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波打ち際の考察

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波屋山人

『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

2021-03-19 19:44:20 | Weblog
以前、「目からウロコの琉球・沖縄史」というブログを愛読していた。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/

早稲田大学の研究員(当時)が、興味深い沖縄の歴史をわかりやすく伝えてくれるブログだったが、2015年に更新が止まったのを残念に思っていた。
研究者としては、一般向けの軽い活動をメインにするわけにはいかなかったのかもしれない。
あるいは、研究者としての姿勢を理解しない人もいて、琉球や日本のナショナリストから、否定的な姿勢を向けられることもあったのかもしれない。

私は、上里隆史さんは主義主張に基づいて行動したり、自分の思想に都合の良いことを掘り起こして利用したりするような人ではなく、誠実に歴史に向き合っている人だと思っている。
研究の世界に閉じこもることなく一般の人々と言葉を交わし合うこともできる人だから、きっといい大学の先生になるのではないだろうかと思っていた。

だけど、2019年に図書館の館長に就任されたというニュースを目にした。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/419009
> ■浦添の歴史伝えたい/琉球歴史研究家の上里隆史さん/民間初 市立図書館長に
> 2019年5月13日 05:00
>【浦添】市立図書館の館長に、琉球歴史研究家の上里隆史さん(42)が民間出身で初めて就任した。県内でも珍しいという民間出身館長に、市の歴史の魅力や、図書館の今後の展望について聞いた。(聞き手=浦添西原担当・宮里美紀)  
> −沖縄の歴史に関心を持ったきっかけは。  「母の故郷、長野県で生まれた。


図書館や博物館などに勤務した後、大学の先生になって研究と教育に携わる人も多い。
ぜひ、上里隆史さんも、東京か沖縄の大学で教授として招かれてほしいと願う。
肯定されるべきことや否定されるべきことといった社会的制約や政治的意図にからめとられることなく、ありのままの琉球・沖縄の姿を掘り出す上里さんは、魅力的だ。
琉球の独自性を唱えて煽情的な言葉遣いに流れがちな人や、沖縄のことを知らずさまざまな問題を軽視しがちな人は、上里さんの本を何冊か読めば、得ることが多いと思う。


<参考>
『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』上里隆史著、ボーダーインク、2009年

p17
 琉球では一三七二年、浦添の世の主・察度が「中山王」として明朝への初入貢を果たし、ここに中国との約五〇〇年に及ぶ公的な関係が開始された。
 続いて一三八〇年に山南王の承察度(うふさと)、一三八三年に山北王の怕尼芝(はねじ)が入貢し、沖縄島では三王が明朝との朝貢関係を結ぶにいたる。

p23-24
 沖縄島を統一した第一尚氏王朝であったが、各地にはいまだ按司たちが割拠しており、王権による強力な統治体制は確立されていなかった。その実態はなお「按司連合政権」の様相を呈していた。
 こうした状況下で一四七〇年(成化六)、那覇行政の長で対外貿易を統括していた御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)の金丸(かねまる)がクーデターにより尚円王(金丸世主)として即位した(第二尚氏王朝)。
 この王朝は王権の強化をはかり、一六世紀初めの尚真の代になって王国全域を首里の国王が直接統治する「間切(まぎり)・シマ」制度を設定し、三司官(世あすたべ)の指導体制と王府の中央組織「ヒキ」制度を整備するなど、中央集権体制が確立する。
 さらに沖縄島の琉球王国は周辺地域に軍事侵攻し、版図を拡大していく。北の奄美大島は一四四〇年代には王国支配下に入っていたが、一四六六年(成化二)には最後まで抵抗していた喜界島が第一尚氏の尚徳王率いる王国軍二〇〇〇によって征服された。
 南の宮古・八重山地域には一五〇〇年(弘治一三)に尚真王が三〇〇〇の軍勢を派遣し、八重山のオヤケアカハチらの抵抗をしりぞけて完全に征服した。一五〇七年(正徳二)には久米島も占領し、ここに琉球王国は奄美大島から与那国島までの島嶼群を統治するにいたったのである。

p34-35
 古琉球王国には数千人規模の軍事組織が存在していた。この軍勢は歌謡集『おもろさうし』で「しよりおやいくさ(首里親軍)」などと謡われ、奄美・先島地域への征服活動をになった琉球王国の「軍隊」であった。
 琉球は一六世紀の尚真王代に武器を廃棄し非武装化したとこれまで言われていたが、実際には尚真王代にそれまでの按司の寄せ集めだった軍団編成から、王府直轄の統一的な「王国軍」を完成させていたのだった。一五七一年(隆慶五)には奄美の反乱鎮圧のために尚元王が軍勢を派遣しており、古琉球を通じて外征能力を備えた軍事組織だったとみられる。

p43
 ポルトガル支配下のマラッカから拠点を移した多くの商人たちとともに、一五一一年以降、琉球人もマラッカへ二度と足を運ぶことはなかった。琉球船はジャワ島のスンダ・カラパ、マレー半島のパタニといった港湾都市へと取引先を移すが、派遣回数は減少し、かつてのような交易の活況を取り戻すにはいたらなかった。
 マラッカ陥落後にポルトガル人トメ・ピレスは著書『東方諸国記』のなかで、琉球人を「レキオ」または「ゴーレス(刀剣を帯びた人々)」と呼んでいる。「ゴール」は東南アジアで刀剣を意味し、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いた。当時の琉球人は大量の日本刀を東南アジアへもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していたからである。また彼らが豊富な交易品をマラッカに持参し、色白で良い服装をし、気位が高く勇猛であったことも記している。琉球ではちょうど中央集権化を達成した尚真王の治世に当たる。
 ピレスは琉球人たちを実見したわけではなく、すでに彼らがマラッカを去った後、人々の話す二次情報を書き留めたのであった。

p48-50
 明朝の朝貢体制下、国営中継貿易を行っていた琉球王国は、一六世紀に入ると貿易の衰退が顕著となる。
 明朝の琉球優遇策の後退によりかつての「不時朝貢(無制限の朝貢)」は二年一貢に制限され、比較的自由だった入貢経路も福州に一元化、明朝の海船支給停止による貿易船の小型化などで朝貢回数も減少する。
 明朝より無償提供された船(字号船)は三〇〇名乗りの大型船であったが、一五四〇年代の支給停止以降、中国で小型の民間商船を購入し、また琉球で造船したものに変わっていく。これらは一二〇名前後しか乗船できない小型船である。当然、交易品の積載量も半減する。
 さらに琉球の朝貢貿易業務の支援集団として位置付けられていた「閩人三十六姓」も土着化や人材の老齢化・子孫断絶が進み、居留地の久米村も衰退へ向かった。それまで対外貿易を担っていたスタッフたちがいなくなってしまい、長距離の外洋航海すら満足に行えない事態となっていく。
 とくに一五六七年の海禁解除以降、漳州月港から押し寄せる多数の民間商船にマーケットを奪われたのは大きな痛手であった。(略)
 琉球の外交文書集『歴代宝案』には、一五七〇年(隆慶四)のシャム(タイ)派遣船の記録を最後に東南アジア貿易の記述は見られなくなる。

p88
 一六世紀半ば以降、琉球での貿易はかつてのように利益が出るものではなくなっており、海商らはダイレクトに日本へ渡航して交易を行うようになっていた。一五三四年(嘉靖一三)の冊封時、琉球に渡来する船は一〇カ国あまりだったのが、一五六一年(嘉靖四〇)冊封時には三、四カ国となり、貿易の利益も減少していたという(夏子陽『使琉球録』)

p106
 秀吉は琉球への服属を島津氏に命じるとともに、朝鮮王朝の出仕も対馬の宗氏に命じた。明らかに属国扱いである。朝鮮は宗氏に従属する存在である、秀吉はそう理解していた。朝鮮と宗氏の関係を、「琉球は島津氏の従属国」という同じ論理で考えていたのである。
 中世の日本では明は対等国、朝鮮・琉球は属国であるとの一方的な認識を持っており、朝鮮・琉球の室町幕府への遣使は「朝貢」の使節として扱われていた。当時の日本で共有されていた周辺諸国に対する蔑視観を秀吉が持つのは当然のなりゆきであったが、驚くべきことに、彼は明の征服までも視野に入れていた。

p128
 一五八八年(万暦一六、天正一六)の恫喝をともなう秀吉の入貢要求に一年の引き延ばしの後、ようやく天龍寺桃庵を送って事を収めようとはかった琉球だったが、続けて一五九〇年二月、秀吉は尚寧に明征服の計画をはじめて表明し、琉球もその戦争に日本の側として加わることを要求した。くわえて他国にこの情報を漏洩しないよう念を押したが、この秀吉の明侵略情報を最初に通報したのは琉球だった。
 琉球で秀吉の企てを明に通報したのは、の鄭迵(謝名親方、字は利山)。後に三司官となり島津軍に徹底抗戦する反骨の士である。
 鄭迵は一五四九年(嘉靖二八)生まれ。那覇にあった華人居留地・久米村の末裔で、鄭氏の九代目にあたる。一五六五年には明の南京国子監に七年留学し、帰国後の一五七七年にに就き、一五八九年には久米村の統括者「総理唐栄司(そうりとうえいし)」となっていた。彼は身長六尺(一八〇センチあまり)で「色くろき男」だったという(『喜安日記))。

p206
 それまで琉球の聘礼問題を解決するためだった出兵が、ここにいたって島津氏の財政難を打開するための領土拡大戦争としての性格も加わったのだ。大島攻略は島津氏内部の問題(隠知行や財政難)を解決するための必須事項として位置づけられたのである。

p208-209
(略)島津軍侵攻を記した『琉球入ノ記』には、一七世紀前半頃に中国・日本国の商人や鹿児島、坊津、山川、七島衆が琉球に「集居」して交易活動を行っていたとある。
(略)那覇には華人居留地の久米村だけではなく、古琉球期を通じて「もうひとつの中世日本社会」ともいえる日本人居留地が存在しており、近世初期の日本では那覇に「日本町」がある、と認識されていた(『定西法師伝』)。

p225
 一六〇九年(慶長一四・万暦三七)二月一日付で、島津義弘から尚寧王へ「最後通牒」ともいえる書状が届けられた(『旧記雑録』)。このなかでは亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったこと糾問しており、さらに(略)

p229
 さらに注目されるのが、島津軍は軍役の規定(一五〇〇人)を上回る倍の兵数を動員していることだ。(略)
 実はもう一つの要因として、困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍した可能性が指摘されている(桐野作人「さつま人国誌(一一二)」)。

p235
 古琉球期の甲冑は基本的に室町期日本の様式(胴丸・腹巻)とほぼ変わらず、しかも琉球風に若干アレンジして現地生産を行っていたことが明らかになっている。

p235-236
(略)琉球では日本様式の刀剣が用いられていたが、一五九二年朝鮮で日本軍と戦った明は鋭利な日本刀の威力に驚き、後に朝鮮王朝とともに日本様式の刀剣を導入している。

p270
 四月一日午後二時頃、大湾から南下してきた海路の島津軍が那覇港に突入した。
(略)ここには謝名親方率いる三〇〇〇の兵が陣取っており、両グスクから「大石火矢」による砲撃を敢行した。突入した七島衆の軍船七隻は琉球側の砲撃によってことごとく撃破され、軍船は破船・沈没した(ただし死傷者はいなかったと記す)。

p289
 軍事組織が存在したとはいえ、琉球は戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかった。つまり表向きは組織や兵数、装備がいちおう整っていたとしても、用兵面においては大きく劣り、島津軍の動きに臨機応変に対処できなかった。

p292
 『おもろさうし』は一六~一七世紀に編纂されたものであり、収録されているオモロは「こうであって欲しい」との願いを込め、儀礼において何度も繰り返す「歌」という性格を持っているので(略)、特定の日時の史料として扱うには慎重でなければならない。だが少なくとも古琉球期において外敵の侵入に際し、それを撃退するための祈願が行われていたことはうかがえよう。

p296
 四月五日、主のいなくなった首里城は島津軍に接収された。武将クラスの者少数が入城し、城内に所蔵されていた宝物の点検が開始され、それらはすべて島津軍によって没収されることになった。

p301
 上陸した尚寧は鹿児島より派遣された町田久幸・鎌田政徳の警護のもと、山川の仮屋に一カ月ほど滞在していたが、その間に島津氏の外交ブレーンだった正興寺の文之玄昌(南浦)と面会している。(略)
 ちなみに文之は「琉球を討つ詩並びに序」で、かつて源為朝が琉球を征伐しその子孫が王になっていること、琉球は数十世の昔より島津氏の附庸国(従属国)だったことを主張し、その関係を収斂の臣・邪那(謝名親方)が悪化させたのでやむなく征伐した、と琉球侵攻を正当化する文章を著している。後に出た『中山世鑑』の為朝伝説や謝名親方観はこの「琉球を討つ詩並びに序」に依拠したものであった。

p312-313
 尚寧が日本へ連行された後の琉球では、すでに一六〇九年(慶長一四)から島津氏による検地(農地測量)」が行われていた。沖縄本島と周辺離島の検地を翌一六一〇年までに終え、さらに一六一一年には宮古島をはじめとした先島諸島で実施された。琉球の石高を把握することにより幕藩制国家の知行体系に琉球を取り込み、島津氏と琉球との主従関係を確立するのが目的であった。古琉球には「カリヤ・ヌキ」という独自の丈量制度があったが、ここで初めて日本の石高制が適用されたのである。(略)
 奄美地域については琉球から分離され、一六一〇年には島津氏により大島代官が置かれ、一六一三年には大島奉行と改称された。一六一六年には徳之島奉行が新設され、徳之島・沖永良部島・与論島を管轄させた。

p314-315
 尚寧一行の帰国にあわせて、九月十九日には島津氏の琉球当地の指針を記した「掟十五カ条」が発布された。(略)
 この「掟十五カ条」にあわせて尚寧王と王府首脳に対し、島津氏への忠誠を誓う起請文への署名も強制された。そこでは、琉球は往古より島津氏の附庸国(従属国)であったが、秀吉時代の徭役(軍役)を果たさなかった罪で破却した、と琉球征服を正当化し、慈悲深い島津家久が一度滅んだ琉球を復活させた恩義を強調している。そのうえで子々孫まで薩摩への忠誠を誓うことが記されている。
 尚寧はじめ重臣らはこの起請文に署名させられたが、ただ一人、署名を拒否した人物がいた。謝名親方(鄭迵)である。島津氏の侵攻に徹底抗戦した彼は、最後までその意志を曲げることなく貫き通した。尚寧らが起請文を提出した九月十九日午後四時頃、鹿児島で斬首された。享年六三歳であった。

p318
 琉球が日本に操られていることを確認した明は、琉球使節の北京行きを許可せず、朝貢品のうち「倭物」も返還した。さらに島津軍の侵攻を受けた琉球の国力回復を待つとの名目で、琉球の貢期を一〇年一貢に変更した。事実上の朝貢禁止である。
 だが明は敵対国・日本の傘下に入った琉球との朝貢関係を断絶しなかった。それは明が島津軍の侵攻に対し、琉球へ援軍を送らずに見殺しにしてしまったという負い目と、朝貢関係がなくなれば琉球が完全に日本に取り込まれ、明にとって脅威となるとの懸念があったためである。

p335-336
 琉球はアイヌ―松前、朝鮮―対馬、オランダ・中国―長崎とともに幕藩制国家のなかの「四つの口」として機能し、また南から押し寄せるキリスト教の防波堤としての役割を果たすことになったのである。
 近世の琉球は中国(明、やがて清)との朝貢関係を維持しつつ、日本の幕藩制国家へも従属するという「二重朝貢」の国家となった。

p338-339
(略)一六六〇年には首里城が焼失したが、再建が進まないまま、王府は場外の大美御殿に機能を移転し政治を行うありさまであった。琉球は薩摩藩や清といった外からの攻撃によってではなく、内部から崩壊する危機にあったのだ。
 こうした危機に立ち向かったのが、一六六六年(康熙五)から摂政となった羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)(向象賢)であった。羽地はさまざまな改革に乗り出したが、それは機能不全に陥っていた「古琉球」の政治・社会システムを否定し、新たな社会の構築をめざしたものだった。徹底した「古琉球」の破壊に守旧派たちは猛反発するが、羽地はこうした抵抗のなかで改革を強力に推し進めていった。(略)
 羽地が敷いた路線はその後の大政治家・蔡温(具志頭親方文若)にも引き継がれ、現在の沖縄に伝わるさまざまな「伝統」を生んだ。
 身分制確立による門中制度の創設、風水思想にもとづいた碁盤目に区画された集落、亀甲墓、清明祭、琉球の海を走るマーラン船、組踊をはじめとした芸能、サトウキビ畑の風景と黒糖、健康食品として知られるウコン、泡盛、赤瓦やシーサー、壼屋焼、サツマイモ・豚肉食の普及などである。
 我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の時代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである。

p432
 本書は私にとって第三弾目の著作である。これまで『目からウロコの琉球・沖縄史』(二〇〇七年)、『誰も見たことのない琉球』(二〇〇八年)をともにボーダーインク社から出版し、おかげさまで好評をいただいたが、いずれも沖縄の歴史をやさしく解説した入門編というべきものであった。今回が一般書ながら、はじめて自身の研究をもとにした著作ということになる。



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