月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

高野山 奥の院で「父を近くに感じた」

2019-05-31 01:09:37 | どこかへ行きたい(日本)








高野山のバス停「奥の院前」で降りると、日射しが斜めに傾いて、いくぶん弱くなっていた。
「奥の院口」でバスを降りて一の橋コースを歩いていくと織田信長や豊臣家、徳川家の墓、武田信玄など戦国武将の墓を一堂に見ることができるという。

なので、本来は一の橋コースからの奥行き2キロにわたる高野山の「奥の院」を歩かせてもらうのが正式なルート。それでも私たちは、金剛峯寺の「阿字観瞑想」を体験して時計は夕方の4時をまわろうとしていて、「壇上伽藍」、「御影堂」までも足を延ばしてしまったので今回は仕方なし。次回は宿坊に宿泊するか、「奥の院」を先にまわるコースを執ろうと決めた。



Yちゃんとふたり、てくてくと霊山・高野山を登っていく。
後ろにもう一組いらしたはずなのに、振り返ると人の気配はすでになかった。

見上げると、白い空からおびのような光が差し込んでいるのがみえてほっとする。
白がたくさん溶けた水色の空。中の橋コースも道の両端には広大な墓地だ。Yちゃんが、墓に刻まれた文字を時々、思い出したように読み上げる。


次第に杉の木立が深くなり、木の皮や葉のゆらぎ、木漏れ日で世界はつくられていく。墓地は混み合っていた。
戦国武将や江戸、明治、大正、昭和と近世の故人の墓が延々と続くのだろう。こうなれば、生きている人間より死んでいる人間のほうが圧倒的な数で迫り来る。霊場という雰囲気がぴったりだな、とぼんやりと遠い脳裏の彼方からそう思う。霊界へと続く道。


途中、石の橋をわたり細い道のほうに出る。

まだ、弘法大師御陵前に鎮座する燈籠堂はみえない。

墓地はさらに深く、石燈籠や墓石の苔も陰湿で暗い。

気配のなかを分け入って進む。足が重い。墓地はさらに深くなり、途中、大きなものに包まれて脳の波動が、あやめらえるような所にでくわす。よくわからないが、少し苦しいような…、微かな気配の波を感じる。こんなのは始めてだ。車酔いをしたように、脳裏のバランスがくずれた。一瞬だけ。


考えてみれば、刀一本で斬った、斬られたの時代を生き、葬られた人の墓が集積しているのだ。当然か。死者の哀しみに接したようだ。


Yちゃんが、「ほらね」「わかるでしょ」「しんどいでしょ」という。
Yちゃんは昨年の秋も、気分が悪くてずっと頭が痛かったのだそうだ。私は全くもって頭は痛くない。

Yちゃんは途中、何を思ったのか、白い立て看板の注意書きを全部大きな声で暗唱しはじめるので、大急ぎで止めた。
10分くらい押し黙ったまま、もくもくと歩くと、ほんのりオレンジの明かりが遠くにかすんで見えた。もうひとつ石の橋を渡る、御陵橋だ。

あぁ、御代の国か。杉木立が林立しているむこうにぼーと霞んでいる。希望の灯のように。こうして燈籠堂に到着した。
目が痛くなるほどの線香の煙と香りにつつまれて、燈籠堂の前で手をあわせて中にはいった。



燈籠堂は、1964年に立て替えられた建物という。
弘法大師のあとを継いだ、第2世座主・真然大徳(しんぜんだいとく)によって創建。藤原道長氏が今の近い規模のものに建立したらしい。
オレンジの灯は無数の燈籠なのだった。昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、たくさんの人の願いが込められた燈籠が奉納されていた。


沈んだ金地で精緻な彫と細工に包まれた燈籠の群は美しい。中には千年前から消えない灯もあるという。平安な心。墓地の先にこれほどの安泰で静謐な御堂が待ち受けていたとは。

御大師様の像がいらっしゃった。わたしたちは、深い安堵と満ち足りた幸福に包まれた。言葉はいらないほど、心の奥で感動していた。




燈籠堂を出て、周囲をまわる。裏手には弘法大師の御陵、手を合わせて参拝。燈籠堂内でも「消えずの火」の向こう側の窓越しに見える。Yちゃんに導かれて、さらにお経が響きわたる地下までおりていく。燈籠の灯り。通路の両側には小さな弘法大師像がずらりとならび、その数は5万体とのこと。


通路の先には奥行のある神聖なところがあり、正面には今も御大師様(弘法大師)がおわします、と聴いた。

この時刻、ちょうどオレンジの袈裟をきた僧が夕方の読経をあげる最中であったので、手を合わせて一礼だけして、すぐに地上へとあがった

そして、大黒堂にある納経所で御朱印を頂戴し、塔婆を求めて我が本家の先祖代々の名前を書いていただき、先祖供養をさせてもらった。

奥の院を訪れる前に、「金剛峯寺」で阿字観瞑想をしたのが本当によかったように思う。一仕事を終えた満足感である。父を近くに感じたのがうれしかった。あ、あ!お大師様を敬いながら、父が近くに来て見ていてくれるような、いい気配を覚えていた。(父の郷里は真言宗高野山の高照寺)


帰りは、バスで小田原通りまで下っていき、胡麻豆腐の老舗「濱田屋」でおみやげを買うことができた。これまで頂いた中で一番というお味(紹介したい)








バスの時間まで、あと少し。「みろく石本舗」で名物のやきもちと、くるみ餅で一服する。






不思議なことなのだが、奥の院を訪れてから、偶然にもバスやケーブルカー、電車が絶妙のタイミングでやってくる。まるで「ようきたな。気をつけてかえりよ」と御大師さんに、おくられているような心地で高野山をおりる。南海電車 高野線特急に乗り換えて座ってなんば駅まで帰る。






新緑の5月に。高野山の総本山金剛峯寺で阿字観瞑想

2019-05-28 23:35:38 | どこかへ行きたい(日本)


ある日。


5月の陽光をうけて輝く新緑の中に、光のような花弁をひろげてシャガの花がぽっかりと口をひろげ、群になって咲いていた。周囲は光の緑。真っ赤な箱型のケーブルカーが、ぐんぐん、高野山の山頂をめざして登っていく。











ゴールデンウィークの半ばなので、人出は多い。ハイカーのようにリックサックを背負った外国人の姿、子供連れの家族が目につく。
山頂にある高野山駅についたら、バスに乗り換えて「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」まで行く予定だ。(約12分)


思いっきり急カーブの山道を、右に左にと揺れながら、杉の山を走っていく。急カーブ続きの山でもバスの運転手は慣れたもの。途中ガードレールがないところもある。真っ逆さまならどこまで落ちていくのだろう。
「女人堂」を過ぎたあたりで、道は平坦になった。ここが山の中であるのを忘れるほど。バスを降りたのは「千手院橋」。まっすぐに進めば「奥の院口」、反対に行けば「大門」となる。



降りるや、「金剛峯寺」を目指して、全速力の勢いで、走るようにすたすたと進む。
後方からYちゃんも遅れまいと一小走りになって付いてきてくれる。一昨年の瞑想の取材で訪れたのも、ちょうど5月だった。当時の景色と今を重ね合わせながらすたすたと歩く…。



そうとうに走ったと思うのに、いっこうに着かない。道の片側は商店が軒を連ね、もう片側は新緑の海。山裾までそう距離はない。さすがに、ちょっとばかり焦ってきた。バス停から「金剛峯寺」まで確か5分も歩けば到着する予定であった。



「おかしい…なんでだろ…。もしかしたら逆方向かもしれない…」。ついに、この言葉がついて出た。



心許ない声でぽつりといい、頭を90度に振り切ってYちゃんのほうをふり向いたら、彼女はスマートフォンとの距離が、5ミリ(GoogleMapを見ていた)。気迫いっぱいに、ガン見していた。そして、乾いた眼差しで苦笑した。


平謝りに頭を下げて、笑いあって近くの茶店 「丸万」にて精進料理定食を食べに入る。






店の外は、まぶしいほど明るく照りつける5月の日差しだ。
玄関口から軒下まで、10組ほどの人の列が重なっている。令和になって2日後。とびきりテンションの高いゴールデンウィークといった陽気である。

「金剛峯寺」の門前には、白い花弁をはらはらと散らす名残の桜が、思いのまま花を落としていた。







一方で、木の門の中程に咲いていたサツキやシャクナゲの花は、朝の澄みわたった高野の気を一心に吸い込み、その清々しい力で花を開かせたという勢いに満ちてみずみずしい。



「金剛峯寺」の玄関で靴をぬいで、古い木の廊下をいく。途中、ご朱印の受付がある。さらに奥へと進んだ。

天皇・上皇が登山された時に応接間としてつかわれた総金箔押しの壁、正四角形に重ねられた書院造りの天井が美しい「上壇の間」。別殿内部の襖絵の中では、いにしえの四季めぐり。格式高い日本画の中を楽しみながら歩き、大広間に向かう。


どっかりと座りお茶を飲む。
一番前で尼僧が手にマイクをもって説教をはじめた。終わった後でYちゃんは、「良かった。こんなにいい話しが聞けただけでも、はるばると山に登った甲斐があった」と来た時よりも機嫌がよく、ほっぺが上気していた。









奥の書院や別殿を囲むように造られた「播龍庭」。この庭、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿をぐるりと取り囲み、庇護するように位置されているという。白砂利は、人間の脳裏の余白のようでも、新緑をつつむ清浄な紗(清浄な空気)のようでもある。








そうして、播龍庭の奥にしつらえらえた一室で、阿字観瞑想を体験した。


「目は半眼です。あの世とこの世の両方に居るような気持ちで。そう。あぐらをくみ、左の腿の上に右の足を重ねてください。左より右が尊いの。元来のあなたの存在は左。右は御大師さまの力をもらった新しいあなたの姿です

次に頭の先を上からひっぱられるようにして、おしりの穴まで一本の線がとおっている、そんな風に意識をむけて座ってください」。


「今から、「阿」。を唱えるのです。
「阿」は宇宙の起源の始まりであり大自然のこと。あいうえをの「阿」で始まり。御大師さんを意味しますよ」。



「鼻から自然に息が入ると、3、5秒。止めて、「阿」「阿ーーーーー」と息をはきます。すべて吐き切ります。最後まで全部ですよ。おへその下にたまった全身の息を、すべて吐くことで、邪悪なものや負のもの、心の澱をすべて吐いていきます」。「阿——ー」。



「阿ーー」


僧の言葉に従って、「阿」の声にのせ、どんどん、どんどん。どくりどくりと、「阿」を吐いていった。途中、つらい、苦しいものや、一筋の光などが現れては、濁流となって流れていく。

誰かがいった言葉がぽかんと浮かんできたり、脳の片隅でしこりのようになっていた、ある日の、あるシーンがどろんと立ち現れては流れていく。

親戚の人や、母の表情が、陰影となって立ち現れ、「阿」を出し続けることが、途中、ものすごく苦しい時がある。背中に汗が吹き出して、このまま倒れるのでは、という恐怖にも包まれた。


いつまで、このように「阿」を出し続け、「阿」と対峙し続けるのだろう、と怒りがこみ上げてくる。

けれど、一昨年の僧とは違って今回の僧は全くの容赦なかった。

いつまでも、いつまでも「阿」は続いた。
「阿…………」「阿………」。
「阿…阿…」。



「今度は、阿を自分の耳の中で聞こえるくらいかの声で、『阿』を唱えてください」

僧の「阿」はそうはいっても力強い。低音で詠うにようにこぶしがまわる、いわゆる読経の「阿」だ。何分そうやって続けたのだろうか。

「今度は阿を、自分の心の中で唱え、瞑想の中へと入っていってください」。



やっと、許された。やっと、自分の姿や自然を、俯瞰で感じていいと許しを請うたと、思った。

ゆるい、自然な風とともに。この地の澄んだ空気をふと感じた。温泉の煙のような曇った白の世界。ようわからない世界。あ、私か。
20分の瞑想は終わった。


このあとは、新緑の波を分け入るようにして「壇上伽藍」まで。
「御影堂」「金堂」まで足をのばして、笑いながら写真を撮る。時計をみると、3時。こりゃいかん急がねば。奥の院行きのバスへ乗り込んだ。