波打ち際の考察

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波屋山人

反差別と反戦争

2014-06-24 22:06:51 | Weblog
まとまりなく雑考。


差別や平和に関しては難しい問題がある。

ともすると、差別に反対する人が差別者を差別し、
平和を求める人が暴力的な人を攻撃する。

自分の価値観を守るために他者を見下し攻撃を行う者は、
思想信条を問わず、みんな排他的で保身的に見えてしまう。


差別反対や平和を声高に主張する人々に対しては、
「信心」のようなものを感じるときがある。

差別や戦争に、明確な形があるかといえば、そうではない。
さまざまな要素が複雑に重なったところに表出した、ひとつの現象のようなものだ。

だから、差別や戦争のことを考えるとき、表面に出てきていない動きや、周辺領域のことをとらえることが必要だ。
表層的な「差別」や「戦争」という現象に目を奪われて対抗しても、台風や土砂崩れに立ち向かうようなものかもしれない。
何らかの現象を回避するには、物事の「仕組み」を探ることが必要ではないだろうか。


差別や戦争に反対する人たちの中には、
差別者を差別したり、好戦的な人に暴言や暴力をふるったりする人もいる。
そのような人たちは、いくら差別や戦争に反対したところで、差別や暴力を備えている人たちと大差ない意識レベルなのではないだろうか。

差別を糾弾する人に聞いてみたい。
「犯罪者を見下し、価値のない者として疎外することを肯定しますか?」と。

躊躇なく肯定する人もいるのではないだろうか。

ただ、他者を見下し、価値のない者として疎外することは、まぎれもなく差別だ。
犯罪者を差別することが社会的に問題化していなくても、そこに明らかに差別意識は認められる。

「でも犯罪者を否定するのは当然でしょ」と言う人がいるかもしれない。
だが、そういった意識こそが、差別を肯定する。

多くの被差別者は、ある価値観を持った人や集団から罪人視されることによって、差別的な待遇を受けてきた。
ある文化圏では問題ない行為が、他の文化圏では犯罪視されるという事例は多い。


あるコミュニティーの安定や存続に邪魔となる存在は、犯罪者として疎外し見下されてきた。
そこには、まぎれもなく差別的な構造や意識が潜んでいる。

特定の価値観が支配的なコミュニティーでは、差別的構造があっても社会問題とはならない。
異なった価値観が重なり、衝突することによって、特定の差別的構造が
差別的社会問題として表面化する。

しかし、そういう構造を理解していない反差別論者も多い。
「自分たちが、自分と異なる価値観の者を見下し、否定していては、いつまでも差別はなくならない」
そういったことを意識すれば、差別者を差別したり、好戦的な人に暴言や暴力をふるうことに疑問を持つようになるのではないだろうか。

少なくとも、誰だって、自分自身も差別者であり被差別者であると意識すれば、
価値観の異なる者を一方的に否定して見下すことは減るのではないだろうか。


差別や戦争は、目に見える結果にすぎない。
差別や戦争を取り除いたところで、問題の原因をなくしたことにはならない。

物事の複雑な因果関係を認識していないのに、
否定されるべき悪をなくせば問題はなくなると考えているような人は、
いつまでも問題を解決することができないのではないだろうか。

差別論について詳しいらしい関西学院大学の×教授はどうお考えだろうかと想像する。
差別についていろいろ発言されているらしいけど、ツイッターで暴言を吐いたり、同僚の教授を殴ったり、違和感をおぼえてしまう。

<参考>
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20140521


コメント
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