温泉から宍道湖畔をぐるっと通り、橋をわたって出雲にむかった。

灰色の厚い雲の間から、田や畑に光の束が注いでいるのをみる。昨年もみたように。

 

 

出雲大社の門前にある「竹野屋旅館」へ。

 



 

 

車を降りた時から立っていられないほどの大風にあおられ、底冷えする寒さに襲われれ、歩く。ふぅー寒い。山陰の底冷え。ゴー、ゴーとものすごい風。

 

駐車場から宿の玄関まで身を低くして、下をみて風をよけ歩く。

「竹野屋旅館」は、明治10年創業だ。140年の歳月を経て、現在は6代目が家業を継ぐ。竹内まりやさんの実家となり、2016年に彼女自身の手で設備を大幅に、快適にリニューアルされたという。

ここを知ったのは、昨年、Instagramを通して知り合ったイラストレーターのダイモン・ナオさんが宿泊した様子をアップしておられたのが印象に残っていたから。お料理もしつらいも丁寧とあったので一度宿泊してみたかったのだ。

 


 




 

横開きの玄関にはいると、靴をぬいであがる広い畳敷きのロビー。(昭和4年から変わらない)。応接セット風の椅子が配され、障子がずーっと長く続く。欄干や軸など和風建築が心和ませ、うれしくなる。チェックインをする間に、西出窯の器を。

さて、部屋まで行く途中に中庭を横にみながら歩く。石灯籠や盆栽が薄青くラインとアップされており、薄暗い木の廊下を歩いているとまるで寺院の中を歩いているよう。部屋は「すいせん」の間。GO TOキャンペーンの際には特別室の「素鵞の間」を予約していたのだが、今回は諦めた。

 

浴衣に着替えてお風呂へ。

お風呂では客人とは誰一人として出くわさなかった。湯に浸かれば、外は大嵐のよう。竹が折れそうにしなっていた。庭の木々が大きくわっさわさ!と揺れている。2・3分も歩けば、出雲大社がおわす、玄関口である。その不思議よ。

八雲山が迫り、大風がゴーゴーと啼く。和風建築だから木がミシミシ、直に音が伝わる。この、やむことのない風音が何かを告げているようで外に目をやると恐ろしかった。

 

風呂から上がれば、中庭をながめながらの夕食。ダイニングの部屋は竹内まりや&山下達郎のアルバムがずっとエンドレスで掛かっていたのがなんとも微笑ましかった。まあ、嫌いでないアーティストでよかった。

 

 

 とりあえず出雲の純米酒を。Nはイチローズモルト。パパさんは焼酎のお湯割りで前菜を頂戴する。  

 

胡桃豆腐、赤貝白和え、豚の梅香揚げやずわい蟹、さわらやひらまさ、ボタン海老のお造りなどからスタート。のどぐろの塩焼き、出雲蕎麦のサラダ、出雲尼子和牛の銅板焼きなど。

コロナ禍なので、順に運ばれるのではなく、あらかじめお膳に並んだものを自由に頂くスタイル。

お昼のお刺身とはうってかわって新鮮だ。

 

 



 














 

背後の客人のお喋りが、いちいち食事に感動して感嘆の声を上げる(30代くらいのおにいさん)その冗談がいちいち寒く、すごいはしゃぎように、肩をふるわせて笑ってしまう。レストランや満員電車で人の話を聞くのが好きなので、つい耳が後ろにとられそうに。。。

「面白い家族連れだったね」とあとでパパさんにいうと

「風呂で一緒だったが、刺青がすごくて。あなたがくすくす笑うので、なんか言われないかとびくびくしたよ」とのこと。

おそらく、お母さんだろう人の声も聞こえたので、あの方々も家族水入らずで上機嫌だったのだ。よかった。

 

このあと、Nとふたりなら、旅館の中を探検したりバーに立ちより一杯、とはめをはずせるのだが、今回はお堅いパパさんがいるので、なし。寝る前に再びお風呂に入り、12時には就寝となる。布団にはいってもゴーゴーと風がいつまでも啼きつづけていた。明日は雪が降っているだろう。

 

 




 

 

 

 

 


今年も出雲大社に出かけました

2021-01-28 17:51:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

 

 

2021年 1月6日(水曜日)

 

昨年の秋に、思い切って出雲行きを予約していた。

12月、GO TOキャンペーンが中止になったけれど、「出雲大社」の初詣からスタートしたいと、無理なスケジュールにもめげずに、ゴール(結果)をめざしてひたすら後半は頑張ったのだ。出雲の神さまにお礼詣りをしたい、そのためにも頑張らなきゃあというわけで。

 

家族で悩んだあげく、強引に旅を挙行した。

 

8時に自宅を出て車に乗り込む。約3時間あまり山陰道をひた走る。

蒜山高原の途中から雪がちらほら舞いはじめ、次第に粉雪が前からフロントグラスをめがけて飛び込んでくるそんな勢い。遠くにみえる大山は雪帽子をかぶっていた。いつまでも見ていたいほどになだらかな美しい尾根である。

 

 



 

 

そのまま、境港の米子空港をめざして車で行く。

ここで、東京から搭乗してきたNをピックアップ。さて、おいしいお寿司でも食べましょうと、駅前を探した。実はNを待っている間、到着ロビーのANA側インフォメーションで地元のお姉さんに食べ歩きの情報を聞きかじったばかり。「日本海」、「かいがん」「石丸寿司」など、お姉さんが教えてくれた店を訪ねて歩く。パンフにあるおいしそうな店もついでに探した。

 

東京都の緊急事態宣言をうけて、界隈はどこもシャッターをおろしている。明日は数年に一度の大寒波到来で大雪警報発令。

山陰の1月は、雲がたれこめ、よけいにどんよりとしているように感じる。ともかく寒い!

 

駅から歩いて2分のところにある「東○○」さんだけが空いていた。

Googleで調べたら、★が2.9。えっ? 3以上ならまだしも、いやな予感。心臓がドキドキする。あまり積極的には行きたくないなぁ。

躊躇するわたしに、「大丈夫ちゃう?海鮮どんぶりの看板がでているし」「総理大臣賞の店って書いているよ」とおなかをすかした家族がなんとかわたしを説得しようと試みる様子に、まあなんとかなる、と自分を奮い立たせ(!?)、のれんをくぐった。

 

入店すると、昭和40年代のうどん屋さんのような雰囲気。古くからある店には違いないようだが、境港の中で完全に忘れさられているというか、うら寂しい感じだった。

玄関口からみえたテレビが、モノクロでないのが不思議なくらい。

コロナの感染者数が「東京でついに1500人になりました」というようなニュースを報道しているのを、じっと黙って家族でみていた。全員「海鮮どんぶり」を注文し、料理が運ばれてくる前にお手洗いを貸していただいたら、ナントくみとり式であった。

ま、それはいいのだが。小窓のところにおいてある造花の花があまりに色が薄くくすんで、ほこりまでかぶっていたのが、なんとなく気になった。

で、おじさんがお盆にのせて運んでこられたのが、こちら。

 



 

おーー!さざえまでのっているではないか。

一口食べて、うん? ま大丈夫、大丈夫、と言い聞かせて箸をすすめる。誰ひとり感想を口にしない。黙々と下をむいて口に運んでいた。

ごはんは、朝早くに炊いたのか。生ぬるい。いわゆる寿司飯ではない。

 

肝心のお刺身に味がしない。臭いもない? まるでお弁当にのった刺身のようで、変だなと首をひねりながら口に運んでみるのだが、やはり期待していた新鮮な魚の甘みではなく、舌の両サイドに苦みがたまってきて、だんだんツンとした刺激を覚えるようになった。

慌てて煎茶で流し込む。おかしいなぁ、境港でしばらく漁がなかったからだろうか、どういう鮮魚なんだろ……と考え始める。臭みがないので、お腹は壊さないだろうけれど。あまり考えこまず、速度をあげて、一生懸命かき込んだ。

 

最後のネタ、一枚。が、どうしても喉を通らない。

「ねぇ、お魚……が……」とやっと口にしてみたら、「なんか苦いね」とNが即答。やはりそうか。食中毒を防ぐ、あるいは鮮度保持のための処理で、本来の臭いや味がかき消されていたのだろうと思う。魚がのたっと異様な歯触り。

コロナ禍で漁も休み、致し方なかったのだろう。空いている店がここ一件。そんな時期にのこのこ関西から出てくる私たちにも、問題があるわけで。そう言い聞かせて、冷たい風に背中を押されて、水木しげるロードを歩いて車に乗りこんだ。

 







 

宿泊宿に入るまで向かったのは玉造温泉。ここは以前から行ってみたかった。

3歳児頃のわたしが、写真にはニッコリ笑って訪れているのに、本人は全く記憶にない。

母曰く「この勾玉は玉造温泉でお父さんが買ってくれたのよ」「出雲大社の帰りに玉造温泉で一番よい宿をタクシーの運転手に聞いて泊まったらそれがよい旅館で、ごはんがおいしくて……玉造温泉にまた行きたい」というのを何度となく聞いていたから。そんな父母の思い出もたどってみたかった、というわけだ。

 

「日帰り入浴」を予定し、事前に数件の旅館をリストアップしていた。

しかし、どこもノーサンキュー!との返事。コロナ禍だから。日帰りはやってないのだ。

浅い川をはさんで両側に古い旅館が何軒か並んでいた。途中、車を置いて、勾玉の店へ。その名も「めのうやしんぐう」。緑、白、黒のめのうをみる。ぐるぐると3周ばかりまわった。そうして地元のおばちゃんと10分ほど話すと、気持ちがスッーーと満たされた。また、近いうちにここへ来るだろう。そんな予感がした。

また先日母から大ぶりのめのう(50年もの)をもらったばかりなので、新しい宝石を買うのは控えたが、石を沢山みるうちに旅情がわいてきたのだ。おそらく、いや、勾玉パワーなのかも!

 

そうして、宍道湖方面に車を走らせた。



 



 

 

 

 

 

 

 

 


2020年夏旅(5) 朝食後には山荘無量塔のロールケーキを食べに

2020-12-20 09:54:00 | どこかへ行きたい(日本)


 亀の井別荘のもうひとつの楽しみは、朝食である。

ひと風呂あびてから、1階レストラン「螢火園」へ。
















 昨日と同じ席を用意してくれていた。ガラス越しにみた朝の庭も清々しい。

 Nは洋食。わたしは和食をオーダー。おいしかったのは、たっぷり盛られた野菜サラダ。みずみずしい葉の厚み、苦み。ブロッコリーもおくらも、つるむささきのおひたしも、蒸し加減絶妙で、もりもり食べられる。まぐろのお刺身、お漬物なとなど昨日に続いてお腹いっぱい頂いた。Nのオムレツもふわふわで丁寧に焼き上げられており、よかった。

 

 昨日の談話室へ立ち寄って、本のチェック(昨日読んだ本をメモにとる)をし、おみやげものを探しに「鍵屋」に立ち寄る。宿特製の肉のしぐれ煮、柚子胡椒などを買う。

 

 昼1時のバスの時間まで、3時間ある。ということで、山側の由布院温泉山荘「無量塔(むらた)のTan,s Bar へ。タクシーを飛ばす。

 

 林道の途中にある、古民家を再生移築した山荘だ。ここは、建築のもつチカラに圧倒された。












静寧で、強い誇りを秘めた山荘。「再創造」というテーマで、人にエネルギーをあたえる山荘の空間を色濃く醸し出す。

 

 Tan,s Barは、梁の太いロビーの2階をあがってすぐ。

 暖炉と、蓄音機!窓外の緑の庭。重厚感のある調度品と家具。しつらいに気品があり、往年の歌い手でもくつろいでいそうな雰囲気。圧倒的な迫力とくつろぎ感。野生味。けれど都会的でもあり、東北か関東にある別荘というイメージをもった。

 

 ここ自慢のロールケーキ(しっとりとして食べ応えのある秀逸の生クリーム)とお茶でゆっくりと最後の由布院の空気を楽しんだ。無量塔のセレクトショップで、記念にコーヒー茶碗を1客買う。

 

 帰りのタクシーで運転手が私たちに向かって話す。

「7月の豪雨では大被害でした。いまも大分空港からのバスは道が閉鎖されているので不通です。おまけに福岡からの観光鉄道も不通なの。観光客だけじゃないよ。中学や高校の子どもらは、タクシーで学校を行き帰りするしかないの。うちらの商売は忙しくていいんだけど。大分としちゃあ、大変なのね」

  地方に旅するって、良いなぁ。海外では感じられない人情みを覚える会話の中に。

 夏旅は、一年中でいちばんダイナミック。太陽が強く明るく、清澄に満ちている。陰も濃い。

 夏の思い出が、何年も忘れられないという理由が少しわかった気がした。

 

 

 

 

 

 

 


2020年 夏旅 (由布院の朝散歩)(4)

2020-12-19 00:41:00 | どこかへ行きたい(日本)

 

(4)

 

ここは宿というより別荘であった。

 

5時に起きて、部屋の朝風呂。旅先には、「悲しき酒場の唄」カーソン・マッカラーズの本を持参。風呂のなかで1ページから読み始める。これでは家と同じだと、ひとり苦笑、すぐ着替えて朝の散歩へ出かける(Nは寝ている)。

 


 茅葺きの門を出ると、庭を竹箒で掃いている作務衣を着た若い男性と出くわす。亀の井別荘の人だ。「この木は樹齢何年ですか」と部屋から見えるイチョウが気になってつい聞いてしまった。

120年です。こちらの二股に分かれているのは杉。夫婦杉いいます。それでこちらの杉はほら、折れてしまいましたが、かなり樹齢が古いです。神社にありそうな木々が多いでしょう? 昔ここら天祖神社の境内でした」と教えてくれた。それで! わたしは昨晩の蓄音器演奏会といい、食事の時といい、紗に包まれるような安らぎがあったのか、と思い出していた。


由布院はほんの数十年前まで田んぼだらけの片田舎に過ぎなかった。繁盛しているのは別府温泉ばかり。それで滞在型保養地に改革したらどうだろうと考えたキーパーソンが、亀の井別荘の中谷健太朗(会長)ということらしい。

 

宿の名前の由来は?と問うと、「別府温泉の夏の別荘として由布院がスタートしたので、亀の井別荘にしたそうです」という答えだった。

 

 

裏手の湖まで散歩に出る。由布岳の麓とちょうど反対側になる金鱗湖から水が湧いてぽこぽこと泡を吹き出している場所があった。鯉が口をあけて湖の水面際までうきあがってきて餌を探している。

朝ごはんの時間だね。山の正面から少し左手側の街道から、まっすぐ上に視線をあげると白い煙がたなびき、空におびをひろげている。

 

 


 






湖を超えて、街道沿いまで歩こうとすると、昨日にはいなかった、アヒルが湖の渕にある小屋から出て、湖のほうを眺めていた。ぴくりとも動かない。アヒルさん、湖に面した狭い草原の道(約60センチ)でのんびり散歩か。ああ、人間さまは立ち往生だ。

 

私の前を歩いていた5歳くらいの息子と母が「あひるさん、後ろを通りますね〜」とやさしく声かけしたら、聞こえたのか、ちょっと前に出て道を譲り、またジーとしていた。私も、なるほど! と息子と母と同じように、「後ろを通りますね、はい、ごめんなさい」といい、あひるの後ろ側の道を歩かせていただく。あひるは池と由布岳の自然、散策中の観光客たちと共生していた。


美しい光景。神さまがそばにいらっしゃるみたい。清い秩序のなかで、自然も人も、守られていた。

 

ここらのセミは、兵庫のうちの近くに生息するセミのように大げさに泣いたりはしない。静かに、透明な声で、夏の終わりを告げていた。

由布岳と金鱗湖の和音(調和)をたのしみ、喜んでいるように。同じセミに生まれても、どこの土地に生まれて育ち、どこの木に止まって鳴くかは、セミも一生にとって大きく違うのかもしれない。環境は大切だ、と思う。

 

宿に戻り、また話す。「アヒルがいました。湖を見ていました」「ええ、毎朝います。ここらでは有名なアヒルです」。アヒルを地元の人が見守っているのだ。


部屋に戻り、ふたたび湯に浸かった。

 

 



 

 

 


2020年夏旅(3) 亀の井別荘 7人だけの演奏会

2020-12-18 00:19:00 | どこかへ行きたい(日本)

(3)

 

 




 

約2時間の食事を終えて、すっかりいい気分だ。9時。いよいよ楽しみの時間がやってきた。

 

談話室へ行くには、ロビーをぬけて外に通じるドアをあけ、夏の夜の庭へ出る。ここからは、離れの棟だ。アジアンリゾートのヴィラのように、庭の中に離れが9室、障子から灯りが漏れている。

 

「外廊下には、角、角にゾウの置物を置いていますので、こちらのまっすぐの道を辿っていくと談話室。左手にいかれて、ゾウの置物を辿っていかれますと浴場でございます」と教わったとおりに、レンガのゾウを4体ほど辿っていくと、レンガ造りの建物が現れる。

扉を外にひくと、2階建ての本のギャラリー(談話室)なのだ。 








 

目をひくのは、昭和10年製の「蓄音機(キング)。

そして、背の高いハシゴ付きの書庫。レパートリーが圧巻である。新刊など一冊たりともない。ヨーロッパやアメリカ、日本の往年の作家たちの初版がズラリとある。まるで作家の書斎のように。珈琲・紅茶は自由にいただけるようになっていた。 

そう、ここは大人の談話室なのだ。


「お好きな曲をリクエストなさってください」人のよさそうなホテルの方がニコニコ笑っていう。

流れていたのは、リストのラ・カンパネラ。続いてショパンのボロネーズ変ホ短調OP26−2
 


電気式にはない、くぐもった強い音質。これが蓄音器の音。遠い過去からふってくるような語りかける音色だ。デジタルの金属音にはない、やわらかい繊細さがあった。1曲終われば、1曲を裏返して聴くSP盤。また1曲終われば、新しいレコード針のビニールを破って、新針をわざわざ取り出してかけてくれた。

 

私はまず、ドビッシーのアラベスク第1番、第2番をリクエストした。
うちで聞くCDとは別格の、歌いあげるような昭和なドビッシーが流れていた。
 
次は、レストランで会った眼鏡をかけた男女のご夫婦が、ヘンデルの「ラルゴ」をリクエスト。う、うんという咳払い。

 

浴衣姿の客人をよく見ると、レストランでお見かけした二組。赤い眼鏡をかけた教師風の女性は40歳半ばくらいだろう。ご主人も眼鏡をかけ地方教授のよう、同じ空気を纏って、浴衣の裾から出た下駄の脚でリズムをとっていらした。もう一人は、中央の応接椅子に堂々とした貫禄で座る中年紳士。レストランでは赤ワインをボトルで注文されていて、おとなしそうな妻をリードする健啖家だろう、と想像を膨らませて遠くからみた。

 

音があれだけ響いているのに、静けさがあった。本物の古典(クラシック)を聴いている。

 

プッチーニの「ある晴れた日に」「浄く死せよ」(蝶々夫人)をリクエストしたら、窓ガラスが割れそうな甲高いソプラノ、迫力がすごい。

バッハの無伴奏チェロ 組曲 第3番ハ長調。クライスラーの「ウィーン奇相曲」と続く。くぐもった強い音。遠い過去から降ってくる旋律だ。


「最後の曲です」との呼びかけに宿の主人の推薦曲を、と私と娘はリクエストした。

長いタメのあと、レコード針を今度は〝竹針〟に替えて、バッハの「無演奏チェロ組曲、第3番ハ長調」が溢れ出した。またひとつ音の原風景に近づく。

余韻が談話室に波となって響きわたり、ふるさとにかえってきたような安らぎが私の中に陰翳を刻んでいく。忘れ得ない時間。


本と音楽だけに包まれた時間だった。
高い三角屋根の天井の窓ガラスには由布岳がのぞいている。


このあと、まっすぐ部屋には行かないで、お風呂に。浸かった由布院の湯もやさしい。外と内が区分だれていないので、セミが風呂場に迷い込んできてジージーといいながら湯の近くで、水を飲みに来たのだろか。いつまでも浸かっていられる軽い泉質。


11時半に部屋に戻り、そのまま日記も書かずに白いリネンにくるまって休んだ。







 


2020年夏旅 由布院 亀の井別荘に(2)

2020-12-17 00:40:26 | どこかへ行きたい(日本)

 

 (2)

 

15時になったので宿にチェックインする。

冷房が効いて、湖の深いところにいるように静かなロビー。宿帳を記載し、美しい寒天菓子と煎茶をいただく。鼈甲玉(べっこうぎょく)というこの宿のオリジナルなお菓子。透明が柚子、黒いのが黒糖だ。

 

 


 

ご主人が挨拶にきてくれた。若く、威張らない腰の低い方。な、なんて丁寧な。部屋は本館の2階で、ベッドのある部屋には机と、座卓がある。小さな畳の間も。洋室だが木のしつらいで、和める。洗面所をあければ、すぐ湯量の豊富な源泉掛け流しの檜のお風呂で、由布院岳からの透明な湯が蛇口から、どうどうとあふれている。

風呂場からも部屋からも、いちょうの木がすぐそこまで来ていた。

 




私とNは金鱗湖のまわりを散歩することに。

亀の井別荘の、天井桟敷と鍵屋(みやげもの屋)が入る「亀の井ガーデン」、お蕎麦を食べた「湯の岳庵」のすぐ裏手に。

 

由布岳は、なだらかでおっとりしている、杉が多い。金鱗湖に陰翳を写し、青々とした水彩のように平か。

湖にはオレンジや黒の鯉がたくさんいて、グレーの稚魚が口をぱくぱくさせて餌を欲しがっていた。ティラピア(外来種)もいる。




天祖神社へ参拝した。夕方のせいか、陰が深く、神さまがおわします暗く荘厳な雰囲気。わたしとNは手をあわせ、無事、由布院についたお礼と、2020年の抱負を述べた。

 

それから十勝そば湯川、ぬるかわ温泉など、田舎風情の景色を歩き、亀の井別荘まで。時間にして約40分。浴衣に着替えて、丹前を羽織り、楽しみにしていた談話室をちらり除いて、珈琲で一服……と。

 

扉を引くと、ハシゴ付きの壁一面の書庫だ。想像以上、往年の作家たちの初版がずらり。

一冊の本(円地文子 旅の小説集)を手にとり、ここにすごく籠りたい気持ちを抑えて、後ろ髪ひかれながらお風呂へ。

 


 

泉質は、やわらかく、湯あたりしそうにない。由布岳からの山水をそのまま沸かしたような清純な湯。しかも、庭園の真ん中にぽかんと鎮座し、半円になった透明ガラスからも亀の井別荘の青々とした芝の庭が望め、これまたよかった。

 

風呂上がり、浴衣を着て、Nと1階のレストラン「螢火園」へ下りる。

客人は最初、私たちだけだったが途中で金婚式のご夫婦、40代くらいのご夫婦(旦那様がワインがお好き)、福岡からバスで来た眼鏡の素朴な奥様とインテリ風の旦那様の4組が15分刻みで揃う。白いテーブルクロスの席はソーシャルディスタンスもしっかり!窓からは、美しい松の庭がみえ、ブルーライトの灯りが海のように映っている。

 

この日は辛口の日本酒を1合、お願いする。

「葉月の献立」だ。

・車海老 春巻 花オクラの天ぷら

・豆とアスパラ、白和え

・地元フルーツトマトをつかったジュレ掛け

・季節の造り(イカと鯛)

・甘鯛 清汁仕立て





・若鮎 酒塩焼き





・万願寺と茄子 鼈甲餡かけ

・おおいた和牛 炭火焼き

・かきあげそば

・ご飯 おとも香の物(ゴーヤの漬物がおいしい)






・かぼすのゼリーなど デザート (お茶)

 

 

「風の畑から供する」。これが宿の食テーマという。奇をてらわない素材本位の味つけ。炭火で焼いたおおいた和牛(ぶんご牛肉の4等級以上を使うとか)は歯をたてれば柔肌のように崩れおち、肉質は濃く、乳の匂いが微かにした。特に天ぷらと、万願寺と茄子 鼈甲餡かけのお出汁のひき方が、ホッとしてよかった。シンプル、がいいのだ。

 夜は「BAR山猫」で夏のカクテルでも、と考えていたが、冷酒がおいしかったので、もう酒はよい。満足してしまっていた。ひたすらに21時からの談話室が楽しみである。

 




 

 


2020年の夏旅 大分・由布院 (備忘録) <1>

2020-12-15 22:56:49 | どこかへ行きたい(日本)

 

 

 

(1)

朝5時45分起床。シャワーを浴び、昨晩寝る前に準備をしていた旅の持ち物をもう一度みて、6時30分に家を出た。

Nは足が速い。家から坂道の半分くらいまで走り続けても平気。わたしも昨日は11時に寝たので、息を切らし、必死でNの背中について走る。

 

 



 

AM8時に空へ。ウィーン以来8カ月半ぶりの飛行だ。ANAの新機種エアバスA321(伊丹—福岡)。

4月5月の頃と比べれば、ビジネスマンや旅行客が少し戻ってきた感じ。機内ではjoiのムーン・ヒーリングをノイズキャンセリングで聴きながら本を読んでいた。

 

 

「到着まで15分」という機内アナウンスで、本のページから目を離し、窓外をみる。深青の海がひろがっていた。光が絹の上に注がれて、美しいしじまを映している。同じ調子の、同じリズム。同じ波の立ち方。穏やかに悠々と限りなく広がっている。

 

——9時10分。福岡空港に到着。

空港内で、Nにおいしいものをたくさん教わる。例えば、天然酵母のクロワッサン専門店「三日月のクロワッサン」「伊都きんぐのあまおう苺入りどらやき」など。Nは、きなこのクロワッサンを、私は、よもぎを購入。伊都きんぐのあまおう苺入りどらやきも2個。

 




 

国際線ターミナルまでバスで移動し、湯布院行きの高速バスを待つ。

勿論、海外の飛行機は飛んでいないので、空港内は閉鎖した状態だ。バス停にマスク姿のおじさんがふたりで暇そうに立っていた。

N「ターミナルは閉鎖して入れないのですが、どこでバスの切符を買ったらよいですか」

日焼けしたおじさん「私がバスの運転手にかけあって中でチケットを購入できるように交渉をしましょう。4枚綴りを購入したら、30%安くなりますよ」。ありがとう!

 

 

——10時37分。ゆふいん号「亀の井バス」に乗車し、約1時間30分、高速道路をひた走る。乗っているのはわたしとNのふたり、運転手のみ。車窓の横には夏の濃い緑の山と蛍光色の田、時々は民家がみえる。

 

——12時17分。由布院駅前に到着。

気温はぐんぐん上がり36度はとっくに超している。

黒い駅舎には人も電車も抜きとられ、絵のように閑散としていた。7月の豪雨災害で鉄橋や山間部が崩れ、「日田(日田市)-向之原間(由布市)の交通網は遮断されている」とウインドウに小鹿田焼を並べた器屋の男店主がぼやいている。

 



 

 


じりじりと燃えるような暑さの中、町を歩く。湯の坪街道へ。

あまりに暑いので、5分おきに店の中をのぞく。

「telato」 (テ・ラート)という名の看板が目にはいる。抹茶ジェラートの専門店で地元で麻生茶舗がプロデュースしている店という。

 

わたしは抹茶ジェラート5倍。Nは、八女茶のジェラート。ともに500円。茶葉は福岡県の星野村産。アイスが並んだ什器をみながら、店先で食べる。生乳は、阿蘇ジャージィー乳とあり、かなり濃厚、抹茶が口の中にねっとりとつく。後味はすっきり。この暑さにしては本格派すぎるが、おいしく最後までいただいた。

 

このあと、由布見通りから湯の坪街道を炎天下、麻の紺色の帽子をかぶって歩く。草庵秋桜四季工房(ピクルス専門店)、ミッフィー森のキッチン、酒屋、どんぐりの森、陶磁器ショップなどをひやかし、湯布院フローラルビレッジまで。ガーゼのマスクをして歩く(途中3回の休憩)。とにかく暑いのだ。

 

眼前には女性的なやわらかさをおびた由布岳、標高1584メートル。空は青々とし、入道雲が浮いたまま動かない。江戸時代の番屋(詰所)を思わせる雰囲気か。焼けた墨色の木をつかった木造の店が多く、店の軒先や道々に野草がのび放題になっているのが情緒をもたらすのだろう。

 

 

いよいよ、湯の坪街道を逸れて、大分川へ。川のせせらぎと緑があいまって、しばし涼を感じる。最初に飛び込んできたのが「玉の湯」、蛍観橋をわたる。金鱗湖の標識をいくと、「旅館田乃倉」、そして一番奥が「亀の井別荘」。きょうの宿だ。

 

 

 



 

茅葺き門をくぐれば、樹齢百年を超える銀杏の木、松、杉などがそびえる。敷地内は禅寺のような厳かで素朴な雰囲気だ。チェックイン前に荷物を預けて、お昼は敷地内の「湯の岳庵」を予約してもらった。

 

 



 
 


 

 

「湯の岳庵」。コロナ禍の中、客人はわたしたちだけ。

太く黒い梁がキリッとした印象を添える民家風の食事処。座敷と椅子席がある。あふれんばかりの緑に囲まれたシンとして温かみのある空間。テーブルにも椅子にも緑の蔭が映り込む。この大正ガラスのゆるい雰囲気、素晴らしかった。

蕎麦御膳(おろしそば、Nは地鶏そば)をいただいた。喉が乾いているので、ジンジャーシロップ炭酸割りも。

細麺で、するするっと、のどごしよい食べやすい蕎麦の味。なめこと大根おろしを混ぜていただく。添えられた、鱒の造りと、しぐれ煮、お漬物までもおいしい。これは夕食も期待できそう。

 

 

 

 



 
  

 

 


出雲大社に詣でる

2020-01-20 00:06:00 | どこかへ行きたい(日本)



1月4日(土)晴れ

たっぷりと8時近くまで眠る。

1階の「オールデイダイニング ルオーレ」でビッフェ。ダイニングはまだお正月モード。人が多い。
洋食メニューのほかに、アナゴの南蛮漬けやお好み焼きなど、和食も充実。特においしかったのは、牡蠣の佃煮や刻みアナゴなど数種のトッピングとあごだしでいただく「あごだし朝茶漬け」。30分間隔で焼き上がる、クロワッサン。


食後。エレベーターで上階まで上がろうと待っていると、展望フロア行きというのがあるのを発見。とても興味を引かれたのでひとりでのる。32階の宴会場フロアに到着。宿泊客限定で朝8時~10時まで、瀬戸内海の景色を満喫できるように開放しているのだ。

南側には旧広島市民球場跡の円形、その先を川が流れ、瀬戸内の海と宮島、その向こうに山が広がっていた。


北側。御門橋、平櫓、太鼓櫓、広島城全体がみえる。どちらも川と山があり、遠くまで見晴らせた。


こぢんまりとして美しい町。晴れ晴れした気持ちで大きく息を吸い、部屋に戻った。


さて、これから宮島の厳島神社に参拝するのか、出雲方面へ行くのか。朝食を食べながら思案していたが、混雑は予想しつつも、ずっと行きたかった出雲大社に軍配。(小さい頃のアルバムでは確か5歳の頃、一度だけ行ったきり)。

広島から中国自動車道、松江自動車道を乗り継いで2時間半。

ようやく出雲市に入り、もう目の前と安堵。島根ワイナリーで休憩した。酒臭い息で参拝はいけない!と自制しつつも綺麗なパッケージにひかれて「縁結」というソーヴィニヨン・ブランの白ワイン(2,035円)を買う。


ここからが渋滞だ。
そういえば車窓から空を見上げると、雲と雲の間からザーッと光がふっていた。

松江自動車道をおりる前あたりからだ。

空から山へ、田へ、家へ。そそぐ光の束。

虹と光が一体になっているような光を眺めては、相方と話したり、地図を調べたり。近くの雑木林が、ざわっざわっと。出雲マジックなのか、気持ちもざわざわっとした。よい意味で。


そして、大国主大神を祭神とする「出雲大社」にやってきた。最初の鳥居をくぐると、見事な松並木。


さっきまでの凍えるほどの寒さはいずこに。清々しい青い松に迎えられ、意識がはっきりとしていくのがわかる。

出雲大社銅鳥居の手前には、キリッと両手を広げた大国主大神の像。
因幡の白うさぎをお救いになった弱者に手をさしのべてくださる神様が。

御仮殿(拝殿)。
総檜造りで屋根には銅板を拭く、質素で古式ゆかしき拝殿だ。(昭和34年に建築)。流麗な屋根のかたち。おぉー気持ちが引き締まるよう。




御本社をのぞむ。大社造りとよばれる日本最古の神社建築。国宝である。
かの岡本太郎は「この野蛮なすごみ、迫力、日本建築の最高表現」とどこかで書いていたとか。

ここで出雲大社についての解説を加えます。

(出雲大社のホームページより)
大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっています。 “えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様です。
(中略)
大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国。大神様は国づくりの後、私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になります。そしてこの世の目に見える世界の政治は天照大御神様の子孫があたることとし、大国主大神様は目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい、とお話しになったそうでございます。



出雲大社の初詣。静けさと興奮が錯綜する面白い心地がした。今の自分の年齢と、10歳にもならない幼い自分の目が一緒になって、出雲大社の御気を味わうようだ。

時計と反対まわりに社を参拝し、8つの社を参拝したあとで、神楽殿。日本最大級の注連縄を写真におさめよう。


御本殿の真後ろに(上手)に鎮座する素鵞社(そがのやしろ)で参拝するために並んでいたら、背後からこんな話しが聞こえてきた。

「いつもなら、これほど並ばなくてもいいのに。大変なことよね」(おばさんの声)
「そういうなって。それだけ長く境内にいられるんだから、ありがたいと思えばいい」(隣にいたとおもわれるおじさんの声)。

正月らしい、いい会話。いい空気だ。



このあとで、まっすぐに帰るのだろうと思っていたら、相方曰く「仕事の調査でここらは何度かきた。そうだ珍しいもん、あるで」と。松江に立ち寄る。

7時。あたりは灯が少なく暗い。さすが日本海、手足が凍えそうに冷たい。一刻もはやく店へ入りたい、でももう少し松江という地場をのぞきながらふらりふらりと歩いてみたいと葛藤する心中で、大きな川を越えた。ここの川向こうに〝宍道湖の七珍〟といわれる、スズキ、シラウオ、こい、鰻、モロゲエビ、アマサギ、シジミを安く食べさせてくれる店があるんだ!というが、すでに店の電気はみえない。閉店しているよう。もう一歩のとこで後戻り。

さっきから歩くこと20分ほど。
ふと通りすがりに寿司屋が。ふん、暖簾は悪くない。ここは松江。正月といえども、これはいいかも。食いしん坊の鼻がきく。正直「寿司秀」さんは、いい店だった。まわりはチェーン店の焼き鳥屋や居酒屋、バル、ラーメン屋ばかりの駅前にあって、駅からはおそらく徒歩8分ほどだろう。暖簾が風にパタパタをはためく姿をみて、ピンときたのだ。

店をあければ、カウンターには地元客で満員。奥の座敷も、全席埋まっている。若い人がほんの少し。
その地のおっちゃんやおばちゃん、お姉さんたちがほろ酔いで機嫌がいいしゃべり方をなさっていた。カウンターの奥には10畳座敷があった。



寿司一貫の値段がないので、相方がにぎりをオーダー。これが安い! 並なら1500円。2000円と続く。私は女将さんが勧めてくれた、純米「深山の香」生貯蔵酒をお願いした。  
 


シャリのやわらかく、品のいい握り具合。鮮度バツグンのネタ。冬の日本海の魚がこれほど繊細で活がよく、身が引き締まって、甘いのか。と惚れ惚れ。あ〜ここにしてよかった!!

何を口にいれてもうまかった。正月で漁が始まらないので、店があらかじめ仕入れていたネタだけ。それでも、あなごは、ほわっとやわらかく香ばしく焼け、シャリとの相性抜群。
イカは、歯をたてると細やかな粘りを備える甘みだ。潮の味を醸したタコも旨い。
そして、清々しい神秘の水のような「深山の香」。
これが寿司と最高にあう。怖いほどにうますぎて恍惚とした。

地方の滋味をたずねてあるくライターに徹してもいいと思うほど正月早々感動の瞬間だった。

追加でお願いしていた、しじみ汁。うーーん、素晴らしい。体の芯からあったかまる。アジ、タコ、ハマチを2カンづつ追加した。


店を出ると8時半だ。このまま松江で宿泊したかったが、翌日は地域の行事があったのでかえるしか道はない。



やむなく、大山と蒜山高原を越え、蒜山のパーンキングでちょっと休憩。お土産を5分みていたら、さすが山の天気だ。寒風が雨に、雪吹雪にかわる。峠を越える中、ワイパーを動かしても白い雪がフロントグラスをめがけて突き刺さるように降る。降る。これちゃんと帰れるのだろうか。周囲を走る車はぽつりぽつり。あまりよろしくない、パターンである。一気にスピードをあげて、赤のレクサスを猛スピードで。

岡山へ抜けるあたりから、雪はうそのように消えた。灰色の中、キラキラの星空がひろがっていた。コンビナートの灯りも、眩しい。長い長い充実した一日。夜半12時。自宅についた。





高野山 奥の院で「父を近くに感じた」

2019-05-31 01:09:37 | どこかへ行きたい(日本)








高野山のバス停「奥の院前」で降りると、日射しが斜めに傾いて、いくぶん弱くなっていた。
「奥の院口」でバスを降りて一の橋コースを歩いていくと織田信長や豊臣家、徳川家の墓、武田信玄など戦国武将の墓を一堂に見ることができるという。

なので、本来は一の橋コースからの奥行き2キロにわたる高野山の「奥の院」を歩かせてもらうのが正式なルート。それでも私たちは、金剛峯寺の「阿字観瞑想」を体験して時計は夕方の4時をまわろうとしていて、「壇上伽藍」、「御影堂」までも足を延ばしてしまったので今回は仕方なし。次回は宿坊に宿泊するか、「奥の院」を先にまわるコースを執ろうと決めた。



Yちゃんとふたり、てくてくと霊山・高野山を登っていく。
後ろにもう一組いらしたはずなのに、振り返ると人の気配はすでになかった。

見上げると、白い空からおびのような光が差し込んでいるのがみえてほっとする。
白がたくさん溶けた水色の空。中の橋コースも道の両端には広大な墓地だ。Yちゃんが、墓に刻まれた文字を時々、思い出したように読み上げる。


次第に杉の木立が深くなり、木の皮や葉のゆらぎ、木漏れ日で世界はつくられていく。墓地は混み合っていた。
戦国武将や江戸、明治、大正、昭和と近世の故人の墓が延々と続くのだろう。こうなれば、生きている人間より死んでいる人間のほうが圧倒的な数で迫り来る。霊場という雰囲気がぴったりだな、とぼんやりと遠い脳裏の彼方からそう思う。霊界へと続く道。


途中、石の橋をわたり細い道のほうに出る。

まだ、弘法大師御陵前に鎮座する燈籠堂はみえない。

墓地はさらに深く、石燈籠や墓石の苔も陰湿で暗い。

気配のなかを分け入って進む。足が重い。墓地はさらに深くなり、途中、大きなものに包まれて脳の波動が、あやめらえるような所にでくわす。よくわからないが、少し苦しいような…、微かな気配の波を感じる。こんなのは始めてだ。車酔いをしたように、脳裏のバランスがくずれた。一瞬だけ。


考えてみれば、刀一本で斬った、斬られたの時代を生き、葬られた人の墓が集積しているのだ。当然か。死者の哀しみに接したようだ。


Yちゃんが、「ほらね」「わかるでしょ」「しんどいでしょ」という。
Yちゃんは昨年の秋も、気分が悪くてずっと頭が痛かったのだそうだ。私は全くもって頭は痛くない。

Yちゃんは途中、何を思ったのか、白い立て看板の注意書きを全部大きな声で暗唱しはじめるので、大急ぎで止めた。
10分くらい押し黙ったまま、もくもくと歩くと、ほんのりオレンジの明かりが遠くにかすんで見えた。もうひとつ石の橋を渡る、御陵橋だ。

あぁ、御代の国か。杉木立が林立しているむこうにぼーと霞んでいる。希望の灯のように。こうして燈籠堂に到着した。
目が痛くなるほどの線香の煙と香りにつつまれて、燈籠堂の前で手をあわせて中にはいった。



燈籠堂は、1964年に立て替えられた建物という。
弘法大師のあとを継いだ、第2世座主・真然大徳(しんぜんだいとく)によって創建。藤原道長氏が今の近い規模のものに建立したらしい。
オレンジの灯は無数の燈籠なのだった。昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、たくさんの人の願いが込められた燈籠が奉納されていた。


沈んだ金地で精緻な彫と細工に包まれた燈籠の群は美しい。中には千年前から消えない灯もあるという。平安な心。墓地の先にこれほどの安泰で静謐な御堂が待ち受けていたとは。

御大師様の像がいらっしゃった。わたしたちは、深い安堵と満ち足りた幸福に包まれた。言葉はいらないほど、心の奥で感動していた。




燈籠堂を出て、周囲をまわる。裏手には弘法大師の御陵、手を合わせて参拝。燈籠堂内でも「消えずの火」の向こう側の窓越しに見える。Yちゃんに導かれて、さらにお経が響きわたる地下までおりていく。燈籠の灯り。通路の両側には小さな弘法大師像がずらりとならび、その数は5万体とのこと。


通路の先には奥行のある神聖なところがあり、正面には今も御大師様(弘法大師)がおわします、と聴いた。

この時刻、ちょうどオレンジの袈裟をきた僧が夕方の読経をあげる最中であったので、手を合わせて一礼だけして、すぐに地上へとあがった

そして、大黒堂にある納経所で御朱印を頂戴し、塔婆を求めて我が本家の先祖代々の名前を書いていただき、先祖供養をさせてもらった。

奥の院を訪れる前に、「金剛峯寺」で阿字観瞑想をしたのが本当によかったように思う。一仕事を終えた満足感である。父を近くに感じたのがうれしかった。あ、あ!お大師様を敬いながら、父が近くに来て見ていてくれるような、いい気配を覚えていた。(父の郷里は真言宗高野山の高照寺)


帰りは、バスで小田原通りまで下っていき、胡麻豆腐の老舗「濱田屋」でおみやげを買うことができた。これまで頂いた中で一番というお味(紹介したい)








バスの時間まで、あと少し。「みろく石本舗」で名物のやきもちと、くるみ餅で一服する。






不思議なことなのだが、奥の院を訪れてから、偶然にもバスやケーブルカー、電車が絶妙のタイミングでやってくる。まるで「ようきたな。気をつけてかえりよ」と御大師さんに、おくられているような心地で高野山をおりる。南海電車 高野線特急に乗り換えて座ってなんば駅まで帰る。