月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

おうち訪問で感じたこと。

2014-07-20 19:42:10 | 今日もいい一日

デスク前と、サイドの網戸を開けるとまだ風が涼しい。
梅雨時の風なんだろうか。
3連休は仕事だ。
だけど、休みの日の仕事はなぜだか昔から好きなのだ。
3食ごはんをつくって、ちょっとだけ家事をして。
あとは、リビングに隣接する仕事部屋にこもっている(リビングからオープンの状態で)

ずっと、テレビが鳴っているのでそれにはイラッとするが、それでも
隣の部屋からの、テレビと家族の笑い声が漏れ出てくるのをうっすらと感じながら、原稿を書いていると、1人の時よりは、はかどるのはなぜか(いつもじゃないけど)。
安心する。自分には家族がいるのだというのを思い出すことができる。
それに休みの日は、電話もならないし、平和だ。



最近、ご近所の友達が2人も引っ越してしまった。
1人は5月に一戸建てを買って転居し、
もう1人は、先月に旦那様の仕事の都合で群馬県へ引っ越してしまった。2人とも、わが家から歩いて5分以内の位置関係で、
かれこれ18年ほどのお付き合いだったので、寂しかった。

ご近所の中で気のおけない友人といったらママ友を含めて、5・6人。
そのうち2人が居なくなってしまうというのは、私にはたいそうな衝撃なのだった。

そんなこんなの先週末、1つ仕事を納品したのを機に、
次の仕事を迎えるまでの2日間、思い切って毎日出掛けた。
久しぶりにお友達とも交流を深めたり、器屋さんをのぞいたり、
行きたいイベントにも参加してきたのだった。


初日は午後中に仕事をして、
それから、同じくご近所のコピーライターの先輩とともに
隣町へ引っ越したお友達に会いにいった。

隣町だから、ちょっとしたドライブとランチも兼ねて。
和菓子を買い、転居祝いにと「クリスマスローズ」の大ぶりの鉢植えを買って、それから
せっかくなので鉄板で目の前で焼いていていただくステーキランチなどもご一緒して、





上機嫌で友達の家を訪れた。

迎えてくれたのは、ふくよかな笑顔で微笑む、友人の幸せな姿だった。
ほんの2カ月前までは、しょっちゅう顔を合わせ、
行ったり来たりしていたはずなのに、
当時とはひと味違う、見知らぬ雰囲気を漂わせたその友人が私達の前に現れていた。

「へーーーえ、びっくりしたよ」
「いいお家だよね。おめでとう」

と言いながら、3人でお茶会となったのだが、
見知らぬ。と表現をしたのは
いい意味でのこと。
引っ越しをしてしまった彼女は、
ちょっぴり上級の女性に変身していたように私にはうかがえたのだ。
見た目は全く変わっていないし、話す内容もそう変わりはない。
だけど、これまでにはない女性としてのゆとりというか、本来の個性みたいなものが濃厚になっているように見えた。

彼女は引っ越しとともに、産まれたばかりの犬を購入。ペットとともにほぼ1人の生活を楽しまれていたのだ。
旦那様は転居が決まってから神戸の某新聞社デスクに転勤が決まり、
一人息子は大学のボート部が忙しくて家をあけることが多いのだった。

生まれて数カ月のあのキャンキャンと吠えまくる赤ちゃんみたいなペットが、彼女をあんなにイキイキとさせてくれているのかな、などと思ったりして
なんとなく微笑ましく彼女のことを見ていたのだけど。

「ちょっと家も見てみる?」という言葉に誘われて、
1階の庭から2階の個室、そしてウォーキングクローゼットの中まで見学させてもらうに従って、彼女がなぜ変身したのか、その意味が少しずつ掴めたような気がしたのだ。

自分たちの終の棲家である1戸建てが変えたのだなーーと
彼女への祝福の気持ちとともに心にストンと落ちた。
決して豪華絢爛でも、ハイソなわけでもなく
むしろ地味なタイプの。堅実な家なのだが。
住み手である彼女らしさが、庭の植木にまで充満していたのだった。

それは、小さい頃に訪れた大好きな親戚のおばさんの家のようだった。

なんだろう、すごくいい。
落ち着くし、家が安泰として佇んでいるのが
その空気感とともに私の中に理解できた。
素敵だなー。山の頂の途中にある小さなお家って。
そして自分好みのしつらいの中で生きられるって、
こんなにその人を変えるのだな、と思う。

私達の住むマンションも、かなりバブリーな時代に建ったテラスハウスなので、ちょっと外国のヴィラのようで。1戸1戸が独立した造りになっている。

玄関の場所も家々で違うし、
普通のマンションのように並んだ棟連にはなっていない。

どの部屋にも四方に窓があるのと
日当たりがいいので、十分に気に入って住んでいるのだが
それでもやっぱり、お家とは違う。
マンションというのは、ホテルの一室のイメージと、どうしても近しいものがあって、なんだか
まだ「旅の途中」のようなところがある。
いつでも脱出できる、というこの小さな要素を隠し持っているのがマンションなのかもしれない。

荷物さえ用意すれば、いつでも引っ越しできるのだという気軽さも。

それに比べて、
戸建ての匂いというのは、なんだか不思議な安定感がある。
私の小さい頃の記憶と結びついているのだろうか。


死界になるところが、家の隅々にいくつもあって。
家に暮らす妖精のような人たちが(ものたち?)がちゃんと住んで見守っていてくれている。

床の間はちゃんと畳敷きで
お庭には四季の植木が規則正しく育っていて
独立した部屋には、そこに暮らしている家族個々の匂いが生きているのだ。
生活感だって、ある。



ともかく、家は大切だ。住まう人の喜びや人生模様が、人生が
対峙しているのなら、なおさら。

豪奢な創りとか地味な創りとか、そんなのはそれほどたいした意味はもたなくて。
キーワードは住まう人そのもののような家だ。

新居に引っ越しした友人の家は
坂の上から眺める眺望が素晴らしく、晴れていたら大阪の中心部まで見えたり、夏の花火が家にいながら見えるのだといい、それも
とてもいいと思った。



その昔。
わが家に突然と鳩が侵入してきてクーラーのところに止まった時も
仕事部屋に巨大むかでが、登場になった時も、
急いでその彼女を迎えに行ったりしたもの(勇ましく戦ってくれた)
彼女が2階のリビングの鍵を当時小学生だった息子に締められてしまい、閉じ込められた時。
そのベランダから勇気をふりしぼってジャンプして庭に降りて、腕の骨を折った時も、下手な運転で彼女を病院へ運んだのは私だった。

また小さな相談をしてみたり、
おいしいものをいただいたり、お返したりして交流を深めてきたので(子どもたちが同じ年だから)、
寂しくないといったら、やっぱり嘘になるが(うん、うん)

でも車で30分も走ったら会える距離だし、
これで彼女はよかったのだ。幸せな家の住人として、最初から戻るべきところに戻り。収まるところに収まって、
またそんな彼女の姿に出会えて、本当によかったのだ。

と。そんなことを、思いながら
先ほど登ってきた急な坂道を再び降りて。
もう一度、私達の住む小さなニュータウンにむかって車を走らせていた。





毎月1日の映画の日に。

2014-07-01 19:57:29 |  本とシネマと音楽と


朝10時から2時間トップインタビューを終えて、それから中央線と御堂筋線を乗り継いで梅田まで戻る。
その足で食事もとらずに、映画館へ向かった。

1日は映画の日。1,100円で映画が観られる、ありがたい日なのだから。
水曜のレディースデーや1日に外出した日は、できるだけ映画館に足を向けるようにしている(昨年あたりからね)。

今日観たのは、テアトル梅田で上映されていた「ブルージャスミン」。
ウッディ・アレン監督の思惑に期待して。
会場につくや、箕面の地ビール×ベーグルを購入し
いつもの真っ赤なビロードのシートに座って、予約編を見ながらランチ。
ワクワクする思いで映像をみる。

結果からいうと、先月DVDで観た、「ミッドナイト・イン・パリ」のほうが、
はるかに私好みの映画だったように思う。
最後にいくに従ってどんどんイメージが悪くなり、そのまま救いようのない終わり方で幕を閉じた。
きっと、もうひとひねりあるんじゃないかな、という期待も叶わず、なんともいえない喪失感。そして席を立つ。

でも、帰り路。茶屋町のブティックに立ち寄ったりしながら、あれこれ考えるに
これこそ、アメリカ社会におけるミセスの悲哀なのだ、と思えてくる。
自立した女性とは何か?女性の幸せって一体何だろう、その答えをおのおのに、問いかけられている映画だった。
あなたならどんな台本にし、どんな人生を歩むことが、一番しっくりくるのか、
というのがこの作品のテーマなのだ。そんな想いとともに、
夏のキラキラした都会の街と雑踏のなかを、お気に入りの日傘をさして歩く。


先週の金曜日に観た、「グランド・ブダペスト・ホテル」(ウェス・アンダーソン監督)は、それに加えても刺激的な作品だったなとふと想い返した。


舞台は、リトアニアとしていたのは違ったみたいで、
「グランド・ブダペスト・ホテル」は、ヨーロッパのハンガリー共和国のひとつ、ズブロフカ共和国にある。もちろん、架空の国。
時代は、1910年~1930年である。






ミステリー仕立ての作品なのだが、
映像そのものがしっとりとして、艶感にあふれて、そのうえコミカル。独特の世界感だった。
その昔、ウォン・カーウァイ監督の、「恋する惑星」とか「欲望の翼」を観たときのような(全く別の次元のものだが)驚きがあった。


どこを切りとっても迫力満点だし、華麗だし、
広告的視点でみても、美しい仕上がり。だけど、ひとつひとに毒がある。
世紀末の古き良きホテルへの憧れや
当時の生活様式への郷愁がちりばめられ、
1幕ごとに、中欧、東欧の悲しく残酷な悲劇の歴史が織り込まれ、
恐怖もはらんで(人がどんどん死ぬので)。
それなのに、目が離せないくらいに美しく幻想的な映像の数かずがスピーディーに展開していく。


ホテルを切り盛りするコンシェルジュの生涯が、描かれている作品なのだが
どこがミステリーなのかといえば、
この優れたコンシェルジュ目立ての上客で賑わっていたホテルの馴染みの顧客、伯爵夫人が殺されるところからミステリーは始まる。犯人は分からない。
遺産として名画が一枚、グスタヴに遺贈されるのだが、これが遺産目当ての殺人容疑へと発展し
コンシェルジュ、グスタヴは、そこからずっと追われる身となるのだ。
1933年、ドイツでヒトラーが政権を握り、不況にあえぎなら、
忍び寄る戦争さえもギャグのように、風刺的に描かれている。
映画の中で、ズブロフカ共和国は、ファシストたちによって、消滅し、そしてコンシェルジュのグスタヴは……というようなストーリー展開。

この作品。ウェス・アンダーソン監督自身は、戦争に絶望しながら、
希望をもって、この時代を生き抜いたある人々へのリスペクトとして、本作を捧げられたのではないか、といわれている。

ふむ。出来れば、もう1度じっくりと観てみたい。
ドイツとイギリス合作というだけあって、
あまりに、残虐なシーンが多かったが
本編のなかに気高さみたいなものは、始終失われなかったのは、さすがヨーロッパ映画。
この作品のコミカルな仕掛けを、もう一度よく観てみたい。

私の目前に座っていた外国人は、エンディングの音楽で
体をくねらせて、ノリノリに踊っていらした(上半身だけで)。最後のご機嫌のハンガリー音楽がまた良かった。


映画を観た後で、

いつものニュータウンの街に到着する。
暑いなぁーと「もう夏じゃないの」と思いながら、1人でとぼとぼと歩いていると、いつもの道路脇にある大きな銀杏の木の下で、
突然、セミが鳴き始めた!えっ!セミだ。と耳を疑う。
ハッとした想いで、目の前の街路樹の緑に慌てて目をやると、


いつもの緑の色が、したたるような濃さに変わっていて、
ふっくらとして丸みをもって、私の目前に差し出されていた。
キラキラ、クルクルとした明るい色の緑。
それは紛れもなく夏のはじまり。

まさに、生まれたばかりの夏といった感じ。

いつも見おろす高速道路といえば、もやっとしたなかでやっぱり煌めいていて、わーとびっくりした。


仕事へ行って映画館へ入って、ビールを飲んでいる間に「夏になっちゃったんだわ」。

夏の訪れは毎年のように、こうして驚くことになる。
部屋に帰ってもやはりそうだった。夏の部屋の色に変わっていた。
今朝とは全く違うじゃないの。
梅雨空けは確かまだ、だよね。これから祇園祭だもの。
でも、なんだか不意うちみたいで、うれしい夏が今年もやってくる!

雨にとじこめられた一日も、なんだかとてもホッとするのだけど。
夏の雨もきれい。
神戸森林植物園であじさいは、緑の海の中に浮かんでいるのかな。
紫陽花の森も、もうそろそろおしまいだろう。