波打ち際の考察

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波屋山人

世界に通じる俳句について(書きかけ)

2008-05-04 01:12:53 | Weblog
私たちはどこにいても制約から逃れることはできない。
何らかの制約を持たなければ、形を持つことができない。
私たちは何でも捕まえられるわけでもない手足というものを得ることによって何かをつかみ、どこかに歩いていけるようになった。
何でも表現できるわけでもない言葉というものを得ることによって何かを把握し、何かを表現できるようになった。
だから、私たちは表現するにあたり、制約とは何かということに意識的になってもいい。
きっと、制約がないほど自由な表現ができるようになっても、きっとそれでも制約があることに気がつく。
私たちには、17文字もあれば十分だ。もっとも制限の厳しい定型詩で表現を試してみよう。

「形」について少し考えてみる。たとえば、「会社」とはどういうものだろう。
法人登録して看板を出せば、会社が存在していると言える。だけど、それは形だけだ。
法人登録がなくても看板がなくても事務所すらなくても、売るものがあり買う人があり、経済活動を成り立たせている構造があれば、会社が存在するといえる。
形よりも構造が「何か」を示す。
詩歌も同じではないだろうか。
「何か」を伝えたいときは、どのような構造、どのようなバランス、どのような仕組みを見せようとしているか、考えて発言を行えば、価値観の異なる世界に住む人々にも通じやすい表現が行えるのではないだろうか。


俳句というひとつの定型詩のジャンルがある。
5・7・5、合計17の音節で表現する。
基本的に、季語といわれる四季にちなんだ語を使用する。

たった17文字で何かを表現するのは難しい。
俳句とは何なのか、ということについては多くの人による様々な論がある。
私は俳句の伝統や様々な論についても詳しくないが、ここで私なりの考えを少し述べてみたい。

まず、全く俳句について知らない人が見ても、その良さがわかる俳句というものも存在するのではないかと思っている。
俳句のルールを学んだ人にしか良さの分からない句というものは、芸術として広がりを持たない。
だから、私が俳句を作るときは、できるだけ俳句のことを知らない人にでも通じるように作りたいと思っている。

具体的には、中途半端な「かな」や「けり」などの古語を用いず、現代語を使用する。
「かな」や「けり」で雰囲気を演出しなくても、通じる句を作りたい。
また、一般の人が耳にしたことのない季語もできるだけ使用しない。
「亀鳴く」は春の季語だけど、亀鳴くと聴いてイメージを浮かべられる人はどのくらいいるだろう。私は亀の鳴き声を知らない。
また、「流星」は秋の季語だが、流星と聞いて秋を思い浮かべる人も少ないだろう。

季語は、イメージを生み出すひとつの触媒となるだろうが、季語があればイメージが湧き出るというものでもない。むしろ、効果的でない季語の使い方によって緊張感のないものとなっている句も多い。

他のジャンルの文字を使った芸術に関わる人々に評価されなければ、俳句という詩のジャンルはひとつの幻想となってしまうのではないだろうか。

例えば、世の中には様々な武術がある。
ボクシング、キックボクシング、レスリング、空手、剣道、サンボ、等々。
それらの武術には、身体を使って相手を制圧し打ち負かす手段として、共通するところがある。
身体を使って相手を制圧することができれば、どのジャンルであれ、武術として人々に関心を引きつけることができる。

そして、日本で生まれた柔道や合気道は各世界に通じている。
かつて柔道や合気道に接した各国の武道家、軍人、警察官、SPなどは柔道や合気道の実力を認めた。各国で柔道や合気道は広がりを見せている。

また、世の中には様々なダンスがある。
クラシックバレエ、ソシアルダンス、タンゴ、サルサ、フラダンス、阿波踊り、山海塾、等々。
それらのダンスには、身体を使っての表現として、共通するところがある。
身体表現として価値のある表現ができていれば、どのジャンルであれ、すばらしい芸術として認められる。

だが、日本舞踊はどうだろうか。日本舞踊というジャンルに埋没していないだろうか。
その表現は、身体表現として世界のダンスシーンで競えるものだろうか。
形式にとらわれ、身体表現として形骸化していないだろうか。

詩はどうだろう。様々な詩の形式がある。
定型詩、韻文詩、散文詩、等々。
定型詩には各種の漢詩や短歌、俳句などがある。
韻を踏むことが多いラップは韻文詩に近いかもしれない。

詩は小説や散文よりは短いものが多く、言葉のリズム(韻律)を重視し、表現の技法(習字技法)も発達している。
だが、詩も広く見れば文字を使った表現の一つだ。詩は、散文の一種類と見ることもできる。

クラシック音楽や民族音楽、ロックやポップスは音で表現する。
ダンスや武術は体で表現する。
油絵や水彩画や水墨画や写真は、静止画で表現する。
彫刻やいけばなは立体像で表現する。
映画やアニメは動画で表現する。
そして、詩や小説やエッセイは文字で表現する。
文字で表現するほかの芸術に比べ、俳句は競争力を持っているだろうか。

文字での表現というのは他の表現方法よりもハンディを負っている。音も映像も身体も、文字をはるかに凌ぐ情報量で表現を行うことができる。

だが、シンプルだからこそ、シンプルなことを伝えるという点において、文字は優位に立っている。
「3」や「100」などという数の概念や、「うねる」「きしむ」などの構造、「さみしい」「凍える」などという感覚などをシンプルに伝えるには、文字というローテクは便利だ。

文字で表現するなら、他の表現方法よりも情報量という点に関して大きなハンディを背負っているということを意識した方がよいだろう。

俳句という表現方式は、文字表現の中でも最も制約が厳しい。
しかし、映像と文字の情報量の差は非常に大きく、散文と俳句の情報量の差などは小さなものだ。
文字で表現するという時点で、圧倒的な制約があるということを意識すると、俳句の17文字というところにそれほど窮屈さは感じない。

ただ、窮屈さは感じなくても、制約はある。
言ってみれば、俳句は3本の草木で作る生け花、フラワーアレンジメントのようなものかもしれない。8小節で作る曲のようかもしれない。30秒で書く絵のようなものかもしれない。
その中で表現できるものは多い。
最低限の要素であるからこそ、提示できるものがある。
それは、「構造」だ。

奥行き、角度、長さ、距離感、ズレ、等々の3次元的な構造から
太陽光、明るさ、放射光、闇、たそがれ、透明、濁り、等々の色彩についての構造も表現できる。場合によっては時間の変化も表現できる。

何より、音楽も絵画も詩も、基本要素は「構造」なのだ。
どういう構造を表現しているか、すべての芸術はそれが問われている。
俳句という最短の定型詩は、その構造を示す。

コメディ映画はおもしろい場面が多いが、おもしろい1場面は1分もないことが多い。
青春映画はせつない場面が多いが、せつない一場面を表現するのに多くの時間は必要ない。
俳句はひとつの場面、一瞬の場面を表現することに適している。

けっして、俳句は言葉足らずの不完全な表現ではない。シャレやギャグやあいさつのような、ちょっとした表現ではない。
きちんと、芸術となりえるバランスを持つ構造を提示できる、芸術だ。
そういったことを視野に入れて、最短の定型詩、俳句の可能性を追求したい。

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1 コメント

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羞!恥!心! (金太郎)
2008-05-06 19:25:21
まさか家のエレベーターでフ ェ ラされるなんて思ってなかったよ。。ww
「ここでフ ェ ラさせてくれたらもっと報 酬あげるよ♪」
って言葉に負けましたwww
途中で扉が開いた時は焦ったけど、おかげでもっとオッキしたwww
http://b-key.net/fesarinko/7VBJjHFy
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