波打ち際の考察

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波屋山人

「人に迷惑をかけない」教育が「敗北」と「隷属」を招く

2011-08-17 21:57:57 | Weblog
震災で避難している人が、「人に迷惑をかけられない」とつぶやく。
つつましさ、おもいやり、謙虚さなどの美徳を感じる人もいるだろう。
だけど、ぼくは少し違和感をおぼえる。

日本では、「人に迷惑をかけてはいけない」「人に迷惑をかけなければ好きなことをやっていい」などと教育する親が多い。

おそらく、一昔前の「世間体が大事だ」「世間に顔向けのできないことをしてはいけない」という教育が言葉を変えて存続している。
社会の調和を保つには、そのような共通認識も有効なのだろう。

だが、いったい何をもって他の人に対する迷惑だというのだろう。
何をもって、名誉を失うというのだろう。

「人の嫌がること」を避けることが、人に迷惑をかけないということなのだろうか。
「人から責められること」を避けることが、自分の名誉を守ることなのだろうか。

そうだとしたら、自分はわるいことをしていなくても、相手が不快に感じていたら
相手の主張を受け入れろというのだろうか。
自分が正しいと思うことに挑戦したくても、周囲の人に理解されないのであれば挑戦すべきではないというのだろうか。

確固とした善悪の判断基準にしばられず、対人関係の中で自分の位置を確認する。
そのような、座標軸のないところをただようような身の処し方も興味深い。

しかし、一神教や中華思想などの影響下に育ち確固とした善悪の基準を持っている人に
世の中を把握し判断する力のない人が接した場合、相手にいいように翻弄されてしまうおそれもあるのではないだろうか。

各国によって価値観や歴史観が異なるのは当然のことだが、
「人に迷惑をかけない」ことを基本原理とする国が他の社会と交流をもったとき、
相手の国の価値観や歴史観に合わせる行動をとるようになるかもしれない。
それは、相手の国の利益に見合った価値観や歴史観を受け入れるという事だ。

そうすることによって相手の反発を防ぐことができる。
「自分の意見を主張しない、何を考えているのかわからないへんなやつだ」と思われてしまうかもしれないけど、とりあえずの平穏を維持することができる。

そんな平穏を守るために、人々は「人の迷惑」「世間体」などという言葉を口にするのだろうか。
あいまいな雰囲気のなかで対立相手にずるずると譲歩して徐々に不満をつのらせ、
やがてどうしようもないところまでこじれてから爆発してしまうということもあるのではないだろうか。

悪気はないのだろうけど、「人の迷惑」「世間体」などという言葉は知性を育てる言葉ではない。
リーダーシップも交渉力も、想像力もコミュニケーション能力も高められない。
「人に迷惑をかけない」という行動は、共同体内部でも国際関係でも敗北と隷属を招くおそれがある。

「人に迷惑をかけないようにしよう」と教えるよりは、
「相手がなぜ嫌がるのかを考えよう」、「周囲からなぜ反発を受けるのか考えよう」、
「その問題を解消する手段を考えよう」などと教えたほうが、
だまされない海外営業マンや外交官を育てることができるのではないだろうか。

少なくとも、自分の頭で考え、判断することができる人を育てることができる。
そういった人は、きっと周囲からバカにされても笑われても、糾弾されても、暗殺予告を受けても、自分で切り開いた人生を堂々と歩んでいけるはずだ。



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