月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

夏の朝のじかん。

2014-08-27 01:08:20 | 今日もいい一日



朝4~5時の間に目が覚めてしまうことがある。
そんな時にはこの間、誰かが言った一言だとか、携わっている仕事のコピーがやっぱり変だな、とか。ぼんやりといろいろを、思い巡らせているのだけれど。
時々、自分の義務だとか、ずっと考え続けていた事柄の答えが
降ってくるように、ひらめいてしまうことがある。

母が言った質問の答え、自分の置かれている立場、これから自分がしなければいけない事や。
そうやって考えはじめたら最後、もう1度、目を閉じて寝つくことなど絶対に出来ない。
だから、30分も考え続けたら仕方なしに、エイヤ!と起き出して、とりあえず上着をはおって、ゆるいゴムのスカートか麻のワンピースなどを着て、朝の散歩に出掛ける。

ほんの数週間前もそう。
まだ夜が明ける前の真っ暗のなかで目だけ開けていて、だから
その日も散歩に出た。
表へ出ると、別世界だった。
空だけでなく屋根や木々、庭、アスファルトの道路など
あたり一面が薄い水色の世界。空気もたった今産まれたばかり。




(昨年 夏の朝の写真)

そうしてあまりにもキレイな光景に感動しながら歩き続けていると、10分ほどしてヒグラシが次々と鳴き出した。
最初はかすれた声。しばらくすると、だんだん本調子で鳴き始める。
ピンクの朝焼けとヒグラシの声。この両者、あまりにいい感じに溶け合っていて、
ふと、その声をたどって歩き続けてみる。

5分も歩かないうちに、家の近くだけど、開発途中でほったらかしにされているような雑木林と谷がからんだようなところに出た。
原生林。人の手が入らない深くて暗い緑の一帯。その雑木林に沿った遊歩道を歩く。
湿気のあるひんやりとした風だ。
そこにはすごい音量でヒグラシがハーモニーを奏でていて、
ちょっとこの世とは思えない光景に出くわしたのだった。(この光景にであった瞬間、引っ越しは二度とできないと思ったほどに)

私はしばらく、石の上に座ってヒグラシの声を聞いていた。
蚊に3・4箇所噛まれたけれど、とても貴重で素晴らしい時間だった。
ヒグラシの声は「1/fのゆらぎ」を持つといわれるけれど、
ホントにそうなんだなぁとしみじみと思いながら。



帰ってから、鉄瓶の湯をわかして紅茶を飲み、
昨日までの読みかけの本に目を通す。
そして、思いついた事を小さなメモに書いた。
こんな風に、私は自分の家や周囲の家々の住人たちが、まだ眠りに包まれているじかんが、好きだ。
このじかんなら、どんな事だって出来てしまえる気がするから。
何をしてもいい、自分だけの「時」という気も。



朝。神棚に、洗い米と水と塩を置いて手をあわせ、
それから、
父の小さな写真が立てかけてあるタンスの上に、新しい水を置き、もう一度手を合わせる。
最近は、香ではなくて線香をよく焚くようになった。
きょうのは、松竹堂の「都の香」沈香。

そして線香の良い香りの海で
いやされながら朝食を食べる。
朝食のあと、このところ毎日パッションフルーツを1個ずつ食べ続けるようになった。



(ビタミンCのサプリを飲むより、ウンといいはず。
それに8月初旬、主人が奄美大島の出張で、スーツケース半分のスペースを埋めるほど「パッションフルーツ」を持って帰ってきたので)。



この一瞬にして全身が酸っぱくなる爽やかな感覚と、熱帯独特の甘みがたまらない。
パッションフルーツは朝のフルーツだ。
最近ある友人に「すぐに食べるのじゃなく、皮も干からびるほど皺になったほうがおいしい」と聞いたので
よく熟成させてから、いただく。

すると、本当だ!濃い酸味のなかに花のような味が加わった。


9月、ちょうどウォーキングの特集テーマもあるので、また歩いてみなければ。
朝活に、効率よく英語も勉強してみたいけれど。



夏の帰省。お盆催事を半日エスケープして城崎温泉へ

2014-08-19 19:25:45 | どこかへ行きたい(日本)



お盆が終わり、週末が終わり、またいつもの生活がはじまった。
振り返ると、今年の夏ほど故人の存在を強く感じた年はなかったように思う。

主人はコンペ提出のチェックや映像撮影の立ち会い等で忙しいようで、今年ははじめて娘のNとふたりっきりでの帰省となった。


13日は特急こうのとりに乗って八鹿駅で降り、バスを乗り継いで高柳へ 。
高照寺へ挨拶を済ませた後で、
父方の先祖代々のお墓参り。
途中で母と合流し、親戚のおじさんおばさんとも合流。

行く時とは違う、地方特有の遅い時間の流れの波を不思議な感じで受けとめながら、
83歳のおじさんが運転する(急発進・急停車の荒い運転にドキドキしながら)車に乗せてもらって、実家にたどりついた。

一級河川の円山川に寄り添って、
夏の緑の山々がどこまでも、続いていく。
この川は、豊岡、城崎を越えると日本海へと注がれるのである。
川面は当然のように深い碧色をたたえていて、
とろんとした碧の川面をきれいだなーーと感心して眺めつつ、
おじさんのジョークに受け答えなどして、
車に乗っていた。
車のフロントガラスを、赤とんぼとオニヤンマが次々と線を描きながら流れていく。

田舎の夏を訪れると、
なぜだか、蝉時雨よりも、トンボの大きさに目をみはる。
ほんの2日前には、今年2月に亡くなった103歳の祖母の初盆で御仏壇に手をあわせ、
母方のお墓参りを済ませたばかり。
私の夏は、これらの大仕事を終わらせないと、自分の夏は始まらないように思う。

2日目は、またまた親戚の集いがあった。母は長女なので手伝いやら、何やらのために朝9時から祖母の家へ。

私たちは、朝起きると早々に地元のローカル電車に揺られて「城崎温泉」へと向かった。

暑い日で、太陽はジリジリと肌を焼き、いちだんと湿気も高く、山陰地方の盆地の夏を久々に味わう。
それでも昔ながらの湾曲した石橋や青柳が懐かしくて、
ゆらり、ゆらりと観光客らと一緒にそぞろ歩く。





地蔵湯を抜けて、柳湯を過ぎ、一の湯をゆっくりと眺めながら朝の城崎を歩く。
「お土産物屋さんも、やっぱり昔とは随分と変わったね」
「みなとや、さんは、あらどこ?名前を変えはったんかな」などと、
独り言のようにつぶやいて、
珍しい店をのぞきながら歩く。
朝の城崎はすがすがしい。外国人の観光客も増えたものだ。


ふと。むこうから父がいつもの笑顔のままでこちらへ向かって歩いている姿がまぶたに映った。
自分の宿の料理人用の白い割烹着を腰だけちょこんと巻いていた。
その横からチラリと見えるワニ革(クロコダイル)の茶緑のベルト。
そしてV字のベスト。
うわーーー、幸せな錯覚だ。それを見た瞬間、涙がほろりとにじんだほど私は嬉しかったのである。
そして
父のふわっとした匂いが私の横を通り過ぎた。
本当にありがたい錯覚だった。

それから、「御所の湯」で朝風呂。








お盆で人が多いのではという心配をよそに、
朝風呂は見事に空いていて3組ほどだった。


山からどうどうと流れる滝のしぶきを目前に見ながら
露天温泉へ入る至福。
夏の温泉も、朝はこんなに清々しく、気持ちいい。
温泉という名の熱い海で、ゆうゆうと体を泳がせているようである。

ここの湯は、一の湯のように塩泉ではないと思うが、
やさしくて、透明感にあふれた、いい湯だった。
前に訪れたのは8年前。やはり祖母の慰安のために城崎へ一泊した時のことを、再び、ゆるゆる思い出す。
城崎は7つの外湯めぐりが、素晴らしい。このままどうぞいつまでも鄙びた温泉場であってほしい。

温泉をあがると、ソフトクリームなんぞは食べず、
フルーツ牛乳もこの日は飲まずに、
すぐ目の前の「をり鶴」という老舗の寿司屋へ。




人気店なので40分ほど待ったが、
カウンターの一番端を陣取れた。
身内だけで接客しているのだろう、物腰のあったかい応対ぶりだ。




お昼なので、まずは「にぎり寿司」を注文し、それからコハダ、サユリ、玉子、サザエなどを別注文。
あわせたのは、香住鶴の純米酒しぼりたて。








大将と息子さんの包丁さばきをみながら、
湯浴みのあとでの、旨い寿司。
最高の気分であった。
酢はきつすぎず、にぎるしゃりも柔らかい。

父は前の小さい店だった時に、よくこの大将のにぎる寿司(魚のにぎりや巻き寿司)をごちそうしてくれたもの。
私が大阪へ帰る時には、自分の作った松花堂膳ではなく
「をり鶴」の寿司を車中で食べるようにと、
持たせたくれたものである。

この日はロープウエイまでは行かなかったが、こうの湯あたりでUターン。
城崎は山裾の裏通りや、こうの湯あたりの桜並木の川沿いを、コロンコロンと下駄をならして歩くのが情緒があって良いように思う。
初めての人は、ぜひ射撃場などで遊んでほしい。
昭和なおばちゃんが、ふっくら、やんわりとした面もちでいくらでも打たしてくれるし、スマートボールなどで遊ばせてくれる。
あるいは儲かっていなさそうな、バーで日本酒を飲んだり、ウエハース添えのアイスクリームを食べるのもいい。


私たちはそんな城崎の夜に想いをはせながら、まだ昼間なので帰りに小松菜と柑橘類の野菜ジュースをスタンドで飲み、城崎を歩く。
きょうは盆踊りが近くの神社で行われるようである。









台風一過が過ぎた、晴れやかな朝の始まりに。

2014-08-11 23:54:40 | 今日もいい一日



台風一過が通り過ぎ、晴れやかな朝が戻ってきました。

災害に遭われた方々、謹んでお見舞い申し上げます。
こちら、西宮はおそらく直撃でした。
隣町の住宅は床上浸水。昼前からサイレンがなりっぱなしで、
20年前の阪神淡路大震災を彷彿させるものがありました。

昼1時頃。玄関から出て雨を見に行ったら
これがもう、凄まじかった。
木々がしなり、斜めからざーーーと降りしきる横殴りの大雨。空がうなり続けるその音に、ビックリ!



ピュー、ピューなんてカワイらしいものではなく

「ウー、ウー!!」「ウーーーーーー!ウーーーー!」と。

空がすごく怒っていて、それが風音となって返ってきているようで
その音はすごかった。

そして、最大級の轟音の後、雨の密度はひとしきり濃くなって、

映画か芝居の雨のように、ざーーーとバケツを真っ逆さまにひっくり返したような大雨が。

そのあと、ほんの1分程は小康状態が続いて、
また、大きな山場がやってくる。

その繰り返し。

なんだか、台風の空から目が離せない状態。
わたくし、しばらく、その場から動けなくてずっーと空を見上げ続けておりました(生まれてはじめて台風というのを観察してしまいました)
自然の力というのは、ものすごい脅威だと肌で再認識しながら。

あの水を混ぜたような灰色の大空と、
木々の緑が左右、前後に激しくもだえている姿、
斜め45度の雨の降り方、
きっと、10年先も忘れない光景として自分の脳裏に刻んでおきたかったのだ思います。

8月10日。そう台風の空から、かれこれ30~40分くらいは目が離せないのでありました。



さて8月8日金曜日、年齢をひとつ飛び超えました。

もう7月に入った途端、来るぞ来るぞ!っという感じで
まるで大波にさらわれるようなインパクトで。
19歳から20歳になる時にも似た、しみじみとしたものを
覚えました。

30歳になったら、40歳になったら、
そして、、、
と想像していた自分よりも随分と違うイメージであります。



誰かがフェイスブックで書いていた占いによると、

私はじぶんが描いている理想と現実とのギャップに延々と悩み、もがき続けるようです。
あー。

確かに物心がついて、小学校の低学年あたりから、
こんな自分ではいけない、明日からちゃんとしよう。もっと真剣に生きよう。
明日からは、本気だしていきようと、そう言い聞かせて気がしますが。

そう想いながら、もうこんなところまでもきてしまった。
もう愕然としてしまいます。



ただ、そろそろ本気に積み重ねてきたものをちゃんとした形にして

「本物」になっていかないとこの先は通用はしない時期にきている(取り残されるぞ)と、それだけはよくわかります。
かなり努力しないと、現役ではいられないのかもしれません。


バースデーには、

京都嵯峨野の祇王寺、大覚寺にて夏の楓を観に行って、鰻を食べ、
夜はちょっと懐かしい北新地の和食&日本酒の店へ行く予定でしたが、急遽、台風等でキャンセル。

代わりに、「故宮」で格別の中華料理をいただき、
インド映画「マダム・イン・ニューヨーク」を観て(最高に好きな映画でした)、器を愛でに行き、
フレンチ&イタリアンの店で赤ワインをグイグイ~っと!3杯飲んで帰るという、実に私らしいお誕生日のひとときとなりました。





そして、本日は、御盆前ひとあし早く、103歳の祖母の初盆にお墓参りにいってきたのでありました。
この頃は風がすでに秋めいてきています。



夏風邪とリリーの缶詰。

2014-08-01 23:24:11 | ご機嫌な人たち


7月の3連休を過ぎたあたりから、夏風邪を長くひいていた。
それまで家族が次々と咳をして風邪気味だったので
用心はしていたものの、見事に移ってしまい、真に残念。
今でもまだ食欲は戻ってこないし、頭はぼぉーぼぉーとして(年中だけど)、気管支はチクチクしている。

風邪の種類は、なんというか38度くらいの熱を伴う、咳のひどいものだった。
ともかく、肩からお腹あたりまでの筋肉をつかって1回の咳をする。
咳の衝動は、1日中続くし、
体を「く」の字に折り曲げて、肩で「はぁはぁ」といいながら、何分間も咳き込むので、それが一番辛かった。

この独特の、嗚咽のような咳き込み方は、私の昔からの体のクセみたいなもので。
会社時代には、周囲の人が相当悪い病気かと勘違いして
私がひとたび咳き込み始めると、
近くにいた人達まで、パァーと引いていって、どこかに居なくなってしまう、というほどの、まぁオーバーな咳なのである。

咳込みはじめて翌日には肺よりも腹筋にきて、咳くたびにお腹に響いて、辛く、
数日は、咳をするたびに、先にお腹を押さえていた。

仕事のメンバーにもらった、毎日2錠の咳止め、五黄、ミミズの漢方。ジキニン&リコリスをお湯に溶いて飲む。
にんにく系のサプリも毎日大量に体に入れた。

咳はしていても仕事の締め切りがあったので
寝込むわけにはいかず、ただただ、あまり思い入れなく淡々と
仕事をこなして提出した。

昨日、最後の1本を出し終わったけれど、
もう、猛烈に悩みまくる苦手分野のコンペの案件だっただけに、
必死のパッチで
メールを送ったあとで
もしかしたら自分はこれまでの信用を一気に無くしてしまったのかもしれない、と愕然とするほど、これまた全身から力が抜けて
自信のかけらもないものを、提出したのだった。


なんだかなぁーと思う。
風邪はだいぶ良くなって、今日は咳も1日に3度4度ほどになったけれど。
自分は今まで何をやってきたのだろうか、と。ここ数十年を振り返って、まだまだ愕然としている状況は続いている。
お腹の贅肉ばかりついて、
実力とか腕力とかは、情けないほど乏しいまんま。

そして風邪というのは不思議だ。
小さい頃のことを、走馬燈のように1つ1つと呼び覚ます、作用がある。

自分が小さかった時や辛かった時。
風邪で真っ赤なほっぺをして布団のなかにいた頃の記憶が
次から次へ降ってくるように蘇ってくるのだ。
そして、そんな時に思い出すのは自分に無償に優しくしてくれた人達の顔だった。
まず父だった。母だった。
そして、学生時代に住まいを共にした人達の顔だった。

高校時代の寮の部屋へ、熱が下がらない私を迎えに来た時の、父の動作のひとつひとつや、運転する車の背中とか。
「もう大丈夫やで」「安心しぃな」とか。


私は、あの頃と内実、ちっとも変わっていない。自信のないガキのような気弱なままだ。



ふと、リリーの桃の缶詰を食べたくなって
「リリーの缶詰が絶対に食べたい」と我が儘をいった。

普段は、缶詰なんてスーパーへ行っても見向きもしないし、
素通りしてしまっているのに。

母は私が小さい頃に熱を出したら決まって桃の缶詰を食べさせたのは、なぜだったのか。
やっぱり同じように、
「桃の缶詰食べたい」と我が儘を言ったからなのだろうか。それさえ、もう忘れてしまった。

忘れてしまったけれど、
やっぱり冷蔵庫のひんやりした棚で冷やされた缶詰があると思うと、
今日も安心した。

そして、頭の中で想像していた以上に、リリーの缶詰は美味なる食べ物だったのである。

白桃の桃の繊維1本を確かめるように舌の上で果肉をコロコロと触ったあとで、とろんとした甘い液状のものと果肉が
一気にストーーンと、喉を駆け下りていく桃の缶詰。(桃じゃあない、やっぱり桃の缶詰)。

冷たい。甘い。ツルンとした丸い果肉。
普段なら絶対に、甘いシロップなんて全部飲んだりしないのに、
風邪の日ばかりは、桃の缶詰は最後の液状のシロップまで
ごちそうなのだった。

風邪をひいて病のあとは、感覚がぽぅーとしているはずなのに。
それでもコトコトと沸かして作る麦茶とか、この缶詰とか、
長崎の出張で買ってきてくれたカステラとか。

それに少しだけパラパラとめくった文庫本の1行1行の文字の綴り、とかが。
すごく敏感に、(鋭敏に)自分の内側に響いてきてくれるのが。ただそれだけが今、ありがたいし、うれしいのだった。