月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

焼栗に感動した今年の秋

2016-10-19 16:04:01 | あぁ美味礼讃



毎年、季節がめぐるごとに思うのは、あぁ〜この季節すきだなという素直な喜びだ。
春がくれば春の、初夏になれば夏の、
秋がめぐるとやっぱり秋だと、
寒くなればツンと透きとおった冬の空気に…、というように
その季節が一番いいな、とみっともなく浮気してしまうことである。



秋はなんといっても、空気そのものが、かぐわしいのが素晴らしい。
夏の終わりから鳴き始めていた鈴虫やコオロギの声が
急に弱々しくなってくるあたりから、
私の町では金木犀やくちなし、色々な実を付けた植物から、一斉に放たれる香りが、あたりを包む。
散歩していて自然の香りが、甘い香りで満たされるなんて、なんて誇らしいこと。

先週はだから、気をよくして、丹波篠山の味まつりというイベントに出掛けた。
メイン会場自体は普通だったが、商店街や普通の露店で売っていた黒枝豆や栗、焼栗、柿、黒豆茶や。
和菓子屋さんでは、栗大福や栗餅、栗おはぎなどを見つけて心がウキウキした。
結局、黒枝豆も焼栗や生栗や柿をふんだんに仕入れて、




それらを毎日1品、ふだんのメニューに組み込んで秋を楽しんでいる。


篠山の味まつりで、一番おっ!と心から驚いたのは焼栗のおいしさだ。


ほくほくした栗は、加工された甘味ではなく(天津甘栗のような)
野性的な匂い立つ甘味があって、そこにやられた。
栗の木っぽさが、後味に感じられた丹波栗はすごい。
高熱の中で無理やりにはじらかされた栗の実よ。
ああ、いいものを食べた、と感動していたら。
同伴してくれていた主人が、先程歩いてきた道を1人で引き返して、
あと1袋(大入り)をお土産に買ってくれた。
「これだけ美味しい、美味しいと言われたら買わないわけにはいかない」と言っていた。



先週末は、これら秋の味覚をお重につめてお弁当を娘と一緒にこしらえた。




本当は彼女がピクニックにいくというので、手伝っただけなのだが。
夜のうちからステーキ肉をマリネしたり、金平ごぼうを煎ったりして。張り切ってこしらえた。


食欲の秋というが、この季節は台所に立つのが、ふだんより楽しく明るくなれるのは、食材の持つ豊かさにふれられるからなんだろうな。

これからは、海鮮ものや冬野菜を煮るお鍋の季節がやっくる。

ここ数日、個人的に心配なこと、気重な事柄が頭をもたげていて、
眠れなかったり、朝は床を離れて起きたくない瞬間が多いのだけれど。
いざ、一日が始まれば秋はこんなにもキラキラとしている。
それを忘れないように、こうして書きてみた。

山田真萬さんの器

2016-10-06 01:41:40 | 器を買いに





器が好きで、どうしようもなく器を買ってしまうことがある。
見てしまうと、どうしても自分の家に連れて帰って、そこに料理をのせたり、テーブルに置いたり、洗ったり…と生活をともにしたい衝動に駆られて、
我慢ができなくて買ってしまうのだ。
料理を盛ったその姿を想像したら、もうおしまい。
器と縁をつむぎたくて我慢できなくなるのだ。
うちはマンション住まい。狭いシステムキッチンの中に押し込んでいる縦長の食器入れと小さな水屋(アジアン風)の2つでは、いくらも収納できない。
そのうちにと思ながらも、まだどっしりとしたアンティークの水屋箪笥は見つかっていないのだ。

私が器にはじめて、ときめいてしまったのは、いつのことだろうか。
思い出せないけれど…。あの時もそうだったな。まだ器を揃えはじめて初期の頃だったように記憶している。

娘のNが小学校1年の夏だった。
じりじりと照りつける強い太陽と南国の風と青空。
沖縄の読谷村「やちむんの里」に到着するや、喉が渇いてどうしようもなく、家族全員がイライラ、ギラギラした悪条件の中で訪れた。
レンタカーを止めるや娘と母は、「冷やしぜんざい」の店で一服。
私と主人は読谷山焼 読谷山共同窯の登り窯を見て、いつくかお土産もの屋さんのような器屋をみて、読谷村の柔らかいオレンジ色の土と木陰の緑に少し心を奪われながら、1時間くらい歩いていた。
そして、そのうちに少しずつ暑さが肌に馴染み、汗で服が湿っていくのにも慣れて、空の青さがいいなぁ、などと感じられる余裕が出た頃だった。

ふと行き止まりになった道から、ゆるやかに折れる道の途中に一軒のギャラリーが。それが、今思えば「山田ギャラリー」だったのだ。
ガラスの扉をゆっくりと押すと、そこはまるでコンクリートの建物に足を踏み入れた時のように、ひんやりとしたクーラーの冷気が流れてきて、一瞬たじろいだほど。
目に飛び込んできたのは、まさに力強い独特の創作の世界だった。
大胆な花の絵皿や小皿、大皿、鉢類、フリーカップや珈琲茶碗、そして花器、壺類…。どの作品も丁寧な仕事でありながら、沖縄特有の地熱がじわじわと感じられるような力強く熱い作品ばかりで…。
いや違う、その時にはまだ胸騒ぎがするんだけど、それがどうしてだか、まだよく分からなかったのだ。

冷房が効いていた美的な空間。それとも器を載せた木のテーブルや棚などが
均整のとれた上質なギャラリーだったせいなのだろうか。
(お土産もの屋さんの器とは違う空気が一目みて分かったのだ)。

暑い知的さのようなものが、あふれていた。そこはかとない深みまで一瞬に感じ取った。
私は、どこよりも神秘的な沖縄の自然をそこに見たような、不思議なドキドキとした鼓動がカラダの中を流れたのを、今も、なんとなくぼんやりと覚えている。

ふと、到着間際に、飛行機の小さな窓からみた沖縄の明るいエメラルドグリーンの海の色が、脳裡にぽっと浮かんだ。
空の上から見下ろした島々の輪郭や白波、海の彩。
私の頭は次第に静かに覚醒し、幸せな気持ちがこみ上げてきた。

連れて帰った器はこの2皿だ(8寸)。








器を言葉で表現するのは本当に難しいが、少し大袈裟に形容するなら、

太陽の力で碧く染まった大胆な花(向日葵のような大胆さ)。
ぽってりとした筆跡が温かく、地味な色合いなのに情熱が迸っている一枚。すごくシンプルだし、この器を見ると、あの頃の若々しい気分を思い出して勇気をもらう。
私はたいていここに肉を盛る。それもスペアリブや焼き豚やトンカツなどの豚肉を。
青味野菜やタマネギのスライス、トマトなど元気な野菜を添えて。



こちらは、主人が選んだ一枚だ。







堅実で正しく、知的な安心感がある薄い黄緑色の水玉模様が、ぽんぽんと。
緑という色にはなぜかしら、土の濃い色や固さや匂いまで連想させるのが面白い。

ざわざわとしたさとうきび畑の情景や
一面にはびこる明るい芝生を連想させる平和な器だ。
やさしい器だからだろう、奇をてらわない普通の家庭料理がよく似合う。
飲茶みたいものもよく合う。
まあ、なんだって馴染んでくれる懐の広い器だ。とても使いやすい。

山田真萬さんの器をみて、だれかが言ったらしい。
「これほど明るく大胆で、しかもエネルギッシュな焼き物がまだ沖縄にあったのか。
沖縄には伝統という強い力が地下の水脈に流れていて、それを掘り当てると、わーっと湧き上がってくる感じがする」と。うまい表現である。

彼の作品が今どんなものになっているのか、わからないが。(16年も前だもの

私が想うに、黒っぽい土色や銅色、または黒灰の大胆な筆さばきと
透明感のある水っぽい軽い感じの緑や水色などの自然の色合い。
その色と色の対比が実にバランスいい。
沖縄の光と影を映した器なのかしら、いや考えすぎるのはよくない。
器というのは、土と彩で出来た自然の一部のかたちなのだから、偶然がなせる一枚なのだ、きっと…。


ともかく、私の「器ごころ」をかき立てた記念の2枚なのである。


それから数年、神戸・六甲の「フクギドウ」さんで、松田米司さんの作品展があり、制作工房も近いし、山田真萬さんと同じような沖縄っぽい風を感じられるかしら、と期待して出掛けてはみたけれど、
結果は、、、似て否なり。
松田米司さんの器はもう少し素朴。私好みの民藝っぽい素敵なものも見つかって急須と7寸皿を買ったけれど。
持ち帰って並べてみると全然違った。
当たり前か、窯が近いといっても作風が違って当たり前。
時代もここ数年で大きく移り変わったのだから。