波打ち際の考察

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波屋山人

人をバカにする楽しさ

2007-10-28 02:36:12 | Weblog
人をバカにしたくなる気持ちもわかる。

他人をバカにすれば、自分を肯定することができる。
自分を肯定できるっていうことは、心地がいいことだ。

ついつい、他人を見下し、自分や自分の所属するものを肯定したくなる。
自分という存在や自分の所属する組織を維持していくためには、自分を肯定することが必要だろう。

隣人や隣国や勤務先のライバル企業など、自分と隣り合っているものは自分の存在を深く意識させるから、自分の存在を守るためには、否定してしまうのが手っ取り早いのかもしれない。

精神衛生上、時には他人をバカにしてもいいのかもしれない。安易な方法だけど。

自分に理解できない人をバカにし、ねたみを感じる相手をバカにし、思うようにならないものをバカにするのありがち。
意外に、中国や韓国などといった隣国のことを否定的なイメージでとらえている人も多い。
ネット上にも他人をバカにする言葉は多い。


隣国の人も、たとえば倭奴(ウェノム→韓国語)とか小日本(シャオリーベン→中国語)などと言って
ことあるごとに日本をバカにするけど、自分のプライドを守りたい人、自分を大きく見せたい人、誇示したい人、自慢したい人は、ついつい他人のことを小さいとかチビだとか、まあ理由はなんでもいいんだろうけど、バカにしたがる。

日本人にとっては、小さなこと、コンパクトなことは別にマイナスイメージを持って語られることではないかもしれないけど。
日本人はバカにされても、こつこつ小さいもの、コンパクトなものを大事にすればいい。
人が価値を見出せないところに価値を見出せるなんて、創造的なことだ。


まあ、世界的に見れば、中国も韓国も日本も、身長なんてどっこいどっこい。
せいぜい平均身長は男性が170センチ前半で、女性が160前後。
たしかに中国北部には背の高い女性が目立つけど、緯度の高い地域では日照時間が短い影響か
生理のはじまる歳が遅い女性が多く、背の高い女性が多いというのはヨーロッパでも同じ。

南東アジアでは下手すれば男性も女性も北東アジアより10センチくらい低い。北欧では逆に
10センチ以上高い。
北東アジアでの差なんてたいしたものではないのに、下手したら中国人も韓国人も半分くらいは
日本の平均的な人より小柄だというのに、チビだなんだのと見下したがる。
べつにチビでもいいのに。

山岳地帯やジャングル地帯では大柄な体はウドの大木じゃないけど、行動に不利。
体が軽く、小柄なほうが行動しやすい。いろんなものをよけやすいし、的にもなりにくい。
だから、ジャングルや山岳地帯に住む人間や動物は、平原に住む人間や動物よりも小柄になる。
理にかなっているからそうなっている。
それを、違う世界の価値観で見下されても、それは的を射ていないと言える。

視野が狭いとどうしても自分たちの価値観でしか物を見れなくなる。
でもそれはそれでしかたがない。
かつてヨーロッパ人は有色人種が劣っていると思っていたし、ほんの100~70年前の日本人だって
アジアの先進国は日本だけで、他のアジア人は無知だと思っていた。
中国や韓国だってなんだかんだ理由をつけてついつい他国の人をバカにする。


だけど、怒ったり暴力を使ったりしなくても社会を変えることが可能なように、
他人をバカにしなくても、自分を肯定することはできる。

他人をバカにしたり見下したりすることを克服することはできる。
それこそ、知的な思考への道。

それをわかっている人が、歴史学の研究や、教科書の編纂にたずさわればいい。

歴史学や教科書を修正しようと試みている人たちは、歴史修正主義者(リビジョニズム)だ、
などと言われてしまうこともある。
だけど、歴史修正主義者(リビジョニズム_revisionism)という語は、人種差別者(レイシスト_racist)
などと同じく、レッテル貼り的な、マイナスイメージを付加した一種の差別用語として使用されている。

真摯に物事の構造を把握しようとしている人は、そのような安易なレッテル貼りをして何かを否定しようとすることは避けるけど、歴史修正主義者や人種差別者という言葉を捨て台詞のように使う人も少なくない。

歴史学が、マルクス主義や社会主義の影響を強く受けてきたのは事実。
日本の歴史学界でも、いまだにマルクス主義的な歴史学を学んだ人たちが主流を占めているから、
歴史認識や差別問題の構造、権力構造の分析などについても、現代科学を反映していないのでは
ないかと思われる論が多々ある。

複雑系の科学の影響を受けた社会学者は多いだろうけど、歴史学者は、ニュートン力学などの時代の
科学を反映しているマルクス主義からどれだけ発展できたのだろう。
社会学者や人類学者、心理学や生物学、免疫学、精神医学、等々のジャンルの人たちは現代科学に関わっているから生命や社会や心理について共に議論できるけど、歴史学や法学の人だけは土俵外というか、哲学思想や知の世界からは程遠いという状態なのだろうか。


沖縄が戦場になり、多くの人の命が失われたのは確かだ。
戦時中に多くの沖縄県民が国家主義者として戦争に協力したのも事実。
狂信的な自警団が思いつめて住民に自決というか自殺を強いたのも状況としてはありえるだろう。
住民を追い詰めた軍人もいただろう。

だけど、渡嘉敷島で赤松大尉が集団自決を命令したというのは、事実ではないのだろう。
http://josaito.cool.ne.jp/togashiki/jiketsu.html

社会主義に近い傾向がある沖縄県のマスコミや歴史学の世界では、日本軍は悪、住民は被害者、と言っていれば資本主義の政府を批判し、自分たちを正当化することにも都合がよかっただろう。

主義主張は何でもいい。所属が何でもいい。
他人を否定しなくても、自分を守ることはできる。
他人を否定しなくても、世の中を変えることはできる。

そのためには、安易に他人や物事を否定しないで、世の中の構造を謙虚に認識してみることが必要。
そこに到達しないと、革新の人も保守の人も、反社会的な人も権力者も、堂々めぐりから脱出できない。


コメント
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