波打ち際の考察

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波屋山人

平和教育の学問性

2017-01-24 22:45:24 | Weblog
1970年代・80年代に平和教育を受けてきた。
原爆に関する映画は強烈なインパクトがあった。

「絶対に戦争をしてはいけない。残酷で悲惨で、大きな被害が生じるから」
というのが平和教育の主なメッセージだった。

実際に戦争を経験した人々は、もうこんなことは絶対にしてはいけないと痛感したのだろう。

教育機関では、「戦争は絶対だめ」という思考を定着させるために、映画や絵本などを使って視覚的にも刷り込みを行ってきた。

「戦争は絶対だめ」という認識を支えるために、「人殺しは絶対だめ」という教育も行われている。

だけど、批判精神を持つ子どもは、「なぜ戦争をしてはいけないのだろうか」「なぜ人殺しをしてはいけないのだろうか」という疑問を感じ、その根拠を探ることになる。

そして、「戦争や人殺しは絶対的に否定されるべきこととは言えない。この社会において、絶対的に否定されるべきことだと規定されているだけだ。この社会組織の維持のために必要だとされている認識にすぎないのでは」と感づいてしまう人もいる。

自称「リベラル」の先生たちは、批判精神の重要性を説く。
平和教育に疑いを持つことは許さない、という態度はリベラルとは言えない。
だから、少し平和教育について考えてみよう。


まず、平和教育は学問なのだろうか?という疑問がある。
信仰のようになっていないだろうか。
戦争はだめだ、平和が大事だ、と主張するだけでは世の中の争いは回避しづらい。
侵略されても自分たちが滅びればいい、と言うのであれば気合が入っている考えだと感じるけど、そういうわけでもなさそうだ。

戦争を回避するためには、平和教育よりも戦略教育のほうが適切なのではないかと感じる。
戦略教育であれば、情況分析や衝突回避方法や武力衝突前の情報戦を学ぶことができる。
結果的に、悲惨な武力衝突を避けられる可能性は高まる。

ケンカを回避するためには、ケンカはだめだという教育を行うよりも、対人関係の心理学やコミュニケーション学を学ぶほうが効果的かもしれない。

学問性から見て、平和教育はその前提に問題があるのではないだろうか。
戦争や人殺しが絶対だめだと主張するのであれば、暴力や自殺は絶対だめだと主張することと同じく、その根拠となる理論が求められる。
「命は大事だから」ということが根拠であれば、なぜ命は大事なのか説明する必要がある。

「命が何よりも大事」という判断基準は、自分の所属する社会の存続や、自分の遺伝子を後世に伝えるために不可欠な認識ではないだろうか。
言い換えれば、自分の所属する社会の存続や、自分の遺伝子を後世に伝えていくために、「命が大事」ということに決めているだけだ。
(会社の存続を何よりも重視している人がいるのと、似たようなことだ)
そのような因果関係を隠蔽して、「平和が大事」「命が大事」と価値観を刷り込むのは、洗脳的とも言えるのではないだろうか。

今も多くの学校で平和教育が行われているけど、小学生でも疑問を持つ子はいる。
いつまでも恐怖や価値観を刷り込むような平和教育を続けることは難しいのではないかと感じる。

対立や戦争は、価値観の対立によって生じることが多い。自分の価値判断基準を客観的に認識し、
学問として、客観的に戦争や平和を分析できるようになれば、平和な世界が近づくかもしれない。


コメント (16)
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