波打ち際の考察

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波屋山人

熊の木彫り

2021-03-03 21:25:53 | Weblog
かっこいい熊の木彫りをメルカリで購入した。送料込みで2300円ぐらい。
芸術性が高い斬新な作品なのに、非常に安い。

『北海道 木彫り熊の考察』(かりん舎、2014年)を見ると、私の買った熊の木彫りの作者は川村浅光というアイヌ集落で知られる白老の人のようだ。
白老の熊彫作家としては10名以上の名前が掲載してある。
1955年に旭川から熊彫りの指導が白老に来たらしい。しかし、木の使い方や削る技術を見ると、旭川のアイヌよりも八雲の和人の熊彫りの影響を感じる。
旭川では丸太を2つに割って横にして熊を彫るが、八雲では短く切った丸太を立てて彫る。

北海道土産としての熊の木彫りはすっかり陳腐化してすたれてしまったけど、近年また一部で再注目されている。
『熊彫図鑑』(プレコグ・スタヂオ、2019年)という本もいくつかのメディアで見かけた。

先日、図書館で熊の木彫り作家である藤戸竹喜さんに関する本を借りた。
128ページほどの縦長パンフレットのような本。
一般的には、北海道の木彫りは、八雲町に来た入植者が始めたと思われている。
しかし、それ以前に旭川のアイヌも熊を彫っていたようだ。

旭川に生まれた砂澤ビッキは、日本画家の山田美年子さんと北海道で出会ってから鎌倉に行き、澁澤龍彦をはじめさまざまな文化人と出会って刺激を受け、芸術としての抽象彫刻に進んだ。
砂澤ビッキと幼馴染の藤戸竹喜さんは、具象彫刻を極めた。
2018年10月に84歳で亡くなられた時は、朝日新聞にも記事が出た。
https://www.asahi.com/articles/ASLBX4JR0LBXIIPE00H.html

亡くなられる前に丁寧に取材をし、藤戸さんの貴重な証言を残してくれた著者に感謝。

私が阿寒湖のアイヌコタンを訪れたのは2006年、もう15年も前のこと。
当時は砂澤ビッキや藤戸竹喜といった有名彫刻家の名前も知らなかった。
お土産物を売っている店の主人が、私が見ていたブレスレットか何かを見て「お、ビッキ紋様だな」と言っていたことを思い出す。
今から思えば、砂澤ビッキの叔父さんの店だったかもしれない。おそらく、藤戸竹喜さんの店にも入っている。
そろそろまた北海道を訪れてみたい。
白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)や平取町の二風谷アイヌ文化博物館に行ってみたい。



<参考>
■『熊を彫る人 木彫りの熊が誘うアイヌの森 命を紡ぐ彫刻家・藤戸竹喜の仕事』
写真・在本彌生 文・村岡俊也 小学館 2017年

藤戸竹喜(ふじと・たけき)
1934年旭川生まれ。11歳から熊彫りを始め、15歳で阿寒湖を訪れ住み込みの職人として働く。以降、熊を始めとする木彫を続け、スミソニアン博物館での展示など、国内外で高い評価を受ける。札幌駅構内には、「エカシ像」が展示されている、2016年、文化庁地域文化功労者に選ばれた。

P58-59
「ビッキが何でも最初だった」

阿寒湖で知り合ったネコっていう女を追っかけて、(砂澤)ビッキ、きったない格好で東京に行ったんだ。行ったはいいけどカネがなくなって困っていたら、上野の交番でお巡りさんに何をやってるんだって職務質問された。そうしたらあいつ、カネがないから警棒に何か彫らせてくれって頼み込んだんだって。笑っちゃうよな。それで鎌倉までの汽車賃もらったんだぞ。鎌倉に着いてどうにかこうにか家を見つけて訪ねていったら、怪しい奴が来たって女中さんに追い出された。それでも、うまいこと話をして、ネコを北海道に連れて帰ってきたんだ。フィアットっちゅう車に乗ってきたことがあって、それで初めて知ったんだ、イタリアの車なんだぞって。4人乗りの車に何人乗れるかみんなで試してみたら、10人以上乗ったよ(笑)。ビッキは毎年冬には旭川や鎌倉のネコの実家に行って、夏には阿寒湖に帰ってくるという生活をしてた。鎌倉ではずいぶんといろんな人と知り合ったみたいだったけど、阿寒湖では一歩園から土地借りて、小さな家を建てて、赤ん坊が生まれた。
あいつは何をやるのもいっつも最初だった。ビッキが何でも最初。独特のビッキ文様のペンダントを作り始めたら、すぐみんな真似するんだ。お前はすぐに真似されるなってビッキに言ったら、お前は真似されないな。真似したくてもできないなって言われた。あいつと俺は、まったく逆だから。あいつは抽象で、俺はあくまで写実。だから二人の間に問題は起きないわけだ。ネコは芸大出てるから、一緒に仕事ができたんだな。静かな、いい絵を描く女だったよ。二人で机に向かって仕事しながら木の鈴を彫ってたよ。俺はまだ独り者だったから、コンニャロって思いながら熊を彫ってた。あいつらは、いっつも楽しそうに仕事してた。
ビッキもうちの親父と一緒で、なんとか賞なんて、大嫌いだった。でも、みんなに見せてあげたいっていう気持ちで個展はやってたよ。ある時、東京で個展をやったんだけど、作品が届かなくて、自分が台の上に座ってた。作品は、「俺」だって。そういう奴だったよ。

P74
木彫り熊の歴史

北海道の木彫り熊の歴史はいかにして始まったのか。
一般的に語られてきたのは、渡島半島にある八雲町が発祥だという説。つまり、和人が熊彫りを始めたという説だ。明治維新後に家禄を失った尾張徳川家の家臣が北海道へと入植したのが、八雲町の起源(それ以前にはアイヌの人々が暮らしていたが、武士が農民として入植することによって土地を奪われ、本来のアイヌの地名であるユーラップも八雲と変えられている)。拓かれた徳川農場の農場主である尾張徳川家の第19代当主・徳川義親は、引き連れてきた入植者たちが八雲で貧しい生活をしている姿を、熊狩りに訪れるために目の当たりにしていたという。ヨーロッパへの外遊から帰ってきた義親は、スイスで見つけた土産物の木彫りの熊を農民に紹介する。冬の農閑期には「こういう民芸品を作ってはどうか」と勧めたのが、北海道における木彫りの熊の起源だと言われている。1923年(大正12年)のこと。以後、農民美術研究会が徳川農場に作られて、スイスの熊を模した木彫り熊が奨励された。戦後には抽象へと行き着いた表現も、当時はあくまでスイスを手本としたものであった。
現在、八雲の熊としてもっとも有名なのは、戦後に作品を多く残した柴崎重行という名人の作品だろう。精緻に毛を彫り込んでいくスタイルとは正反対の、面彫りによって抽象的に熊を捉えた作品で知られている。ハツリ彫りという、斧で削り取ったような作品は、今見ても独創的でとても素晴らしい。若き柴崎重行が、熊と身近に暮らすアイヌに参考意見を聞こうと作品を持って旭川の近文コタンを訪れ、アイヌの松井梅太郎に4体の熊を譲ったという逸話が残されている。この柴崎重行と松井梅太郎の出会いが、アイヌが木彫り熊を始めたキッカケだという説がある(松井梅太郎が八雲を訪れて4体持ち帰ったという説や、川上コヌサの娘婿・栗山国四郎が嫌がる柴崎に無理に頼み込んで手に入れたという説もある)

P75-82
だが、アイヌはそれまで熊を彫っていなかったのか?
(略)
つまり、八雲で北海道の木彫り熊が奨励される以前から、拙いながらもアイヌは木彫り熊を製作していたことになる。
藤戸竹喜曰く、アイヌの木彫り熊の祖とされている松井梅太郎以前にも、尾澤カンシャトクなど、木彫り熊を彫る先輩たちがいたという。熊撃ちの狩人であった松井梅太郎が熊を彫り始めたのが21歳の時と言われているが、藤戸竹喜の父、藤戸竹夫は松井梅太郎と同世代であり、16歳の頃から熊を彫っていたそうだ。
「八雲が北海道の木彫り熊の発祥の地だって言っているけれど、そんなことはない。アイヌは大正12年よりも遥か前から熊を彫っていたんだから。八雲の熊は、スイスの熊を手本にしたもの。アイヌは、北海道の熊を彫っていたんだ。(略)」

P83
何百年も前から祭祀用のイクパスイ(棒酒箸)や頭に被るサパンペなどには熊が彫り込まれており、その延長としてアイヌの木彫り熊はある。藤戸竹喜のコレクションであるサパンペから、わに熊、ぶた熊への流れを見れば一目瞭然。明らかに地続きのアイヌ文化が見て取れる。旭川市史にあるように、元来アイヌは熊を彫っていた。そこにスイスから八雲を経て伝わった民芸品としての視点が加わり、その姿を変化させていったのだろう。撮影したサパンペは、旭川のエカシである曽祖父・川上コヌサから父・藤戸竹夫に引き継がれたもの。
「這い熊ってあるでしょう? アイヌはあれを横木で作る。でも八雲では、あれを縦木で作っているんだよ。パンと割ってから這い熊を作っているの。その違い一つとっても、アイヌと八雲では全然別物なんだよね。アイヌは、熊を神としてずっと作っていた。熊は、アイヌの言葉でカムイだ。カムイのためにずっと作っていたものを観光的に切り替えたっていうかね。第七師団にも、戦後やってきた進駐軍にも、お土産が必要だったから」
八雲とアイヌ、どちらが北海道における木彫り熊の起源か、という問い自体がナンセンスだが、今までに発信された木彫り熊の歴史のほとんどがアイヌではなく、和人から見たものであった。テレビ番組などで松井梅太郎が旭川の木彫り熊の祖だと語っていた熊彫りの平塚賢智も、その文化に深く親しんでいたとはいえ、アイヌではない。実際に竹喜が直接電話で問い詰めたところ、その説についての誤りを認めていたという。竹喜は、八雲が木彫り熊の発祥という説をはっきりと否定しておきたいと念を押した。
「昭和20年代、私が眩しく見ていた近文の熊彫りのメンバーには、松井梅太郎、砂澤ビッキの父親である砂澤市太郎、尾澤カンシャトク、空知タケシ、伊澤浅次郎、間見谷喜文、それから私の父親である藤戸竹夫がいた。(略)」

P84-85
アイヌの木彫り熊は、戦後、北海道への観光ツアーが増えると共に、爆発的な人気を博していく。1960年代から70年代にかけて、阿寒湖コタンがまるで原宿のように賑わうようになっていく。北海道旅行は一大ブームとなった。その需要に合わせるため、漁師を辞めて熊彫りになる、という極端な例がたくさんあったそうだ。漁師よりも、熊彫りの方が儲かるため、わずか数ヶ月修業しただけで、すぐに独立して熊を彫る人たちがいた。
(略)
1973年(昭和48年)の雑誌「an・an」には藤戸竹喜と砂澤ビッキが並んで掲載されている記事があるほど、北海道は憧れの土地となり、木彫り熊そのものも一大ブームとなっていた。作ったものがどんどん売れるから、藤戸竹喜の弟子たちは少し覚えるとすぐ問屋に引き抜かれて独立してしまう。そのために、一人前に育った弟子は一人もいない。1980年代の中頃まで北海道旅行、そして木彫り熊のブームは続き、1985年頃をピークに急速に萎んでいった。

P85
「俺は年代によって作るものが変わっているから。若い頃に作ったヤツは全然違う。親父の系統を継いでるけど、独立してからは親父ともまた違うものを作っている。
(略)
親父は三角彫りを初めてやった人だ。それまでみんな丸ノミで、親父が三角ノミで彫ったら高く売れたわけ。でも仕上げの時間は倍かかる。鮭負い熊、鮭食い熊、先輩たちが考えたんだ。変わり熊っていうのは、親父がやってたね。俺が考えたのは怒り熊っていうヤツだ。アイディアはすぐに真似される。
もう俺の他には熊彫り少ないから。俺は最高齢だと思うよ、熊彫りの。八雲の熊も、旭川の熊もどちらも素晴らしいと思う。ただ、先輩たちを思い出しながら、まだまだ彫り続けたいんだよ」



コメント (22)
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