1980年前後だろうか、初めて会ったシベリア抑留経験のある親戚のおじさんは、「ロスケが…」と口にしていた。
ロシアに好意的ではないような口ぶりだったけど、シベリアからの帰国者は共産主義思想に染まっているという偏見を持たれたという記事を読んだことがある。
そういう記憶もあったので、シベリア抑留者に関係する本を少し読んでみた。
「ロスケ」は「ロシアの野郎」みたいな侮蔑語かと思っていたけど、「ルースキイ」(ロシア人)から転訛した一面もあるらしい。
中国人に対するかつての侮蔑語、「チャンコロ」が「ヂョングゥォ」(中国)から転訛したのと似ている。
収容所で読まれていた「日本新聞(にっぽん新聞)」は、共産主義的な考え方に人々を導き、秩序化していたようだ。
日本新聞の編集に関わりながら、政治的というよりも文学的な人間だった『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』の著者は、日和見主義的な立場だったらしい。
そういった人の視点からの記述はなかなか興味深かった。
私は、共産主義にあこがれた人々はけっして悪気があったわけではなく、真実に目覚めた気持ちで熱中していたのだと思う。
ただ、共産主義思想の世界観は、自然の摂理には合っていない面があると感じる。
だから、理想の社会を成立させることができず、全体主義国家や格差社会に陥ってしまうのではないだろうか。
例えば、共産主義の基本的な認識、「社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく」というとらえかたには疑問がある。
自然の摂理はそんなにまっすぐに進むものではない。混沌として、拡散・複雑化するイメージの方が近い。
猿や類人猿から人類までどんどん発展して行っているように見えるけど、猿も類人猿も人類も同じ世界に共存している。カビも裸子植物も被子植物も共存している。
その様子は、一方向的な発展というよりもさまざまな方向への拡大・複雑化に近い。
演歌、歌謡曲、渋谷系音楽、音響系と日本の音楽は発展してきたように見えるけど、どの音楽ジャンルも生き残っている。新しい音楽が発展しているかと思えば、周回遅れしているような曲が売れたりする。
封建社会的な枠組みも、資本主義的な存在も、社会主義的な考えも、おそらくひとつの世界に存在し得る。
それは、人間社会において独善的な人も強欲な人も無欲な人も利他的な人も存在しているのに似ている。
人類社会が発達しても、優しくて賢い人ばかりの社会になるわけでもない。
規格外れに優しくて賢い人も出現する一方、利己的で判断力のない人も消滅しない。
人を咎めず、叩かず、侮蔑せず、淡々と行動を進める人もいれば、相変わらず声高で圧力的で攻撃的なわりに諸問題を解決できない人もいる。
それが混沌としたなかにある自然の摂理ではないだろうか。
まあ、そんな混沌の中でぼーっとしていると、秩序化にいそしむ人たちの流れに抗しきれないで、巻き込まれてしまうこともある。
その一つが、シベリアの収容所での共産化運動(民主化運動)であり、戦時中の皇民化運動であり、戦後のサラリーマン制社会なのかもしれない。
流れに巻き込まれるのも楽でいいかもしれないけど、違った道を進むこともできる。
新しいことをはじめた人が、人類の発展・複雑化に貢献することができるのかもしれないと想像する。
気になった部分を少しメモ。
■『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』落合東朗著(論創社、1995年)
P36-37
(略)『日本新聞』四七年二月六日・二一六号から飛び飛びに連載された「豆字引」というタイトルの小欄だった。(略)
◆反動 社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく。例えば、封建時代――資本主義――社会主義への発展は社会の必然的な正しい発展である。この歴史の流れ、発展を食いとめようとすることを反動といい、反動分子などという。
P39
二二〇号は「アジ・プロ」「新円階級」「筍生活」。
◆アジ・プロ アジはアジテーション(扇動)プロパガンダ(宣伝)の略。アジは大衆のねむれる要求や憤激をめざませ闘争に蹶起を促すこと、プロは主義主張を拡めること。アジが主として感情に訴えるのに対し、プロはむしろ理性に訴えるという違いがある。レーニンはこの二つについて次のように言っている。「宣伝家が失業の問題を考えてみると、彼はまず危機の本質を説明し、現在の社会では失業がどうしてもさけられない理由を説明し、そしてこの社会を社会主義社会に変えねばならないことを説明しなければならない。(略)
P84
一九四五年八月八日対日宣戦布告をしたのはソ聯(以下、ソ連と表記)であり、侵攻してきて一週間、たちまち私たちを武装解除したのはソ連軍である。以後、当方との交渉相手はソ連側となった。そして、将校や兵をルースキイ(ロシア人)から転訛したといわれるろすけ(露助)と呼んだ。
P124-125
シベリアから帰国して大学に通いだした年か、その翌一九五二年に級友のひとりが『前衛』(日本共産党機関紙)の古い号をくれた。在ソ抑留者のあいだで展開された民主運動をかえりみた論文が載っていたからで、シベリア帰りの私にはきっと興味があるだろうという好意からだった。
相川春喜という筆者の名前を見て、私は自分の目を疑った。『日本新聞』にときどき見かけた名で、このひとのものを日本共産党の機関紙かそういう関連からの転載にちがいないと思いこんでいたからである。
『前衛』に寄稿した文章のなかで、筆者は、在ソ民主運動に深くかかわった『日本新聞』編集責任者のひとりの立場から、運動全般をかえりみるとともに、その冒頭でかれらが意図した成果が期待を裏切る結果に終わったこと、つまりソ連抑留帰国者の日本共産党入党率が予想を下回ったことと、帰国直後に集団で入党を約束した引揚者の実際に党員となった歩留まりが悪かったことの要因を探っている。私はあらためて『日本新聞』の路線が共産党員の養成、革命の担い手を祖国に送ることにあったという事実を痛感した。
日本共産党の存在と、その歴史を強く意識したのは、『日本新聞』四七年六月十四日・二七一号からはじまった相川春喜の「われらの指導者」というタイトルの連載だった。私のなかに、この十二回にわたる連載とその筆者の名前がしっかりと結びついて強い印象を残した。
P164
私が早稲田の露文に入った五一年のはじめ『文藝春秋』に林達夫「共産主義的人間――二十世紀政治のフォークロア その二」(以下「共産主義的人間」と略記)が発表された。
ソヴェトのような共産主義国家では、政治宣伝が最も有効な武器になっている。ところで宣伝というものは常に強調と誇大をともなうものだから事実の歪曲をまぬがれない。そのため当面する対象が度外れに劇画化され、弱点や失策が誇張され、凶悪無比の親玉に仕立て上げられたり、善玉悪玉の現実離れした極端な明確化と拡大化が見られる。
この前置きにふれて、私の脳裏にたちまち『日本新聞』が浮かんできた。林の指摘する「『嵐の如き』という共産主義者の好きな形容詞」という表現など思わず声を上げたいほどに気持ちが動いた。
P233
日本共産党は、国際共産党から与えられた一九二七年テーゼを活動の方針として受けいれた。日本の現状ではただちに社会主義革命に向かうのはむずかしく、労働者と農民を中心とするブルジョア民主主義革命を成就し、このような革命を通して、天皇制の廃止と封建的地主制を解体しなければならないというものだった。それをさらに明確にしたのが一九三二年テーゼである。戦後の日本共産党はこれらのテーゼを活動方針として出発した。
当然、スターリンに対する崇拝思想も継承した。このことを知ったとき、私にはようやくシベリア抑留日本人のあいだにおこった民主運動が「スターリン感謝文署名運動」に帰結したわけを納得できたように思えた。
p251
『日本新聞』は在ソ民主運動の「中央宣伝者・組織者」といわれ、「教師」とみなされています。内容も四七年に入って米ソ対決姿勢が際立ち、冷戦状態になると次第にラジカルになって、最終的にはいかに多くの日本共産党員をつくりだすかが目的になったように私には見えました。こうした動向に対して、私は日和見主義といわれてもしかたのない、付かず離れずの立場を守りました。たまたまそのような環境に置かれた、とも言えます。
ロシアに好意的ではないような口ぶりだったけど、シベリアからの帰国者は共産主義思想に染まっているという偏見を持たれたという記事を読んだことがある。
そういう記憶もあったので、シベリア抑留者に関係する本を少し読んでみた。
「ロスケ」は「ロシアの野郎」みたいな侮蔑語かと思っていたけど、「ルースキイ」(ロシア人)から転訛した一面もあるらしい。
中国人に対するかつての侮蔑語、「チャンコロ」が「ヂョングゥォ」(中国)から転訛したのと似ている。
収容所で読まれていた「日本新聞(にっぽん新聞)」は、共産主義的な考え方に人々を導き、秩序化していたようだ。
日本新聞の編集に関わりながら、政治的というよりも文学的な人間だった『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』の著者は、日和見主義的な立場だったらしい。
そういった人の視点からの記述はなかなか興味深かった。
私は、共産主義にあこがれた人々はけっして悪気があったわけではなく、真実に目覚めた気持ちで熱中していたのだと思う。
ただ、共産主義思想の世界観は、自然の摂理には合っていない面があると感じる。
だから、理想の社会を成立させることができず、全体主義国家や格差社会に陥ってしまうのではないだろうか。
例えば、共産主義の基本的な認識、「社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく」というとらえかたには疑問がある。
自然の摂理はそんなにまっすぐに進むものではない。混沌として、拡散・複雑化するイメージの方が近い。
猿や類人猿から人類までどんどん発展して行っているように見えるけど、猿も類人猿も人類も同じ世界に共存している。カビも裸子植物も被子植物も共存している。
その様子は、一方向的な発展というよりもさまざまな方向への拡大・複雑化に近い。
演歌、歌謡曲、渋谷系音楽、音響系と日本の音楽は発展してきたように見えるけど、どの音楽ジャンルも生き残っている。新しい音楽が発展しているかと思えば、周回遅れしているような曲が売れたりする。
封建社会的な枠組みも、資本主義的な存在も、社会主義的な考えも、おそらくひとつの世界に存在し得る。
それは、人間社会において独善的な人も強欲な人も無欲な人も利他的な人も存在しているのに似ている。
人類社会が発達しても、優しくて賢い人ばかりの社会になるわけでもない。
規格外れに優しくて賢い人も出現する一方、利己的で判断力のない人も消滅しない。
人を咎めず、叩かず、侮蔑せず、淡々と行動を進める人もいれば、相変わらず声高で圧力的で攻撃的なわりに諸問題を解決できない人もいる。
それが混沌としたなかにある自然の摂理ではないだろうか。
まあ、そんな混沌の中でぼーっとしていると、秩序化にいそしむ人たちの流れに抗しきれないで、巻き込まれてしまうこともある。
その一つが、シベリアの収容所での共産化運動(民主化運動)であり、戦時中の皇民化運動であり、戦後のサラリーマン制社会なのかもしれない。
流れに巻き込まれるのも楽でいいかもしれないけど、違った道を進むこともできる。
新しいことをはじめた人が、人類の発展・複雑化に貢献することができるのかもしれないと想像する。
気になった部分を少しメモ。
■『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』落合東朗著(論創社、1995年)
P36-37
(略)『日本新聞』四七年二月六日・二一六号から飛び飛びに連載された「豆字引」というタイトルの小欄だった。(略)
◆反動 社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく。例えば、封建時代――資本主義――社会主義への発展は社会の必然的な正しい発展である。この歴史の流れ、発展を食いとめようとすることを反動といい、反動分子などという。
P39
二二〇号は「アジ・プロ」「新円階級」「筍生活」。
◆アジ・プロ アジはアジテーション(扇動)プロパガンダ(宣伝)の略。アジは大衆のねむれる要求や憤激をめざませ闘争に蹶起を促すこと、プロは主義主張を拡めること。アジが主として感情に訴えるのに対し、プロはむしろ理性に訴えるという違いがある。レーニンはこの二つについて次のように言っている。「宣伝家が失業の問題を考えてみると、彼はまず危機の本質を説明し、現在の社会では失業がどうしてもさけられない理由を説明し、そしてこの社会を社会主義社会に変えねばならないことを説明しなければならない。(略)
P84
一九四五年八月八日対日宣戦布告をしたのはソ聯(以下、ソ連と表記)であり、侵攻してきて一週間、たちまち私たちを武装解除したのはソ連軍である。以後、当方との交渉相手はソ連側となった。そして、将校や兵をルースキイ(ロシア人)から転訛したといわれるろすけ(露助)と呼んだ。
P124-125
シベリアから帰国して大学に通いだした年か、その翌一九五二年に級友のひとりが『前衛』(日本共産党機関紙)の古い号をくれた。在ソ抑留者のあいだで展開された民主運動をかえりみた論文が載っていたからで、シベリア帰りの私にはきっと興味があるだろうという好意からだった。
相川春喜という筆者の名前を見て、私は自分の目を疑った。『日本新聞』にときどき見かけた名で、このひとのものを日本共産党の機関紙かそういう関連からの転載にちがいないと思いこんでいたからである。
『前衛』に寄稿した文章のなかで、筆者は、在ソ民主運動に深くかかわった『日本新聞』編集責任者のひとりの立場から、運動全般をかえりみるとともに、その冒頭でかれらが意図した成果が期待を裏切る結果に終わったこと、つまりソ連抑留帰国者の日本共産党入党率が予想を下回ったことと、帰国直後に集団で入党を約束した引揚者の実際に党員となった歩留まりが悪かったことの要因を探っている。私はあらためて『日本新聞』の路線が共産党員の養成、革命の担い手を祖国に送ることにあったという事実を痛感した。
日本共産党の存在と、その歴史を強く意識したのは、『日本新聞』四七年六月十四日・二七一号からはじまった相川春喜の「われらの指導者」というタイトルの連載だった。私のなかに、この十二回にわたる連載とその筆者の名前がしっかりと結びついて強い印象を残した。
P164
私が早稲田の露文に入った五一年のはじめ『文藝春秋』に林達夫「共産主義的人間――二十世紀政治のフォークロア その二」(以下「共産主義的人間」と略記)が発表された。
ソヴェトのような共産主義国家では、政治宣伝が最も有効な武器になっている。ところで宣伝というものは常に強調と誇大をともなうものだから事実の歪曲をまぬがれない。そのため当面する対象が度外れに劇画化され、弱点や失策が誇張され、凶悪無比の親玉に仕立て上げられたり、善玉悪玉の現実離れした極端な明確化と拡大化が見られる。
この前置きにふれて、私の脳裏にたちまち『日本新聞』が浮かんできた。林の指摘する「『嵐の如き』という共産主義者の好きな形容詞」という表現など思わず声を上げたいほどに気持ちが動いた。
P233
日本共産党は、国際共産党から与えられた一九二七年テーゼを活動の方針として受けいれた。日本の現状ではただちに社会主義革命に向かうのはむずかしく、労働者と農民を中心とするブルジョア民主主義革命を成就し、このような革命を通して、天皇制の廃止と封建的地主制を解体しなければならないというものだった。それをさらに明確にしたのが一九三二年テーゼである。戦後の日本共産党はこれらのテーゼを活動方針として出発した。
当然、スターリンに対する崇拝思想も継承した。このことを知ったとき、私にはようやくシベリア抑留日本人のあいだにおこった民主運動が「スターリン感謝文署名運動」に帰結したわけを納得できたように思えた。
p251
『日本新聞』は在ソ民主運動の「中央宣伝者・組織者」といわれ、「教師」とみなされています。内容も四七年に入って米ソ対決姿勢が際立ち、冷戦状態になると次第にラジカルになって、最終的にはいかに多くの日本共産党員をつくりだすかが目的になったように私には見えました。こうした動向に対して、私は日和見主義といわれてもしかたのない、付かず離れずの立場を守りました。たまたまそのような環境に置かれた、とも言えます。