波打ち際の考察

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波屋山人

小泉氏も失言 慌てて訂正(差別語について一考)

2007-07-22 18:20:53 | Weblog
読売新聞2007年7月22日(日)の4面に似顔絵つきの小さな囲み記事がある。


小泉氏も失言(似顔絵)慌てて訂正

自民党の小泉前首相は21日、大阪府高槻市で講演し、憲法における
自衛隊の位置づけについて、「自衛隊を『戦力でない』というのは、めくらだ」と述べた。だが、すぐに、「こういう言葉はいけない。差別用語になるから、これは撤回します」と訂正し、「現実を直視しないのは非常に危険で、戦争をしないために抑止力は必要だ」と強調した。



そもそも、なぜ「めくら」が差別語なのだろう。
本来「めくら」は「目暗」で、物が見えないこと。
「目が見えない」という客観的な様子を描写した語であって、見下した要素は感じられない。

むかしの小説や新聞を調べればいくらでも用例は出てくる。
以前は差別語扱いではなかった。

ところが、いつ頃からか、「めくら」が差別語だと言われるようになった。

見下した感じの意味を含めて「めくら」を使う人がいたから、差別に反対する人たちが「めくら」を差別語だと認定した。

見下してある用語を使うのも短絡的だが、差別語を糾弾する人たちも同じく短絡的ではないだろうか。
私には、差別を糾弾している人たちが差別とは何か、ということについて深く考えているようには思えない。

不快に感じる人がいる言葉を禁止したところで、差別的な構造はなくならない。
なぜ差別的な構造が発生しているのか認識していない人が差別語を糾弾しても、問題の解決にはつながらないことが多い。

しっかり認識しておかないといけないのは、差別的な構造はいくらでもこの世の中にあるということ。
そして、現代の価値観に合わない一部が差別問題として表面化しているということ。


今の時代の人はまだ「人権」に値する「動物権」を主張したりしていないし、見下した意味を含めて「ハゲ」や「デブ」や「メタボリック」と言う言葉を平気で使うことが多いけど、時代が変われば、人権よりも高度な概念として動物権が重視されるようになり動物差別が問題化し、ハゲやデブは差別語認定を受けているかもしれない。

今世紀初頭の人々はまずい料理と少ない運動で動物を虐待していた、動物が温泉やスポーツクラブに通うことも許されていなかったんだよ、と何十年かしたら言われているかもしれない。
ハゲやデブといった言葉を使っている小説は将来該当部分を改変され、映画も吹きかえられるかもしれない。


差別問題というのは少なくすることができるだろうけど、潜在的な差別的構造というのは、なくなりはしない。
人々が生きていくうえで、物事を認識し、判断していく上で、価値があるもの、価値がないもの、という分類をすることは避けられない。
その世の中でかっこいいと思われているもの、美しいと思われているもの、そういったものがある限り、かっこわるい否定されるべきものとか美しくない避けたいものも存在してしまう。
褒める言葉もあれば、バカにする言葉やとがめる言葉、否定的な言葉も存在する。



そのむかし、朝鮮人とか在日韓国人という言葉自体が差別語ではないかという話もあった。
昭和の時代に、教師たちが非公式な席で「朝鮮人と言うのは差別だろ」「でも朝鮮人というのはいるし」という会話をしているのを聞いたことがある。
当時は韓流などと言う言葉もなく、日本と韓国の物価の差も大きく、韓国や北朝鮮に対して身近に感じていない人が多かった。
昨年は日本も韓国もそれぞれ延べ200万人以上の人が国を行き来し、韓国映画やドラマも流行し、ずいぶん韓国に対するネガティブなイメージは払拭されたのではないかと思う。

差別語扱いされる語に対する差別的心理がのぞかれ、差別語認定が解除されるという例があってもいいのではないだろうか。

いつまでも「見下されたと思って不快に思う人がいるならどんな語も差別語」と言っていると、非論理的な人、物事の構造をわかろうとしない人だと思われてしまう。

そのうち支那という語も差別語認定をはずれるかもしれない。
たしかに、中国を見下したような人が多く支那という語にマイナスイメージが付いてしまっているけど、そもそも支那という言葉は中国で生まれたもので、CHINAに値し、現在もSINAという語が着いた中国企業もいろいろある。

日本人が中国をバカにしたときに支那という言葉を使った、というのも差別語認定された原因のひとつだろうけど、中国がその語を嫌うのにはもうひとつ理由がある。

それは、支那という語が漢民族の支配地域、という歴史用語でも使われてきたからだ。だいたい、中国の東半分が支那であって、チベット自治区やウイグル自治区、内モンゴル自治区などは支那ではない。
中国は漢民族が支配的で、反発している少数民族も少なくない。なんとか押さえ込もうとして中華民族などという概念を持ち出したりしているけど、中国支配下であっても中国人、中華民族ではないと認識しているチベット人やウイグル人は多い。
中国の都合に合わせず、マイナスイメージをつけないで、客観的に歴史用語として支那(シナ)という語を使えるようになってもいい。


差別語認定されている言葉を、マイナスイメージから解き放つというのは、とても論理的で知的な行為ではないだろうか。
数々の言葉を、見下したり否定したりマイナスイメージを付けるために使うことを克服できれば、人類は一段と知的に成長するかもしれない。


めくら、びっこ、つんぼ、ぎっちょ、そういった言葉はほんとに見下したり否定したり、というようなイメージで使われてきたのだろうか。
こういった言葉が歴史のある日本語としてふたたび使われるようになる日が来るかもしれない。

あるいは、それと逆に、ハゲ、デブ、メタボリック、一重まぶた、ダンゴ鼻、富士額、絶壁頭、エラ張り、などが差別問題として表出して、それぞれ頭髪障碍、体型障碍、内臓脂肪障碍、等々と言い換えられてしまうかもしれない。


次々と差別語が発見され、糾弾されているが、差別に反対している人も差別語や差別者を否定して、価値がないと認定している。
しかし、それは差別者と同じ意識構造であって、差別糾弾者が差別を克服できているとは言えない。
平和運動に参加している人がけっこうきつい批判的な言葉を反対者にぶつけたり、暴力をつかってまで平和を守ろうとするのと似ている。

自分と価値観の違うものを否定したり見下したりしてまで、差別語をなくそうとしなくてもいい。そんなことでは差別語はなくならないし、堂々巡りから脱出できないから。

コメント (3)
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