波打ち際の考察

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波屋山人

東南アジア山岳地帯の糸引き納豆

2020-10-10 16:46:47 | Weblog
ノンフィクション作家、高野秀行さんの本は読みやすくおもしろいのでよく読んでいる。
今日読了した本は、何年もかけて調査して連載した内容をまとめた読み応えのある大作だった。
謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』高野秀行著、新潮社、2016年

よく、外国人に「納豆食べられますか?」と聞く人がいるように、日本では「納豆は日本独自のものだから、独特のにおいや粘りをいやがる外国人は多いだろう」と思っている人が多い。

だが、世界各地を旅するノンフィクション作家、高野秀行さんによると、ネパール、ブータン、ミャンマー、タイなど各地のモンゴロイド系少数民族の住む地域では、粘りのある納豆を作って食べている人たちがいるという。
また、日本でもかつては納豆汁として利用することが多く、粘りの少ない納豆が作られていたそうだ。

興味深かった個所をいくつかメモ。
須見洋行教授は知り合いの知り合いなので時々名前を聞く。


P48-50
 チェンマイ到着早々、私たちは市内にあるシャン料理店「フン・カム」に出かけた。ここは私の旧友センファー夫妻の行きつけの店で、前回の滞在中、連れて行かれたのだ。
「チェンマイにはシャン料理店がいくつかあるけど、ここがいちばん美味しい。本物のシャン料理だよ」と彼らが絶賛するとおりだった。(略)
「日本のトナオがあるよ」と若女将フン・カムを呼ぶと、まるでマドのように興味津々の面持ちで寄ってきた。彼女と一緒に苞を開ける。私は私で彼女の反応に興味津々。
 果たして彼女は納豆を見ると、「あー、トナオ・サ(糸引き納豆)なのね」と柔らかく微笑んだ。驚くでも喜ぶでもない。その顔に浮かぶのは、“馴染みの人に出会った”というような親愛の情だった。私たちがシャンのトナオやトナオ入りの料理を食べたときに感じるのと同じものだ。
 そのまま藁に顔を埋めるように匂いをかぎ、「ホーム・ホーム(いい香り)」とうなずいた。
 外国人がここまで藁苞納豆に自然な態度をとるのである。「我らは納豆に選ばれし民」と思い込んでいる日本人全員に見せてあげたいと思ったほどだ。

P79
 ご飯がまた納豆料理に合う。お母さんの家では普段うるち米を食べているが、これはタイやミャンマーの一般的なインディカ米と異なり、粒が短く、ちょっと粘り気がある。日本米にとても近いのだ。「シャン米」とミャンマーでも呼ばれ、人気があるそうだ。
 私の経験からいうと、シャンにかぎらず、ミャンマー、タイ、インド、ブータンにかけての高地――つまり納豆を食べると言われている地域では、こういう日本米に似た米がよく食べられている。

P92-93
なんと、パオ族は「常時風呂上り」のスタイルながら、実は風呂に入らない人たちだった。
 匂いというのは相対的なものだ。衛生的な暮らしをすればするほど、強い匂いを好まなくなる。シャン族は「里の民」であり、川や田んぼのあるところにしか住まない。山の上には住まない。いつでも水浴びのできる環境に暮らし、家の中も清潔だ。強い匂いはいらないのだ。
 いっぽう、パオの人たちは「山の民」だ。水浴びをしない。自分たちの体臭が強いので、他のものの匂いも気にならない。むしろ、食べ物の匂いが強くないと物足りなく思う。匂いが強いというのは、「風味がしっかりしている」ということなのだろう。(略)
 結局のところ、山の民は彼らなりにその生活に適応しているから、頭から「不衛生」と決めつけてはいけないのだが、シャン族とパオ族が互いに相手の納豆を好まず、自分たちで作った納豆に固執するのは偏屈なナショナリズム以外にもちゃんとワケがあるのだった。

P104-105
 シャン州の州都タウンジーからマンダレー経由でカチン州の州都ミッチーナに到着したのは十二月九日のことだった。(略)
 納豆がありそうな場内市場に入っていく。品揃えとしてはシャン州とさして変わらない。ただ、塩魚が多いくらいか――などと思って見ていると、唐辛子の横に縦長の財布みたいな、平べったい葉っぱの包みが並べられているのを発見した。もしや?と思って手にとり開いたら、案の定、粒納豆だった。開けた瞬間、葉に引っ張られ、糸を引いている。
 おお、すごい! シャン州の粒納豆とは比較にならない糸引きだ。

P123
 納豆はこれほど単純な食べ物なのにわからないことだらけだ。だいたい「納豆」という言葉の語源からして不明である。お寺の「納所(なっしょ)」で作られたからなどというもっともらしい説があるが、「納所」とは会計や庶務を行う事務所のことで、そんな場所で食べ物を作るはずがない。
 中国語起源という説もあるが、納豆の「納」を「ナ(ッ)」と読むのは呉音、豆を「トウ」と読むのは漢音。両方漢音なら「ドウドウ」だし、療法とも呉音なら「ナズ」となるはず。漢音と呉音では伝わった時代がちがうから、中国語由来とは考えづらい。だいたいにおいて、中国には本来「納豆」という言葉が存在しないという。今、中国語で「納豆」と呼ばれているのは日本の納豆のことだ。(略)
「納豆はわからないことばかり」とは、八〇年代に納豆からタンパク質分解酵素のナットウキナーゼを発見し、現在に続く納豆健康ブームのきっかけを創った倉敷芸術科学大学の須見洋行(すみひろゆき)教授も言っていた。

P135
(略)ブータンは西のチベット的な牧畜文化と東の東南アジア的な農耕文化が交わっている場所だと、著名な植物学者・探検家の中尾佐助は述べているが、チーズと納豆はまさに西と東の文化を食の面で代表していると考えられる。そして、両方がある場所ではチーズの方が強い。納豆はブータン東部でチーズの壁に阻まれているとも言える。

P138
「結論から言えば」と細井先生は言った。「ミャンマーの納豆菌もブータンの納豆菌も、日本の納豆菌とほぼ同じです。匂い、見た目、粘り気……。個性が違う程度ですね」

P177
 タイでは納豆民族であるランナー王国の人々はバンコクの王朝に飲み込まれてしまった。ミャンマーではシャン族にしてもカチン族にしても、ずっと差別や弾圧を受けてきた。そして、ここネパールでもルビナやバム隊長の民族はマイノリティとして中央政府から苦しめられてきたという。グルカ兵も屈強で忠実な辺境の民がイギリスによって兵士として徴用されたのが始まりだ。(略)
「アジアの納豆民族は全て国内マイノリティで辺境の民である」という私の仮説が現実味を帯びてきた。

P187
 ところで、ブータン難民の中で納豆カースト、つまりモンゴロイド系はどのくらいいるのだろうか。アーリア系の娘婿が代表して答えてくれた。「少なくとも半分以上」。
 愕然とした。そんなにいるのか……。
 ライ、リンブー、マガル、グルン……。十万以上に及ぶブータン難民の半数以上が納豆民族だった。それが首都ティンプー周辺に住む非納豆民族によって国を追われたことになる。
 あとで調べると、そもそも彼ら納豆民族がネパール東部からシッキム、ブータンへ移住したのも、非納豆民族が支配するネパール王国政府の理不尽な土地の収奪や重税が一因だっという。
 まさに辺境の民。さまよえる納豆民族。

P204-205
(略)資料を読めば読むほど、古代日本における秋田県南部は、現代のミャンマーにおけるシャン州によく似ているのだ。(略)
 そう思って秋田県南部に来たら、びっくりするほど納豆文化が根付いていた。まさにシャン州だ。同じ秋田県でも海側は「しょっつる」という魚醤を使っているところまでそっくりだ。
 ここが納豆発祥の地かどうかは別として、「日本における納豆の本場中の本場」である可能性は高い。ひじょうに古い時代から納豆が食べられていたのも確かだろう。
 納豆民族はアジア大陸では常に国内マイノリティにして辺境の民だった。
 それはきっと偶然ではない。海や大河に近い平野部の方が文明は発達する。納豆を食べているような内陸の民族はどうかされていくか、マイノリティとして周縁化されるか、どちらかなのだ。

P220-221
「納豆は日本独自の伝統食品」という日本国民の間違った常識を是正するために始めたアジア納豆の取材だが、調べれば調べるほど、私の常識も覆されていく。近頃は、アジア納豆よりむしろ日本の納豆の方がわからない。
 直接的な原因は「秋田県南ショック」である。シャン州と甲乙つけがたい納豆の本場であったこともさることながら、そこで主に食されてきたのは納豆汁とは驚きだった。
 納豆はご飯にかけて食べるものだとばかり思っていたのに、それはごく一部にすぎなかった。だいたい、納豆自体、粘り気があまりなかったという。
(略)
「納豆」という文字が最初に確認される文献は平安時代後期に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』である。だが難しいのはこの時代から現代に至るまで、日本には二種類の「納豆」が存在していることだ。一つは発酵時に煮豆に塩を加え、麹菌で発酵させる塩辛納豆。もう一つは塩を加えず、納豆菌の作用で発酵させる糸引き納豆だ。

P223
 江戸では冬になると朝、納豆売りが、煮豆を一晩発酵させただけで作った「一夜漬け」のような納豆をザルに入れて売っていた。庶民はそれを買うと、包丁で叩いて、つまり細かくして汁にしていた。「納豆と叩き飽きると春が来る」なんて川柳も詠まれていたというから、冬場はよほど納豆汁を食べていたようだ。

P275-276
「万里の長城」は有名だが、実は中国の南部にも「長城」がある。認定されたのはごく最近、二〇〇〇年四月のことだ。二万キロもあると言われる北の“本家”に比べたら規模は桁違いに小さいが、それでも湖南省から貴州省にかけて、一九〇キロほども続いているという。(略)
 今回、苗族の納豆取材でこの鳳凰古城に来たのは、ここがアジア納豆地帯の最東端にして最北端の可能性が高いからだが、もう一つの理由は南方長城の話を聞いたからだ。(略)
 前述したように、納豆民族はほとんどが中国南部に起源を持ち、漢族の南下西進を受けて、西へ南へと移動していったと考えられている。
 彼らは漢族の文化に従うのを潔しとせず、納豆を携えたまま、この壁の向こう側を移動していったのではないかと私は思う。

P296-297
 納豆は「朴葉」に包まれていたのだ。(略)
 葉っぱに包んで発酵させる納豆をこの本では『アジア納豆』と呼んできた。
謎の雪納豆。それは『アジア納豆』だったのだ。(略)
 中村さんたちは「朴葉を使うと豆がこぼれないし便利」という。まるでシャン族のような言い方だ。(略)
 竹村先輩はこんな推理を披露した。「昔は朴葉だけで納豆を作っていたんじゃないか。藁は保温材として使うようになり、そのうち朴葉を使わず、藁だけになったんじゃないか」
 藁苞だけになった理由として先輩は「稲作信仰」を挙げる。葉っぱより稲藁の方がご馳走感があったんじゃないかということである。

P304
 アジア納豆とは一言でいえば「辺境食」である。東は中国湖南省から西はネパール東部に広がる、標高五百から千五百メートルくらいの森林性の山岳地帯やその盆地に住む多くの民族によって食されている。肉や魚、塩や油が手に入りにくい場所なので、納豆は貴重なタンパク源にして旨味調味料である。
 納豆民族は例外なく所属する国においてマイノリティだ。それは偶然ではない。どの国でも文明が発達し、豊富な人口を擁するのは平野部だ。魚や家畜の肉、あるいは塩や油を入手しやすく、他の有力な調味料を発達させている。納豆を必要としないのだ。

P305
 納豆を食べるのは基本的には「山の民」である。
 大豆は山のやせた土地でもよく育つ。アジア納豆地帯の大豆は、日本の市販納豆の極小粒と同じくらいの大きさで、かなり小さい。そしてやや細長い。
 仕込みに使うスターター(納豆菌のついたもの)は植物の葉である。大きくて包みやすい葉ならなんでもいい。
 ただ、民族や地域、個人によってこだわりがある。特にシダ、クズウコン科フリニウム属、クワ科イチジク属の葉を使っている人は「これを使うと味がいい」と主張する。

P320
 昔の日本の納豆はもっと匂いや香りがしっかりしており、粘り気が少なかった。
 二〇一五年、茨城県の納豆メーカーがパリの国際見本市に納豆を出品した際、「思い切って粘り気を三分の一くらいにした」とのことだが、それはアジア納豆の標準だ。そして、日本の昔ながらの納豆も「こんなには粘らなかった」と実際に昔の手作り納豆を知る人々は証言する。

P323-324
 中尾佐助を始めとする、植物学や民族学の研究者は、中国南部から東南アジア北部、ヒマラヤにかけての内陸山岳地帯で、日本とそっくりの文化を数々発見して驚いた。
 餅、赤米、なれ寿司、こんにゃく、茶、納豆、竹細工、絹、漆、歌垣、鵜飼い、そして家の造りまで似ている。私が想像するに、人間自体が似ていることにも驚いたのだと思う。実際、中国、タイ、ミャンマー、ネパール、インドとどこから入っても、平野部から山岳地帯に行くに従い、人の顔つきや雰囲気が日本人に似てくる。平野部は自己主張が強かったり、陽気で開放的な人が多いが、山地に行くと、物静かで控えめな人が優勢になる。

P327
(略)アジア大陸部では味噌と納豆が並び立たないのに、日本と朝鮮半島では味噌と納豆が両方ともあることはなぜなのか。そこは謎である。

P328-330
『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編。
 帯を見ると、「マメ類を栽培し、クリやウルシ林を育てる……」などとある。
 マメ⁉
 急いで買って中を読むと、さらに驚くべきことが書かれていた。縄文人は大豆を食べていたことが明らかになったというのだ。(略)
 縄文土器の圧痕を調べていくと、一万三千年前からすでに野生のツルマメが発見されるという。ツルマメは大豆よりはるかに小さい。十分の一くらいの大きさだろうか。それが時代とともに大型化してくる。これは人間が種子を栽培化した結果だという。(略)
 日本も大豆の起源地の一つなのだ。(略)
 納豆は人が大豆を食べ始めたごく初期の段階で存在したのではないかと前に書いた。(略)
「大豆が栽培化された縄文時代に、当時の人が納豆を食べていても不思議はない」



コメント (9)
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