月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

「恋する古伊万里」展に行く

2019-09-28 23:34:57 | 器を買いに



金木犀のよい香りに誘われて、兵庫陶芸美術館へ行きました。

立杭焼の窯元が並ぶ陶芸の里にて開催されているイベント「恋する古伊万里」展
1階、2階の3部屋で構成。地階での同時開催には「イギリス陶芸コレクション」。




17世紀初頭。備前有田で生み出された磁器は伊万里港から各地にむけて積み出され、伊万里焼と呼ばれるようになったそうです。中国陶磁のうつしに始まり、やがて日本の富士や紅葉、草木や月、生物など日本らしい意匠が磨かれていきました。














ちまちまとした小さなものから、見応えのある大皿まで。
おままごと気分が昇華する、かわいい絵皿、かたち、色、デザイン性。
真正面から、横から、後ろから。振り返っては、しゃがんで下からのぞいたり。もう一度、後戻りしたり。

小さくユニークなかたちに、絵筆をいれたものがときめき、何度でもみたくなる。











古伊万里をみていると、安土桃山、江戸、明治期の人の暮らしぶりや食卓風景、おしゃべり、など。
その時代の日本文学とともに浮かび上がってきて、見惚れます。

本展示は、柴田昭彦、祐子夫妻によって蒐集され、佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈された柴田夫妻コレクション1万点あまりのからの展示内容に。特に江戸期のものが多かったです。










同時開催のイギリス陶芸コレクション。
日本と海外作品との対比もおもしろく特にルーシー・リー、バーナードリーチのものなど。古伊万里とは全く違った世界観。古伊万里には、日本の暮らしや美学が感じられるものが多かったですが、
イギリス陶芸では、
作り手の作家そのもの、人生や姿勢、いわゆる人のあり方が迫ってきて、
(そしてエレガンスで)。とても良い刺激をうけました。楽しかったです。

兵庫陶芸美術館、明日(9月30日まで)

このあと、篠山のJAで新米の5分づきと、焼き肉用の丹波牛やりんご、みかん、山の芋などを買って、イカリスーパーで好みのお味噌などを買って帰路につきました。篠山は、豊かな土地だとしみじみ思い返しながら。


























山田真萬さんの器

2016-10-06 01:41:40 | 器を買いに





器が好きで、どうしようもなく器を買ってしまうことがある。
見てしまうと、どうしても自分の家に連れて帰って、そこに料理をのせたり、テーブルに置いたり、洗ったり…と生活をともにしたい衝動に駆られて、
我慢ができなくて買ってしまうのだ。
料理を盛ったその姿を想像したら、もうおしまい。
器と縁をつむぎたくて我慢できなくなるのだ。
うちはマンション住まい。狭いシステムキッチンの中に押し込んでいる縦長の食器入れと小さな水屋(アジアン風)の2つでは、いくらも収納できない。
そのうちにと思ながらも、まだどっしりとしたアンティークの水屋箪笥は見つかっていないのだ。

私が器にはじめて、ときめいてしまったのは、いつのことだろうか。
思い出せないけれど…。あの時もそうだったな。まだ器を揃えはじめて初期の頃だったように記憶している。

娘のNが小学校1年の夏だった。
じりじりと照りつける強い太陽と南国の風と青空。
沖縄の読谷村「やちむんの里」に到着するや、喉が渇いてどうしようもなく、家族全員がイライラ、ギラギラした悪条件の中で訪れた。
レンタカーを止めるや娘と母は、「冷やしぜんざい」の店で一服。
私と主人は読谷山焼 読谷山共同窯の登り窯を見て、いつくかお土産もの屋さんのような器屋をみて、読谷村の柔らかいオレンジ色の土と木陰の緑に少し心を奪われながら、1時間くらい歩いていた。
そして、そのうちに少しずつ暑さが肌に馴染み、汗で服が湿っていくのにも慣れて、空の青さがいいなぁ、などと感じられる余裕が出た頃だった。

ふと行き止まりになった道から、ゆるやかに折れる道の途中に一軒のギャラリーが。それが、今思えば「山田ギャラリー」だったのだ。
ガラスの扉をゆっくりと押すと、そこはまるでコンクリートの建物に足を踏み入れた時のように、ひんやりとしたクーラーの冷気が流れてきて、一瞬たじろいだほど。
目に飛び込んできたのは、まさに力強い独特の創作の世界だった。
大胆な花の絵皿や小皿、大皿、鉢類、フリーカップや珈琲茶碗、そして花器、壺類…。どの作品も丁寧な仕事でありながら、沖縄特有の地熱がじわじわと感じられるような力強く熱い作品ばかりで…。
いや違う、その時にはまだ胸騒ぎがするんだけど、それがどうしてだか、まだよく分からなかったのだ。

冷房が効いていた美的な空間。それとも器を載せた木のテーブルや棚などが
均整のとれた上質なギャラリーだったせいなのだろうか。
(お土産もの屋さんの器とは違う空気が一目みて分かったのだ)。

暑い知的さのようなものが、あふれていた。そこはかとない深みまで一瞬に感じ取った。
私は、どこよりも神秘的な沖縄の自然をそこに見たような、不思議なドキドキとした鼓動がカラダの中を流れたのを、今も、なんとなくぼんやりと覚えている。

ふと、到着間際に、飛行機の小さな窓からみた沖縄の明るいエメラルドグリーンの海の色が、脳裡にぽっと浮かんだ。
空の上から見下ろした島々の輪郭や白波、海の彩。
私の頭は次第に静かに覚醒し、幸せな気持ちがこみ上げてきた。

連れて帰った器はこの2皿だ(8寸)。








器を言葉で表現するのは本当に難しいが、少し大袈裟に形容するなら、

太陽の力で碧く染まった大胆な花(向日葵のような大胆さ)。
ぽってりとした筆跡が温かく、地味な色合いなのに情熱が迸っている一枚。すごくシンプルだし、この器を見ると、あの頃の若々しい気分を思い出して勇気をもらう。
私はたいていここに肉を盛る。それもスペアリブや焼き豚やトンカツなどの豚肉を。
青味野菜やタマネギのスライス、トマトなど元気な野菜を添えて。



こちらは、主人が選んだ一枚だ。







堅実で正しく、知的な安心感がある薄い黄緑色の水玉模様が、ぽんぽんと。
緑という色にはなぜかしら、土の濃い色や固さや匂いまで連想させるのが面白い。

ざわざわとしたさとうきび畑の情景や
一面にはびこる明るい芝生を連想させる平和な器だ。
やさしい器だからだろう、奇をてらわない普通の家庭料理がよく似合う。
飲茶みたいものもよく合う。
まあ、なんだって馴染んでくれる懐の広い器だ。とても使いやすい。

山田真萬さんの器をみて、だれかが言ったらしい。
「これほど明るく大胆で、しかもエネルギッシュな焼き物がまだ沖縄にあったのか。
沖縄には伝統という強い力が地下の水脈に流れていて、それを掘り当てると、わーっと湧き上がってくる感じがする」と。うまい表現である。

彼の作品が今どんなものになっているのか、わからないが。(16年も前だもの

私が想うに、黒っぽい土色や銅色、または黒灰の大胆な筆さばきと
透明感のある水っぽい軽い感じの緑や水色などの自然の色合い。
その色と色の対比が実にバランスいい。
沖縄の光と影を映した器なのかしら、いや考えすぎるのはよくない。
器というのは、土と彩で出来た自然の一部のかたちなのだから、偶然がなせる一枚なのだ、きっと…。


ともかく、私の「器ごころ」をかき立てた記念の2枚なのである。


それから数年、神戸・六甲の「フクギドウ」さんで、松田米司さんの作品展があり、制作工房も近いし、山田真萬さんと同じような沖縄っぽい風を感じられるかしら、と期待して出掛けてはみたけれど、
結果は、、、似て否なり。
松田米司さんの器はもう少し素朴。私好みの民藝っぽい素敵なものも見つかって急須と7寸皿を買ったけれど。
持ち帰って並べてみると全然違った。
当たり前か、窯が近いといっても作風が違って当たり前。
時代もここ数年で大きく移り変わったのだから。







おいしい中華点心と味のある器と「ことりでお食事」

2014-05-20 19:50:10 | 器を買いに



夕方から雨が降ってきた。6月の雨と5月の雨はあきらかに違う。
この時季のほうが、緑がわさわさと嬉しそうだ。葉っぱの先から枝、土の奥深くまで水の力を、ごくごくと吸収しているように感じる。
デスクの前の、葉っぱたちが唄うたっている。

さて先日の続き、岩茶房「ことり」でのイベント第二部を。
第一部は(南条好輝ひとり語り 近松門左衛門の世話物24話「心中天の網島」。
5時からは、「ことりでお食事」ーーー。


岩茶とともに、マーラーカオやミルク饅などの軽食はいただいたことがあったものの、食事とはお初の試み。
ワクワクしながら、その時を待つことに!

表に出て、ちょっとだけ界隈を散歩。
お濠の側は緑も自然もいっぱい。器屋さんを1軒のぞく。




それでもまだ少し時間があるわね、と玄関先に出て話していると、
ふと背後からニヤッと笑う誰かの気配が。
そして。「お久しぶりでございますねーーー!」とテノールで声を掛けられ、ギクリ、
そこにはあらま、懐かしい中年のおじさまが。
まぁ谷村新司似といえば、私を知る人はたいがい「ぷっ!」と吹き出して、オーバーリアクションすること間違いなし、
最後の職場での大先輩のそのお方が奥様とご一緒に。
ともあれ、14年ぶりの再会でした。

帰り際までに3回くらい会話したので、互いに懐かしかったのでしょうか。やはり広告業界の方は気が若い。
1年ほど前にガンを患い、死の床をさまよったとおっしゃるが、そんな風には微塵にも感じさせない、おでこの上のつややかさ(笑)。
もう70才も近いはずだが声はよく響き、谷村モード全開。
いつもの、ずっこけジョークを期待したものの、いたってダンディー風でありました。(やはり奥様の前ではこうなのね)。



さて、食事である。
点心と伺っていたが、中華風にアレンジした素晴らしい家庭料理の幕開けです。

最初の前菜。



自家製焼き豚と丹波篠山産の野菜づくし。
豚汁のスープがよく沁みたバツグンの蒸し具合。甘いジュースのほとばしるネギに、きぬさや、
赤黄緑の3種のトマト。うわっ甘い。
野菜はまだ生きているみたい。花山椒が、すばらしい。

もしや!このお料理の器!と二人目を合わせる、そうそう当たり前ですよね。
器は全て、「ことり」オーナーのお父様である柴田雅章氏が作陶された器のオンパレード。
贅沢で、もったいなくて。1品ごとにため息がこぼれます。





2品めは、





自家製OX醤を効かせた海老チリ。
口あたりはピリッと。その後、旨みがじんわりと伝わる。
ぷりぷりの海老。完璧な下ごしらえの後がわかる丁寧な仕事。添えられた野菜をワシワシと噛みしめます。



続いて、たけのこと山菜の含め煮。



あーーほっこり山の味。
スープも全部飲めるほど美味しい。
山菜のほろっとした苦みがたまらん。
友人は「さっそく家で作ってみよう!」と膝を叩く。そして、私は飴色の器に見惚れてしまう。


こちらは八宝菜。




シンプルな中にパンチがある1品。スパイスがきいている。
青菜はシャキシャキ。
淡泊なお出汁と、とろりと溶いた葛が豚にたっぷりとからんだ、いいお味。




そして、そして。ドーン!



中華粥。高菜の中華まんじゅう。
あーー幸せ。視覚にも舌にも、申し分なし。
この艶やかな木の盆は、ハイハイそのとおり。
勘は的中、「居七十七(いなとや)」さんの木の盆ですね。
見惚れるねーーー。



デザートまでぬかりなく全て手作り。この出来映え。





露地物いちごは甘かった。
メープルシロップをかけた、アイスクリーム、ゼリーと寒天入りのフルーツポンチ。お代わりしたい。
これだけの夜のコース、3千円とは。
隣のテーブルの南条好輝さん(第一部の近松 ひとり語りでご活躍)も、とてもご満悦のようでした。



写真ではこの器の重厚さ、味わいの深さはおそらく伝わらないとでしょうね。
器が上質だと、素材がイキイキと輝き、
時間がさらに特別なものになるのだなーーと改めて実感、再確認。
おいしい家庭料理と器の饗宴が、これほど幸せな気持ちにしてくれるナンテ。
もちろん存じておりましたが、想像を超える豊かさでした。

来年、もし機会があればぜひ訪れてみておくれやし。
初夏の篠山。器と美味。素朴な自然が美しいところ。近くに温泉もございます。



「ことりで近松」のイベントに参加。

2014-05-18 00:20:37 | 器を買いに


ゴールデンウィークのことで恐縮だが、面白いイベントに参加したので、その話しを。

ご近所の友人と篠山方面へドライブ。
若葉が出たばかりの新緑がさわさわと揺れる日で、
途中の河原には、遅咲きの桜がふわっふわっ、とまだ咲いているところがあって、なんだか平和な日だった。
友人は、山里のひなびた風景がとても気に入ったようで
「来年は絶対にここにお弁当持ってお花見しよう」と
張り切って宣言していた。


会場に着く前にちょっとだけ立ち寄ったのが、
「居七十七(いなとや)」

にしきトンネル西をくぐり鼓峠へ向かう途中の一軒家(業柄奥バス停)。

ほんのちょっとのつもりが、これがどんぴしゃに大当たり。
結局50分以上もの長居となった。

ご夫婦で工房兼ギャラリーを営まれていて、
ご主人は漆器・木工芸品など日々制作されている作家さんである。
シンプルな佇まいの2間に、漆器と木工品などがたっぷりとディスプレイされていた。

お皿や茶碗、スープ椀、ミニちゃぶ台、お箸やフォーク、御盆。
木もメープルやオーク材など様々で、手で持つと手の指に木の香りが移る。いい香りだ。








何がステキって、木肌の色。手ざわりというか肌ざわりがまるで吸い付くようだった。
カッティングのやさしさも素晴らしかった。

アジア雑貨でみるそれとは違い、持ち上げると手にどーんと木の重力がかかる。


ちょっと立ち寄ってみたにしては、本格的すぎるではないか。
少しびっくりしてしまった。
私達は、ご夫婦とおしゃべりして、
少しだけ売上げにも貢献。

小さな暖炉の「薪ストーブ」を見せてもらい、
青々とした山と田の景色を藤椅子に座ってぼーとしばらく見せてもらったりしながら、
ゆっくりと後にした。






それから岩茶房「ことり」


開催された初夏のイベント、
南条好輝さんのひとり語り
「心中天の網島」(近松門左衛門の第24話作)を。





外は5月で新緑が萌え、
その鮮やかな緑の庭をガラス越しにみながらの、「近松」。
なんだか不思議な世界だった。
おいしい武夷岩茶を4煎もいただいた後、
古典の話りが滑り出したのである。

盛り上がりは、やはり「天満紙屋内の場」か。
水都・大阪に架かる橋を1つ1つ渡りながら、死に向かってひた歩く男女の情念。愛憎と裏切り、そして心中。
映像はまったくないので、
たよりは低い男性の声と、想像の翼だけ。

学生時代に、深夜ラジオを聞きながら目をパッチリと見開いてゾクゾクしながら聞いていた、
あの興奮と幸福をふと思い出す。












器とお茶のお話をすこし。

2014-03-22 02:02:32 | 器を買いに



今日も終日デスクに張り付け状態だ。

ガラスの向こうには大きく切りとられた山の風景。
今日の天気はなんだか面白くて、斜め45度に激しく流れる春雪をみたかと思えば、
キラキラと照りつける太陽の日差しが。
そして今は、左から右にのったりと流れていく重たい雲の動きを愉しく見る。



先日から書こうと思っていた器屋さんの話しを、すこし。
友人に誘われて、器と暮らしの道具「フクギドウ」(阪急六甲駅)へ行った。

友人は午前中から出掛けていたが、
私は午後まで仕事して、昼すぎに駆けつけて現地で待ち合わせ。

最寄り「フクギドウ・201号室」では「平山元康展」(~3/2)が始まっていた。







平山元康氏は初めて知る作家さんだった。
ちょうどこの日、ご本人が来店されていたので、お目にかかることができる。
ネクタイを締めブラックのスーツを着られ、
清潔な感じの方で、陶芸職人というよりはアパレル業界で働く
期待の若手エリートという感じにお見受けした。



(正面の方)

それが…。
広いスペースに展示された器を見渡せば、なんとも野趣あふれて
実にのびのびとした、「生物っぽい」作品が多い。
この「生物っぽい」というのは少し言い得ていないとも思うが、
シンプルなのだけど、作品自体がまだ息をしているような、「生っぽい作品」が多かった。

なかでも、私が購入したのは雑草というか、
草っ原をイメージする大皿だ。
丹波の草の匂いをはらんだ風を体現したような素朴な八寸皿。
この皿に合わせて、スープやフルーツを入れるのに適した小ぶりの鉢を4セット購入した。





店主の言葉を借りると、彼のつくるものは、
「時代劇の脇をしめる役者さんのような器」だとか。

一見は目立たないものの、角度に応じて。置く場所によっても。
表情が変わる器。
最初はピンとこなかったのだが、実際に家で何度か使っているうちに
ああ、と納得するところがある。
地味だけど美しい。地味だから美しいのか。
大皿に「蒸し豚」を盛りながら。
「餃子入りの中華スープ」を入れながら。
その独得の野生っぽい器の気分を日々たっぷり愉しませてもらっている。
使うたびに、いいなあと素直に思う。


このあと、「フクギドウ」(本棟)へ移動。





ここで、まず目にとまったのは、熊本の井上尚之さんのスリップウエアだ。
(スリップとは、ヨーロッパなどで見られた、古い時代の陶器の一種。器の表面をスリップと呼ばれる濃度の高い化粧土で装飾する方法が特徴)

それは丹波の陶芸家・柴田雅章さんのような民藝っぽいものではなく、
もう少し若々しく、どこかヨーロッパ的なラインナップのものが多かった。
ほか、青みがかかった白磁の彩色がきれいな崔在皓(チェ・ジェホ)の器や
萩原芳典さんの作品にも出会い、結局3種ほど連れて帰って、うちの食器棚に収まっている。





器探しとはなぜこうも愉しいのでしょうかね…。
考えるに、やはり想像力なのではないかと私は思う。

料理をのせたり、器同士をコーディネートしたり。
手で洗ったり、拭いたり。
その小さな瞬間の至福を思いながら器を見るのは、なんて愉快なことか。
1客ずつの器を手にし、しっかりと対面しながら。
ムクムクと想像力を働かせて。器自身が連れてきた風景を見て。
さらに自分の家のものたちと溶けて、
それらと一緒に膨らませる世界を想像することが、私にとってはとっても愉快。

いい意味で想像を裏切るというのも、たまらないのだ。

一緒に行ってくれた友人もやはり、そんなこだわりのわかる人。
「ホントに仲がいいんですねー」と。
全く一緒にモノをみていないのに、
3度ほどそう言われた。

この「フクギドウ」の店主「表ゆかり」さんもユニークな方だった。
(面識なかったのだが)、
表さんはライターさんでありながら、手仕事を通じて豊かな暮らしへの橋渡しをしていきたいと、造り手からの配り手役を担い、この店をオープンされたと聞く。
そんな生き方もあるのだなーと。彼女の世界感に大いに共感できるものがあった。
著書である「つくり手からつかい手へ、豊かな暮らし」を当日さっそく購入する。
40分くらい、お喋りしたのだろうか。名刺交換とともにFaceBookでお友達になった(今は人と人のつながりがたちまち近づく道具があるのだ)

大好きな器の仕事をしながら、つくり手とつかい手とをつないでいく仕事。
そのひとつひとつを自分の文で書く暮らしとは、どんなものなのだろう。



このあとは、「フクギドウ」さんからすぐの、「お八つとお茶 いろは」でゆるり、お茶時間も。





ここの日本茶がまたおいしかった。
玉露っぽい上品な香りがたって、
今年飲んだお茶のなかで一番といえるほど香りが素晴らしい。



W


「いちじくと小豆のケーキ」「りんごと栗のキャラメルケーキ」。



焼き加減やお砂糖の具合もよく、
本当にゆっくりと日常の雑多を洗い流して、
沢山おしゃべりを愉しんだ。
なんだか家にいるより、もっとゆっくり出来たくらいであった。

モノ。トキ。ヒト。それらの点と点が、
きれいに一つの線でつながった暮らしというのが、こんなに近くにあるのだ。一つ一つの、憧れや愛着や希望や。
それらを目をそらすことなく丁寧に向き合う暮らしがあるのだ。

「フクギドウ」。そして「お八つとお茶 いろは」。
どちらのお店もステキな物語がありました。





雪の丹波篠山、岩茶房ことり主催「第4回 柴田雅章 窯出しの会」に参加。

2013-12-24 19:00:56 | 器を買いに




3連休の初日、丹波篠山「ことり」で開催された「第4回 柴田雅章 窯出しの会」に参加してきました。

このイベントは、12月21日(土)・22日(日)・23日(祝・月)の3日間限定。

急須、湯呑、茶腕、ティーカップなどお茶にまつわる器を中心に4周年の感謝を込めて、
柴田雅章作品を一部特別価格にて販売するというもの。
また今回は、クリスマスのプレゼント企画として初オークションが開かれ、

柴田雅章氏の作品が最低価格より入札できるのだという。
(「岩茶房ことりは、日本を代表するイギリスの古陶・スリップウエア作家の柴田雅章さんの娘さんが営まれている
岩茶専門の茶房」である)。


21日は寒い朝で。
高速のインターから篠山方面を降りてひた走ると、みぞれ混じりの雪が。
ふわぁー寒い!!と思いながら到着すると、店の雰囲気と空から舞う白のふわふわが
あまりに溶け合って、すばらしい借景に。




雰囲気は最高だ。
岩茶の匂いが漂っている空間は落ち着けるし、
ああ来てよかった!そう思った瞬間なのでした。

店の展示作品をぐるりと1周みわたしてから、この場の空気感を深呼吸。
そして、もう1度オークション作品からじっくりと眺めてみました。








これは私のクセのようなものですが、最初は器自体を風景としてとらえてしまい、美しい!とは思いながら、
何が、なぜ、どこが、どんな風にして良いのか(惹かれるのか)、オブラートに包まれたように、ぼやっとしか信号が送られてこない。
それが、2周くらいまわって同じものを見るうちに、だんだんと。
そして、じんじん、ズーンと響いてくる。要するにモノが見えてくるようになるのです。
(器はいずれも作家ものなので撮影は最小限です)










湿気の多い、丹波篠山の重い土。
今回は土のもつ気迫のようなものが、迫ってきました。
そこに色を重ねたときの質感。なめらかな手ざわり(これは口にあたる時、スプーンにふれあう時に重要だ)
そして、そして、とんがったところのない安泰。

ふ~。いいなあ器。人の手の温かみ。



ここらでちょっと休憩。
岩茶2種(水金亀(すいきんき)、黄金桂)、皮から手づくりミルクまん(2個380円)、
マーラカオをオーダー。
岩茶の香りはいい、やさしい味だ。

友達と、おしゃべり。そうして、ちょっと器のことを頭から離す。

と、そうそうこの日は器好きのライター友達・かおりさんにも、
レポートする予定だったと思い出し、店の人に了解を得て、
彼女が前もって見てほしいといっていた湯のみを中心に、iPhoneで写真撮影。
そうやって40分ほどお茶&撮影をして、再び宣戦布告である。
「勝ってくるぞと勇ましく!」。



1周目とは違って、お茶を飲んで落ち着いたのか、器のもつ美しさが、ぐっと語りかけ、響いてくるようになっていた。
なんと表現したらいいのだろう。こみ上げる高揚感というべきか。
あ、愉しい!幸せ!それらの思いがグッと下腹あたりから広がって。悦びがつきあげてくるようである。

友達も真剣そのもの。
やはり、彼女と一緒に来てよかったと思う(彼女はオークションで素晴らしいスリップウエア四方皿をゲットしたと後で知らせが届いた)。

柴田作品の魅力は私には色に思える。あの飴色、あのグレーブルー、
あの渋い緑はあの人の作品しか見られない。土と空の混じった丹波の色だ。それがイギリスの伝統の技法を纏って再び光り出す。
ひとつ魯山人を彷彿させるちょっぴりレトロな器が気になりだした。
よし、やはりオークションはこちらに変えよう。

そして、こちらを今回は頂こう。
20%も安くしてくださった。

お友達の器の相談に乗って、かおりさんの器レポートを終えて、
彼女が購入する器も決定。ほっとひと息である。
岩茶の効用か、体がカッカと熱くなるようで。思わず原稿を書き終え、ひと仕事した心境に。


お友達やお店のスタッフ、柴田さんのお嬢さんとひとしきり会話したあとで、
恐れ多くも、作家の柴田雅章さんと会話することができた。
文は人を表すとか、字は体を表すというそうだが。器もそのお人柄を忠実に映し出していくものです。

その人、柴田雅章さんは一言でいうと40年代風の男っぽさがにじむ、爽やかなお人柄なのでありました。
(1940年代のサスペンスドラマに、コートの襟をたてて登場しそうな雰囲気)
奇をてらわず誠実で、丁寧。そして慎重。篠山の気風そのもの。
1948年生まれながら、決して、おっさんではなくて、彼の秘めた男っぽさ。そこに心が動いたのです。


窯とともに、土や草のざわざわした感じが似合う、まさに昭和な男の人。孤独に器と対峙する人。
「暮らしが仕事、仕事が暮らし。(河井寛次郎のような人生を生きてきたのだと、後の資料で読む)」。
照れくさそうだけど、とても自然に微笑んで、私の他愛のない話にイヤな顔もみせずに応えていてくださいました。
(無茶苦茶失礼な表現ですみません)

今度、ゆっくり創作について、柴田さんの感じるイギリスの古陶について、
話しを聞いてみたいと思いました。



そして、ごめんなさい!!!
私の初オークションでいれた価格。
なぜにあんな、知も常識もない価格を入れてしまったのかが悔やまれる、この頃。

ま、来年再びチャレンジしますのでどうぞ、どうぞ、お許しを。

あー、イベントで頂戴した茉莉針王とクッキーを頂きながら。懺悔の心地。そして今夜はメリークリスマス。これから鶏とケーキを焼こう!!










8月8日のバースデーに届いた器の話

2013-08-16 23:57:09 | 器を買いに


8月8日のバースデーに届いた器。

福岡県の花祭窯(福岡県福津市津屋崎4-8-20)に、お願いして自分に贈った器である。
この器、小さな想い出があるのだ。

約4年前、堂島の「ようび」を訪れたある日。沢山の器のなかから、そこだけがキラキラとして輝いてみえた。
というのはウソで、とても控えめでオーラ-を消してひっそりと隠れていたんだけど、見つけてしまったという感じだった。
見た途端、不思議な文様だなあと吸い寄せられた。
そして古い友人にプレゼントしたのだった。
(わたしはこの時、同じ文様の蕎麦猪口を自分用に買っていた)

そしてそして、
先日この蕎麦猪口で朝のミルクティーを飲みながら、友人にプレゼントした器のことをうっすらと思い出し、
作家である藤吉憲典さんの窯元に依頼して、自宅に届けてもらったという経緯なのだった。

それがこれ!








(奥の蕎麦猪口は、以前からある愛用品)

時間の波をくぐりぬけて、土のなかから忽然と現れた古伊万里の雑器のよう。

染付の瓔珞文(ようらくもん)は、古伊万里や仁清などでよく見られる吉祥柄だという。また、インドの上流階級の人々が頭や首や胸を飾る装身具としても使われているものだとか。
そんなことを、だいぶ後になってから知った。


瓔珞文(ようらくもん)を連ね重ねたこの小鉢は、3つで一つの入れ子になっている。



日本の東北のニオイもするし、ヨーロッパの北欧のニオイもする。
アンティークのようでもあるし、麗しきデザインのようでもある。
シャープで簡潔でありながら、どっしりとした風格もある。

その不思議さに、ただただ惹かれて買った器なのだった。

うちの食器棚に見事おさまってくれるのだろうか。
ともあれ、ようこそ、いらっしゃい。

いつから、どう使わせてもらおうか、ちょっぴりドキドキする器なのである。


新緑の頃に出会った器たち その2

2013-05-29 18:53:42 | 器を買いに


この間から器のことを少し書きかけていたので、そろそろ続編といこうと思う。





 レギーナ・アルテールさんのティーポットは、一昨年の個展の際にすでに寺町のギャラリー「sophora」で見つけていた。
レギーナさんはスイスで生まれてチューリッヒ芸術学校を卒業。楽焼きを通して日本の焼き物に出逢い、日本の陶芸に興味をもって1979年、海を渡ってこられた。
 私はもう8年ほど前になるのだろうか。陶芸家である前川俊一さん(夫)とレギーナ・アルテールさんのご夫婦を特集記事として取材させてもらったことがあった。
レギーナさんは当時おっしゃっていた。

 「俊一とは京都の陶工の学校へ見学に訪れた際に出逢い、登り窯やギャラリーなどをともに訪ねながら、ものやアートへの感じ方が似ているなあと。
まるで井戸のように深いところで繋がっているように思えました」と。


ご夫婦は今も、あの頃と変わらず、滋賀県の棚田が広がる高島町で静かに暮らし、創作活動を続けられている。
 作品をみると新しい挑戦や新展開もあるようだか、レギーナさんのモノをみつめる時の子供のような好奇心に満ちた瞳や驚き、優しさは変わっていない。
 なんだろう、日本の陶芸家では決して出せないヨーロッパの人がとらえた日本の自然や生物、環境などが作品にちりばめられていて、それがとてもいとおしく思えるのである。

 私は当時の原稿にも書いている。
「微妙な色のバランスや表情のやわらかいものを色土で表現し、光と空気感の一瞬のきらめきを捉えるレギーナさんの作品」。

彼女は工房の窓辺に、笹や石などを大切に置かれていた。そして「石や水、動植物の動き、細胞の神秘的なものなど自然界からインスピレーションを得ている」と、
いわれていた。

 一昨年前にポットを購入し、今回は2つの茶器をあわせて揃えた。私は取材後も、ご夫婦それぞれの作品を、「個展」を通して追いかけては少しずつ買いそろえていた。
ただ、3月にそのほとんどが割れ、今は前川さんのフリーカップ2つと斜めの細いヒビがはいった花器だけ。
まだご健在だし、ふたりにお会いする口実ができたのである。



 続いても、同じくHさんと寺町を歩いた時に「グランピエ」で見つけたの。



栃木県・南窓窯の石川雅一さんの粉引の器。「グランピエ」ならではの、リーズナブルな器。
小さくて、コロンとして、涼やかなグレー地。ピーマン煮やナスと唐辛子を似た惣菜をいれたり、
らっきょうをいれたりするのに重宝している。




こちらは先日と同じく、5月のゴールデンウィークに信楽を訪れた時に「さがら」で購入した。




信楽作家の佐藤源一郎さんの取り皿と中皿。木の棚のなかに沢山の器と溶け込んでいて、最初は目立たなくて気付かなかったけれど、
突然として飛び込んできた、
「私の好きなタイプだわ」と思ったものだった。

ゆるく自然にカーブを描いたフォルムに、海岸でみつけた石と砂が混じったような手触り、自然な色あい。
この器、どんな料理をのせてもハンサムにおさめてくれるし、他の器とも調和をもたらしてくれるとても使いやすい器になっている。






最後のおまけは、「グランピエ」で。
トルコではどこでもみかける茶器らしい。冷茶にいいと店主は勧めてくれたが、アイスクリームなどをいれても可愛いなと思って買った。


今週、来週は少しだけ原稿書きが忙しい。
それで夕食は何にしようかと迷ったあげく(その時9時過ぎ)、結局、暮らしの手帖社が出しているレシピを紐解いて
「ビーフシチュー」にした。2時間以上も煮込んだので、トマトの風味がまろやかで濃厚、酸味が爽やか。
器は、立杭焼の清水圭一さん(かねと窯)で購入した大鉢で。ああ、完全に現実逃避なのであった。








あたらしいお茶椀を買いました その1

2013-05-14 23:48:58 | 器を買いに



長い間、更新を滞っていたら初夏になっていた。
緑の風吹く5月、などとよく形容されるが、ほんとうに最近は光る緑がきれいだ。
ああ。ゴールデンウィーク中のこと、その前の数週間のこと、いっぱいネタはたまっていく一方。
落ち着いてから、今なすべきことが片付いてから、書きたい気持ちになってから、などとその「時」がくるのをひそかに待っていても、
いつまでたってもその「時」は訪れないのである。

そこで強引にこちらから迎えにいくことにした。

そろそろ、まとめておかないと、もう書く気もうせてしまうのが怖くなったのである。

まず「器」のことから。

3月、母を伴って山代温泉に旅行した。
山代温泉といえばすでに書と篆刻で世の一定の評価をうけていた福田大観(後に魯山人)が金沢を訪れて細野えん台に自作の器でもてなされ、
料理と器の美しさに目覚めたのが、彼の芸術家としてのはじまりだったといわれている、ゆかりの地なのだ。

そうなると、
どうしても魯山人が同じ陶芸作家として影響をうけ、手ほどきをうけた初代須田菁華さんの窯を訪れてみないわけにはいかない。
旅行の2日目「須田菁華」4代目・3代目の器に会いにいく。

小さな日本家屋、玄関先からおびただしい器の数かず。
色、モチーフともに華やかで圧倒される。
どちらかといえば地味な器を好む私は、少々めんくらった。
2周、3周して器を見て歩いて、ようやく目が須田さんの器になれたころに、
目に飛び込んできたのがこれだった。

「矢啓赤絵花網文茶碗」(須田菁華)






編目文のなかの梅が赤く咲いていたり、白かったり。
まっすぐに前から見ても、上からのぞいても、花がきれい。




かたちもごく自然としぼんでいく様が、上品だし、
見たり、触ったりしているだけで幸せな気持ちになる器だと思った。
この花々には、煎茶の緑が美しく映えるに違いない。いまの季節にぴったりだ。

そう思ったが、値段は1万円以上も(9千円以下のものはほぼない)。
茶碗は1客あっても寂しい。
客人と一緒に同じ茶碗で飲みたい。
それで一度は諦めて、菓子を盛る小ぶりの器や刺身などを盛る鉢を見て歩く。
これは、と思うものは1客2万円以上である。
母も娘のNもいて、「早く、早く」と急かされる。
これ以上、ゆっくり器買いを愉しめそうになかったのでこの日は何も買わずに断念。
結局、帰る電車の中でも後ろ髪をひかれて、家についてからすぐ店へ電話して2客送ってもらったのである。
私の小さな頭は、ひとつのことで
よくよくいっぱいになることが多い。





続いてゴールデンウィークに信楽陶器市にでかけ、
「さがら」さんで購入したのがこのそば猪口。(柴垣六蔵)






そば猪口は手に持った時のおさまりが大好きで、よく買う器のひとつだ。
日本酒のほか、日本茶や紅茶などをいれるときもよく使う。
和総菜などを盛ってもいい。
シンプル極まりのないかたちが大好きなのである。

この器を購入した日も実に新緑がきれいな日だった。
あまりに品のあるウグイス色。
茶碗の肌色も透明感があって、ぽってりした印象なのに、ツルンともしている。
持った感じも手にほどよい重みがあって、中国のアンティークぽさが漂う。

おしりの六。柴垣六蔵さんの六。いいなあ、こういうの。



「さがら」には柴垣六蔵さんの器がいくつも展示してあり、
真っ白な取り皿や六号皿、湯飲み、
どれも色や重量感、空気感ともに素敵だった。
洋食器のような和食器のような。
アンティークのような近代もののような。その曖昧さが好きで買った。
この日はもうひとつ、取り皿と大きめの鉢も一緒に買った。


これは、河井一喜さんの器(珈琲茶碗)。



2年ほど前に友人のかおりさんに教えてもらった。
京都烏丸の「北欧. スタイル+1アンティカ とモダン」で買う。

雑貨店というか家具店で器を買うなどというのは、かつて経験なかったが、
一昨年前のじぶんの誕生日に、河井一喜さんの珈琲茶碗を購入し、これが見事に割れてしまったので
どうしても同じようなものがほしくて、行った。それでも薄ピンク色の、同じものはなくてガックリ。
このまま帰る気になれなくて、ぐるぐると何度も見渡し、この器を見つけた。

ほんとうはお皿とカップは別ものである。
でもよく合う。
青と紫、赤の独特な釉薬使いに惚れこんで購入する。
土もの茶碗なのにガラスのようにも見えて美しい。珈琲が映える器だ。

京都五条坂に記念館も有する河井寛次郎さんは、河井久(父)さんの叔父にあたる人。
久さんの器も素晴らしいが、息子である河井一喜さんの器も、
民藝の伝統をしっかり受け継ぎながらも、新しい次代の感性を作品に反映させ、モダンさを上手に表現される。

ほか、春から初夏のこの頃まで、もう少し器を買っている。
壊れたものを追い求めて、きょうも器屋さんをこっそりとのぞいているのかもしれない。