メディアでよく目にする、ひろゆきとかホリエモンといった人々が「頭が悪い人」とか「クソだ!」という言葉を使うことに違和感がある。
おそらく、一言で否定したい、生理的に受け付けない、といった感覚を率直に表現しているのだろう。
くだけた気軽な言葉として好意的に受け取っている人もいるかもしれない。
だけど、配慮に欠けた言葉ではないだろうか。
「頭の悪い人」という表現は、「体の悪い人」「容姿の悪い人」などにも通じる。
脳機能に問題のある鬱病や統合失調症の人が、「頭の悪い人」という否定的な言葉を聞いたらどう思うだろうか。
病気で歩くのが遅い人が、「足の悪い人だ!」と失笑されたら、どう感じるだろうか。
病気で視野の狭い人を、「目が悪い!」と切り捨てることは、思考の幅の狭い人に対して「頭が悪い!」と言うことにつながらないだろうか。
なぜ拒絶したり見下したりする必要があるのだろう。
世の中には健康体の人もいれば病気を抱えた人もいる。経済的に潤っている人もいればその日暮らしの人もいる。背の高い人もいれば低い人もいる。知能指数の高い人もいれば低い人もいる。若い人もいれば老いた人もいる。
そういった多様性があるのは自然の摂理に沿った状況なのだから、ひとつの観点から「劣っている」「価値がない」と認識される存在を排除・否定しなくてもいいのではないだろうか。
そもそも、なぜ思考レベルの低いことが否定されなくてはならないのだろう。
もっとも、ちょっと意識の高い人が、勘違いをしているというか成功につながらない道に進みがちなこともある。
彼らが自分でその道を選んで進むのは別にいいが、他の人にまで影響を及ぼすこともある。
そのような人たちに関わりたくないから、反射的に払いのけるように「頭が悪い!」「クソが!」と漏らすのならまだわかる。
別に好かれたくもないし、嫌われたっていい。むしろ、自分のことを嫌ってもらっていいからすぐ離れていってほしいと思っているのかもしれない。
あえて、「頭がわるい」という俗悪的な言葉を使って拒絶しているのだろうか。
「クソだ!」という表現もどうだろう。
排泄物は肥料として活用されることもある。排泄物に価値を見出さず拒絶するのは、排泄物に対して失礼ではないだろうか。
排泄物の管理や活用に関わっている人を見下したり蔑視することにもつながりかねない。
自分の体内にもたくさん抱え込んでいる排泄物を価値のないものとして見下す必要はないのではないか?
排泄物には「肥え(こえ)」という呼び名もある。肥溜めとか肥桶とか。
農村部の人にとって人糞は貴重な肥料だった。
私の実家では2000年前後までは人糞を肥料にして何百坪かの畑で野菜を育てていた。
親や近所の人たちが「クソだ!」などと発言する様子は一度も見たことがない。
もしかしたら、ちょっと意識が高いように見えるけど事実上だまされているような人々に対して、「お前たちは稼いでいる人たちのいい養分になってしまっているだけの肥料のような人間だ!」と喝を入れようとして「クソだ!」と言っているのだろうか。
ひろゆきとかホリエモンといった人たちは柔軟な思考や広い視点を持ち、当意即妙の受け答えができる「頭のいい人」だと思うが、どうして視野の狭い子どもがよく使うような、「頭が悪い」とか「クソ」という表現を多用するのか不思議に感じる。
あまり物事の仕組みに目を向けようとしない、自分の頭で考えようとしない人たちにも、自分たちの言葉が届くように、わざと子どもっぽい言葉を使っているのだろうか。
あるいは、そういった人たちの裏をかいて、皮肉として多用しているのだろうか。
「頭が悪い」とか「バカ」といった安易な表現を使う人こそ、本当の意味で頭が悪いんだよ、とか
「クソだ!」とか「ムカツク!」といった感覚的に否定してばかりの人こそ、自分の世界を狭めて袋小路に入って夢想に逃げてしまうんだよ、とか
人をバカにした態度をとっている人を持ち上げることなんて意味ないよ、早く気づけよ、といったことを伝えようとしているのだろうか。
本当に頭の機能にすぐれているというか言語表現に巧みな人は、安易に否定する言葉を多用しない。
アホとかバカとかマヌケとかクソなどといった罵倒語の多用は、猫パンチ並みに破壊力が弱く、客観的に見るとお粗末な印象。そのことをわかっている人は、罵倒語なんて使おうとも思わない。
スマートに関節技を決めるには無駄な威嚇も大声も必要ない。
時代も変わった。
学生運動の頃は、罵倒語や感情的な表現も、士気高揚や熱気演出などのために許容されていた。
しかし、当時の言葉が抜けていない高齢の評論家が熱く語っても、なかなか現在の人々には届かない。
煽情的な表現や罵倒語は、論理的な説明を放棄した暴力的な行為だと思われがち。
評論家の佐高信さんは、相変わらずの論調で名誉棄損か何かで佐藤優さんに訴えられているようだが、現代では有罪になってしまう可能性も高いのではないだろうか。
現在ニュースサイトやメルマガなどで目にする、学生運動世代というか1940~1950年代生まれの評論家たちの文章表現には違和感を覚えることが多い。
佐高信さん(1945年生)、高野孟さん(1944年生)、山口二郎さん(1958年年生)、浜矩子さん(1952年生)、金子勝さん(1952年生)、新恭という人も1952年前後の生まれではなかっただろうか。
けなすような表現を使わなくても、人を追い詰めることは可能なのだが、その技術は磨かなかったのだろうか。
左派の人たちが暴力的な表現を克服できないうちに、右派の人たちが丁寧な表現を磨いてきていないだろうか。
百田尚樹さん(1956年生)などは相変わらず乱暴な言葉も使っているようだが、櫻井よしこさん(1945年生)は、口汚く罵るようなことはしない。
もっとも、右派論客とされがちな櫻井よしこさんや三浦瑠麗(1980年生)などは保守派というよりは、保守リベラルとでもいうような立ち位置ではないかと思う。
それでも、現代の日本において社会主義や共産主義に親和的な人々が大きく勢力を縮小し、核武装論議や憲法改正論議が全否定される風潮が弱まっているのは、右派の人たちが自分たちの価値観を守るために怒鳴ったり罵ったりといった攻撃的な姿勢を見せなくなった(少なくとも目立たなくなった)ことが影響しているのではないだろうか。
ぜひ、学生運動世代の人たちにも、感情を煽るような言辞の多用ではなく、論理的な解説を求めたい。いつまでも「右派はバカだから」みたいな態度でいると負けてしまう。
私がヤフーニュースなどを見ていて感心することが多い記事を書く人は、1970~1980年代生まれの人が多い。
窪田順生(1974年生)、安田峰俊(1982年生)などといったライターさんの記事は実に興味深い。
中川淳一郎(1973年生)、山本一郎(1973年生)といった人の文章もおもしろい。
彼らは、右派の人からは左派、左派の人からは右派と言われてしまうような人たちかもしれない。
だけど、一見して右派とも左派とも判断がつかない、親政府なのか反政府なのかもわからない。主義に基づいて仲間と敵を分けて擁護と攻撃をくりかえすようなこともしない人々こそ、誠実なのかもしれない。
是々非々というか、物事の構造をありのままに認識しようとする人は、時に忖度なく常識やルールを乗り越える。
そういった人々のなかに、ホリエモン(1972年生)やひろゆき(1976年生)も含まれているのかもしれないと感じていた。
彼らが使用する、人を見下したような表現は、1940~1950年生まれの評論家にありがちな表現とは意味合いが異なるのだろうか。これからも注視しておきたい。
おそらく、一言で否定したい、生理的に受け付けない、といった感覚を率直に表現しているのだろう。
くだけた気軽な言葉として好意的に受け取っている人もいるかもしれない。
だけど、配慮に欠けた言葉ではないだろうか。
「頭の悪い人」という表現は、「体の悪い人」「容姿の悪い人」などにも通じる。
脳機能に問題のある鬱病や統合失調症の人が、「頭の悪い人」という否定的な言葉を聞いたらどう思うだろうか。
病気で歩くのが遅い人が、「足の悪い人だ!」と失笑されたら、どう感じるだろうか。
病気で視野の狭い人を、「目が悪い!」と切り捨てることは、思考の幅の狭い人に対して「頭が悪い!」と言うことにつながらないだろうか。
なぜ拒絶したり見下したりする必要があるのだろう。
世の中には健康体の人もいれば病気を抱えた人もいる。経済的に潤っている人もいればその日暮らしの人もいる。背の高い人もいれば低い人もいる。知能指数の高い人もいれば低い人もいる。若い人もいれば老いた人もいる。
そういった多様性があるのは自然の摂理に沿った状況なのだから、ひとつの観点から「劣っている」「価値がない」と認識される存在を排除・否定しなくてもいいのではないだろうか。
そもそも、なぜ思考レベルの低いことが否定されなくてはならないのだろう。
もっとも、ちょっと意識の高い人が、勘違いをしているというか成功につながらない道に進みがちなこともある。
彼らが自分でその道を選んで進むのは別にいいが、他の人にまで影響を及ぼすこともある。
そのような人たちに関わりたくないから、反射的に払いのけるように「頭が悪い!」「クソが!」と漏らすのならまだわかる。
別に好かれたくもないし、嫌われたっていい。むしろ、自分のことを嫌ってもらっていいからすぐ離れていってほしいと思っているのかもしれない。
あえて、「頭がわるい」という俗悪的な言葉を使って拒絶しているのだろうか。
「クソだ!」という表現もどうだろう。
排泄物は肥料として活用されることもある。排泄物に価値を見出さず拒絶するのは、排泄物に対して失礼ではないだろうか。
排泄物の管理や活用に関わっている人を見下したり蔑視することにもつながりかねない。
自分の体内にもたくさん抱え込んでいる排泄物を価値のないものとして見下す必要はないのではないか?
排泄物には「肥え(こえ)」という呼び名もある。肥溜めとか肥桶とか。
農村部の人にとって人糞は貴重な肥料だった。
私の実家では2000年前後までは人糞を肥料にして何百坪かの畑で野菜を育てていた。
親や近所の人たちが「クソだ!」などと発言する様子は一度も見たことがない。
もしかしたら、ちょっと意識が高いように見えるけど事実上だまされているような人々に対して、「お前たちは稼いでいる人たちのいい養分になってしまっているだけの肥料のような人間だ!」と喝を入れようとして「クソだ!」と言っているのだろうか。
ひろゆきとかホリエモンといった人たちは柔軟な思考や広い視点を持ち、当意即妙の受け答えができる「頭のいい人」だと思うが、どうして視野の狭い子どもがよく使うような、「頭が悪い」とか「クソ」という表現を多用するのか不思議に感じる。
あまり物事の仕組みに目を向けようとしない、自分の頭で考えようとしない人たちにも、自分たちの言葉が届くように、わざと子どもっぽい言葉を使っているのだろうか。
あるいは、そういった人たちの裏をかいて、皮肉として多用しているのだろうか。
「頭が悪い」とか「バカ」といった安易な表現を使う人こそ、本当の意味で頭が悪いんだよ、とか
「クソだ!」とか「ムカツク!」といった感覚的に否定してばかりの人こそ、自分の世界を狭めて袋小路に入って夢想に逃げてしまうんだよ、とか
人をバカにした態度をとっている人を持ち上げることなんて意味ないよ、早く気づけよ、といったことを伝えようとしているのだろうか。
本当に頭の機能にすぐれているというか言語表現に巧みな人は、安易に否定する言葉を多用しない。
アホとかバカとかマヌケとかクソなどといった罵倒語の多用は、猫パンチ並みに破壊力が弱く、客観的に見るとお粗末な印象。そのことをわかっている人は、罵倒語なんて使おうとも思わない。
スマートに関節技を決めるには無駄な威嚇も大声も必要ない。
時代も変わった。
学生運動の頃は、罵倒語や感情的な表現も、士気高揚や熱気演出などのために許容されていた。
しかし、当時の言葉が抜けていない高齢の評論家が熱く語っても、なかなか現在の人々には届かない。
煽情的な表現や罵倒語は、論理的な説明を放棄した暴力的な行為だと思われがち。
評論家の佐高信さんは、相変わらずの論調で名誉棄損か何かで佐藤優さんに訴えられているようだが、現代では有罪になってしまう可能性も高いのではないだろうか。
現在ニュースサイトやメルマガなどで目にする、学生運動世代というか1940~1950年代生まれの評論家たちの文章表現には違和感を覚えることが多い。
佐高信さん(1945年生)、高野孟さん(1944年生)、山口二郎さん(1958年年生)、浜矩子さん(1952年生)、金子勝さん(1952年生)、新恭という人も1952年前後の生まれではなかっただろうか。
けなすような表現を使わなくても、人を追い詰めることは可能なのだが、その技術は磨かなかったのだろうか。
左派の人たちが暴力的な表現を克服できないうちに、右派の人たちが丁寧な表現を磨いてきていないだろうか。
百田尚樹さん(1956年生)などは相変わらず乱暴な言葉も使っているようだが、櫻井よしこさん(1945年生)は、口汚く罵るようなことはしない。
もっとも、右派論客とされがちな櫻井よしこさんや三浦瑠麗(1980年生)などは保守派というよりは、保守リベラルとでもいうような立ち位置ではないかと思う。
それでも、現代の日本において社会主義や共産主義に親和的な人々が大きく勢力を縮小し、核武装論議や憲法改正論議が全否定される風潮が弱まっているのは、右派の人たちが自分たちの価値観を守るために怒鳴ったり罵ったりといった攻撃的な姿勢を見せなくなった(少なくとも目立たなくなった)ことが影響しているのではないだろうか。
ぜひ、学生運動世代の人たちにも、感情を煽るような言辞の多用ではなく、論理的な解説を求めたい。いつまでも「右派はバカだから」みたいな態度でいると負けてしまう。
私がヤフーニュースなどを見ていて感心することが多い記事を書く人は、1970~1980年代生まれの人が多い。
窪田順生(1974年生)、安田峰俊(1982年生)などといったライターさんの記事は実に興味深い。
中川淳一郎(1973年生)、山本一郎(1973年生)といった人の文章もおもしろい。
彼らは、右派の人からは左派、左派の人からは右派と言われてしまうような人たちかもしれない。
だけど、一見して右派とも左派とも判断がつかない、親政府なのか反政府なのかもわからない。主義に基づいて仲間と敵を分けて擁護と攻撃をくりかえすようなこともしない人々こそ、誠実なのかもしれない。
是々非々というか、物事の構造をありのままに認識しようとする人は、時に忖度なく常識やルールを乗り越える。
そういった人々のなかに、ホリエモン(1972年生)やひろゆき(1976年生)も含まれているのかもしれないと感じていた。
彼らが使用する、人を見下したような表現は、1940~1950年生まれの評論家にありがちな表現とは意味合いが異なるのだろうか。これからも注視しておきたい。