月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

宣伝会議5月号掲載。 書家の川尾朋子さんを取材する 

2017-04-14 06:45:17 | 執筆のおしごと(主な執筆原稿、最近の公開できるもの記録)


ご縁あって、「宣伝会議」「ブレーン」「100万社のマーケティング」など宣伝会議発行の関連本の仕事を、ここ10年くらいさせてもらっている。



なかでも宣伝会議の連載ページ「私の広告論」は、自分にとっての新しい学びや発見があり、短時間でささーっと仕上げたくない仕事だ。

4月。新入社員の研修シーズンだが、私は入社して数年はずーっとこの「宣伝会議」や「ブレーン」だけを手にとってページをめくるだけで一日が終わるという日々を過ごしたことがある。
来る日も来る日も仕事がもらえず(某広告会社入社の頃)、朝から夕方まで「宣伝会議」を読んでいた。
というか、眺めては物思いにふけり、淡々とページをめくっていた。
当時、それほど愉しい本だとは思わなかったが、それでも本の中では、広告現場の第一線で仕事をしている人たちの「今の動向」が事細かく説明されており、
憧れの世界への扉(向こう側の景色を、ちらり垣間見ては)で、
ため息をついては、「ちょっと書いてみる?」とコピーのディレクターが思いつきで振ってくれた小さな仕事を、気を引き締めて書いたようなことを、ぼんやり思い出す。

あの頃の自分と同じような新人クリエイターへのエールを込めて、今日も文章を綴らせてもらっている。


さて、ちょっと現実の世界へ引き戻そう。
その「宣伝会議」の本を書かせてもらうようになって数年だ。
毎年多くの著名人から一般の方までインタビューをさせて頂くが、これからさらにメキメキと伸びていかれるだろうなという方に(すでに有名人も含めて)共通するのは、絶対に偉そうぶらないことだ。腰が低く、自分の内に穏やかな泉でも抱えているように淡々と語る人が多い。
偉そうぶらないというのは、言い替えれば自分を大きく見せず自然体で話されること。

彼女もそうだった。
飾らない自分の言葉で話し、思考が簡潔明快な人だった。
(現在は書家・川尾朋子さんを取材執筆した「宣伝会議5月号」(私の広告論)が書店で並んでいます)












彼女が「書」の魅力の1つとして挙げ、習慣にしている事が往年のスーパースター(空海などの拓本)を臨書すること。

数千年前に書かれた「書」であっても、どこから書かれてどこで終わっているのかを追体験することで、文字の美しさを眼と心で感じ、
温もりや息づかいまで感じる、といわれていた。自分は未熟でいつも叱られているような気がするとも。
目に見えるものだけを信じるのではなく、見えないものを見、思考し、想いを馳せ、自分を導く大いなるものを感じること。
それが現代には失われているのはないかと危惧されていた。
彼女は空海などの臨書を、学生時代からずっと日課にしているのだそうだ。(旅行の時でさえ傍らに拓本を持っていくという)

書の人しかり、料理人しかり、コピーライターしかり。
モノをつくり、それを世に紡ぎ出している人の言葉は、深い。いつも魂が平穏。

今回の原稿は、素直に、見たまま感じたままを、私の筆にのせて丁寧に綴っていくだけで十分だった。へんな技巧やみせるための創作性さえも必要ない。
川尾朋子さんという方を純粋に、川尾朋子さんとして誠実にどう伝えるか。伝え切るか。そこに私の裁量が問われる仕事なのだった。

最後に、1階のアトリエで「書」という文字を揮毫していただいた。

修行僧のように集中する数秒間。そこから長い肢体を躍動させ、極太の筆を宙に舞い上がらせて、一気に墨の潤渇で書いていく。
その気迫や息をのむほど。魂が吹き込まれていくようだ。
















インタビュー中に話されていたのだが、川尾さんはいつどんな時にも(海外でもアトリエでも、イベント会場でも)
平常心でいられるように、自身の呼吸法というのを編み出して精神統一をしたあとで、書を書かれているそうだ。
静かな状態の呼吸から徐々に早く呼吸し、最後は静かにゆっくりと吐く。潜在意識(アタマの中)で一度「書」を書くのだという。

シャッターを押すカメラマンの手も、鋭かった。高テンションの撮影。
そして素晴らしい言葉の花束を拝受した清々しい取材でした。
ありがとうございます。

現在は宣伝会議6月号の「私の広告論」・小松美羽さんの原稿を制作中です。