月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

コーヒー豆を直火式焙煎で「マグナムコーヒー」(篠山)

2020-04-29 23:47:00 | コロナ禍日記 2020

 

 

4月9日(木)快晴

 

 朝5時20分に起きて、カーテンをあけ、リビングに行き、窓という窓を全快した。薄暗く希望にみちた空。人間を排除した、鳥や虫たちだけの世界。どの木にとまっているのだろうか。鳥が「ぎゃーぎゃー」と南国にいる極彩色の鳥みたいに鳴くと、あちらの鳥が応える。向こうで鳥が鳴くと、こんどはあっちの鳥が応える。白々とあけていく空と山が呼応している。

 

「丹波篠山岩茶房ことり」で買い求めた岩茶の鉄羅漢を丁寧にいれて、ベランダに出て空の色をみながら飲んだ。

 

 瞑想20分。(住職曰く「1本の線香が消えるまでが最適」と聞いたので線香を焚く)

 

 10時ごろまでノンストップで原稿を書く予定が、8時すぎに主人が起き出して、テレビをつけた。それで8時半に朝食をだし、9時までテレビをみながら食べた。メニューはイギリスパンに、かたゆで卵、コーヒー。クレソンとレタス、セリのサラダ。

 

「このまま感染者が多くなると、わが家の食糧事情が変わってくるかも。米の買い出しだけはしておこう。昼からテレビ会議をするので1時すぎには帰宅したい」とパパさん。原稿書きが心残りで、後ろ髪をひかれたが、そのまま着替えて、篠山「味土里館」へ。


 車の外は、新緑の風が流れていた。どこもかしこも、緑、桜、黄色い菜種、新芽、、、。山が萌葱色。もこもこ、にょきにょき、ぐーん。山が笑っていた。

 「味土里館」では、山菜がたくさんでていた。雪の下、たら、こごみ、菜の花。せり、クレソン、ラデッシュ、かつお菜……など葉っぱの野菜ばかり大量に買う。篠山の黒毛和牛すきやき用肉300グラム、5分づきの米なども。ほか諸々、きょうは買いすぎた。


 少々反省しながら。欲深の私は、篠山市内にいくのをパパさんに遠慮して、その代わりに、ブラジルなどのオーガニックコーヒー豆を直火式自家焙煎してくれる「マグナムコーヒー」で、コーヒー豆を補給。20分かけて車で移動した。





 

 

 店は、コロナウイルス感染拡大など、全く以て忘れてしまいそうなほど、ふつうに営業し、お客さんが3組いた。大型の焙煎機が立派で、コーヒーのほろ苦く、香ばしい香りが鼻孔に漂ってきて、どうしても辛抱できず、テイクアウト用のホットドッグ、オリジナルのコーヒーを購入。エスプレッソタイプのコーヒーでカフェラテをつくってもらう。(テイクアウト)


 カウンターのむこうには、のどかな春の土手が臨め、車が行き交うところがみえる。人は動くものを見ると癒されるのだそうだ。

ここへテイクアウトの品を置き、写真を撮るが、あまりにおいしそうで、少しだけ店で味見。きれいなクリームの泡。苦みも酸味もちょうどいい、深みと余韻がある、よい味。

ホットドッグも、チリドックもコーヒーにぴったり、絶妙で満足がいく。

 





 

 

 高速道路を飛ばし、帰宅。

 2時。パパさんがテレビ会議をはじめた。総勢13名を召集しているとのことで、大声でやりあう。よくとおる声。ワイドショーの司会者も顔負けの歯切れのよい発音。これは………、と早々にお風呂に退散し、本をよむこと40分。あがっても、まだリビングは白熱する会議の真っ只中だったので、友人とラインでチャットをして過ごす。「山菜をいっぱい買ってきたの」「うちの父も裏庭でよく採取してたわ。もうそんな季節ね」「今夜は天ぷらに」


会えなくても、すぐ近くに友人を感じた。それからお風呂の続きの本を読んでいた。

 

 きょうの夕飯は、たけのこご飯(木の芽付き)。トマトサラダ。山菜天ぷらの盛り合わせ(雪の下、たらの芽、くぐみ、原木しいたけ、菜の花)。小海老の天ぷら。ニラとセリのお味噌汁など。

 

 




 こちらも山菜の食卓。





 


 夜。10時まで仕事をした。

 


2020年最後のさくらに

2020-04-27 23:40:08 | コロナ禍日記 2020

4月7日(火)  

 パパさんは、きょうは出張でいない。ひとりっきりの朝・昼・夕。なんて豊か!


 ゆっくりと紅茶をいれて、好きなだけ本を読み、iPhoneからポータブルワイヤレススピーカーで音楽をかけっぱなしにして食器を洗った。本をもってお風呂(柑橘類のなつみを食べた)。自分のために料理(ニンニクのオイルスパゲティとサラダ)をし、日中は仕事をして過ごす。

 どんなやり方だろうと自由なのに。惜しいことには、結果としてあまりはかどっていない。なぜ? 自由を謳歌しすぎたのだ。遊びすぎてしまったのだ。ふわふわと。原稿を横においてネットサーフィンなどもしてしまった。あれこれ思いを巡らせて、メモ!そしてメモ!が数行たまったくらいか。

 あ!玄関から続くクローゼットに本が入っておりごそごそみていたら、懐かしい作家の古い本に出会う。これも、これも。






 パラパラと懐かしみ、金井美恵子さんを読む。開高健。中学の頃に開いていたリルケ詩集、フランソワーズサガンもごっそり。

 滋賀県の「みのり苑」(白洲正子さんが好んで焚いた)のお香「沈香」を1本焚いて、落ち着くために瞑想をした。

  少しだけ、進んだ。

 いつものルートをとって近所を散歩。階段をおりて、森みたいな雑木林をぬけ、外周道路へ。白い空に、低い位置で、鏡みたいに光る大月がでていた。スーパームーン。月にむかって歩く、歩く、かけあがるように早足で。もうすぐ家。という時に再び、スーパームーン。さっきより高い位置に。住宅街にはいると、角をまがったところにハナミズキが咲いていた。花にみとれているうちに、スーパームーンが、普段のごく普通の月に移り変わっていたのだった。

 夕ご飯は、卓上コンロに伊賀焼土鍋ですき焼き。もずく。純米酒を合わせる。

 

 

4月8日(水)

 コロナ疲れか、それとも新しく買った空気清浄機(アクティブプラズマ)が効き過ぎるのか。体調がいまひとつだ。このところ、体温が低い。悪寒!と思い、熱をはかれば、35.2〜35.6分のあたりをうろうろ。知らぬまに新型コロナウイルス感染拡大に対するストレスが蓄積しているのだろうか。

 午後から、ピンクのぬくぬくガウンをすっぽりきて、布団の中で過ごす。

 夕方。散歩にでた。家からの外周道路には、ソメイヨシノや白山桜が、真綿か、春雪のように木々にふりつもり、半分くらいは散っていた。

 地には、小さなピンクの花びらが、ひらりひらりと落ちていた。かよわい、水をふくんだままの花びら。道路の端は、ピンクの色が色濃く、薔薇のイチゴクリームケーキみたい。

 きょうは、いつもより15分よけいに歩く。 今年の桜は、忘れられない。おそらく記憶の彼方までも降り積もる。京都の桜をみない年なんて、20年ぶりだ。それでも、ここ数年、朝に晩に一番多く、さくらを見た年になった。


料理で遊ぼう味わおう

2020-04-25 00:53:00 | コロナ禍日記 2020
4月6日(月)晴

 朝。6時起床、ヨガの後、白湯を飲み、瞑想。原稿を書く。


 ふと思い立ち! お昼ごはんには昨晩、パパさんが作ってくれたカレーライスをガス火で温めた。大さじ2杯の水を加えて、ケチャップの(ビニール容器)を親指と人差し指で持ち、力をこめて押し出す。ターメリックの海に、ケチャップ色の花をぐるぐるっと描く。
 出雲で購入した白ワイン(ワイナリーの縁結)、残り8分の1を全部ぶちまけた。ニンニクを薄切りにし、大山のバターを四角にカットし、2切れ、加える。ガス火でそのまま、ことこと、煮込む。
  
 その間に、パクチー入りのバターライスをつくる。ニンニク、バターに5分づきのごはんを投入。パクチーと少量のカシューナッツをザクザクと混ぜる。

 1時。出来上がったのをパパさんと食べてみた。ん〜ほどよく辛く、なんてフルーティーでありますこと。白ワインが功を奏して、ニッポンの家庭カレーが「おふらんす風カレー」に変身。即興の思いつきでおいしいカレーが食べられてうれしい。
 


 午後。テレワーク中のパパさんがコロナ関連のニュースを流しながら、テレビ電話。そして電話、電話を3回。私は、じりじりして仕事にならないのでありました。

 夕食のメーンは豚スペアリブの煮込み(スペアリブを軽くゆでる。オリーブオイルにんにく、しょうがをみじん切りにして炒めて、お肉をいれてさらに炒める。よい香りになれば砂糖少々と酢、酒か焼酎をいれる。醤油を2分の1カップ。チリペッパーかあれば鷹の爪をいれて30分くらい煮込む)
 あと自家製タマネギスープ。春キャベツと干しエビの酢の物。湯むきトマトに海藻、クレソンなど新芽を種々いれてみたグリーンサラダ。デザートは鹿児島のあまなつで。(皮は洗って乾かし、明日朝マーマレードをピューレにしよう)


 夜。再び、宝塚方面に買い物。紅しだれ桜が最後の力を振り絞って咲いている。地面にはらはらとハート型の花弁をちらして。
 宝塚ホテルは、きょうも宮殿みたいにエレガントだ。クリーム地の壁がいい。エントランスの2階に電気がついていて、パーティか舞踊会でも開かれているみたい。

 帰宅後。是枝裕和氏の「あるいても、あるいても」を鑑賞。
 
 家族の情景がテーマ。小さな診療所を経営している年老いた父母のもとに、長男の法事で帰省してきた次男夫婦と長女夫婦が、家族(子ども)をつれてやってくる。ある一日を懐かしくも、淡々と描いていた。樹木希林さん(母役)の非凡な演技が光る。誰もが、誰かの家族を投影してしまう。レンズの目、モチーフの写し方が暖かい。人も風景も、しっとりと。いしだあゆみさんのブルーライトヨコハマが流れる間はゆっくりと静か、珠玉のひととき。





こんな時だからこそ感受性は大事なのよね

2020-04-23 11:54:33 | コロナ禍日記 2020

4月5日(日)晴

 夜中。3時50分。あ!と目覚めて強い不安がよぎる。
 新型コロナウイルスの感染拡大が終息したとしても、モノの価値や人と人との関係、働き方まで大きく変化するに違いない。5Gが暮らしに浸食し、オンライン取材、オンライン飲み会、オンライン会議、オンライン見合い…? これはとんでもない世界がやってくる、その単なるプロローグではないか。
 ウイルスに感染し、蝕まれた世界は、潮が引いた後にも、その負債を返していくだけで人は疲弊するだろう。もしかしたら、ハードル(障害)をポンポン飛ぶみたいに、次なる危機、また危機がつづくのではないかと恐怖が走る。

 そういえば、私。なんだか喉から、肺のあたりがイガイガしている。そうだ。一昨日、買い物をしたが、いくつかは生のものを、そのまま食卓にテーブルに供したわ。お昼のよこわのお造り、レタスとクレソンのサラダも。いまは生のものは控えたほうがいい。それなのに……アマゾンの宅配便できた2冊の本に、私、消毒の霧吹きをかけていない。

 朝と夕方の散歩、おそらく誰にもあわないだろうとマスクをせずに近所の桜並木をみてあるいた。あの時、4人の人とあった。咄嗟に1メートルは放したが、なぜマスクをしていなかったのか。「幸福のラザロ」をみたけれど、DVDをケースから出す時に、消毒液をかけることをしなかったのはなぜ?意識が足りていない。それに仕事……、これから大丈夫だろうか。
 
 ああ。と衝撃的に憂鬱な気持ちになる。
これは自分の潜在意識の中にのこっていた〝負のメモリ〟だと、あらためて気づき、大丈夫、なんとかなると言い聞かせて再び目をとじた。

 7時に目覚めた。喉は痛くない。一昨年と同じ体調、同じ朝がきた。よかったと安堵した。
 ムジカティーからディンブラをいれ、ミルクティーにして30分の読書。水素ガス吸入をしながらソファに座って昨日の日記を記した。
 
 8時。パパさんが起き出したようだ。朝食の準備、片づけ、そして10分の散歩。気持ちを入れ替え、仕事部屋にこもる。12時半まで仕事をした(集中力は散漫だ)。

 ここ数日。新型コロナウイルスに関する政府の措置や方針について、夫婦で話していて、ことごとく意見がくい違い、ついジョークとも嫌みともとれる言葉をなげあい、すれ違い、交錯しあう。いったい日本の感染拡大のピークはいつ?

 パパさんは、安倍首相と同県民ということもあり、いよいよ楽観論だ。
「世界中が英知を競ってワクチンを開発しているんだ。効く薬が固まってきて、ま、夏までにはどうにか消息してるよ。すぐに元の暮らしが返ってくる。それにPCR検査ばかりしてもは仕方ない。僕もかかったら、家で隔離されてるよ」

 男と女の差か。コロナ不協和音が、わが家庭にもじわじわ。

これで「軽症」というのか。新型コロナ感染で入院中、渡辺一誠さんの手記 https://forbesjapan.com/articles/detail/33415

山中伸弥氏のホームページhttps://www.covid19-yamanaka.com/index.html をみる。

 新型コロナウイルスに感染した人の記録(手記)というのは、流しっぱなしのニュースや衆院本会議より、人に訴えかける。

 自分の家であって共同合宿のような日々。午後からの仕事が集中できず、Nとラインしてさらにイライラして、寝室で本をよみながらふて寝した。 

 18時。リビングへ足むけると、ん、鼻先にスパイスの香りが。台所で特製カレーをこしらえてくれていた。薄切り肉と、コンビーフたっぷりの、私が仕事が逼迫した時にときどき登場するあのカレーだ。

 夕食後。私は感激して御礼をいう。

「もう一度、桜を見に行って、ついでに買物にいかない? ゴマ油がほんの少しになっちゃってるの。谷崎潤一郎氏は、日本が戦火に見舞われた第二次世界大戦中に、『細雪』をかきあげたのよ。こんなときだからこそ、感受性は大事なの」と、台所で茶碗を洗いながら要望する私に、しぶしぶ「ゴマ油かぁ。なんでこんな時間に」て車を出すパパさん。私はすぐ機嫌がなおった。(ふて寝のあと、本当はすぐになおっていた)


 ぼおっとする青黒い空に、ピンクの花雲をみあげていたら「ほんまにもう、なんで来てしもうたんや……」「あぁ一貫していないのは僕や、一番あかんやつや」とパパさんは反省。なぜか自分を責めまくっていた。

 阪神モダニズムのハイカラ文化を築いた大正生まれの宝塚ホテル。その栄華をいまに受け継ぎ、クラシックホテルの名残をのこす華麗な洋館が2020年の薄ぼんやりと耀く桜の借景に光っている。新生セオリーを抱き、5月オープン。どんな次代が始まるのか。
 
 2020年。みあげた桜は一生記憶に残るだろうと想いながら、もう一度、花をみた。




週3でお家シネマをみると決めた

2020-04-20 23:35:00 | コロナ禍日記 2020


4月4日(土)晴 

 4時半。ウーフさんの(兵庫県芦屋市)アッサム「マンガラム茶園」(インド)を飲む。ミルクティーにするため木次牛乳を加えた。お!いつもよりいい、おいしい。茶葉の風味がやわらかく、軽く、なめらか。乳とティーがマッチする感じが、よかった。

 イカリスーパーで昨晩求めた香川県のさぬき姫という品種のいちごを5粒。果肉がとろっとして甘酸っぱさが脳に直接とどいた。

 気をよくした私は、冷蔵庫を勢いよくあけ、白いケーキボックスをあけて、ザッハトルテを出してくる。地元で買い求めたものだ。朝から1つも食べるのは、よろしくない。三角の山を横にきれいに半分にして、底のところだけを3つの手でもって、パクッと。おおー、表面がとろっとくずれて生チョコのような舌にすいつく感覚でわたしの口中になだれこんできた。
 洋酒がきいたスポンジと表面にほどこした化粧のチョコがふわっと。とろーりとしている。朝5時のスイートなひとときを、こうしてポメラに書き留めているうちに、紅茶がさめる。ものたない、たよりない、ぼやっとした味になってしまった。

 瞑想をし、1時間ほど原稿を書く。

 パパさんが起き出してきたので、パンを焼き、エシレバターに栃のハチミツ(ハチだけの仕事)を出してあげ、コーヒー、グリーンサラダ(イチゴ入り)を並べる。


 午後。昼食をたべてから3時まで仕事。コロナ関連のニュースをみ、夕方から原稿の推敲をする。

 (途中で休憩タイムと称して家の周囲を8の字に歩く)散歩のあとで、ウィーンで買ったザッハのオリジナルブレンドをいれて、今後はざっはトルテではなく、イチゴショートを半分を食べて、もう半分は主人にあげた。

 結局、この日は8時半までこまごました仕事をする。
 
 夕食は、豚ステーキのソティー、ポテトサラダ、カレイのひもの(小)、沖縄あかもくのもずく酢、大根とネギのみそ汁。

 <ポテトサラダのレシピ>
 (●ニンニクをすり下ろして、ボールに擦りつける。塩・胡椒・マスタード、砂糖少量、マヨネース、酢を加えて、ソースをつくる。
 次にじゃがいもをまるごと小鍋にかけて、熱いうちにつぶして、レモン汁をかける。たまねぎをスライスして、塩を加えて水分を絞る。
 じゃがいも、新玉ねぎのスライスを先のマヨネーズのソースに投入。アクセントに干し柿をまぜた。さく、さくと合わせて味をみて出来上がり)


 9時半。コロナのニュースばかりでは気が滅入るので、DVD鑑賞「幸福のラザロ」。夏をゆく人々、などで世界から注目されるイタリアの女性監督、女性監督アリーチェ・ロルバケルの作品。





 20世紀後半。イタリアの小さな村。はてしなくひろがる空。そびえる岩山が背後にせまっている、農村の暮らし。油絵の中の人物がうごいているような不思議な画質だ。青年ラザロ(聖人ラザロと同名)と村人は、領主の伯爵婦人から小作制度の廃止をしらされておらず、ただ働きをさせられていた。婦人の息子、夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることになる。

 一方ラザロ少年は、聖人ラザロのごとく、人を疑うことをしらず、正直者で無垢な心をもつ働き者だ。ラザロはタンクレディに友情を感じていた。ある日、ラザロは高熱を出す。完治してタンクレディを探し、山を奔走する中、崖から転落。

 30年くらいが経過した。おおかみにみつけられ、息を吹き返す。なぜだろうラザロは青年のままである。

 村にはすでに誰もいなかった。街まで歩いてたどりつく。現代社会の中で、欺きや冒涜、暴力に出くわすが、ラザロの心は最後までゆるぎないものがある。しかし、……それが悲劇へとつながった。
 神話と、現代社会が錯綜し、まじわりあう、不思議なシネマだった。

 新型コロナの蔓延している日常を忘れ、いつしか、心が20世紀後半のイタリアにひきずりこまれていた。

 よい映画。
 新型コロナウイルスが拡散する中にあっても精神が蝕まれてはいけない。自分の軸を守るためにも、仕事と、心を豊かにうるおすものから距離をおいてはいけない。

 週3回はシネマをみようと決意! (充実感がないと、夜のおうちシネマは楽しくない。それをみる余裕すらないのだから)






兵庫・宝塚の紅垂れ桜

2020-04-16 10:19:11 | コロナ禍日記 2020
4月3日(金)の日記

 「コロナ離婚」というワードがほわんと浮かびはじめたのが、3月半ば頃。最近はテレビでも特集を組むほどらしい。
 怒っている多くは<妻>のほうだ。夫婦や家族が、わが家の中という狭い空間で生活する以上、互いをみないわけにはいかない。ある家族は、時間、空間を共有することで絆が深まり。ある家族は、「まさかこんな人とは思わなかったわ」と、失望、対立し、なじり合い、崩壊をまねく。
 向かい合ってはいけない、今こそ同じ方向をみなければ。
 新型コロナウイルスの感染拡大はあくまで〝きっかけ〟。様々な不安が、心に影響を及ぼしていることは、明らかたが。ぶつける相手は、政府でも家族でも、隣人でもない。
 緊急事態に、私たちがどう生きるかが試されているのだと、今思う!

 

 わが家も、3月2日からテレワーク中の相方と始終、顔をつきあわせ、相手を全方位を観察せざるを得ない。というか、ほんの小さなことにイラつき、仕事場が一変してしまった。

 なんだか集中できない。本が読めなくなった。これは辛い。

 一人の場と時間を求めて、お風呂や寝室へ。(リビングではほぼ一日中、テレビ付けっぱなしで白熱の「テレビ会議」)。よし、兼ねてより朝方生活を定着させたかったのだと、この機会を利用して、(目標は3時台起床)帳尻をあわせようとしている。理由は、あなたといる食事時間や夕食後の団らんタイムを充実させるために。
 (書くは、孤独と隣り合わせにいないと難しいから)
 コロナウイルス感染に対しての考え方や政府の打ち出す方針について、意見が食い違い、「君は悲観的すぎる」「日本の法律がそうだから」といわれ、こちらはさらに辛辣に切り返す!互いに、ぷすぷす、モヤモヤの連鎖を抱くようになった。

 (まぁこれも、その時々には切実でも、考えてみれば、生きて籠もって、隣に家族がいるそれだけでお釣りがくるくらいなのに。自戒)

 そんな中、予約していた「ダイキンの空気清浄機が店に届きました」という報告をうけて、車に並んで乗り込み、引き取りに行く。電気店から三田方面から日用品の店へ立ち寄り、TSUTAYAで見損ねていた映画5本分のDVDをレンタル。イカリスーパーで食料品を買った。

 買物を終えて、表へ出たとたん、ああと歓声をあげる。樹齢30〜50年の、紅しだれ桜が坂道の上でピンク色の花を連ねていた。
 みられた! という高揚感。
 

 
 車の中から一瞬だったが、灰色の空に、ふわっと漂うような花びらを膨らませ、幻想的に光っている。あぁ。こんな我が家の近くで平安神宮と同種の垂れ桜がみられるなんて!

 そのまま、宝塚花の道を車でゆっくり、とろとろ進んでもらう。薄雲のように、白い花びら(ソメイヨシノ)をひらき、怪しげに枝の先をよじりながら、ぐるぐると、桜木が空に伸び上がっていた。
 奥に、5月オープン予定の「宝塚ホテル」。大正生まれクラシックホテルの名残をのこす華麗な洋館が、桜の借景になっている。








 もう一回、車でとおってもらった。興奮して「写真を1枚撮るわ」と懇願したが、「後ろから車がきているし、無理」と一喝。それでも、2020年の桜の記憶が脳裏にしっかりと刻まれた。
 あ、あ。コロナウイルスに心まで持っていかれてはいけない! 
 高揚感でいっぱいの気持ちで、夕食づくりをする。不意に充実の一日になった。

 今晩の夕食には、よこわの造り。塩鯖の焼きもの。ちりめんじゃことだいこんおろし添え。ひじきと大豆、人参のレンコンの煮付け。タマネギとじゃがいもの、ネギの味噌汁。
 お造りやサラダは生モノ。おいしく食べた後、真夜中、心配がよぎる。



2020年3月 春雪の記憶

2020-04-13 21:28:04 | 随筆(エッセイ)











ある日。(3月第3週目)

 焦燥感にかられながら。朝に昼に外をみる。ありたい自分でいられないじかんを無為に過ごしてしまっている。
 焦りと失望だ。原稿を書きながら、小説をひらきながら、料理をするために台所に立ってやかんに火をつけながら。
 みた窓の外。

 雪がふっていた。激しい風にあおられて、はげしく南から北へ、西へ、東へと強くふりまわされていた。窓のむこうは、雪の嵐。寒そうだった。
 わたしは安心した。ほんの少し安堵し、作業に没頭することができた。外は雪なのだから。時が止まってしまったように錯覚する。まだまだやれる。よしやろう。

 けれど、顔をあげた瞬間。世界は一変し、光のあついシャワーがそそがれた新しい季節。晴天。わたしの手は止まり、愕然とする。
 雪はどこへいってしまったのか、あの時間は。あぁ前進してしまった。季節はめぐった。小春日和だ。

 手を止め、諦めて、お茶をいれて、熱い花の香りのする湯を、ティーカップにいれた。

 ふと感じるものがあって、みあげれば、外は激しい雪が風にあおられ、真っ白な外気をわたしの目にやきつける。

 雪と光。春。そして冬。繰り返し。繰りかえし。一日の中、季節がいつまでもめぐる。
 そして夜が舞い降りた。