月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

居場所を重ねてわたしを作る

2023-04-26 20:58:00 | 随筆(エッセイ)
   





 コロナ禍が始まる2020年の秋から、文章教室に通っている。1年目は東京の道玄坂にある100人余りの教室で、自分の書いた作品を出版社の元編集長が、3時間で約10本の作品を講評していくというスタイルだった。ここは、ミステリーなどエンタメを柱とした学校であり、文章の書き方を習うというよりは、企みがある、謎がある、仕掛けが面白いもの。あるいは視点が新しかったり、社会を風刺する、そういった作品が評価されていた。生徒が書いたものを、もっと面白くするためのアイデアを指南するというスタイルだった。同じモノごとであっても、一滴のスパイスで作品の味は変わる。構成の入れ替え、冒頭の始め方……など。優れた編集者の物語を読む力に感嘆し、唸っていた。ただ、どうしても毎回授業に必要なエンタメ作品10本を読むことができなくて、結局、途中で断念した。

 クラシックミステリー(アガサクリスティーや江戸川乱歩など)は少しは読んだことがあったが、現代ミステリーには興味がそそられなかったのだ。完全に喰わず嫌いです。

 一昨年の秋からは、場を移して大阪で学んでいる。こちらは、約10人ばかりの少人数にクラス編成され、指南者は編集者ではなく物書きである。それも、同人雑誌を主宰する先生がほとんどだった。生徒は、20から80代までが、長テーブルをコの字型にして集い、「合評」形式で、1日に2作をとりあげる。感想や評を発表し合い、もっとこうすればいいのでは?ここが良かったです、のようなことを話し合うものだ。

 (この学び舎とは関係ないが)とある有名な編集人の根本昌夫氏という人は、小説の読み方には4種類あると定義する。ひとつは、自分がどう思ったのかという「自分主体の読み方」。もうひとつは、おそらく著者はきっとこういうことが書きたかったに違いない。ここをこう変えたら作品がさらによくなる、といった「著者の読み方」。売れるのか売れないのか、を考える「マーケットの読み方」。最後が、賞をとるか否か、選者の読み方を模索する「賞を通過する読み方」だ。

 この教室では、2番目の「著者の読み方」に立って合評することを推奨された。指揮する人は、60代後半の女性だったが、自身が40年近く創作してきた課程を惜しみなく人に与える人で、何より書くことに情熱をもっていた人で、毎回授業では鋭気をもらった。

 先の東京の学校は、あらかじめ選抜試験があり、通過した人しか入学できなかったが。大阪の学校では、誰でも文学の扉を叩くことができた。門戸が広いということは、多彩な経歴や人生を背景にした人がやってくる。私が1年半在籍したクラスの師は、評の的確は当然のこと誰の作品も熱心に読んでくれたし、書きたい気持ちはありながらうまく書けない人や精神的にキツイ人生を送ってきた人らに、特に温かい眼差しでもって接し、必死で文学とはなにかをつかみ取って欲しいと身を挺し、教えようとする人だった。といいっても論説が颯爽としているわけでも、口がうまいわけでもない。

 それは彼女の書くものと実にオーバーラップしていた。彼女の書く作品は名もなき弱き人を書く。あるいは弱い人を体を張って庇っていたシーンが多々ある。70人という年齢を感じさせない、書くものはみずみずしく魅力的だ。

 さて、そのクラスである。企業の社長、元新聞記者、中高の国語教師、外国人向けの通訳案内士、主婦、大学生まで。電車で隣同士に乗り合わせていても、決して口を聞くことのない人達と家族以上の関係を作るという点が愉しかった。必死で仕上げた創作物の欠片は、その人の内面に手で触れたくらい、その人自身が色濃く現れていた。家族よりも、家族っぽい関係性だった。私も、いつのまにか自分なりの意見や考察を発表するうちに、度胸も生まれた。ええ恰好しいは、最もダサい。文章術が磨かれたかどうかはともあれ、ここは地位も名誉も年齢も関係ない。皆が感嘆の声をあげるのは、ただ一つ、小説が面白いか面白くないか。ユニークな小説を提出した人が、今日の、(今日だけの)ヒーローなのだ!

ありのままの自分を受け容れ、(たぶん受け容れられて)、サークルのなかに私の居場所が生まれた。なにを言ってもいい、誰もが自由に発言できる環境。同じ目的で集う楽しさのなかに、私は完璧に活かされていた。妙に懐かしいのだ。幼い頃、学校は苦手な場所だったが、少人数制で指揮官の心根が優しいと、クラスは温かい場だ。

 哀しいかな。いまは学校の規程により、ひとつ上のクラスに進級してしまい、また一から始めなければならない。師もメンバーも異なり、正直不安なことだらけ……。それでも。

 居場所づくり、は大切である。私の友人が言った。「家族というフレーム以外に、一体どれだけの居場所があるのか。大人になったらその場が多彩な人ほど人間の心の襞も深みがあるのかな。
 
人の輪のなかに、趣味のサークルに、好きな場所に、あるいは夢をみる人の集いのなかに。突然ふって湧いた場もあるだろう。そこで、自分らしく居られるという場所をもてる人は、豊かさを知れる。知らない自分を発見できる、そう思っている。好きなことをはじめる。もし、そこで失敗したとしても、得た経験は一生の財産になるのは間違いない。自分の居場所を自分で開拓する。そういう意識が、この頃は大事なのかもしれない。


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53. 居場所を重ねて、私をつくる|みつながかずみ|writer @k_anderu #note #この経験に学べ




ことばの力で運命は変わる

2023-04-25 19:51:00 | 随筆(エッセイ)





 文は体を表す、と言われる。文章には書き手の性格や考え方、教養まで滲み出る。人間の有り様が分かるという意味だそうだ。手紙にしろ、電子メールにしろ、文字を書く時はこれらを思い出し、言葉の音(おと)を大事に綴る。届ける人の顔を思い浮かべながら、足したり引いたり、今の心に一番ぴったり合う言葉をみつけるように心がけている。

 では、話し言葉はどうだろうか。人は何げない言葉に救われたり、傷つけられたり、導かれたりしている。美しい言葉で丁寧に話す人は往々にして誰からも信頼を得ているようである。反対に陰口を叩いたり、噂話や人を揶揄をしたり。誰それを罵倒したりが多い人は、言葉を吐く時も苦しげであるし、歯をくいしばって闘わねばならない人生が多いのではないのか。〝口は災いの元〟というが、自身を含めて災いにならないよう気をつけねばならない。悪態が勝る人で、幸せな人を見たことがないから(歯に衣きせず自分の考えを発言する人は別です)。

 これは私の憶測だが、前者の人は口からこぼれた言葉を、声帯を通して自身の耳で聴き、心で捉え、肌感覚で感じ、当の本人がいちばんダイレクトに言葉を受け取ってしまう、だから、自身をも傷付けているのではないかしら、と思ってみたりする。言葉は返ってくるという恐ろしさがあるのだ。

 ああ言霊信仰である。言霊とは、言い放った言葉が魂をもち現実に起きることだが、1300年前に編まれた古事記や万葉集にも記述がある。神社で、お祓いや祈祷をする時に神主さんが奏上する祝詞は、神への崇拝が込められた最上級の祈りの言葉。悲観論はそのとおりに不運をもたらし、「よかったわ」「ありがとう」「あなたのおかげかも」「必ずやり切ります」と自分を肯定し、ポジティブな言葉や願いを口にすることは、どうにも幸運を引き寄せる、らしい。

 口下手な私は、なかなか思うように喋ることは難しいが、周囲に対する誠実な思いを飾ることなく伝えられたら、言葉の力に照らされて、心も豊かになれるかも……!いい本や美しいものに触れ、内面を耕すことで言葉の力は変わる!そう思って今日も心清く、あなたへ思いを乗せて、メッセージ(言葉)を届けよう。

トップの写真は、熱海の来宮神社の樹齢2100年のクスノキです。このエッセイは、季刊誌にて掲載されたものを一部加筆修正。




52. 言葉の力で運命が変わる|みつながかずみ|writer @k_anderu #note #この経験に学べ




太陽とデッキチェア

2023-04-25 19:47:00 | 随筆(エッセイ)







 冬の至福といえば、ぽかぽかと照る陽ざしの時間だ。どの季節よりも光のオーラを集め、まっすぐな力で完全な日だまりをつくる。凍るような北風を忘れるほどに、陽差しはものすごい力で人々をぬくめ、行き交うものや車のフロントガラスや、裸の木々、緑やそこかしこに濯がれて、万物に安らぎと安心を与えている。ほんの一時のマジックのように。

 今年、デッキチェアを購入した。南向きのベランダに配置し、水やりした植物から漂う緑の精気を感じながら、山の稜線や流れる雲、木々の先に止まった鳥のつがいなどを眺めている。

 たいていは、朝、淹れ立ての紅茶と本を持って、そこへ座る。時には、進まない仕事の原稿を持って、赤のボールペンで直しを入れたり、資料を読んだりということもある。デッキチェアは、外と内の境界線にある異世界。本であれ、回想であれ、もうひとつの世界へ旅するのにちょうどいい場所だ。

 わたしにとって旅のホテル選びの条件は、地の食材をつかった料理がおいしいことを一番にあげるが、その次はテラスからの眺めを優先させたい。なぜならホテルのテラスで、外の音を聴くひとときが、その旅を振り返った時、印象に残ることが多いから。
 昨年の初夏は八重山諸島を旅した。空がまだ碧い時刻。小浜島のテラスからは、刈られたばかりの芝から、虫の羽音と青臭い匂いが、水のような新鮮な空気の中に充満していた。朝露で濡れているテラス用のゴムサンダルが足裏の熱を鎮める。ギャー! キュルルルルルぅ、ルル、亜熱帯特有の嘴がオレンジにとがった野鳥が叫ぶ。寄せては返す波の静寂が、昨晩から鼓膜に張りついたままだった。
 前日は、小浜島から、石垣島を経由してフェリーで2時間半くらいの西表島にいた。神秘のサンクチュアリ、一本一本の木々から樹海の精気を噴き上げているような圧倒的な湿気と巨大なシダ類やヒカゲヘゴが、樹齢数百年の杉に絡みつく岩山をトレッキングした。マングローブの森をカヌーで滑る。水面に指を浸けてなめると、塩っぱかった。


 わたしは、冬のデッキチェアにいながら、あの旅のひとときとつながっている。そういった異国がここにはあると思う。冬の太陽がみせる奇跡だ。