波打ち際の考察

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波屋山人

反差別運動の問題点

2019-07-10 21:02:18 | Weblog
長々と書いてしまったので先に雑なまとめ。
「差別問題がいつまでもなくならないのは、差別に反対する人たちが差別的な構造を正確に認識していないから」
「差別は、価値を認めないこと、犯罪視することと深く関係がある」
「差別者を見下し毛嫌いして排斥することもまた差別的だ」
「差別者も反差別者も、正しさを掲げている点が共通している」
「正しくないものを排除する意識はすでに差別的構造を内包している」
「すべての人は、何かを否定・排除することによって何かを認識している。何も差別しないで思考・判断することは不可能」
「社会的な問題として表面化している差別問題だけでなく、問題化していない差別的な構造を認識する必要がある」
「自分もまた差別的であることを自覚することなく、声高に差別反対を主張する人たちには注意が必要」
「害虫や雑草を毛嫌いするのも、人類の独善による立派な差別行為」
「現在、反差別運動に取り組んでいる人たちのアプローチでは差別問題の根本的な解決は困難だ」


***

差別に反対し、平穏な日々を求めるのは、素朴な思いから発した心優しい人の思いなのだろう。

ただ、いつまでたっても世の中から差別問題がなくならない状況を見て、自分たちのアプローチに問題があったのではないかと考える人がいてもおかしくはない。

私の認識では、差別することと、正しいことを推進することは、似通った構造を備えている。
つまり、何かを問題視し、否定することを当然のこととする姿勢が共通している。
多くの差別者は、自分たちは正しい当然のことをしていると認識しているし、差別に反対している人もまた、正しいことをしていると認識している。

社会ルールに反したもの、仲間内の共通認識を否定するもの、自分たちに害をなすもの。
そういった存在を否定し、見下し、咎め、遠ざけることは、自分や所属する共同体の存続に貢献する「良いこと」「正しいこと」「正義」だと見なされる。
否定されるべき「悪いこと」「間違ったこと」「悪」を毛嫌いし、否定し、見下すことは当たり前の常識として認識される。

民族主義者は移民を敬遠し、平和主義者は戦争を嫌い、清潔好きな人は汚れを否定し、勤勉な人は怠惰な人に眉をひそめる。
みんな、自分たちは「正しいこと」をしていると思っている。

ただ、「正しいこと」は、何かを否定し、価値を認めないところに基盤がある。
正しさを求める人は、差別的な意識構造から離れることはできないのだ。

「正しいこと」が社会の中において共通認識となっているうちは、差別的な構造は社会問題として表出しない。
しかし、さまざまな価値観が交差するときには、差別的な構造が差別問題としてあらわれてくる。

かつては当たり前のことだと思われていた男女の役割の区別は、異なった価値観が主流になることによって、差別として問題化した。
時代によって価値観は変遷する。
現在は、ペットを飼うことは何の問題もないが、将来的には動物差別と見なされ、動物奴隷解放運動がはじまる可能性もある。
犯罪者を見下すことは厳然とした差別だとして犯罪者差別をなくそうとする運動が広がる可能性もある
(すでにどこかでそのような活動をしている人もいるかもしれない)

価値観は、何かを否定し、何かを肯定することから逃れられない。
差別を「いけないこと」「否定されるべきこと」「咎められるべきこと」と認識し、正しさや正義を掲げることは、差別につながる意識だと言える。
だから、ほんとうに世の中から差別をなくしたいのであれば、まずは自分たちが「正しさ」によって何かを否定し、見下し、嫌悪することから解き放たれる必要がある。

敵をやっつける必要はないし、間違ったことを糾弾する必要もない。
声を荒げたり眉をしかめたり侮辱しても、問題解決から遠ざかるばかりだ。
逆に、力むことなく、柔和な表情のまま状況を変えることは可能だ。

そういったことを考えずに、差別を罪として否定ばかりしていても、世の中から差別問題はなくならない。


差別についていろいろ発言する先生方がいるけど、その多くは、「正しいこと」を推進し、否定されるべきものを否定すれば問題が解決すると考えているのではないだろうか。
しかし、「差別問題」という存在を消滅させれば差別がなくなるわけではない。

否定されるべき価値がないと感じられるものを攻撃し、咎めることがすでに差別的な意識を備えているのだ。
差別的な問題を起こす人を差別主義者と名付け、否定したところで、世の中から差別的な構造はなくならない。
社会問題として表出している差別問題は一時的に削除することができるかもしれないが、社会問題化していない差別構造に無自覚なままでは、またすぐに別の差別的構造が社会問題として顕出してくる。

本当に差別についてまじめに考えるのであれば、まずは、差別的に見える人の思考を、先入観なく分析するところからはじめてみてはどうだろうか。


差別反対する人は、まったく悪気はないのだろう。
しかし、差別者に対して犯罪者扱いして否定し、見下し、ときには敵意を見せる人たちを見ると、差別行為に通じる意識を感じてしまう。

「正しいこと」を掲げ、差別者を敵として否定するような反差別運動を見たら、ほんとうに差別問題が解消できるのか、対立が深まるだけではないか、実は差別者を差別しているのではないか、などと疑ったほうがいい。

差別する人も差別される人も、差別に反対する人も、どちらも意識レベルはたいしてかわらないことが多い。
結局人間は何かを否定し、何かを切り捨てることによって、自分の存在を認識しているのかもしれない。
社会問題化していないだけで、多くの人はさまざまな物や事象に価値の優劣をつけている。
宇宙規模で見たら何の根拠もないのに、自分や社会秩序の維持発展に役立つものを肯定し、不都合なものを否定する。
雑草も害虫も、人類の都合で勝手に悪役にされているだけで、自然界ではそのような、生まれながらに否定される存在はない。

「何かを否定することによってさまざまな秩序が維持されている、誰も潜在的に差別的な構造とは無縁ではいられない」などということを認識してこそ、差別を解消しようとする活動のスタートラインに立てるのではないだろうか。



意見の異なる人を病気扱いして否定することもある香山リカさん(精神科医)や、対立する人を侮辱して手を出すこともあるという関西学院大学の金明秀教授、レイシストを攻撃的に罵倒して威圧感を与える野間易道さん、「どんな理由があっても差別を受けていい人間なんて一人もいない」という“正しい”信念を元に差別に反対する川口泰司さん(ABDARC)たちは、はたして自分は差別とは無縁の「正しい」人間だと思っているのだろうか。
そんなことはない、誰だって差別的な意識構造を秘めている、そう自覚してこそ、差別問題解消のスタートに立てるのではないだろうか。
ネガティブな意味で、「右翼」「ネトウヨ」「左翼」「パヨク」「差別主義者」「産経」「朝日」「御用学者」「犯罪者」「売国」「反日」「バカ」「無能」「不潔」「うるさい」「臭い」などと言った言葉を使う人は、すでに差別的だと言える。

否定、見下し、攻撃。そんな姿勢を見せなくても、世の中を変えていくことは可能だ。
差別的なネガティブなレッテル貼り的ではない言葉を使わない思考ができてこそ、差別的な構造の解消につなげることができるのではないだろうか。

以前、ダライ・ラマの自伝を読んだとき、そこに怒りや攻撃、見下しといった表情は感じなかった。
おそらく、覚者(ブッダ)といわれる人もそのような精神状態だったのではないだろうか。
ダライ・ラマのような境地の人であれば、声高に人を非難するような行為はしないだろう。
なぜダライ・ラマは人を咎めないのか、非難しないのか、侮蔑しないのか、ぜひ反差別運動に関わる人に関心を持ってもらえたらと思う。



ちょっとネットを見てみると、反差別運動の攻撃性に違和感を覚える人もいるようだ。
差別に反対する人たちは、差別的な人たちを非難することができるのか、自分自身の足元を見ていただきたい。
もしかしたら、反差別運動に関わる人たちが、世の中の差別問題の解消を困難にしているのかもしれない。


・ネットの反差別運動の歴史とその実態(中川淳一郎)
https://www.news-postseven.com/archives/20170607_562072.html


差別者に敵対することが、差別の解消につながるわけではない。差別者を見下し、さげすみ、否定することもまた、差別的だからだ。
自分たちの意識が差別者と大して変わらないということを自覚して初めて、差別の解消につながるのではないだろうか。

聖書の言葉を思い出す。

> あなたたちの中で
> 罪を犯したことのない者が
> この女に、まず石を投げなさい
>
> 「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章3〜11節




7/25追記
偶然見つけた記事。同感。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54492?page=5
■「差別」とは何か?アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること
> 正論の押し付け合いは無力である
> 鈴木 裕之
>
> 差別を生みだす精神構造は私たちみなが持っている。ヒトはその置かれた環境におおきく左右される動物であるから、差別主義者を攻撃するのではなく、差別が生みだされる環境を理解しなければならない。
>
> 人の心には、善も悪もある。天使も悪魔も、仏も鬼も棲んでいる。それらをどう飼いならすか。差別という「憑き物」をどう落とすか。
>
> 必要なのは抽象的な理念でも大袈裟なイデオロギーでもなく、人と人とのコミュニケーションの中で「落ちる」瞬間を具体的に体感し、その経験を積み重ねて、自身の心の中に自由な空間を広げてゆくことなのだ。


8/2追記
差別に関するニュースを見たけど、「反レイシズム情報センター(ARIC)」も、差別構造を解消することはむずかしいのではないだろうか。「差別者」を犯罪者扱いし、攻撃・否定し、ネガティブな言葉を使ってレッテル張りをしている。代表の梁英聖さんは、自分もまた差別的な人と同じようなことをしていないだろうか。「正しさ」は心の支えになるのかもしれないけど、対立する者を非難・排除する文面に少し痛々しさを感じる。
<参考>
■「一橋大の米国人男性准教授が授業時にヘイトスピーチ」 在日コリアン大学院生が国立市に人権救済申し立て
8/2(金) 7:47配信 毎日新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190802-00000002-mai-soci
レイシスト呼ばわりされている一橋大ジョン・F・マンキューソ准教授の言い分は知らないけど、梁英聖さんの姿勢に違和感を覚える第三者も少なくないのではないだろうか。
https://matome.naver.jp/odai/2153034040323751301
https://note.mu/ryangyongsong/n/nc2694ac4e2c1


コメント (24)
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