月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

ホコリっぽい異国の風吹く小食堂。スリランカ料理「ワーサナ」。

2014-03-30 00:50:46 | 大阪ごはん



今年は早くもサクラシーズンに突入らしい。この冬は、お籠もりの仕事が長く続いたので、もう春?という気がする。
心の準備がまだ出来ていない感じ。
春になるまでに、あれもしよう、これも片付けてしまおう、あの人にも会いたい、などと予定を決めていたのに。
出来ず仕舞いです。

それでも、ようやく一段落。来週の半ばまでは急ぎのお仕事もなくて、少しだけゆっくり出来そう。
明日は母が実家からこちらへ出てくるというので、京都を案内することにしました。



さて、そのまえに。今回はこんなお話を。
だいぶ前のことなのですが、スリランカ料理を食べに行った時のこと。

福島の「ワーサナ」は、広告代理店のクライアントさんに教えてもらった小さな店です。
当時その方はベトナムや韓国、アメリカに仕事でよく行かれていて。今度「おいしいスリランカのカレーの店があるので、ぜひ行きましょう」と、
だいたいの日程まで連絡を頂戴していながら、すっかりお忙しいようなので。
とうとう待ちきれずに行ってしまったのでした。

早い時間に入店したのでダイニングには私達の組だけ。

聞くところカレーが評判!と後で知ったのですが。
この日は、スリランカ家庭料理とは一体どんなものかしら、と気になって仕方なく
「わが心のスリランカ家庭料理コース(2500円)」を、オーダーしました。
お料理がくる間、店内をぐるりと見わたす。
うーん、全く気取りないこの雑然さ(片付いていないところ)がいいねー。



店の雰囲気は、テーブルが3卓くらいのこじんまりとした店ながら、国旗や調度品やスパイスやらが
たくさん飾られ、派手さいっぱいのインテリアは、
まさにアジアの食堂。
バリ島のワルン(ローカル食堂)を彷彿するものがありました。

お料理をこしらえるのは、店主のラッキーさんただ一人。ほかにお手伝いもいず…。





だから、お料理にも当然時間がかかるのけれど、慌ただしさがなく、
ゆっくりマイペースなところもよく。
こちらも、ビールを飲みながらリラックス。

うーむスリランカ。スリランカ。と気分はすでに空を飛んで。
(昨今、とてもめざましく発展を遂げてホテルやビルの立ち並ぶ建設ラッシュだと聞くけれど)。
もし、インドに行くことができたなら、ぜひ足をのばしたい小さな島なのであります。
(紅茶の名産地だからね。スリランカ産の紅茶には毎朝のようにお世話になっている)

さてさて、前置きはさておき。メニュー。
サラダ、ロティ、ピクルス、チキンマサラ、キリホディ
ベジタブルサンバル、イディアッパー、デザート、紅茶というラインナップであります。


まずは、ピクルスやサラダ。
この味付けなら、うん!いけると確信。
(やや甘めのカレー味で食べやすい。



「ロティ」はノンイーストで仕上げたパン。
甘いメープルシロップをかけたり、
野菜のピクルスをのせて食べます。





続いては、「チキンマサラ」。




こちらも、インドのそれよりは辛くなく。マイルドな味付けながら多種にわたるスパイス使いがユニークで。
現地の味さながら、庶民的な味。

「これはうまい!と」思わずライオンビールをオーダーです。
ああ~アジアの料理はなんてワクワクするのだ。


そして「キリボディ」。
現地でのスリランカ料理は一つのお皿に様々な料理を混ぜながら盛るらしく、
そんな時に辛みを和らげたりコクを引き出すのが、
この「キリボディ」。
ココナッツスープのようでちょっとクセになる味付け。コクがあってバター風味。
様々なお料理とともに、いただきました。



いよいよ、野菜のココナッツミルク煮「サンバル」が登場。

スリランカの主食のひとつ、「イディアッパー」(米粉のヌードル、写真の茶色い麺)に、たっぷりと混ぜていただきます。
「サンバル」だけで食べるのとは、また違った風味と食感が楽しめて、口が飽きない。






「イディアッパー」は、これまで食べたことのない不思議なもの。
うまい比喩だとはいいがたいのですが。ソーメンをゆでて、そのまま2時間くらい放置していたような感じ。汁けはなく、少しだけモチッと感があって。
ソーメンとざるそばの中間といったところ。
(味はないので、乗せるお料理をひきたてる)。
ヌードル特有の食感が面白く、個々のお料理のクセを緩和させ、素朴感たっぷりのヌードルでありました。


そして、インドでは祝祭に登場するというビリヤニ(ごちそう炒飯)も。





細長いタイ米ながら、野菜のコクとココナッツの甘味と辛みが複雑に絡みあい、おいしかった。

しかし、これらのローカル料理。
沢山いただくと、すごく癖があって。様々なスパイスやソースの独得の匂いにやられそうでした。
このチラチラと揺れる赤い電球が飾られた店内といい、
ラッキーさんの温かい笑顔といい。

まるでバリのホコリっぽい道路脇のワルンでローカルフードをいただいている心境に。

外に飛び出したら、ものすごい交通量でオートバイが走り抜けてガジュマルの木が屋根の下までたれ下がっていて、
亜熱帯な熱さと匂いと人のおしゃべりと。太陽の強い光線に額まで汗するような。
そんなアジアな錯覚まで思い起こした、ちょっと変わったディナーでありました。


おしまいにラッキーさんと少しだけおしゃべり。

私が「スリランカの紅茶はおいしい!大好き」と褒めると、
すごくうれしそうな顔でこんなパフォーマンスまで披露してくれました。






この紅茶。お砂糖をたっぷり入れるので甘いのですが、キャラメルのようなコクがあるミルクティーで、味もさすが。
何杯でもお替わりできるほど。
私は結局、デザートをいただきながら3杯もいただきました。
ラッキーさん曰く「酸素をたっぷり含んだティーは最高に味がよい」のだとか。








おみやげに紅茶と赤いろうそくまで頂戴して親切な方でした。また次はカレーをいただきに行きますね。
ごちそうさまでした。

WASANA(ワーサナ)

大阪府大阪市福島区福島6-4-5

電話:06-6342-8813

日曜定休  営業時間11:00~22:00


恋、焦がれる「感触」。毛のぬくもり。

2014-03-25 23:35:52 | 今日もいい一日




私の好きなもの、の中に“香り”とか“気配”の要素は大きいのだけれど。

肌ざわりとか、感触というものに。このところ、惹かれている自分に気が付いた。
5年程前から、たいそう好きなものが「リネン」。
「LIBECO HOME (リベコホーム)」のホワイトのシーツは素晴らしい。

神戸のフランジュールという店で買い求めて以来、
ピローケースにシーツ、掛け布団カバーなど一式と、
そして、フランジュール製の「リネンパジャマ」を肌に直接着て、毎日、幸せいっぱいで眠っている。

肌ざわりは、改めて言葉にすることもないのだけれど。
ヒヤッとして。冷たく。清潔。いつ触れても「パリッ」と。「シャン」として、「潔さ」のようなものがある。だけど、いつのまにか体温と一緒に溶け、
ぬくもりへと変化するところが特にいい。

「リネン」。というと、まるでヨーロッパの繊維のようだが、(そのとおりだけど)

「リネン」になる前は、草っぱらの中で茫々と繁っている亜麻科の植物なのである。
麻よりも柔らかくて強靱。草(植物)のもつ、自然っぽさ。
しなやかで、細いのに、強いところが好きなのかもしれない。

「リトアニアリネン」、を手にするたびに、リトアニアという小さな国に行ってみたくなる。
(以前、某機関誌で「リネン」の特集を書いたことがあって、その当時はリネンのことを、いろいろ調べたことがある)






そして、今。まさに。
毎日はまっているのが「毛」なのだ。

(キャー!と思わないで)
「毛」というのは「皮」と同様に、「気負い」というか「覚悟」がないと着られないもの、と思っていた。
獣の皮を着るのは、どうしたものだろうと。「殺生」という字が、まぶたの裏で見え隠れして。
小さな罪の意識を感じ、この先、自分は毛皮のコートなど着て生きていかなくても、いい生活をしていこうと誓っていたのだが。
この年齢になってみて。少し、意識が変わった。

「皮」が素晴らしいように、「毛」は温かくて、穏やかだ。
着るというよりも、包まれているほうが近い。
頬にふれ、首にふれ、手で撫でるにしたがって、ほんとうに癒される。
「皮」も「毛」も、着ているうちにいつのまにか自分の体温と馴染んで、
溶けていくような。生々しい歓喜、があるのだ。

特に昨年。兵庫県氷上郡にある「橋本毛皮商店」さんにお邪魔して依頼、「毛」に対する意識が変わった。

実は私、5年程前に、ものすごく気に入っていたショールを自分の失態で「断・捨・離」してしまい、
それから焦がれて、焦がれて。何年もかかって探し求めて。ようやく辿りついたのが、その製造元の「橋本毛皮商店」

どんなところかと、怖々訪ねてみると。
まあ、これが…。
工場内は世界中から集められた生きものの気配がたちこめ、言葉もでない雰囲気。息をのむとはこういうことかと。
















もうグロテスクの極地。耳も手もそのままの獣たちが、
狭い小さな倉庫のようなところで、恨めしそうに、吊られていたのだから。
怖いというよりも、異様だった。ダラリと垂れ下がっていた毛は。
それでも「死体」というように感じなかったのは、加工の作業が約80%行われていたから。
それで、マジマジと毛と見つめあうことが出来たのだろう。

不思議なんだけど。人はその環境にしばらく身を置いていると、その場に馴染んでいくものである。
40分もその場にいると。
当たり前のように、「毛」が、私の前にあった。












毛皮、というよりも「毛」。
それらを、手でそっとふれると、ふわっふわ。ふわっふわで。
とてもきれいなのである。毛が光っている、ものが多くて。ツヤ感がみえてくるようになった。

そして
「やさしいんだよね」。
ほんとうに「ぬくもりがあった。「毛」の中の空気、そのものに。


それから、一度取材で訪れて、
2カ月後。オーダーメイドで2点つくってもらいました。
それが、これ。






フィンランドのたぬきのショール。
そして、シルバーホックスのベスト。

ショールは内側の毛が、
うぶげみたいで柔らかい。以前、断・捨・離したものよりは、もう少し柔らかい。しんなりとした毛だ。


今年になってから、家に一日中いて、原稿を書いている日が多く…。
そんな時には、ほとんどの日。
この、フォックスのベストを着て、
机に向かっていました。

ベストを着ると、娘のNは、なぜか気が狂ったように突進してくる(犬年だから)のがやたらおかしい。じゃれているつもりなのかもしれない。

それに、ほんとうにあったかい。人肌ならぬ、毛肌…なのだ。

でも。もう、春だからねー。そろそろ脱がなくては。そう今日夕方に外を歩いていて、春の空気を吸ってそう確信する。
さみしいけれど。さみしいな。この頬にあたる「ふわっふわ」。がいなくなるのは。


そう思って。だから今、この「毛」のことを書いてみたくなったのでした。










器とお茶のお話をすこし。

2014-03-22 02:02:32 | 器を買いに



今日も終日デスクに張り付け状態だ。

ガラスの向こうには大きく切りとられた山の風景。
今日の天気はなんだか面白くて、斜め45度に激しく流れる春雪をみたかと思えば、
キラキラと照りつける太陽の日差しが。
そして今は、左から右にのったりと流れていく重たい雲の動きを愉しく見る。



先日から書こうと思っていた器屋さんの話しを、すこし。
友人に誘われて、器と暮らしの道具「フクギドウ」(阪急六甲駅)へ行った。

友人は午前中から出掛けていたが、
私は午後まで仕事して、昼すぎに駆けつけて現地で待ち合わせ。

最寄り「フクギドウ・201号室」では「平山元康展」(~3/2)が始まっていた。







平山元康氏は初めて知る作家さんだった。
ちょうどこの日、ご本人が来店されていたので、お目にかかることができる。
ネクタイを締めブラックのスーツを着られ、
清潔な感じの方で、陶芸職人というよりはアパレル業界で働く
期待の若手エリートという感じにお見受けした。



(正面の方)

それが…。
広いスペースに展示された器を見渡せば、なんとも野趣あふれて
実にのびのびとした、「生物っぽい」作品が多い。
この「生物っぽい」というのは少し言い得ていないとも思うが、
シンプルなのだけど、作品自体がまだ息をしているような、「生っぽい作品」が多かった。

なかでも、私が購入したのは雑草というか、
草っ原をイメージする大皿だ。
丹波の草の匂いをはらんだ風を体現したような素朴な八寸皿。
この皿に合わせて、スープやフルーツを入れるのに適した小ぶりの鉢を4セット購入した。





店主の言葉を借りると、彼のつくるものは、
「時代劇の脇をしめる役者さんのような器」だとか。

一見は目立たないものの、角度に応じて。置く場所によっても。
表情が変わる器。
最初はピンとこなかったのだが、実際に家で何度か使っているうちに
ああ、と納得するところがある。
地味だけど美しい。地味だから美しいのか。
大皿に「蒸し豚」を盛りながら。
「餃子入りの中華スープ」を入れながら。
その独得の野生っぽい器の気分を日々たっぷり愉しませてもらっている。
使うたびに、いいなあと素直に思う。


このあと、「フクギドウ」(本棟)へ移動。





ここで、まず目にとまったのは、熊本の井上尚之さんのスリップウエアだ。
(スリップとは、ヨーロッパなどで見られた、古い時代の陶器の一種。器の表面をスリップと呼ばれる濃度の高い化粧土で装飾する方法が特徴)

それは丹波の陶芸家・柴田雅章さんのような民藝っぽいものではなく、
もう少し若々しく、どこかヨーロッパ的なラインナップのものが多かった。
ほか、青みがかかった白磁の彩色がきれいな崔在皓(チェ・ジェホ)の器や
萩原芳典さんの作品にも出会い、結局3種ほど連れて帰って、うちの食器棚に収まっている。





器探しとはなぜこうも愉しいのでしょうかね…。
考えるに、やはり想像力なのではないかと私は思う。

料理をのせたり、器同士をコーディネートしたり。
手で洗ったり、拭いたり。
その小さな瞬間の至福を思いながら器を見るのは、なんて愉快なことか。
1客ずつの器を手にし、しっかりと対面しながら。
ムクムクと想像力を働かせて。器自身が連れてきた風景を見て。
さらに自分の家のものたちと溶けて、
それらと一緒に膨らませる世界を想像することが、私にとってはとっても愉快。

いい意味で想像を裏切るというのも、たまらないのだ。

一緒に行ってくれた友人もやはり、そんなこだわりのわかる人。
「ホントに仲がいいんですねー」と。
全く一緒にモノをみていないのに、
3度ほどそう言われた。

この「フクギドウ」の店主「表ゆかり」さんもユニークな方だった。
(面識なかったのだが)、
表さんはライターさんでありながら、手仕事を通じて豊かな暮らしへの橋渡しをしていきたいと、造り手からの配り手役を担い、この店をオープンされたと聞く。
そんな生き方もあるのだなーと。彼女の世界感に大いに共感できるものがあった。
著書である「つくり手からつかい手へ、豊かな暮らし」を当日さっそく購入する。
40分くらい、お喋りしたのだろうか。名刺交換とともにFaceBookでお友達になった(今は人と人のつながりがたちまち近づく道具があるのだ)

大好きな器の仕事をしながら、つくり手とつかい手とをつないでいく仕事。
そのひとつひとつを自分の文で書く暮らしとは、どんなものなのだろう。



このあとは、「フクギドウ」さんからすぐの、「お八つとお茶 いろは」でゆるり、お茶時間も。





ここの日本茶がまたおいしかった。
玉露っぽい上品な香りがたって、
今年飲んだお茶のなかで一番といえるほど香りが素晴らしい。



W


「いちじくと小豆のケーキ」「りんごと栗のキャラメルケーキ」。



焼き加減やお砂糖の具合もよく、
本当にゆっくりと日常の雑多を洗い流して、
沢山おしゃべりを愉しんだ。
なんだか家にいるより、もっとゆっくり出来たくらいであった。

モノ。トキ。ヒト。それらの点と点が、
きれいに一つの線でつながった暮らしというのが、こんなに近くにあるのだ。一つ一つの、憧れや愛着や希望や。
それらを目をそらすことなく丁寧に向き合う暮らしがあるのだ。

「フクギドウ」。そして「お八つとお茶 いろは」。
どちらのお店もステキな物語がありました。





仕事を愉しむ力。

2014-03-16 19:24:14 | 執筆のおしごと(主な執筆原稿、最近の公開できるもの記録)





                                   (京都北野天満宮の白梅)





最近はロングバージョンの仕事が多い。
耐久レースでいえば、長距離走者になった。
不思議。
何を宣言したわけでもないのに、1本そういうのが舞い込むと次々と同じ性質の仕事が入ってくる。

1章1節から全部で15章くらいある、長いものを書いているかと思えば(1万5千文字とか)。
100節くらいあるコピー(コピー100本)。冊子物。取材200件分のお手伝いや…。ともかく耐久レース。
それらを同時にやっているといつも書いている。取材以外はいつも机にいる、ということになる。
ありがたいことである。

「言霊」って、やはりあるのかしら、と思う。
昨年、一度に仕事の依頼が集中したことがあって、そのプレッシャーに押しつぶされそうになって。
「もう無理。もう仕事はいい」などと口走ったら、
波のように仕事の依頼が一気に引いた。それから数日いや1月以上、新規の依頼がシンとこなくなった。
誰も彼も、自分をとうに忘れてしまったようだった。

それが今年にはいってからは、「こんな手のレギュラーの仕事。あと数本入ればうれしいなあー」としきりに家族と話していると、
ロングバージョンの仕事依頼が次々。
全てレギュラーとして決まってきた。(レギュラーだから終わったと思ったらまた始まる…)
凄い。波をこちらから、引きよせているの?
自分の口から発する言葉には、責任をもたなきゃあ。当たり前のことだけど。そう気を引き締めようと誓った。
そして、今うまくいったからといって。
「いい気(調子にのらない)にならないことである」。自分への戒めとして。

ふと、こんなことも思うのだ。
知らずしらずのうちに、不平不満ばかりいう人は、本当に不平不満だらけの人生に、なる。
そんな人を私は何人か見てきたから。
「言葉」は大事だ。自分がそう思う以上に、本当に大事なのだ。


さて、私の文章は傾向として。
「特集記事」などを仕上げる時に、文章がダラダラと長くなる傾向があった。
デザイナー泣かせだ。
思いを削る作業をなかなか出来ずに、短い「言葉」であっても要素を入れていくうちに長くなって、
うまく余白を加味したレイアウトを組めないという特集も…。
そのたびにデザイナーは「大丈夫です。全部入りましたから。問題ないです」と爽やかに言ってくれていた。

しかし、最近の傾向として。やはりデザイン優先。写真のいい特集は素晴らしい。
なので、最近はコピーを先にあげるのではなく、デザイナーさんのラフを優先して誌面全体としての美しさ、愉しさ、リズムをつくるように苦心している。
というか、そのほうが絶対に良い仕上がり。つくる段も愉しい。

今の仕事はロングバージョン集中型だ。きっとそんな時期なのだ、と思う。
締め切りも集中して近づいてくると大変だが、
ちょうど私のように根気のない「仕事人」にはいい薬になるのかもしれない。そう、スピードがつくようになるかもしれない(笑)。

昨年までの私なら、仕事が混んでいる時はそれを、優先するあまり、
誰とも会わなかったし、どんな魅力的な展示会も飲み会だって、スルーしてきたが。
今年はどうしても行きたい時には、ほったらかして(締め切りに近くない限り)出たりする。
そうじゃないと、どこにもいけないし、モノが見えなくなると怖いから(と、いいわけ…)
そんな愉しいお話も、またこの次に。


春になったなあ、と思う。今日はどこにも出掛けていないけれど。
それでも春の匂い、肌ざわりは、ちゃんとわかる。


冬の甘味といえば、梅園の「粟ぜんざい」です。

2014-03-07 22:54:16 | あぁ美味礼讃


今週は先週の予想どおり、ずっーーと原稿を進めるということに専念しています。

ここのところ長編もの(1案件2万文字原稿とか、冊子もの、全サイト記事。長いだけでメジャーな案件というわけじゃない)が固まってきているので、
全て2週間くらいの時間を頂戴し、
それら2つ3つ、1日のうちに平行して仕事をしています。
1日単発で仕上げるよりは、ずいぶんラク。少しずつ微調整や修正を加えながら、自分ペースで出来ますから。(などと脳天気なことをいわないように気をつけるべし)


今日は、移り気なお天気であるな~、などと窓の外を眺める。
雪が斜めからブリザードしていたかと思いえば。
真っ青な大空に、ゆったりと丸い雲がぽこぽこと、のんびりと過ぎていって。
ほーっと。窓の外の景色には癒やされ、また原稿に集中する日々です。


癒やされるといえば、昨日の打ち合わせのあと、錦市場で和の食材(今晩の肴)をいくつか見て、
それから立ち寄った甘味処の「梅園」(京都河原町から徒歩10分)さんも、よかった。



先々週と続けての来店となります。

昨日は、この時季ならではの「粟ぜんざい」(単品850円)を愉しみました。

「粟ぜんざい」。



ふっくらと蒸してついた粟とひえの餅に、アツアツの漉し餡をたっぷりと。

この熱さがたまんない。「ふーふー」と口をすぼめて息を細く吐きたくなる。
ひえと粟はモチッチリとして雑穀の苦みもあって、素っ気ないほどに素朴でありながら、どっしりと安定のある味。
上からかぶさったアツアツの餡は実に丁寧な手仕事の結晶。上品で甘すぎない。
季節ならではの甘味だなーと思う。

昨年も頂いたのだけど、今年も食べられてよかった。

ちなみに、先々週にいただいたのは名物の「みたらし」とぜんざい。ほうじ茶。






これまた、おいしかった。梅園らしい定番である。
特に「みたらし」の甘辛いタレはいくら多くかかっても、くどさをしらない。
団子の味わいを、引き立てることに徹している。

だけど、この時季なら、やっぱり「粟ぜんざい」に、旗!

あー、書いているだけで、口のなかがほっーと。うーん。冬の京都に旅立った。
あー日本に生まれて、愉しいな。

さあ、また原稿に戻ろう

酔っ払いの言葉がこれほど重いとは。

2014-03-03 00:12:46 | 今日もいい一日







(イギリスのNから送られてきた写真拝借)



時々、思う。自分はなんのために生まれてどう生きることが
自分の役割なのだろうかと。与えられた役割を果たしているのかと。
最近のNのブログをみて、
娘のNを19歳まで育てたこと。
これが自分の最も大きな働きかな、と思ってみたり…。


モノを書くという仕事。22歳で大学卒業してからずっーと生業としてきたけれど、これほど長く続けられただけで本当は奇跡のようだが、
それでもまだ死ぬまで「モノ・コト」にこだわって、考えて、想いぬいて、それを発信することを諦めたくないと思う。
小倉遊亀さんのように。
宇野千代さんのように。
そして森瑤子さんのように。

自分の命が閉じる時まで、諦めたくないと思う。
私が私を諦めない。
最後まで自分を見捨てたくはない。
けれど、私ったら思うだけでそれだけの「覚悟」が、できていたのだろうか。
日々の忙しさに。日々仕事を与えられることに、甘えていないか。
「覚悟」をもって、その目的に突き進んでいるのか。「行動」しているか。
ちゃんと世の中の役にたっているか。(ここのところ、どうも自分の脇が甘い)


昨日。酔っ払ったパパが私に言った言葉が気になったので
書き留めておこうと思う。

あの人は、うちの母と正面きって喧嘩した時があって。その当時、母がいった言葉が今でも忘れられないのだという。
「それを聴いた時、申し訳ないけれど離婚しようかと思った」そうである。

あの人はまた、
私が「人からの庇護のもとで、のうのうと暮らすようなそんな真似ができる人じゃないと信じたから」
結婚したのだという。
「自分で稼げる人、もしくは稼ごうとする人」、と思ったのだそうだ。
はじめて聴く「離婚」と「結婚」という言葉にもビックリしたけれど。
酔っていたとはいえ(毎日酔っているが)衝撃を受けた。
そして、それ以上にビックリしたのは
「あなたは自分の世界を持って、ずっと発信し続けられる人だと思ったから
結婚しようと決めた!」のだそうだ。(えっ、そうなの?)

もう二十年以上一緒に暮らしながらも、会話も少なくて(討論好きな私と、人と話すことが嫌いな人だから)。
だから、こんな言葉ははじめて聴いた。

「人との摩擦などそんな小さなことにくよくよせず。小さなとこでの評価にも怯えず。
むしろ、そんな無駄なコトに時間を使わずに、自分の世界を大事にして生きたほうがいい。もうあと50年も生きられるわけじゃないのだから」
「ま、あなたの家系の女性は強いから。長寿の家だから死にませんがね、簡単には」。
といったあとで、いつものようにテレビのほうを向いて首をたれて眠ってしまった。

酔っ払いの言葉がこれほど重いとは。
あの人は、例のJR福知山線の脱線事故で5両目に乗車し、大事故にあってから
いろいろな細やかな心身を失ってしまったのだと思っていたけれど。
それでも、まだ私のことを諦めずに。そして私は私らしく自由に生きていいと言ってくれているのだと、そんな風に理解した。


先日は、長田と大阪での取材のあとで夕方、「はじまりは5つ星ホテルから」を観る。
(フランス、スイス、イタリア、モロッコ、ドイツ、上海の街と5つ星ホテルが登場する。
旅と友情、仕事をテーマにしたシネマ)





私は孤独な人なので、孤独な女性が葛藤して生きている姿を影像の中で観るのが好きである。
人の生き方を俯瞰することが、とても好きなのである。
それはある種、なぜだろうか、と思っていたけれど。

それでも。自分はやはり幸せなんだと思う。
毎日が、ありがたいのだと思う。
全てが恵まれて、ここまで来たのだと思う。
(世の中の幸福を書きたいな)
もっとあれこれの雑多を陶太し、雑音は日々クリーニングして、
そして「覚悟」をもって生きていこう。そう危機感をもって。


(なんだが私も酔っ払いみたいな、たわごと、みたいなブログに。
申し訳ありません…陳謝)。